先日「里芋食べたらボコッと抜けた差し歯」

仕事のタイミングもあり、痛みも無かったのでちょっと治療にかかるまで間が開いていました

結果としては

抜けたままがお勧めされ、痛くなったら治療においでねとなりました


「これ、そのままさせるかも」と言われたため差し込んでもらったら、違和感通り越してアカン!他の歯が押し広げられて

差し込んだ状態がこのままになるのは耐えられない、押し込まれ感がありました

そして先生の提案はそのまま抜けた状態でも支障なさそうだったので歯石を取ってもらい終わりました



私の心配は、歯が無いことで顎やら噛み合わせがおかしくならないか?でしたがそれはなく

鉄の塊の差し歯は重くずっしりと、抜けたことで右側の顔の周りの開放感

(開放感はいいねーと思ったら、直ぐに首やら目がしばしばしたり異変に気づきましたがこれもいい意味での自分の中で見つけた繊細さであってその細やかさに良しとしました)



もし、自分が小さな私に逢えたなら

「歯を磨いて、歯を大事にしようね」と言い一緒に歯を磨こうと思いましたが

そのままでいいかと思いました

なかなかユニークな時間を過ごしたと思うと、敢えて変えることは見当たらなかったため

これからは、差し歯が抜けたことで新しく見出した動きがどうなっていくか観察することにします







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運命の人たち③

テーマ:
共感と同情


この事に関してよく言い表してるなと納得した表現で

ある人が船酔いでゲロゲロ苦しそうにしている(例えがこんなんですが、でも正にそうだと思った)、それに習って自分も一緒になってゲロゲロと苦しんでいるのが「共感」

他人の苦しんでいる様子に対してお気の毒に、と背中をさすることは「同情」

悪口や愚痴やら耳にし、ただの話題です

「同情」していればいいのだが、相手は鏡という事を聞き、知るとその言葉からの想像力は乏しく

一緒になって悪口を言うことがない段階になると

反応はあっても共感はない、何故なら私はその人ではないのだから何故それが問題になっているのか理解出来ない、その人が問題としている意識状態ではない存在のため私の所から見える話から伺える事柄は違う状況がみえている訳だったりする

しかし、相手は完璧なのです、そして矯正しようとしない改善を強要しないように見る

「求められてもいないアドバイスはしないように」その言葉と共にいる事は、初めはこうすればいいのにと瞬間的に思ってもただ見届けることに努める

今はとても大切な事と受け入れた以上、それがなんなのか見届ける必要がありました

答えはその人が見つけ出す姿を何度も見ていた(他人のことはよく見ていられるという働きがあるので)、ただ自己の力で問題解決に至る途中は今までやった事がないためきめ細かい配慮を要すると理解しています

自分もそうでしたが、そういう時の孤独感や無力感や出来ていないという結果に慣れてしまう中で構築された習慣を使わないように注意深くいることは

感情に赴くままの解決方法以外を実際にやろうとする事はとても大変な作業であります、感情の嵐の只中で自己のかじ取りをする大変さはあるけどかじ取りをしている自分を取り戻さなくてはいない

冷静に状況を見て、周りは嵐でも自分が静かな状態になるには一回でできれば幸いなんでしょうけどスムーズな流れを構築されるには焦らないことだと思います

だからこの辺りは同情し、もしそこを自分のかじ取りを取り戻した人には褒めるではなく、讃えることなんだろう




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この写真のページの続きに

〝二つ目の、その瞬間における自己認識システムは、おもに身体的感覚に基づいているが、私達は安全で、急ぎ立てられていないと感じていれば、その身体的体験を伝えるための言葉を見つけることもできる。二つの認識システムは脳の別々の領域に局在しており、それらの領域どうしの接続はほとんどない。そして、内側前頭前皮質に基盤を置く、その瞬間における自己認識システムだけが、情動脳を変える事できる。〟


