アウトオブスペース系の悟りでス

波動・量子の世界を超える「無極」、その「無極」の目覚め・覚醒を意味する真の悟りを提唱する。

ようこそ当ブログへ!!

(※当ブログは2015年9月タイトルが「悟りん坊ばんざい!!」から現在のものに変更されました)

◆読者登録はオールウェルカムです。連絡いりません。


「アウトオブスペース(OUT OF SPACE)系の悟り」宣言


「アウトオブスペース系の悟りって何?」

当ブログのタイトルを見て、そう思われた方はソレ(↑)をご覧ください。

取りあえずソレをご覧になれば大体のことはお分かりになるはずです。


とはいえ簡単にも説明しておきましょう。私を超えた不可視の大いなる存在には実は二種類あります。

中国式で言うと「太極」と「無極」です。が、当方の言う悟りとはそのうちの「無極」の目覚め・覚醒のことです。なので本当は「無極系の悟り」と称してもよいのですが、そこを敢えて現代風に「アウトオブスペース系の悟り」とさせてもらいました。

こういう悟りの捉え方もありますよ、ということを対外的にアピールする意味もこめて、ブログタイトルにもその呼称を使わせてもらいました。

後はひたすら、根気よく、ブログの中でそれについての説明を充実させてゆくしかないと思っているところです。

それではよろしくお願いします。





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《“真我で見る”の意味をニコニコしながら理解する法(仮)》

何度か述べているように「過去断ちの法」およびTOUS・第一~第三ステップというのは「真我でモノを見ている状態になるためのメソッド」という側面があり、そういうものとして捉えることも可能だ。
が、誤解してほしくないんだけど、ユーたちはこれら二つのメソッド゚を使って真我でモノを見ている状態になることはできても、ただそれだけでは、自分が今真我でモノを見ている状態にあることを肯く(うなずく)ところまでは行けない、ザマーミロ。
「その状態」になっていながら自分が今「その状態」にあることを肯けないというのは理屈の上からも変じゃないか、と思うかも知れないけど、そういうものなんだ。
「真我でモノを見ている状態にあることと、自分が今その状態にあることを肯けることとは別の事柄なのだ」と覚えておいてほしい。

ミーがこんな風に言ってもまだ「そんなの有りかよ?」といぶかしんでる向きのために、「ある特定の状態になっている」イコール「自分が今その状態にあることを肯ける」とは必ずしもならないことを示す実例を、二つばかり挙げてておこう。

その実例としてまず挙げたいのは、自分を酔っ払っているとは思ってない酔っ払いの存在な。
自分を酔っ払っているとは思ってない酔っ払いを想像してみてほしい。彼に「あなた今酔っ払ってらっしゃいますね」と聞いても「ハイそうです」とは言わないことは誰でも分かるだろう。「オレが酔っ払ってるんだったら酔っ払ってねーヤツなんてこの世に一人もいねーよ、うーい、ヒック!」と言うかどうかまでは分からないとしてもね。
これによっても、「ある特定の状態になっている」と「自分が今その状態にあることを肯ける」は必ずしもイコールにはならないことが明らかだと思うんだけど、どうかな。

それから、「整形手術を受けて美形になったけどまだ自分の顔を鏡で見てない人」なんてのも、前者と後者は必ずしもイコールにはならないことを示す実例たり得る。
なぜなら、もはや蛇足だろうけど、現時点ではまだ自分が美形であることを鏡で確認できてない彼らに向かって「あなたはお綺麗になられました」とか言っても本心から肯いてはもらえないはずだから。

こういう実例もあるので、「真我でモノを見ている状態になっている」と「自分がその状態にあることを肯ける」が必ずしもイコールにならないからといって、それを理屈に合わないとか非合理だとか突っ込まないでほしいんだな。

さて、前者と後者が必ずしもイコールにならない理由の最たるものは、真我でモノを見ることの中には思考はもとより感覚つまり感じることさえも含まれていないことだと言える。
真我でモノを見ることの中には思考はもとより感じることさえも含まれていないので、未悟者(悟り未満の人)の場合、例えば花なら花を真我で見ている状態になり得たとしても、それを単に肉眼に花が映っている状態としか受け止めることができない、言い換えればその状態が真我でモノ(花)を見ている状態であることを肯くことができない、というわけ。

感じることさえも止めてモノを見ている状態が、未悟者には「単に肉眼にモノが映っているだけの状態」と受け止められ、悟者には「真我でモノを見ている状態」と受け止められる、という違いがある。
だから、未悟者はこんな風に思ってたらよいということだ。「単に肉眼にモノが映っているだけの状態」と自分に認識される状態というのは本当は、たとえ自分には訳が分からなかろうとも、真我でモノを見ている状態なのだ、と。
「その訳」が分かるのは悟りが起こった時に限られる、という意味において、真我に備わる見る働き・気づく働きというのは、未悟者にとっては「正体不明の謎の見る働き・気づく働き」だってことになる。


話は変わるけど、これからユーたちに紹介したいのは前出の「過去断ちの法」とTOUS・第一~第三ステップに続く第三番目の「真我でモノを見ている状態になるためのメソッドな。
このメソッドはワシらの心に生じる気分(または感情)を対象としてしか実践できないんだけど、そのかわり、「真我で見る」イコール「感じる」ではないということを最もストレートに実践者に分からせられるという特徴があるので、前出の二つのメソッドの補助用に打ってつけだと思う。

このメソッドの名称だけど、取りあえず『“真我で見る”の意味をニコニコしながら理解する法』ってことにでもしておこうかな。
名称の中に「ニコニコしながら」という部分が含まれている理由については敢えて説明しないでおこう。それは、今から明らかにするこのメソッドの具体的な中身を知れば自ずと明らかになるはずのものだから。

このメソッドは二つのステップから成るんだけど、第一ステップはニコニコすること、つまり口角(唇の両脇)を上げて笑顔を作ることなのだ。おかしくもねーのに何でニコニコせにゃならんのよ、なんて言わないでさ…。

ニコニコする……と言えば、よくある物言いの一つに「人は嬉しいからニコニコするんじゃない。ニコニコするから嬉しくなるんだ。」てのがあったよな。ミーの場合は「人は嬉しいからニコニコする」も「人はニコニコするから嬉しくなる」もどちらも正しいと見てるんだけど、いずれにしても、前出の第一ステップを実践している間は誰でも自動的に嬉しい気分になっていることは間違いない。
実践者にそうなってもらうための第一ステップなのだ。いらん話だけど、ミー的に一番やらせてみてーのはゴルゴだね。

