サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(南風武術倶楽部)のブログ

気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマを横浜、湘南で練習しています。グループレッスンは\2500プライベートレッスン\5000です。お問い合わせはこちらです。southmartial@yahoo.co.jp

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 かんふーくらぶさんでの稽古の折、ヴァイブスを知ってほしくて拳舞をちょっとしてみせると、棍を振ってるみたいだと言われる。
 棍は拳術の母。刀は拳術の父と教わってきました。
 別に現在、それで戦おうということではありません。
 兵器をすることで身体が練られるのです。
 拙力を捨てて勁、定力で動く身体を作り、それで自分の肉体とは違うかさばる物を扱うと、負荷のかかった肉体が頑張るのでより功が深くなるのです。
 もっともスポーツ的なことをしてはいけません。あくまで術で行います。
 術というのは技で行おうとするほどダメになります。
 あくまで功を深めてゆく。
 そのために兵器を使います。
 技撃を目的としている訳ではありません。
 しかし、現代人はどうしても術を持って行う伝統武術と、技をやり取りする現代格技を混同しがちです。
 なので兵器の軽んじています。
 それでは中々功は深まらない。
 これは、モダン中国武術でも同様です。
 兵器が充実していない門派の人たちが良く言うのが、行き詰まるということです。
 実力が上がってくるほど、そこまででは足りないというのが分かる一方で、門内には道が無いので大変苦労するようです。
 よその兵器をやっても基礎システムがないので、完全にはかみあわないのでしょう。
 短期的に強くなりたいと言うのならそれでよいのでしょうが、本当に武術そのものが好きになって功を積むことに価値を見出してしまったなら、どうも厳しいことになります。
 単に強くなろうというままなら、それはそれで隆盛している総合格闘技を行った方が効率的です。
 せっかく伝統武術に取り組んでいるのなら、備わっている門に身を置いているというのは幸福に思います。
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 前の書き込みの続きのような。あるいはこの数回の流れです。
 とりあえず、中国武術では良く力を抜け、とかファンソンだ、などとうるさく言われます。
 この段階が一番きつかったと言う先生は非常に多いようです。
 うちでは先に勁の出し方を伝えてしまって、それを優先することで結果として拙力を使わなくなるという段階の組み立てをしているのですが、これ、最短すぎるせいかどうも人によってはやり手のエゴがついてこないことがあるようです。
 身体は勁を使えるようになっているのですが、それを自我が把握できていない。
 だから確認しようとして、わざと出来なくしてしまって仕組みを分解しようと言う我執に囚われてしまうのです。
 これは、桜の花がどこから来るのかといって幹を斧でたたき割ってしまったという故事そのものです。
 私はよく、この身体知(元伸)による武術を自転車に例えます。
「足を付けるな! こぎ続けろ!」
 エゴが事態を把握していなくても、出来ている状態なのだから体に任せて意識を干渉させないでおくことが大事です。
 これは水泳でもそうですね。いちいち、自分の足の薬指はどうなっているのだろう、ちょっとまって、自分のフォーム一回上から見せて、などとバカな欲求に駆られて足を下に着けていたら、いつまで経っても25メートル泳げない。
 みんな、子供のころにはそうやって物を学んできたのに、大人になってエゴが強くなってそこから離れることに抵抗を感じるようになってしまっているのです。
 その、自分自身をがんじがらめにしてしまっている自己への妄執を取り払うことが、少林武術の目的そのものです。動く瞑想です。
 人が力むのは、そうやって力を入れていることで自分は頑張っているんだ、という実感を得たいからです。
 これがもう我執です。
 自分が力を入れていようがいまいがそんなことは第三者的な事実とは関係ない。
 その客観性を取ることが大切です。
 人と練習するときに、正しい手続きは踏まないけどでもぼくは一生懸命やってるんですよということをアピールしたくてしきりに首を捻ってみせたり間違いだと分かっていることをとりあえず手数だけ出して見せる人もこれと同じ。
 そんな自分の弱さを大事に抱え込んでいるような甘えは大変によからぬものです。
 その結果、相手にフェイントをかけまくって失手の顔面パンチを入れまくるような心の弱い人は本当にいけません。
 逆に言われたとおりにやって、結果がきちんと出来ているなら、自我が把握してないとしても出来てるものは出来ている。
 それに対する不安を慰撫するために物事を捻じ曲げてはいけません。甘えてはいけない。