これらのことで何が言われているのかは、その内容を実体験にあり、自己観察する過程によって見出した私の発見はこの本で語られる内容をイメージできたので私としてはこの内容は「そうだった」とよみましたが

自己観察をする事を絶対やりなさいという訳じゃなく、必要としたらどんな働きがあるか、私なりの共感した部分であり、私の言葉よりこっちの方が的確かと思い資料として載せてみました

難しく表現されているのはまず置いておいて

二つの働きを区別できる一つの手段に「私達は安全で、急ぎ立てられていないと感じていれば、その身体的体験を伝えるための言葉を見つけることもできる」この部分です



そしてよく見ている自分自身がいて、急き立てようとするものから離れ落ち着くと

あの場では何が適切なことなのか、自分の立ち位置を変える事なく、必要なのになされなかった得られなかった援助によって今ある状態にまで自分を移行させたとちゃんと説明できるようになる

その物語は自分の姿勢から過去を語りますが、語られたものは編集できるんだと思う

私もそうでしたが、自分がこのときにしっかりしていなかったからよ!と自分を責め立てる

自分を責めることを止めていられないものです、しかしそれは解決方法に全く繋がっていなかったと諦めて明らかにすることで今の状況にあったものが見えてきます

これは自分と自分をちゃんと話合わせればすぐ分かる、そしてその物語から解放されるのは身体が示すのですがとても速い変化として表れます




周りが余りにも手を出しすぎるのはあまり良くないと感じたのは至る所で見受けられる

手を出したくなるもんなんでしょう

だからといって、そこに放っておくことではなく、先ほどのように細やかな配慮を要する

的確で段階にあった適切な援助は必要ではあります

ただ、改めて自分というものに光を当て、自分を語る言葉としてはあまり機能されていないので手こずるのです

しかしもともとある認識ですから言葉を使い話し始めると発端を見つけ、そこに「心情を吐露」するストーリーになりやすい

しかしその機能に二重になっている自分がいるのかも?と気づくと客観視したものがあり、その認識は客観性があり、そして完了するものということがあり

自己解決能力として出来たことは

他の滞っていたものも動く「気づいたらこれも出来た」

即ちその人の世界が丸く、美しい丸が広がるものと思いました

「動きが丸く、美しい円を描くよう・・」

この言葉を聞きそう身体は動かせると知ったとき、その動きは確かに滑らかな動きのため滞りなく動きます

空間の中で、小さな円であっても徐々に滑らかに大きくなる

妨げるのは自分自身であっても、それに気付き止めて、新しく小さな所から始めてみる

その小ささから生まれた円は美しく描かれていますから徐々に大きくなっていく発見は、見つけられる事を待っていた宝(エネルギー)があったということになります









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運命の人たち②

テーマ:
難しい表現や専門用語やら聞くと、以前はそれらを使いこなす為に勉強してからの位置から言う人には尊敬し

しかし自分が勉強することの必要から、その分野で覚えなさいとばかりに漢字の羅列が出てくると「うわぁ、意味分かんない、記号にしか見えない」でげんなりしつつ、そしてまた講義を聞きそういう事かと理解し、帰って「結局のところなんだっけ?」の積み重ねで理解が少しづつ進む

立つったら立つであり、解剖学なんていやーめんどくさいわぁ、でも今はその「立つ」という静止の状態でも色んな説明があり力学や体の中では何が起きているのか原因も予測も作られるほど色んな説明が出来る人には「立つ」という一言に色んな意味を自然と見出している

インストラクターとして養成に行き出すと解剖学や生理学やテストで出るから覚えなくてはいけない

今まで注目した事がない体の中の組織のことや運動する事で起きることをその状態を認識する

あるいは共有する為には名称を理解し使える言葉で発することが求められてきます、そしてまだよく分かっていないことも沢山あると思います←その局面にならないと気付けないため