このステップを実践する際心がけてほしいのは、無理のない範囲でいいから自分にとって最高の笑顔を作るようにすることな。実践者がゴルゴであっても特例認めねーから。

それからこのステップにも次の第二ステップにも当てはまることなんだけど、実践中は目を閉じてた方がいい。その方が笑顔を作ることで心の中に生じた嬉しい気分にスポットライトが当たったようになり、メソッドの目的によりかなうからだ。

さて、第二ステップではユーたちにある実験をしてもらうことになる。
それは、次のようなものだ。
第一ステップで作った笑顔をキープしたまま、心の中に発生し続ける嬉しい気分を感じるのを止める。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

意味分かるかな。
ワシらが笑顔をキープしている間ってのは当然ながら、心の中に嬉しい気分が自動的に発生し続ているわけだけど、そいつを感じるのを止める、というのが第二ステップにおいてユーたちにしてもらわにゃならん実験の中身ってことな。


嬉しい気分に限らず何かを感じるのを止めることは、例えば何かを掴んでいる(自分の)手を引っ込めるのと同じで、ただ「そうしよう」という意図があれば誰でもできるはずのものではある。が、人によっては、前出の実験をキッチリ行うためには、「死んでも感じるものか」とか「金輪際感じないぞ」といった強い決意を必要とするかも知れない。

この実験の目的はただ一つ、ユーたちに次の事実を身をもって知ってもらうことにある。
ワシらは心の中にある気分に、感じること抜きで気づくことができる。

ワシらが心の中にある気分に感じること抜きで気づき得るのは何故かというと、モノを感じる働きのある心とは別に、真我という名の「気づきの意識(見る意識)」をワシらが備えているからだ。
この真我という名の「気づきの意識」は心とは別物なので気分を感じることはできない。でも気分に気づくことはできる。あるいは、気分がそこに存在することを知ることはできる。
ワシらの中にある感じることを伴わない気づきの主、あるいは感じることを伴わずしてモノを見る主、それが真我なのだ。


そう言えば最近は、真我(本当の自分)のことを「気づく者」とか「見る者」という風に表現する人が何となく増えてきてる印象を受けるんだけど、もしも彼らの使う「気づく者」とか「見る者」といった言葉が「感じる者」という言葉の言い換えであったとしたら(どうもそれっぽいんだけど)、ミーは声を大にして彼らにこう言ってやりたい。
「いっいえ、別に何もありません、テヘッ…」てね。


中島タローでした。
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「note」にて『よむワークショップ・動的時間停止法』をご購入いただいた皆様へ。

先般は、私の拙いコンテンツをご購入いただきまして誠にありがとうございました。
この場を借りて、心よりお礼申し上げます。

このコンテンツは販売開始から三か月間はキャンペーン期間ということで価格を現状のものより大分低目に設定していたにも関わらず全然売れなかったものですから、私も「どうやらこの商材は売れなさそうだ」と半ば見切りをつけ、つい最近まで「note」から遠ざかっておりました。

しかしその後購入してくださった方が何人かいらしたのですね。それに気付いたのは今月(2016年7月)に入ってからのことです。もっと早く気付いてお礼を申し上げ゜るべきでしたが、マイペースな私をお許し願います。

さて、「このコンテンツ」に関して個人的な見解を言わせてもらいますと、その中で最も人様のお役に立ちそうなのは「〈思考系〉動的時間停止法」のような気がします。
と言いますのは、これは表面的には“思考を続けながら「今」に在ることを可能にするメソッド”という形を取ってはおりますが、より深いところから見ると、我々の精神的な苦の最大要因の一つである「思考と自分との同一化」を解除するためのメソッドという側面も持っているからです。
「〈思考系〉動的時間停止法」にはそういう側面もありますので、これを身につければ如何なる思考が心の中に生じても、「思考は私に起こっているのではない。ちょうど目の前のイスや机などと同じようにただモノとしてそこにあるだけだ」ということが体験的事実として分かりますし、思考に巻き込まれなくて済むようにもなります。
皆さんには是非そこまで行っていただきたいものです。

話は変わりますが、ここで皆さんへのお知らせがあります。
今後の予定として、近いうちに、この『よむワークショップ・動的時間停止法』に付録という形で新しいコンテンツを追加したいと思っているのです。
これには、私の記念すべき生涯初の「商材」を購入してくださった皆さんへの感謝の意味もあります。
ただし、「新しいコンテンツを追加したい」とはいいましても、完成されたものを全部いっぺんに追加するのではなく、この「note」をブログに見立てて、一記事ずつ何日かごとに書き足してゆく(積み重ねてゆく)形を取ることになりますので、そこはご了承ください。

蛇足ながら「note」のシステム上、それを読むために皆さんが追加料金を請求されることは一切ないことは、皆さんよくご存じの通りです。
それにしても、既に販売済みのコンテンツに対してこのように自由にコンテンツを付け足して行けるのも「note」ならではですね。とても便利な「note」のシステムだと思います。

全ての記事を書き終わった暁には、それらをまとめて一つの独立したコンテンツとして何らかの形で別売することも視野に入れております。
まあ、これからこの「note」上でそれらを読むことのできる皆さんにはあまり関係のない話だろうとは思いますけれども。

で、肝心のそのコンテンツの中身ですが、それを簡単に言い表すとしたら「当方のオリジナルのアファメーションメソッド」といったところでしょうか。

アファメーションというのは「肯定的な言葉を使って心に肯定的な影響を与えるための自己暗示法」というほどの意味ですね。より詳細な意味を知りたい方はネットで調べてみられたら良いでしょう。
「追加コンテンツ」の中で、このアファメーションの効果をより高めるための新しいコツを披瀝させていただくつもりです。

それでは、その時またお会いしましょう。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

以上、「note(2014年4月にスタートしたコンテンツプラットフォーム)」にて『よむワークショップ・動的時間停止法』を購入された方々へのメッセージでした。
同じやつを「note」にも載せてはいるんだけど、万全を期すためと、当ブログの読者に『読むワークショップ・動的時間停止法』のことを知ってもらう意味もあって、ここにも載せさせてもらった次第。

文中でも述べているように、これからミーがそれに追加しようと思っているコンテンツの中身というのはミーのオリジナルのアファメーションの仕方なんだ。それの名称として今考えているのは、「中島式アファメーション術」ってやつ。どうだい、カッコいいだろ。

悟り専門の発信者であるあんたがそんなものを世に出すのかい……という声が聞こえてきそうだけど、大きな角度から見ると、その「中島式アファメーション術」ってのは悟りとまるきり関係がないわけでもないんだ。
まあ、ここでは言い訳はこれぐらいにしておくかな。