 私がやっているようなことは、非常にシンプルで無駄のそぎ落とされた技術です。
 その引き算が出来ると言うことが、西洋スポーツや現代格技とは違う、術の世界です。
 それをしていながら、格闘技的な力みの安心感を求めていてはまったく先に進めません。
 捨てる物を捨てなければならない。
 そうやって、うろこをとり、綿を取り、骨を取り、脂を切り取って、非常に「正しい」刺身の作り方、寿司の握り方を伝授しているのです。
 それなのに、いきなりそこにマヨネーズをぶっかけるような真似を平気でする人が居る。
 そりゃ普段はカジュアルな物食べて暮らしてるけど、いまはそれじゃねーだろ! と言う感じです。
 結局ね、こういう人って真面目に練習をしていないんです。
 勁は初めは小さいけど、練功を続けているうちに強くなって拙力を上回る。だからファンソンが出来る。
 なのに、地道に勁を育てていないから、いつまで経っても隙あれば拙力やらマヨネーズやらおたふくソースやらを使おうとする。
 ハニー・ロースト・オニオン・ソースはしまっておけ!
 後ろのカラメル・クレームは何に使うつもりだ!!
 出来上がるまではどんな味かわからなくても、いちいち段階で形にしようとしてはいけない。
 秘伝のレシピを公開してるんだから、よけいなことをせずに正しい手順を踏んで、至るべきときに至るように出来ているんだから。
 己の心の弱さに飲まれることなく、きちんとした物を獲得していただきたい物です。
 しかし、エゴに凝り固まった現代消費社会の人間にはそう簡単ではないのかもしれない。
 だからこそ学ぶ価値があるのでしょう。
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 前の書き込みの続きのような。あるいはこの数回の流れです。
 とりあえず、中国武術では良く力を抜け、とかファンソンだ、などとうるさく言われます。
 この段階が一番きつかったと言う先生は非常に多いようです。
 うちでは先に勁の出し方を伝えてしまって、それを優先することで結果として拙力を使わなくなるという段階の組み立てをしているのですが、これ、最短すぎるせいかどうも人によってはやり手のエゴがついてこないことがあるようです。
 身体は勁を使えるようになっているのですが、それを自我が把握できていない。
 だから確認しようとして、わざと出来なくしてしまって仕組みを分解しようと言う我執に囚われてしまうのです。
 これは、桜の花がどこから来るのかといって幹を斧でたたき割ってしまったという故事そのものです。
 私はよく、この身体知(元伸)による武術を自転車に例えます。
「足を付けるな! こぎ続けろ!」
 エゴが事態を把握していなくても、出来ている状態なのだから体に任せて意識を干渉させないでおくことが大事です。
 これは水泳でもそうですね。いちいち、自分の足の薬指はどうなっているのだろう、ちょっとまって、自分のフォーム一回上から見せて、などとバカな欲求に駆られて足を下に着けていたら、いつまで経っても25メートル泳げない。
 みんな、子供のころにはそうやって物を学んできたのに、大人になってエゴが強くなってそこから離れることに抵抗を感じるようになってしまっているのです。
 その、自分自身をがんじがらめにしてしまっている自己への妄執を取り払うことが、少林武術の目的そのものです。動く瞑想です。
 人が力むのは、そうやって力を入れていることで自分は頑張っているんだ、という実感を得たいからです。
 これがもう我執です。
 自分が力を入れていようがいまいがそんなことは第三者的な事実とは関係ない。
 その客観性を取ることが大切です。
 人と練習するときに、正しい手続きは踏まないけどでもぼくは一生懸命やってるんですよということをアピールしたくてしきりに首を捻ってみせたり間違いだと分かっていることをとりあえず手数だけ出して見せる人もこれと同じ。
 そんな自分の弱さを大事に抱え込んでいるような甘えは大変によからぬものです。
 その結果、相手にフェイントをかけまくって失手の顔面パンチを入れまくるような心の弱い人は本当にいけません。
 逆に言われたとおりにやって、結果がきちんと出来ているなら、自我が把握してないとしても出来てるものは出来ている。
 それに対する不安を慰撫するために物事を捻じ曲げてはいけません。甘えてはいけない。
 私がやっているようなことは、非常にシンプルで無駄のそぎ落とされた技術です。
 その引き算が出来ると言うことが、西洋スポーツや現代格技とは違う、術の世界です。
 それをしていながら、格闘技的な力みの安心感を求めていてはまったく先に進めません。
 捨てる物を捨てなければならない。
 そうやって、うろこをとり、綿を取り、骨を取り、脂を切り取って、非常に「正しい」刺身の作り方、寿司の握り方を伝授しているのです。
 それなのに、いきなりそこにマヨネーズをぶっかけるような真似を平気でする人が居る。
 そりゃ普段はカジュアルな物食べて暮らしてるけど、いまはそれじゃねーだろ! と言う感じです。
 ハニー・ロースト・オニオン・ソースはしまっておけ!