しかし会員さんにはその専門用語を使わないようにとも言われます

大事な事だと思います

(専門用語で片付くことでもそれを噛み砕くには自分が本当に理解していないと出来ていない事かもしれない、他人に関心を持ち教えながら学ぶって有り難いことをさせてもらっています)

けど、覚えよう!と楽しくないのはその名称と自分の体験と共感するために「あ、これがそういうことか」という結ぶことに時間がかかります

もう大人になって勉強なんてしたくないと思ったのですが、結局専門性を身につけたければその専門の用語やその専門的な用語が生まれたその別な所の分野にまで飛んでいき難しい用語やら、あーもうっ!となり、なんで私記憶力ないんだろうと嘆いた

テストさえ乗り越えれば合格ですから、実技でもペパーテストでも合格ラインさえ超えれば認定されますからね

でも、どうも大人になってからの勉強ってそれじゃ済まなくて、コツをみつけたり、自分流ではあるが効率性があり今後その学びが始まった時からそこを離れても活かせるように

楽しむ工夫が見つかったときやる気が湧いて淡々とやっていました

別の機会に大人の勉強ってそういうもんだと見つけたとき「こんな自己流なんていけないのかな」と思っていましたが後押しされた感じになりました

(褒められることが目標になってしまわないように。褒めるは子供である時にまでです。援助する側が一貫性を持ちその後一人立ちし感情的な解決策に陥らないよう忍耐力を発揮出来る精神力を養うための期間中と分かって関係するなら別なのかもと私は区別しています、大人と子供の依存期間を私はどう扱うのか?自分が生徒側に立つときの立ち位置が明瞭になりました)





例えば私だと脳の働き神経科学的な働きでこうありこうですと説明される本や資料を見る機会になってきました

自分を解き明かし、研究する為には必要な分野として自然と身近になっていた

専門的に解き明かされ、専門的に研究されてきた分野からの客観性が私の足元を照らすためには不可欠となります、盲信はしてはいけないですがバランスを取るために自分が見つけた事に客観性を持たせるには専門分野の知識は事柄に変える事が出来る

私は

ただ単に楽に生きたい、人生を軽やかに羽ばたくようにいきたいそう言って精神的なことを扱う、紹介された所謂スピ業界に行き初めてセッションという聞きなれないことを受ける動機、理由を言ったことを覚えています

昔聞いていた弟が習っていた空手の師範の先生のような物腰や人柄を母から常に聞く子供の私、九年前かな?フェルデンクライスを習いだし初めて会った高齢のルーシー先生の立ち振る舞いを見て今まで知っている私の周りに居なかった先生と出会ってあーこうなりたい、こんな人に私はなれたらどんなに人生楽しいだろうそう思った

自分は小学生のころのタイムボックスに入れる為に書いた「将来の自分へ」という作文に周りの子達は無邪気に夢を楽しそうに書いていたが

私はどうしていますか?と投げかけることしかできなく、将来の夢は書けなくて好きな事が見つかっていますか?的な冷めた内容しか書けなく恥ずかしくて見せられず隠しましたが、今はそれだけ未来の展望が見られないひねくれ者だった

それでよしと出来たのは

「理想とイメージ化できる外部からの情報源」がないと具体的な自分への援助が出来ないと分かりました

この部分は具体的な例えがあるのですが、先ず今はそこは伏せておく事が賢明と思います、私のレッスンに来てくれている方には普通に伝えています

しかしですがこれを世の中でこの様な誰が見るとも分からないブログという場でその例えがそれを理解しようとする立ち位置の人達だからこそその例えはすぐ理解するヒントとして生きますが、そうでない人達にとっては難しくなってしまうのです

それは自分がその例えられたものに絶対なり得ないからです、見たらそうでしょ?なんですが簡単に私達には理解できる事で当たり前のことですが

その少しの例えで「あ、成る程〜」にいる人にはその体験をするためにある程度準備が備わっていてその寄生虫的なものを落としその時間にシフトチェンジする、体験目前が目の前にある人、寄生虫的なものか落ちかかっているそのタイミング(構築されかかっている幼児が言葉がある日突然発語されかかるように脳は動いている、そして意味ある言葉が適切に使うよう導く援助を必要とする段階)を待っている人でないと分からない