※この記事は他の記事の中に埋もれさせたくないので、将来的には常にトップ記事の次に表示されるように持って行きたいと思っておりやすので、そこのところよろしく…。



中島タローでした。

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まずは前回取り上げた「心のデスポイント(death point)」についてもう一度説明しておきやしょう。直訳すると「心の死亡点」といったところだけど、より踏み込んだ意味は、心をそこに持って行くと心の働きが静止したり心が脇に置かれたりするポイントのことな。
悟りへの途上にある人たちにとっては基本的に心イコール私なのでそれは、「私のデスポイント」と言い換えられないこともない。

心の可動範囲(心を持って行ける範囲)にはそういう場所があるので便利なことにワシらは、心をそこに持って行くという非常に取っ付きやすい方法によって心を脇に置くことができる。そして前回の話からも分かるように、心を脇に置くことは真我を体現することでもあるので、その方法は角度を変えて見れば真我を体現するための方法たり得てもいる。

要するに、「心を心のデスポイントに持って行くこと」は真我を体現するための方法だとも言えるんだ。
「真我を体現するための方法は存在しない」という見解が一般論の域を出ないもの、つまり例外を認めざるを得ないものになっているのはこの事実があるからに他ならない。

ところでその「心のデスポイント」の中には、「没入と観察の境界(没入とも観察ともつかない両者の真ん中)」というものもある。それ、ミーの公開済みのメソッドを通して知ってる人は知ってると思う。
余談なか゜ら、ミーがそれの存在に気付いたのはクリシュナムルティの本を読んでいた時なんだよな。その中に書かれてあった「見るものは見られるものだ」という一節に接した時、何故かインスピレーションが起こってそれの存在に気がついたんだ。

その時はまるで道端に落ちている宝物を見つけたような気分だったぜ。そしてその後このタダで手に入れた「宝物」を私物化して人々にシェアしなかったら死んだ後神様にしかられるだろうな、という気持ちに少しばかりなった。
『覚醒の便法』や『スリーステップ時間停止法』などを通してそれをタダで公開している理由の一つにはそれもあると言えばあるな。

話を戻すけど、前述のような次第でワシらは、心を「没入と観察の境界」に持って行くことによっても心を脇に置くことができ、ひいては真我を体現することもできるんだ。
で、前出の『覚醒の便法』の第一ステップから第三ステップまで、あるいは『スリーステップ時間停止法』というのは心をそこに持ってゆくことを直接的な狙いとしているので、心を脇に置く方法たり得ていると同時に真我を体現する方法たり得てもいるわけ。
それらの実践によって心理的な時間が停止するのは、心が脇に置かれ真我が体現されたことに付随する副産物と考えたらいい。
(続く)


中島タローでした。
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ここのところずっと「本当は二つある大いなる存在…」の話が続いているので、今回と次回はそれとは系統の違う話をさせてもらおうかな。

真我の体現と心を脇に置くこととはワンセットになっていてどちらか一方だけが単独で実現されることはない……ということは当ブログの読者であれば少なくとも知識としては知っているに違いない。
が、それに対しては、次のような感想を持つ向きもあるのではないだろうか。
もしそれが事実なら、真我を体現するための方法は存在しないことになる。
そうした感想を持つパーソンがいたとしてもおかしくはないとミーは思う。ミーにはそれが理解できる。
おまんの言うことは筋が通っちょる、と言いたくもなる。そうした感想の後ろには次のような筋の通ったロジックを見て取れるからだ。

①方法を実践している時心は脇に置かれていない(方法の実践は心でなされるものだから)。

②そして、心が脇に置かれてないってことは真我は体現されていないってことだ。

③だから真我を体現するための方法は存在しない。

このロジックに対するミーの見解を述べさせてもらうなら、それは一般論としては正しいと言える。が、一般論としては正しいってことは裏を返せば例外もあるってことに他ならない。

前述のロジックが例外の存在を許す理由は、ミーが「心のデスポイント(death point)」と名付けているものがあるからだ。「心のデスポイント」とは大まかに言うと、心にとって命取りになるような場所のこと、もう少し具体的に言うと、心がそこにおもむくと(心をそこに持って行くと)心の働きが静止したり、心が脇に置かれたりするポイントのことな。

心にとってはまるで天敵みたいなポイントだけど、僅少ながらそんなのがあるんだよ、心の可動範囲(心を持って行ける範囲)には。
例えば、これはミーの発見じやなくて受け売りなんだけど、頭頂にあるとされるサハスララチャクラの真ん中、もしくはそのちょっと上もその一つのようだね。心をその一点に持って行くと心の働きは静止すると言われている。

心の可動範囲にそういうポイントがあるのはちょうど、この三次元世界の中に例えば「バミューダトライアングル」みたいなワシらが体をそこに運ぶと体が消滅してしまう場所があるのと同じことな。
そういう例外的な場所があるものだからワシらは、例えば「この三次元世界に生きている者の体が突然消滅するなんてことはあり得ない」といった物言いに対しては「一般論としては正しい」としか言えないだろ。

ちょうどそれと同じように、心の可動範囲にはミーの言う「心のデスポイント」があるために、前出の「真我を体現するための方法(=心を脇に置くための方法)は存在しない」といった見解に対してもまた「一般論としては正しい」としか言えないんだ。
つまり、百パーセント正しいとまでは言えないんだ。
この意味分かるかな。
分かりにくいかも知れないけど、考えてみてほしい。

それについての解説は次回にしよう。
(続く)


中島タローでした。
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《多くの人々に薦めたいのは悟りよりもコレ》

前回話したように、顕在意識と潜在意識から成る心全体を脇に置くと真我が現れるんだけど、それが正しくできたか否かは、(心的な)時間が停止したか否かによっても分かるし、私と呼べるものが消滅したか否かによっても分かる。
なぜなら、それが正しくできた時には、「時間の停止」と「私と呼べるものの消滅」がセットで起こるようになっているからだ。
ちなみに、ここに言う「時間の停止」とは言い換えれば、過去と未来が落ち、「永遠に続く今」だけが残ることでもある。


とはいえ、その「時間の停止」と「私と呼べるものの消滅」がセットで起っている状態というのはまだ悟りの状態なのではない。
その素晴らしい状態を、悟りへの途上にある多くのパーソンは「これこそは悟りに違いない」と思うかも知れないけど、そうでもないのだ。なぜなら、既に知っての通り、悟りとはそこに現れている真我が真我自身を見る(知覚する)という出来事を指しているからだ。
この出来事が起こらない限りは、たとえ時間が停止してても、永遠の今だけが残ってても、私と呼べるものが居なくなってても、それを悟りと見なすことはできない、というわけ。
その状態に到り得てはじめて悟りの可能性が生じる、ということは確実に言えるとしてもね。