 後ろのカラメル・クレームは何に使うつもりだ!!
 出来上がるまではどんな味かわからなくても、いちいち段階で形にしようとしてはいけない。
 正しい手順を踏んで、至るべきときに至るように出来ているんだから。
 己の心の弱さに飲まれることなく、きちんとした物を獲得していただきたい物です。
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 百万語を尽くして真実を伝えようとしても、あるいは伝わらないのかもしれない。
 そう思うこともあります。
 以前、私がお世話になっていた先生も、いつも言ってるのは同じことでした。やってるのが同じことだから当然です。
 それでも生徒たちはなぜかそれを真面目に聞かずに愚にもつかない質問ばかりするので、とうとう後輩が怒ったことがありました。
「先生はいつも一つのことしか言ってない! みんなバカみたいな質問ばっかりしてるんじゃない! ちゃんと聞け!」
 バカみたいな質問というのは、自分たちがやっていない拳法に対してあれはどうですか? と言うような物であったり、ダルビッシュのフォームはどうですか? などと言うようなものであり。まぁ自分の練習とは直接関係ないただの井戸端の世田話の類です。
 師父というのはホステスではありません。つまらない質問に答えてもらって自分が何かを理解したような気になってつまらない自尊心を満たすという行為の対象ではないのです。
 この種の、ある種の自分自身の存在へのカウンセリングのように武術を求める人は大変に多いように思います。
 同じ、自分に何か足りないものがあると感じたところがスタート地点だったとしても、真面目に学んで向上してゆきたいと言う人と、何かをしてるようなふりをして自分の惨めさをごまかしたいだけの人が混在していては、それは中々大変な物になります。
 それはやっぱり前者のためになるべく多くの時間を割くのが健全でしょう。
 中国の伝統的なやり方では、老師は後者のような生徒さんには「はおはお」としか言わないそうです。
 きちんと叱ってあげるような親切をするような先生はまずいません。
 私の友人も、三年間まったく口を利かれなかったと言います。
 何かを言って返って逆恨みなどされることがあればせずともの愚行であると、中華的には考えるのです。
 三蔵法師のように、目についた不正に逐一首を突っ込み、暴れ者の弟子にも毎回お説教を欠かさないような姿勢は大変に立派だと思います。
 しかし中々まねできません。
 私自身は、自分が持っている一番いい物を出しているつもりなのですが、来てくれる人の中には、いつまでもそれを自己流でなぞるだけしかしない人もいます。
 そのままでは決して古伝の真実にはたどり着かないのですが、やはり今のところ、最後には昔からの故事にたどり着いてしまいます。
“水辺に連れてゆくのは牛方の仕事、水を飲むのは牛の仕事”
 喉が渇いていないと言うのなら、無理やり流し込むことは出来ません。
 もっとも私が物を学んでいたころには、通称フォアグラと言って無理やりに喉奥まで突っ込まれるようにしつけられてきたのですが。
 そのせいか、いまでも師父には「いまの生徒さん達、みんなあなたくらい練習してくれればなあ」と言われます。 
 私が師父として認められたとき、その理由をいくつか師父が教えてくれました。
 その一つが「愛がある」と言うことでした。
 阿久悠先生曰く「愛情とは記憶の誠意である」だそうです。
 一つ一つの小さなことを、きちんと覚えておくということ。
 渡された伝をきちんと吸収しない人々は、その武術を愛していないのだなあと思います。
 自分への愛が強すぎるのでしょう。
 それが識神による執着です。
 そのような物を手放してゆく過程こそが、武術を通して自分の内側を自由にしてゆくということです。
 目の前に良いものがあっても、自我への執着でそれを手に入れられないというのは、いかにも不自由なことでしょう。  
 