これは二次元から三次元が理解出来ない、と同じ性質の例えであるからです




アスリートの記録が塗り替えられたらその後また更に塗り変えられる、先行く人が現れたらその後の人達は容易に同じ段階に行く事は早く達成されます、これがこの世の理だと思います




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運命の人たち①

テーマ:
好きだったものが、実は・・・

私の中で以前トラウマと言われるものについて、自分の経験を書きました




お陰で、じゃありませんけど世の中で使われるトラウマという大雑把な表現に対して

語られるものと体の機能的なものとの区別がはっきりしています

なので、テレビで言うようにいつからなったのか「トラウマになるわぁ」という言葉の使い方はなんか違和感あるんですけど

私はそれは日常の障りなく過ごしている最中あるきっかけから突然身体表出され動転したけども、自分の中にある知識を選び自分でその事について取り組んだことがありました

それがどうして出来たのかは、トラウマによる精神的に病的な状態によって日常の生活を送れなくなった人達の生還の記録集を何気なくであっても事前に読んでたので自分自身に一体何が起きているのかわかり、自分の希望した終わらせ方までもイメージ出来るし自分にたまたま備わっていた知識がこういう時に使えると、本の中でそれに似た事で援助していたため

自分自身でサッサと終わらせる事が可能だ、となったのです

完璧に終わったことなのかは分かりませんが

一体このことで何がわかり、今後どうするか予測するものが現実的かな?と思ったとき、多分大丈夫でしょう

何故かといいますと、そのトラウマ(=自己解決する能力や見識がなくとどまったものと私は判断しています)が

好みの男性というものの基準を決めていた

「あ、あの人タイプだわ、ドキドキする」のそのドキドキする感覚がなんなのか理解する

関係が始まり何が起きていたのかも(現時点でそういう心ときめく方とお付き合いしていないのが良かったのかな?と思います)、客観視することとなりました

それでそのままでいいのか、とか今度こそ後悔したくないとかは一先ず此処では注目していません

今私が私に求められていることで、身体(この漢字でカラダと表すときは心と体の統一さとなります)でも、行動でもまず以下のこととしていますので日常常に気付くよう覚醒された意識状態でなければなりません

「これから行うことに対して努力感なく、意図をもたず、準備する事なく、見つけられた方向性に可逆性があり、流れるようで滑らかに、連動性(コーディネート)があり・・・」

特に可逆性という事が可能か?となると、身体感覚から離れることの重要性を理解しています

好きとか嫌いとか、テンションのアップダウンに惑わされず、ドキドキやモヤモヤ感なく、胸の締め付け感、手を握る顎を緊張させていないか、眉間に皺を寄せて一点凝視させていないか