ところで、その悟りにおいてはじめて明らかになることの一つは真我の大きさだ、
ユーたちは真我の大きさをどれぐらいだと思っているだろうか。
さすがに真我ともなると、その大きさは少なくとも東京ドーム百個分は超えるんじゃないの……てなことを今思ったパーソンには悪いんだけど実は、その大きさは宇宙空間を超えているのだ。真我と誤認されやすい潜在意識の大きさが宇宙空間を超えることはないのとは対照的にね。


それというのも、この宇宙空間を映画館のスクリーンになぞらえた場合、観客席のある位置つまりスクリーンに対して垂直な方向から、オショー流に言うなら「垂直の次元」から、スクリーンを見ているものこそが真我(という名の目)なのだから。
真我は、宇宙空間の内部から宇宙空間の中にある色々なものを見ているわけではないんだな。

悟りが「宇宙空間の外に出る側面」を持つのも、今言ったことが背景にあるからに他ならない。
宇宙空間という名のスクリーンを「垂直方向」から、つまり外側から見ている真我であるがゆえに必然的に、真我が真我自身を見るという出来事すなわち悟りは「宇宙空間の外に出る側面」を持つことになるのだ。

で、ここで唐突ながら、「悟り系発信者」としてのミーの本音を言わせてもらうなら、ミーは、そんな途方もない悟りを万人に薦めようという気持ちには中々なれないでいる。万人にお薦めするには悟りは途方もなさすぎると思うわけ。
仮に悟りが宇宙空間の枠内で起こるものであったなら、多くの人々にもっとためらいなく薦められるんだがな、とも思う。
この思い、どんな例えを使って説明したら分かってもらえるものやら…。

例えばここに動物好きの人がいたとした場合、彼または彼女に、大型犬程度の大きさのものならぎりぎりペットとして飼うことを薦めることはできても、ゾウさんみたいにとんでもなくデカいものをペットとして飼うことを薦めるのには誰しもそぐわないものを感じるはずだし「これはちょっと…」と思うに違いない。
そうした思いと前述のミーの思いには似たところある、と言えば、少しは分かってもらえるだろうか。

こんな話をすると、じゃあアンタ何で悟りについて色々語るのさ? と返されそうだけど、ミーが悟りについて色々語る理由の一つは次のようなものだ。
ミーが個人的に悟りをどう思っているかにかかわらず、悟りの何たるかを知りたがっている人の数は少なくないし、ミーは悟りの何たるかをある程度までなら説明できなくもない人間の一人だから。

さてそれでは、冒頭の話に戻るけど、そこでも述べたように、ワシらが心(顕在意識+潜在意識)を脇に置くと真我が現れるようになっている。心こそは真我の存在を覆い隠している唯一のベールだからだ。
で、それに付随する形でワシらは「時間も私も無い状態」へと移行するわけだけど、この状態に対してはミーは、多くの人々に、というより一人でも多くの人々にお薦めしたいという気持ちを抱いている。

ミーは、この状態の先にある悟りに対しては前述のように「万人向きのものではない」という見方をしているんだけど、この状態に対してはそれとは逆に「万人向きのもの、全ての人が物にすべきもの」という見方をしているのだ。

なぜならこの「時間も私も無い状態」というのは、悟りほどにはワシらの通常の状態からかけ離れてはいないという意味において悟りよりは取っ付きやすく、なじみやすく、それでいてワシらの精神的な苦を根本的なところから軽減・緩和する力を秘めているからだ。

「この状態」を全ての人々にお薦めしたい理由としてもう一つ挙げておかねばならないのは、正しく実践しさえすれば誰でも確実に「この状態」になれるメソッドが既に用意されている、ということな。
それが紹介済みの「TOUS」第一~第三ステップおよび「過去断ちの法」であることは、言うまでもなかろう。

この二法の普及によって誰でも当たり前のように「時間も私も無い状態」になれるようになったら良いな、と思う今日この頃でありやす。


中島タローでした。



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《潜在意識と真我の違い》

スピリチュアルの世界において、「顕在意識という小さい自分」を脇に置くと「潜在意識という大きい自分」が現れる、ということはよく知られている事実だ。
でも、その「潜在意識という大きい自分」と真我とは別物である、ということはあまり知られていないように見受けられる。

「潜在意識という大きい自分(=太極)」と真我(=無極)が別物であることは、「顕在意識という小さい自分」も「潜在意識という大きい自分」も二つながら脇に置いた時現れるものが真我である、という事実からも明らかだろう。

①「顕在意識という小さい自分」を脇に置いた時現れるのが「潜在意識という大きい自分」。
②「顕在意識という小さい自分」と「潜在意識という大きい自分」を二つとも脇に置いた時現れるのが真我。
という風に覚えといてチョーダイ。

「潜在意識という大きい自分」と真我が混同されやすい理由の最たるものは、どちらも「顕在意識という小さい自分」から見ると「自分を超えた大いなる存在」に位置づけられる、という共通点があることだと思う。

しかし、「潜在意識という大きい自分」と真我の間には、その共通点を無きに等しいものにしてしまうほどの決定的かつ根本的な違いがある。
それは、前者が「顕在意識という小さい自分」と地続きであるのに対して、後者は:「顕在意識という小さい自分」と地続きではない、というところ。

「潜在意識という大きい自分」と:「顕在意識という小さい自分」が地続きつまり「連続性がある」と言えるのは何故かというと、どちらも心という大きな枠の中に収まるものだからだ。
そして、真我と:「顕在意識という小さい自分」が地続きではないつまり「連続性がない」と言えるのは何故かというと、真我がその枠の外側にあるものだからだ。


ここで、前出の①と②の補足をさせてもらいやす。
まず①の補足。
既述のように、「顕在意識という小さい自分」を脇に置くことで現れるのが「潜在意識という大きい自分」なんだけど、ではどうしたらそれができるのかというと、「瞬間の今」に心を持って行くことだと言える。
それというのも、「瞬間の今」の中では「顕在意識という小さい自分(頭の自分)」は存続できないようになっているからだ。その証拠にワシらは、「瞬間の今」に心を持って行くと、感じることはできても考えることはできない。

で、その「瞬間の今」に心を持って行くための効果的なメソッドの一つとして、既に紹介済みの「瞬過去ふりかえり法」というのがある。
これを実践することによってワシらは、心を「瞬間の今」に持って行けるので結果として「顕在意識という小さい自分」を脇に置くことができ、ひいては「潜在意識という大きい自分」を前面に出すこともできるという次第だ。

次に②の補足。
これまた既述のように、「顕在意識という小さい自分」と「潜在意識という大きい自分」を二つとも脇に置くことで現れるのが真我なんだけど、ではどうしたらそれができるのかというと、「瞬間も無い今」に心を持って行くことだと言える。
それというのも、「瞬間も無い今」の中では顕在意識と潜在意識から成る心そのものが存続できないようになっているからだ。その証拠にワシらは、「瞬間も無い今」に心を持って行くと、感じることも考えることもできない。