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 様々な秘伝を最初から公開することに、ためらいはありました。
 悪用されたらどうしようとか、世にあふれてる自己流先生に流出してねつ造の道具に活用されたら良くないのではないかとか。
 しかし、最終的には、そういう人たちの多くはたいてい真面目に練習をしないから理解が出来ないだろうから大丈夫だろう、という立ち位置に至りました。
 悟性が無い。と言うことです。
 どうも我々の武術は現代日本社会の考え方とかけ離れているらしく、根本的なところから考え方を変える姿勢が無いと理解できないようなのです。
 これは、老荘思想が根本にあるということであり、本来私たちはそのような思想とそれに伴ったライフスタイルを身に着けるために稽古をしているので、ある意味では当たり前でもあるのですが。
 老荘とは何かというと、いわゆるタオイズムです。
 ではタオイズムの基本は何かというと、陰陽思想です。
 色々な物の先生がやたらに陰陽と言いますが、そのような二次的に派生した表現としての陰陽ではなく、一時的に本当の意味での陰陽です。
 軽いと重い、実と虚、有と無などの区別を自覚的に、日常的に行ってゆきます。
 そしてここからが大事なのですが、それをそのままにしておきます。
 この部分が多くの人には難しいようです。
 凝り固まった価値観でエゴのままに判別した物を操作しようとしてしまう。
 それは違う。
 エゴ(自我)とエゴでは無い物(本能)も分別する。
 そしてそのままに用いる。
 例えばの話、悪と善に物を分けたとして、悪を即改善せねばと考えない。
 悪は悪であるものだと思う。それがタオです。
 私の友人で、セックスは悪だとなぜか知らないが決めつけている人間がいましたが、それこそがタオに最も反する姿勢です。
 何かを良くないと決めつけてそれをどうにかしようとすることは、タオの考え方ではありません。
 それこそが現代的な固定観念と、ファシズム的政治意識でしょう。資本主義は民主主義的な考え方、言い換えれば消費社会の象徴です。
 そこではない。
 何も使われていないスペースがあったら、そこにすぐ物を詰め込もうとか何かを建てようとか、換金手段としての有効活用とやらをしようと反射的にしようとしない。
 タオとはそういう物です。
 この、現代社会とのギャップがあるために多くの人はせっかく練習で極意を伝承してもその場で自分のエゴで台無しにしてしまいます。
 せっかく身体の中に、使ってない虚を作りだしても、次の瞬間に思い切りそこに力や体重をぶっこんでしまう。
 そうではない。
 虚と実を分けたら、そのままにしておく。
 自転車のように、それを入れ替えるときの変化を運動エネルギーにしたりはしない。
 あるがままに用いる。
 老荘では、無の音を聞くと言うことを言います。
 無に音があるのか。それは謎ですが、とまれ、目の前の景色のうちに、ある物ではなく無いということを知覚するということでしょう。
 江戸時代の剣士が、一尺の幅の道を歩くことは誰にでも出来るが、それが城の天守閣から富士山に渡されていたなら歩くのは難しい。剣術を得とくするとはそういうことだ、と言ったそうです。
 この時の、同じ幅の道の左右に広がっている物が「無」でしょう。
 そこに「無い」ということが大事なのです。
 人間は、無い物を無いままにしておくことが苦手です。
 すぐにそこに自分を投影してしまう。
 そうして映し出された物を妄想と言います。もうぞうと読みます。現代的なもーそーとは別のニュアンスです。
 禅や気功をしていると、まずはこの妄想が現れます。これを魔境と言います。
 魔境とは悟りの過程に通る間違った悟りのことで、自分の内面を吐き出す段階です。
 そこを自分の内面が外の世界に映った物に過ぎないと思わず、自分が正しいことを理解したのだと思ってしまうと、自分の内側にはまりこんでしまって出てこれなくなってしまいます。
 ひどいと禅病と言い、ノイローゼの一種になります。