自分の向かう方向に向けて突き進むことが破壊する方向に向かうことは本来しないのは「そちらでは無い」と何かしらの判断基準が備わっている

それは経験からの心情も記憶として脳の中に備わり、心情や感情が未成熟なものであり完了されないとパターン化された行動に気付いてもどう扱うか混乱し力を奪う

自由さや軽やかさがあれば、そのエネルギーは発散という一時凌ぎのことでは使われずにいることが可能ですから

私はこうだ、ということから離れる機会は

とてもありふれてあるけど、そこに留まり、全体の中での自分のこととなると、なかなか分かりづらいものだなと気付ける事柄となりました









種ばまかんと芽がでんとぞ⑤

テーマ:
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「そらちゃーん、これ食べる?」

リビングでのそらちゃんの写真です

あまり寝入っていない時はこの一言でパッと「反応」してしまいます

あげる気がこちらになくてもこの一言で反応してしまうので、これを言って起きてしまったら

そらのお腹事情関係なく食べ物を差し出すことになる

これで、そらは「これ食べる?」という言葉の後は食べ物が差し出されるというパターンを学んでしまった

・・・そらのお口に合わないものであれば、そっぽを向くというオチがありますけど






三十代半ば、奥歯の歯を治療した際虫歯の進行が激しく痛くなかったのですが歯は脆くなって一つ分機能しなくなり、銀の差し歯を勧められ入れていましたが

先日里芋を食べていたら、ボコッと取れてしまいました

結構持ったなぁと思いますが、あー私、これを学びたかったと踵を返すような感じで
今までは心の働きを習いながら見ていたことを止めて(この回で終わらせると決心していましたから自然と心ばかりを追うことを止めるよう、フェードアウトしていくことを選ぶ理由も見ていました)

フェルデンクライスの養成に初めて行った去年の夏

家に帰り日常に馴染むよう体がぎこちなく感じていたことを以前ブログにも書いたように、その差し歯辺りから膿が出て来て「この差し歯何時までもつんなか?」そう思っていた差し歯がとうとう抜けた

体験、経験に自分から積極的に「あーだったこうだった」と心情を加えないようにしてみるとしていますが

抜けた銀の差し歯を口から取り出し、指に挟んだ今まで見ることのなかった差し歯の全貌をみて、ほんの一瞬「悲しい」と思っていました、食事中でしたので母にそう言っていた私です

その後には右の奥歯の差し歯がなくなったと理解したら、右側の鼻が、右目の周りの解放感を感じていました

この差し歯を入れた時、どんな環境でどう生きていて、というものを振り返ると

その時は結婚していて

生活はその時の旦那さんとの溝を感じていて

同居していて

プールコーチの仕事を生き甲斐にして

人のやる事に批判して自分の方が正しい、世の中がおかしいと、システムに文句を言い小さな世界の中で生きていて

人との関わりが頻繁に来るメールの着信音で、よく不愉快だしと結構苛立っていたなと

(これはほんの一部です)

今こう述べていることは、その時は当たり前過ぎて思考にもならない「私の生き方の動機」であるためそこを精査して言葉を当てるためには

心の働きを見る時間は私にとって必要だったと思える

なので一旦自分は何者なのかと立ち止まることになった「自分の心の働きを観察する」作業自体、不要なことをしたとは全く思っていないのです

大事な過程の一歩を踏み、その結果が今なら十分な価値のある支出であり、有意義な時間を過ごしたと言えます

正直言いますとあの差し歯を入れた頃、未来に希望が持てないときでした、予測することは「本当にこれでいいのかな?」とやる事全てにえいっ!えいっ!とぶつかるか

もしくは自分の無力さのため無抵抗になり、無知に打ちのめされ

自分の中にはこの問題に対し、その後に結びつける意味ある時間を過ごす術がないことを知らしめるばかり

でもそれって一生懸命生きているという「つもり」でしょ?、そう言われようと、一生懸命でした

なんとか穏便に、なんとか夢が持てるように、この人と(旦那さん以外のその時関わる周りの人であってもです、私の博愛、平和主義の間違った方向性は)楽しい未来を築きたいと思っていても