で、その「瞬間も無い今」に心を持って行くための効果的なメソッドの一つとして、既に紹介済みの「過去断ちの法」あるいは「TOUS」第一~第三ステップというのがある。
これを実践することによってワシらは、心を「瞬間も無い今」に持って行けるので結果として心そのものを脇に置くことができ、ひいては真我を前面に出すこともできるという次第だ。

ちなみに、ここに言う「瞬間の今」「瞬間も無い今」の意味、分かってもらえてるだろうか。分かってもらえてるよな。すでに説明済みのことだから。
でも一応念のために、もう一度簡単に説明しておくなら、流れゆく時間を一本のヨウカンになぞらえた場合、それを限りなく薄くスライスしたものに相当するのが「瞬間の今」、それを二つに切り分けた時にできる切れ目に相当するのが「瞬間も無い今」、ということになる。

限りなく薄いヨウカンのスライスとヨウカンの切れ目がある意味似ているのと同じように、「瞬間の今」と「瞬間も無い今」もある意味似ていると言える。そこに有と無の違いはあるとしてもね。
これは心の側から見た場合、「潜在意識への入り口」と「真我への入り口」とは紛らわしいというか混同されやすいところがある、ということでもある。
冒頭で潜在意識と真我は混同されやすい、という話をしたけど、こんなところにもその一因がありそうだ。

余談ながら、真我の何たるかは既にすべての人が、悟る悟らないに関わらず知っているものだ、という物言いがあるけど、これにも「ある意味」という前提が付くと思う。つまり、非常に限られた意味でのみ、そう言えるってことな。
そうでなきゃ、スピリチュアルの世界においてさえ、真我の何たるかを説いて聞かせる立場にあるパーソンも含めて、真我と潜在意識を混同してる人が大半以上を占めていることの理由が説明できないだろ。
これをどう説明するんだよ! て言いたくもなるぜ。


中島タローでした。



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《「過去断ちの法・基本形」の実践を通して思い至ってほしいこと》

「過去断ちの法・基本形」すなわち「過去の身体動作を心で振り返らないようにしつつ身体動作をする、というメソッド」を正しく実践したことのあるパーソンであれば誰でも、次の事実を身をもって知っているに違いない。
過去の身体動作を心で振り返らなかったら、身体動作を感じることも観察することもできない。
そう、ワシらは、過去の身体動作を心で振り返ること無しにソレを感じたり観察したりすることなどできないものなのだ。

もしも、「過去断ちの法・基本形」の実践経験者でそこが分かってない向きがあるなら、実践の仕方にどこか間違ったところがあったと思ってチョーダイ。

以上の話は裏を返せば、身体動作を感じたり観察したりするためには過去のソレを心で振り返る必要がある、ということに他ならない。
より大きな角度から言うなら、身体動作に限らず何らかの対象を感じたり観察したりするためには過去のソレを心で振り返る必要があるってことな。

こんな話をすると、過去のソレを心で振り返ることなくソレを感じたり観察したりすることは絶対にできないものなの? と思う向きもあるかも知れないけど、キッパリ言わせてもらいやす。「絶対にできないよーん!」
なぜなら、知っての通り何かを感じたり観察したりすることは心の働きに他ならないけれど、その心ってヤツは次のような説明のややこしい性質を持っているからだ。

・心は、過去を向くことをしなくなると(過去のソレを振り返らなくなると)、未来を向くこともまた自動的にしなくなる。
・その結果として心は、「瞬間も無い今」に落ち着かざるを得なくなる。だって他に行き場が無いから。
・が、「瞬間も無い今」とは心のデスポイントつまり心が消え失せる(脇に置かれる)ポイントでもあるので、その刹那に心は消え失せてしまう。

以前話したことのおさらいになったけど要するに、肝心な点だけを言うなら、心はその性質上、過去のソレを振り返らなかったら消え失せるようになっている。なので、ソレを感じることも観察することもできなくなる。ということな。

ただし補足しておくけど、ここに言う「過去」ってのは一瞬の過去までも含めた過去、つまり、よほど注意深くしてないと過去とは認識できないような微かな過去までも含めた過去のことなので、そこのところご注意願いやす。

さて、以上のような背景があるためにワシらは、「過去断ちの法・基本形」を実践している時には、身体動作を感じることも観察することもできなくなっているものだ。より正確に言うなら、身体動作を感じたり観察したりする心(顕在意識+潜在意識)そのものを消失しているものだ。
そこには「瞬過去ふりかえり法・基本形」を実践している時には必ずある身体動作を感じたり観察したりする心そのものが、そもそも無い。

でも注目すべきは、それにも関わらずワシらは「過去断ちの法・基本形」の実践時においても身体動作をチャーンと知覚できている、もしくは身体がどんな風に動いているのかチャーンと知覚できている、という事実な。
ここに言う「知覚」に心の働きである感じることや観察が含まれてないのはモチのロンだ。心の働きである感じることや観察とは種類の異なる知覚が、そこにはある。
自分を成り立たせているものは身体と心の二つだけだと思っているパーソンには受け入れがたいことではあるだろうけれども。

でもそんな彼らでも、「過去断ちの法・基本形」の実践を通して、その事実に思い至るところまでは行けるかも知れない。
「感じることも観察もしていないのになぜかチャーンと身体動作が知覚されているってことは、それらとは種類の異なる知覚がどこかで働いているってことに違いない…」といった思考経路をたどることによってね。

もしもユーが悟りへの途上にある身なら、ぜひその事実に思い至るところまでは行ってほしいと思う。
その事実に思い至ることは悟りへの途上にあるパーソンにとっては大きな前進だからだ。その事実に思い至ることを悟りと誤認しさえしなければ、という条件は付くんだけど。
そういう誤認を避けるためにも、悟りへの途上にあるパーソンは次のことを銘記しておいたらよい。
悟りとは、前述の「知覚」が「知覚」それ自体を知覚するという、この私には想像することも関与することも不可能な出来事である。


中島タローでした。
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《「瞬過去ふりかえり法」を極める》

「一瞬前(=瞬過去)のモノを心で振り返り続ける」という「瞬過去ふりかえり法」の定義というのは、敢えて細かすぎる突っ込みを入れるならば、曖昧な点が無いではない。
どんな意味においてそう言えるのか? というと、前出の定義に含まれている「一瞬前」とは具体的にどれぐらい前のことを指しているのか明確な数値を出して説明できない、という意味においてだ。