 昔の弟子で、数年会わなかったら一人でぶつぶつしゃべったり、突然中空に怒鳴りだしたりするようになった者がいました。
 話を聞くと、お化けが見えるのだと言います。
 お化けが見えるとなぜ一人でしゃべるのだと訊くと、お化けが話しかけてくるから答えているのだと言います。
 なぜそんなものに受け答えをしてやるのだと言いました。
 私などは、相手が生身の人間であろうが話す価値の無いことを言っていればスルーすることなどしょっちゅうです。時間と労力の無駄です。
 そのようなことを、老荘思想で白眼視と言います。
 古代の賢者が、興味の無い者が話しかけても黒目を向けることなく、まったく居ないかのようにふるまっていたことに由来する故事です。
 感じのいい態度ではないですが、それが賢人の態度だと語り継がれています。
 相手をしなくなった結果、お化けは出なくなったようです。
 お分かりでしょうか。彼のお化けもまた、魔境です。彼の内面が幻の姿を取って感情を掻き立てようとしていたのです。
 人間は感情に刺激を与えたいという習性があるようで、起きていないことに対しても勝手に想像して腹を立てたりしてある種の快を得たりしようとするようです。
 うつ病などはその類だと思われます。
 今日、精神の病は脳という臓器の病だと言われているようですが、この脳にはビリーフという癖があるそうです。
 ある種の人が、刺激に対して胃酸が出やすいとか発汗が起きやすいとかおなかが下りやすいと言った反応の癖があるように、脳もまた刺激に対して分泌物の発散の癖があるのです。
 その分泌物によって人間の感情は方向づけされますので、悲しくなる物質が出る癖のある人は悲しむべきことなどないのに脳に悲しまされてしまうのです。
 そのための理由は後付けの物であるどころか、無意識に理由となることを見つけようとしたりしてしまいます。
 この現象、無に自我を投影していることそのものですね。
 無であることを、無のままにしておくことが我々の学ぶべきことです。
 それが出来ない人は、自我に執着しすぎている。
 私が常に否定している、オカルトやスピリチュアルが魔境だと言うのはこのようなことです。
 そこに天然には存在していないことを、エゴでねつ造してしまい、勝手な陰謀論や希望的観測やら神の意思やらをでっちあげてしまう。
 すべて自我の投影に過ぎません。
 もちろんそれらには、古代の対症療法としては、脳の思考癖を方向づけして習慣としてゆこうという高度な心理療法的な意図があるのですが、勝手な自己流でオカルトやスピリチュアルが独り歩きしてしまっている現在、ただの思考停止のおまじないになっているだけのように思います。
 そして、それらは自己の内側に閉じこもってしまう一本道であるため、大変に危険な物と言わざるを得ません。
 何もないところに、お化けや天使を見るのは精神の病です。
 無を無のままにしておけるところに、英知と己の心の確かさがあります。
 そのように心の独立ができてこそ、人は自由になれるのです。
 脳からの分泌物や妄想に拘束されるのではなく、あるがままに自立した精神を持つことになります。
 これが無為自然です。
 無為。意味のない無を認めることからあるがままははじまるのです。
 もちろん、どのような人生を送るかはそれぞれの自由です。
 美しい素肌で生きるのか、べたべたとしたセンスの無い厚化粧の心で人前をさまようのか。人は好きに生きる権利がある。
 ただ、後者の人は悟性が無い。
 永久に真実にたどり着くことはない。
 本当に生きることは出来ないのだと思います。
 非常に惜しみますが、自由自立は大変に勇気の要ることです。誰にでも強いることは出来ません。
 虚を認め、その無に不安を覚えて埋めることなく、何も手を加えずただ向き合える時、明確な自分の立ち姿を見つけることができます。







 
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