自分の問題解決能力は乏しと見続けるばかりのため、疲れたと自分は思っていると知った時は、そんなことない!と反発するより自分に同意しました

後からは落第者の私と思いましたが、そう感じているんだと知ったことが大きな方向変換が始まったと思うのでもうギリギリだったんでしょう


(これは、以前ブログに書いたけど大きな卵に向かう前の私の一言で、その後卵を割ったイメージを作り出した共鳴経験での時のこと。あくまでも私の経験なんですけど。その翌日、朝起きて窓を開け外を見たら世の中が時の無い景色だけのような、知っている景色なのに全く一瞬だったけどね鮮明でピタっとした一コマのように、音もなくね、ゴーっという音もなく、建物やらあるけど何も動きを感じ無く、じーっとしていたら「なんだこりゃ!」って意識した瞬間、鳥のさえずりや地鳴りが聞こえ、時が進む感覚、思考が生まれ、この不思議な景色を見た経験は後に数年私を苦しめるのですが、あったことにより自分をよく知ろうと静かに決めた決め手になりました。それで心の働きと身体の働きを別にしないほうがいいと思った直感に従う結果になり、現実に生きることを生きるにはあの経験は経験であり、自分の人生を主体的に生きることとは、どういうことか?結果、自分を自分で育てる、自分の事は自分で面倒をみることは?という今に至ったのです。何故ならそれはもう通り過ぎたことであり、私にはあの様な再体験は未だなく、周りにはよく見るとその様な経験が自覚なくても自分の存在に過剰に価値を見出さずともこの時間のある中で上手く生きている人々が存在しているのです)





何気無い一言だったんだろうけど、あなたと私は違うのよと言われたんでしょう、確かにあの時はそう言ってくる人もいるかも知れないですが

「あなたって不幸ね」と言われ、「そうじゃない!」とも言い返すことさえ思いつかずにいたのは自分のことをそう見ていたのでしょう

まだ自分とは何でできているのか全く知らない時でしたが、この一言はある意味何かが動いたのだと思います

言ってくれてありがとうございます、なんて、思いませんけどね

多分忘れないでしょうけど、言われたことと共に居られる記憶があっても苦痛じゃないのでね

抜けた差し歯は、その一言を聞いていて

その延長に、この生き辛さを「なんかとか」解放されたくいろんなワークを受けいる時(自分自身に対し本当にご苦労さまと言えるほどやったけど)、その中の一つに「家族の座」というものに参加した経験があります、今でもあるか知らないですけど

その時、なんとなく自分自身に対し家族のその前の段階から自分は作られているとわかっていた為、そのネーミングで何かしらの答えがあるのでは無いかと期待していましたが、結果あまりのしんどさに二回で止めました

でもその経験で、今思うと「だから身体なんだ」と閃いたことがあります

心の状態で身体への影響力をメンバーを通し垣間見たことは今の学びにとても役に立つ体験としてあります

心のわだかまりが無くなるととても明るく朗らかに、座り方は自然になり

私も日常、心のわだかまりが聞き届けられ何かしら解消したら動きが軽くなる事を何度か経験をした(だからと言って、持続はなくまた問題を見つけているのは何故なんだと思いましたが、本当に心身整っている人は「心の姿勢」自体から違うんだ、だから矯正したり改善を必要としていないんだと理解する)

しかし、その当時の私には全体を見る余裕はなく、ただ答えを早く知りたいばかりでその変化を観察し自分自身を研究する余裕がなかったため「一つの時間を過ごした、苦い体験」としてしか記憶されなかったのですが

改めてあの体験を振り返ると貴重な事が沢山見せてもらい今、身体を扱う際活かしているんですね

でも、私は他人には勧めない。必要だと思う人が自分の責任で行ってねとしか言えないのでブログであまりそこに触れないのは何でもそうだけど精神的に関わるワークは絶賛して勧めない