だってワシらの体感では、例えば、コンマ1秒前も一瞬前だし、コンマ3秒前も一瞬前だし、コンマ5秒前も一瞬前だろ。
ついでに言うなら、秒数にしてどれぐらい前から一瞬前とは呼べなくなるのか、という点もまたハッキリしないしな。

こうした背景があるために、「瞬過去ふりかえり法」というのは実践者によって、あるいは同じ実践者でも実践の日時によって、ミーの言う「振り返りの時間幅」に差が生じる定めにあると言える。

「振り返りの時間幅」って意味分かるかな?
字面から何となく分かるだろうとは思うんだけど、この「振り返りの時間幅」という言葉はミーの造語でもあり、ここからの話のキーワードでもあるので一応、意味が分からないパーソンのためにそれの使用例を挙げておきやしょう。

・例えばコンマ1秒前のモノを心で振り返った場合の「振り返りの時間幅」は、コンマ1秒。
・例えばコンマ3秒前のモノを心で振り返った場合の「振り返りの時間幅」は、コンマ3秒。
・例えばコンマ5秒前のモノを心で振り返った場合の「振り返りの時間幅」は、コンマ5秒。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
これらの使用例から、「振り返りの時間幅」の意味するものを汲み取ってもらえるものと思いやす。

以上を踏まえてあらためて言うけど、、「瞬過去ふりかえり法」というのは実践者によって、あるいは同じ実践者でも実践の日時によって、「振り返りの時間幅」に差が生じてしまうものなんだ。実践者がプログラムによって作動するロボットでもない限りはね。

さて、そうは言いながら、ミーとしてはここで「瞬過去ふりかえり法」の実践者に次のようなアドバイスをしておきたい。
同じ「瞬過去ふりかえり法」を実践するなら、その「振り返りの時間幅」を可能な限りゼロ秒に近づけるに越したことはない。つまり、「振り返りの時間幅」はゼロ秒に近ければ近いほど良いってことな。
ミーがこのように言うのには、もちろん理由がある。それについて説明しやしょう。

「瞬過去ふりかえり法」を実践すると潜在意識が顕在化することは既に知ってると思うけど、その時の「振り返りの時間幅」がゼロ秒に近ければ近いほど(つまり小さければ小さいほど)実は、潜在意識の中でもより深い層が顕在化するようになっているんだ。ここに言う「より深い層」は「より微細な想念・感覚が出てくる層」と言い換えてもいい。

で、その結果としてワシらは、より深いリラックスを得ることができるしまた、より深いところからの潜在能力(ヒラメキ力など)を発揮しやすくなるというメリットもある。
その意味において、「振り返りの時間幅」を可能な限りゼロ秒に近づけることと「瞬過去ふりかえり法」を極めることとはイコールだとも言える。
「瞬過去ふりかえり法」の実践者に、「振り返りの時間幅」を可能な限りゼロ秒に近づけることをミーが希望する理由はそこにある。

ところで、この「瞬過去ふりかえり法」の有りがたいところは、毎日一定時間(10分でも20分でも)実践する習慣をつけておくとそのうち実践してない時でも潜在意識が顕在化しやすくなる、という点な。
それがあるのでミーとしては、より快適にそしてより良く日々の生活を送りたいと願っている全てのパーソンに「瞬過去ふりかえり法」をお勧めしたいとこなんだけど、その中でも一番のお勧めはやはり、最も実践しやすい「瞬過去ふりかえり法・基本形」つまり身体動作を対象とした「瞬過去ふりかえり法」な。
これならば、例えば誰もが毎日普通にやっている歩行なども実践対象にできるので中々いいと思うぜ。

で、この「瞬過去ふりかえり法・基本形」を実践する際にも「振り返りの時間幅」を限りなくゼロ秒に近づける(小さくする)ことが望ましいのは言うまでもない。
ここからの話は、それをより確実かつ簡単にやるコツに関するものだ。

そのコツは二つのステップから成っているんだけど、その最初のやつ、つまり第一ステップは、まず「振り返りの時間幅」をゼロにすることな。
もう少し詳しく説明すると、「振り返りの時間幅」をゼロにして身体動作をすることがそのコツの第一ステップってことになる。

「振り返りの時間幅」をゼロにして身体動作をすること、と聞いて、それって要するに「過去断ちの法・基本形」を実践することじゃん! と今思ったパーソンよ、ユーは中々察しがいい。ほめてつかわそう。
ミーの国宝級の小便をワンボトル贈りたいぐらいだ。といってもミーはケチだから、実行には移さないけどね。

「振り返りの時間幅」をゼロにして身体動作をすること、というのは、言い換えれば過去の身体動作を一切振り返らないようにしつつ身体動作をすることでもあるわけだから、確かに「過去断ちの法・基本形」を実践することとイコールなんだな。

だから、「そのコツ」の第一ステップは簡単に言い直すと「過去断ちの法・基本形」の実践ってことになるんだけど、このステップの狙いが「振り返りの時間幅」がゼロの状態を作り出すことにあるのは言うまでもない。
で、もうピンときてるだろうけど、その次のステップつまり第二ステップにおいてユーに求められるのは、その状態を「振り返りの時間幅」が限りなくゼロに近い状態に移行させることな。

要するに、「そのコツ」というのは次のような構成になっているわけ。
まず第一ステップで、「過去断ちの法・基本形」を実践して「振り返りの時間幅」がゼロの状態を作り出す、そして第二ステップで、その状態を「振り返りの時間幅」が限りなくゼロに近い状態に移行させる。
はじめからいきなり「振り返りの時間幅」が限りなくゼロに近い状態を狙うやり方よりも、こういう遠回りにも見える二つのステップを踏むやり方の方が堅実だし、結局は近道なのだ。

ただし補足しておくけど、その「今回紹介したコツ」が必要なのは初心者の間だけな。言い換えれば「振り返りの時間幅」が限りなくゼロに近い状態がどういうものなのか頭や理屈じゃないところで飲み込めるようになるまでの期間だけな。
その期間を過ぎたらもう、「今回紹介したコツ」は横に置いてもいい、つまり、「振り返りの時間幅」が限りなくゼロに近い状態ってやつをはじめからいきなり狙ってもいい。

話は変わるけど、「今回紹介したコツ」の第一ステップおよび第二ステップというのは、それぞれのゴールだけに着目する限りでは、ほとんど違いは無いかのように見えるものだ。
だって第一ステップのゴールは「振り返りの時間幅」がゼロの状態なのに対して、第二ステップのゴールは「振り返りの時間幅」が限りなくゼロに近い状態なわけだから。
「振り返りの時間幅」がゼロの状態と「振り返りの時間幅」が限りなくゼロに近い状態なんて、大きな角度から眺めたら「等しいにも等しい」じゃねーか、なーんて言いたいパーソンも少なくないかも。

でも、それぞれのステップにおいて求められる「行為の質」に目を転じると、第一ステップと第二ステップがいかに違うものかってことがハッキリするんだな、これが。
だって第一ステップにおいて求められるのが「何々をしない」式の消極的な行為(=「心で振り返らないこと」)なのに対して、第二ステップで求められるのは「何々をする」式の積極的な行為(=「心で振り返ること」)なわけだから。
細かい説明は省くけど、意味わかるよな。

そこのところを念頭に入れておくと、第一ステップから第二ステップへの移行が手際よくできるようになるに違いない。


中島タローでした。






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《真我は感じることを伴わない知覚の主である》

真我に関する物言いの中でよく知られているものの一つは「真我は見る者である」というやつだけど、ソコに含まれている「見る」という言葉を「感じる」という意味に受け取るパーソンが多すぎるのにはオイオイと言いたくなる。
誤解だからだ。その「見る」を「感じる」という意味に受け取るのは誤解なのだ。

でもよく考えてみると、彼らにも弁護の余地がいくらかはある。
なぜなら、ソコに含まれている「見る」という言葉が物理的な意味の「見る」じゃないことだけは誰にも明らかだけど、①物理的な意味の「見る」以外の「見る」と言えば「感じる」しかない→②だからそれは「感じる」という言葉の言い換えとしての「見る」であるに違いない…… てな具合に頭が回ってしまうのが悟り未満のパーソンにとっては自然な成り行きというものであるから。

でも本当は、「真我は見る者である」という物言いに含まれている「見る」は、物理的な意味の「見る」でもなく、「感じる」という言葉の言い換えとしての「見る」でもまたない第三の「見る」、すなわち物心いずれの世界のものでもない「見る」のことなのだ。
物の世界と心の世界の二つしか知らないパーソンにとっては訳の分からない話だろうとは思うんだけど。

前出の「見る」を「感じる」という意味に誤って受け取るパーソンが非常に多いもう一つの理由として考えられるのは、感覚(感じ)の出所である潜在意識が真我と非常に間違われやすいという事実な。
要するに、感覚(感じ)の出所である潜在意識と真我の混同もまた、前述のような誤解の元になってるんじゃないかってこと。

前述のような誤解の元になっていると考えられることが、さらにもう一つある。
「真我は見る者である」というフレーズと「真我はモノと一つになってモノを見る」という(意味合いの)フレーズはセットで使われることが多いけど、このこともまた前述のような誤解を招く一因になっているような気がするのだ。
その理由は、これは「ネット」上で得た情報にもとづくミーの私見なんだけど、悟者以外のほとんどのパーソンは「モノを感じる」と「モノと一つになる」をイコールと見なしている点にある。

分かりにくいかも知れないので、少し言葉を足そう。
「モノを感じる」と「モノと一つになる」をイコールと見なしてるってことは言い換えれば、「モノを感じている時の自分はモノと一つになっている」という風に思い込んでるってことな。
で、悟者以外のほとんどのパーソンはそんな思い込みを持っているようにミーには見受けられるわけなんだけど、そんな思い込みを持っている彼らがだね、「真我はモノと一つになってモノを見る」というフレーズに接した時、そこに含まれてる「見る」という言葉をどんな意味に受け取るか考えてみてほしい。
ほぼ100%の確率で、「感じる」という意味に受け取るに決まってるよな。「感じる」という意味に受け取ることではじめて彼らの脳内ではツジツマが合うわけだから。
ここまで言えば補足としては十分だろ。

さて、知ってる向きは知ってるように、彼らの思い込みとは裏腹に本当は、「モノを感じる」と「モノと一つになる」はイコールなのではない。
なぜならワシらがモノを感じている時というのは、モノと自分の間に微かながらも心的距離が生じているからだ。
まあ、この心的距離の微かさこそは彼らに心的距離の存在を見落とさせている原因ではあるんだけど。
この心的距離は何によってもたらされるかというと、モノを感じるために不可欠な「一瞬前のモノを心で振り返るという作業」によってもたらされる。

つまり、ワシらがモノを感じるためには「一瞬前のモノを心で振り返る作業」が必要なんだけど、この作業をすると結果的にモノと自分の間に微かな心的距離が生じる、という次第。
ワシらにとって、「一瞬前のモノを心で振り返ること」と「モノと自分の間に微かな心的距離を生じさせること」とはセットなんだ。

そのことは、「瞬過去ふりかえり法」を実践したことのあるパーソンであれば体験的に分かっていると思う。
「瞬過去ふりかえり法」というのは知っての通り「一瞬前(=瞬過去)のモノを心で振り返り続けるというメソッド」なわけだけど、これを実践してみれば誰でも、一瞬前のモノを心で振り返っている時には結果的にモノと自分の間に微かな心的距離が生じているものだってことが体験的に分かるはずなんだ。


さて、ワシらにとって「一瞬前のモノを心で振り返ること」と「モノと自分の間に微かな心的距離を生じさせること」とはセットになっているということは、逆に言えば次のことを意味してもいる。
ワシらが(一瞬前も含めた)過去のモノを心で振り返ることをしなければ、モノと自分の間には微かな心的距離も生じない、つまりモノと自分の間の心的距離はゼロの状態になる。

が、これに関しては重要な補足事項があって、それは何かというと、モノと自分の間の心的距離がゼロの状態というのは別の角度から見ると、自分が居ない状態でもあるってことな。
ここに言う自分とは真我の対語としての自分を指すので心(顕在意識+潜在意識)と言い換えることもできる。つまり、その状態ってのは心が無い状態、あるいは心が脇に置かれた状態だとも言えるのだ。

ということは、ワシらにとって、モノと自分との間の心的距離をゼロの状態に持って行くということはモノと一つになった自分もしくは心を実現することとイコールではないことになる。
モノと自分の間の心的距離をゼロにしたからといって、モノと自分が一つになるわけではないのだ。
頭の中だけで考えると、モノと自分の間の心的距離をゼロにしたらモノと自分が一つになりそうなものだけど、実際はそうはならないというわけ。
だって、そこにはもう自分というものが無いのだから。

しかしながら、ここがポイントなんだけど、そこにはモノと一つになった自分は居ないとはいえ、モノと一つになった自分ではない何者かは居るんだ。
では、その何者かとは何者なのか?
自分または心が脇に置かれた時あらわれるものと言えば真我しかないのだから、その答えが真我以外の何かであろうはずはない。
そう、そこにおいてモノと一つになっているのは真我なのだ。
より正確に言い直すなら、そこにおいてモノと一つになってモノを見ているのは真我なのだ、ということになる。