このワークにて、他のメンバーは家系から自由になる様に指示される中で私もそう言われると待っていたら

「あなたの家系とその出来事と共に居なさい」と言われ、心の中で怒り狂い「どうして私の人生なのに!」と思った時もこの差し歯があり

その差し歯がすぽっと抜け

指に挟み、見ながら今までのことがどうだったかな?そう振り返ると

時間をかけただけあったな

よく調べてきたなと静かに根気よくやってこれたのも結果的に自分の中で蒔かれていた種には「粘り強くある」姿勢があったお陰であります

恨んだ家系の事もある時は自分を活かすため

若しくはこの時代には合わない理解出来ない慣習であると知り使わないように方向付ける

ただそれだけの事を凄く難しいしているのは私自身と理解しています

守破離の考え方です

何故なら依存的な存在だった私達には

大人の、社会の、親の、家系の培われたことが全てがどんな内容であっても、赤ちゃんはその大人の存在なくして生きられないからです

それは代えられない所だと思っています

どういう大人と関わったかにフォーカスしがちですが、そこばっかり見ても何も生まれないという経験もしたからです

不平不満に気づき、当たり散らし(多分やってしまうことで何かしら突破口になるのではと思うんです、けどやれば分かるけど惨めになるだけで周りは堕ちていき私には全く解決策にはなりませんでした)

子供じみた反抗的行動は、大人になりやってみると気が晴れるか?解決するのか?全くありませんでした

こういう経験後の体験に私に起きたことは徐脈低血圧になり、このままだと心不全になりますよ?と医者から言われたことでした






差し歯が抜けたことで、振り返ったことは決してこの先想像も出来ない恐ろしことに繋がると戸惑う事もなく、ある程度は予測可能であり、対処するものであり自分次第のことであり

「終わった」というお知らせなんだと思った

そう思っていいと思うんです

抜けたことでそう思うんですから

そらのように、反応してしまう「これ、食べる?」と言われても

私は「ちょっと見せて」と一呼吸おいて観察することなのか、いらないと近寄らないのか、危険を嗅ぎ分けるか、スマートに攻撃的行動をして無駄にバタバタしないか

判断することがどんどん早くなっていること、できることに気付くようになったのは、必要な家系からの何かしらを上手く「利用できる」ようになった事なんでしょう

蒔かれた種といえど、本来は私が自身に蒔いた種であり責任を持つことでそれらに反応しないようになるには時間は必要でしたが、ある程度終わったと思っています






種ば蒔かんと目がでんとぞ、おしまい




歯の治療、苦手ですが大事な歯ですからね、治す事ができることはサッサと医者に薬があるんだから治すように

しんどさに時間をかけないように







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久々のネットショッピングのネタです

サプリはお守りみたいな感じで取り入れているんです

今の所は硫黄成分のMSMとアセチルカルニチン、MSMでセルライトが出来にくいよう筋肉のケア、カルニチンでスタミナ

まぁまぁいい感じですので、特にMSMパウダーは使い勝手が幅広く重宝しています

このでかい容器に入っていても、洗顔、服用としていたら三本目になりました

MSMは硫黄成分ですが、MSMを知るきっかけになったロゼット洗顔パスタを使いはじめたとき

肌の調子に私にはとてもいいなぁと硫黄について調べてみたんです

そしたら、硫黄成分はコンドロイチン等含まれる関節周りの痛みに市販されるものに含まれると更に発揮すると知り

日本ではコラーゲンはお肌に良いとか言うけど、海外の人は肉食なんでコラーゲンには関心がなくそのコラーゲンを体内に残す為にMSMをせっせと取り入れるとか

硫黄成分は脳に良い働きがあるとかは、眉唾ものでそこは重点を置いていませんが

肌のプリプリに貢献し、尚且つ筋肉ケアに良いなら自己責任で取り続けはや二年

良い感じなんでまだ続けると思います

朝、これらの組み合わせにしてみたら浮腫みも取れるようで、私にはうってつけのものでした

そして、本当は痛み軽減が目的のようにあるクリームも結局のところ、肌=筋肉に良いと言うことで私はニベアのガッテン塗りではなくてMSMクリームのガッテン塗りです

元々肌が強いみたいなので化粧水はここ数年使わずいても平気な、個人的体質もあります

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大きいですが千円ちょっとです、惜しげなく使い、そしてちょっと筋肉痛になる程頑張ってしまった箇所にもガッツリ塗りこんでも減らない

効果もあるし重宝して何本使ったか

日本ではこの手のクリームは高いですね、Amazonとかはまだいいかと思うけど、その素晴らしい効能を謳っているものは同じなのに知名度がないので単価にビックリしました