ただ、覚えておいてほしいのは、その真我がモノと一つになってモノを見ている状態というのは未悟の人からすると、「単に目にモノが映ってるだけの状態」としか認識できないってことな。
未悟の人にはその状態が、「単に目にモノが映ってるだけの状態」としか認識され得ないんだ。言い換えれば、彼らにとってその状態というのは「モノがただそこにあるだけでソレを感じている主も見ている主も見当たらないという状態」以外の何ものでもないんだ。

ミーに言わせれば、そこにおいて真我とモノとがあまりにも完璧に一つになっていることも、その一因ではあるんだけど。

この話裏を返せば、未悟の人が「単に目にモノが映ってるだけの状態」と認識している状態というのは実は、真我でモノを見ている状態に他ならないってことでもある。


中島タローでした。
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《“動きの企て”に関する一考察》

ユーたちにとってはもはや「耳タコ(いや目タコかな?)」かもだけど、話の進行上、最初に次のことを押さえておかにゃあならんのでヨロシク。
・「瞬過去ふりかえり法・基本形」とは、瞬過去の身体動作を心で振り返りつつ(身体動作を一瞬遅れで心で振り返りつつ)身体動作をすること。
・「過去断ちの法・基本形」とは、過去の身体動作を心で振り返らないようにしつつ身体動作をすること。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

さて今回の話のキーワードは“動きの企て”なんだけど、その意味は、ワシらが身体動作をしている時ワシらの中にある「身体をこんな風に動かそう」という意図のことな。
この“動きの企て”は当然のことながら、ワシらが前出の「瞬過去ふりかえり法・基本形」を実践している時にも、「過去断ちの法・基本形」を実践している時にも、身体動作を先導するものとしてワシらの中にある。

でも、ここが重要なんだけど、“動きの企て”と一口に言っても、ケースバイケースでその有り様には違いがあるのだ。
どういうことかって? 教えてやんねーよバーカ……じゃなくて
それをもう少し具体的に言うとだね、ワシらが前者を実践している時と後者を実践している時とでは、その“動きの企て”の有り様には違いがあるってこと。
あるいは、前者を実践している時の“動きの企て”と、後者を実践している時の“動きの企て”とでは有り様が違うってこと。

どんな風に違うのか?
その答えはこうだ。
チンポの先がチョト違う……というのはウソで(失礼!)
ワシらが「瞬過去ふりかえり法・基本形」を実践している時の“動きの企て”は微細な想念(感覚・フィーリング)という形を取っている。
それに対して、ワシらが「過去断ちの法・基本形」を実践している時の“動きの企て”はそもそも想念という形を取っていない、もしくは想念以前のものとしてある。

こういう違いが生じる背景には、次のような驚愕の事実があるのだ!!いや、驚愕でもないな……。
ワシらが「瞬過去ふりかえり法・基本形」を実践している時というのは、微細な想念の出所である心の深層部すなわち潜在意識が前面に出ている。
それに対して、ワシらが「過去断ちの法・基本形」を実践している時というのは、あらゆる想念の出所である心そのものを超えた真我が前面に出ている。

だから、要するにこういうことなのだ。
「瞬過去ふりかえり法・基本形」の実践時においては、微細な想念の出所である潜在意識(心の深層部)が前面に出ており“動きの企て”もそこから起こる。そのため、“動きの企て”は微細な想念という形を取る。
それに対して、「過去断ちの法・基本形」の実践時においては、あらゆる想念の出所である心そのものを超えた真我が前面に出ており“動きの企て”もそこから起こる。そのため、“動きの企て”が想念という形を取ることはない。

それにしても面白いのは、ワシらの身体動作を先導する“動きの企て”というやつは想念という形を取らない場合もある、という事実な。
想念という形を取らない“動きの企て”なんてあるのかよ、と普通は誰でも思うだろ。
大げさな言い方だけど、人類の間にある通念では、“動きの企て”に限らず「企て」と名の付くものは全て想念という形を取るものだ、想念という形を取らない「企て」なんてあり得ない、ということになっているはず。
でも本当のところは前述のように、ワシらが「過去断ちの法・基本形」を実践している場合に限っては例外的に、“動きの企て”が想念という形を取ることはないのだ。
想念という形を取る前の“動きの企て”がそこにはある。 「アラ、そうねん!」なんてくだらねーダジャレは無しな。
ちなみに「過去断ちの法・基本形」によってもたらされる身体動作が独特の機敏さとキレを有するのは、今言ったことに起因している。

「過去断ちの法・基本形」によってもたらされる身体動作の特徴がその機敏さとキレにあるとするならば、「瞬過去ふりかえり法・基本形」によってもたらされる身体動作の特徴はその柔らか味にあると言えるかも。
その柔らか味が何に起因しているかはもう察してくれてるよな。
そう、そこにおいて身体動作を先導している“動きの企て”が微細な想念という形を取っていることに、それは起因しているのだ。
“動きの企て”が粗大な想念(つまり思考)という形を取っている場合だと身体動作は硬くなる、という事実を考え合わせれば、ミーの言いたいこと分かると思う。

そういう意味ではザックリ言えば(あくまでもザックリ言えばね)、「過去断ちの法・基本形」によってもたらされる身体動作は空手向きであり、「瞬過去ふりかえり法・基本形」によってもたらされる身体動作は太極拳向きである、という風にも言えるのでは。

「過去断ちの法・基本形」によってもたらされる身体動作と「瞬過去ふりかえり法・基本形」によってもたらされる身体動作の違い、それはこれまで述べてきたように、“動きの企て”が想念という形を取らない身体動作と“動きの企て”が微細な想念という形を取る身体動作の違いでもあるんだけど、両者がどんな風に違うのかということに関しては、言葉では表現され得ない部分も当然ながらある。

でも有りがたいことに、その「言葉では表現され得ない両者の違い」というものを、感覚的に知ることができる良い方法があるので、最後にそれを紹介しておこう。
トライしてみたいパーソンはまず「筆と墨」もしくは筆ペンを用意してチョータ゜イ、と言えばもうバレバレだと思うんだけど、「過去断ちの法・基本形」と「瞬過去ふりかえり法・基本形」のそれぞれを使って紙に墨の字を書いて見比べる、というのがそれな。
墨の字には、それを書いたパーソンのその時の内的状態が如実に反映されるので、「過去断ちの法・基本形」を使って書かれた墨の字と「瞬過去ふりかえり法・基本形」を使って書かれた墨の字とでは、見た時の印象がまるで違うものだ。
その印象の違いを通してワシらは、くだんの「言葉では表現され得ない両者の違い」というやつを感覚的に知ることができるという次第。

ちなみに、それぞれの描線を一つのアートとして眺めてみた場合、味わいの種類が異なるので甲乙つけられないなという気がミー的にはしておりやす。


中島タローでした。
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