このMSMパウダーは

硫黄の香りが気に入って洗顔のロゼットに麻炭パウダーに2μの水晶パウダー、そしてこのMSMパウダーを練り込んだ

私が作っているスペシャル洗顔とこのクリームで化粧品代はかなり使わなくなりました

(なんで若い頃は万単位で肌ケアに使ったか、周りのお姉さん達からこれが良いとかセットで買うことを説得されていました。それ程成人ニキビもあり気の毒がられていましたし、社会人になったら付き合う年代が幅広くなり知らない事だから仕方ないですけど。しかし、周りのおばあちゃんたちのお肌ケアを聞くとドクダミやヘチマ水や、ロゼットだけとかとてもシンプルだったのでそういうもんでいいと何処かマインドチェンジをしたんだと思います)

私にとって「自分の為に必要な出費なら惜しまない」と、使いたい所にガッツリ回して満足しています








昔というか、「この総合サプリはいいから!」と勧められて調べたら、効能を期待して買ったのにその効能を発揮する材料が日本では薬事法に引っかかる為に入っていないと分かり

その代わり日本で販売するのは、アシュワガンダの代わりに黒胡椒だっけ?入れているが効果は海外で製造した効能をそのまま使っていた

いい加減なもんだなぁと思ったことがきっかけに

もう自分で調べて買おうと決めてはやここまで来ました



いいから!と言われる、今思えばその根拠について聞いたかな?ですが

本人が言うには海外ではすっごく良いものだという、確かに当人には調子良いだろうから別にいいです、もうほかっとく(放っておく)

私にとって、その当時は個人輸入しても安く手に入る時代だった

サッサとアイハーブを利用することにしました

これいいから!と体調の不調に勧められたハーブも日本で買うと5千円近くしていたら、アイハーブで見たら千円ちょっとだった、こういうのがあると知る機会にはなったのでまぁいいか、としました

二、三回飲んでみて止めてもリバウドのようになかった為

もうそれは身体は必要としていないようなので飲む事はしていませんが、よく調べてみるという習慣は大事かな?と思います

なんとかせねば!と堅苦しいと出会わなかったなと思うことは多くあり、そういう時は気づかないのでしょうね

だから目的外のことに注目して他の事で賄おうとしたり、私の依存的傾向に拍車がかかり権威的なものに頼ってしまう

使うのは私で、効果の恩恵を感じるのは私の身体であり、いつまで必要かも決めるのは私以外いないともっとしっかりしていればと振り返る

これからは一体何を私自身は言いたいのか腰を据えて自分に耳を傾ける(言葉でさえあてにはならないけどね)

しかし、それはそれで必要な時期であり、そう過ごしてきたものが根強くあるから(誰しもそうして成長してきた為、習慣として根強くということね、そこから自分の価値観が見えたとき新しく構築する時期に入っていく)

それはその時は感情が先走り、それに見合った身体表出するものを見ていることは焦ることだったりもするし、冷静ではいられなく、冷静だと自分は言うが実は全くそうでは無い(姿勢を観察していれば違いは分かります)

普段過ぎ、見過ごされやすく気付くことは簡単ではなかった

そういう時の関係性では「外に出てみるという決断、外の世界で試してみる」願望と拮抗する気持ちが、どうしてこうもあるのか、ただ楽に行動するには未熟としても必然としてあるもんなんだと知る




昔、私はある所で組織を抜け再会したとき先生から大ブーイングをメンバーと共に受けた時、驚いた

卒業おめでとうと言われるもんだと思っていた為ですが、そうじゃなくって!とヒステリーに言い立てる人たち、傍観する人たち、ぱっくりと別れたその場の表情の幾つか

言われていても妙に冷静にいたのは、やっぱこのメンバーと離れたんだと思いました

この経験によって(依存について概念を学ぶことを共有していたのですが、それは悪いことと括るだけで結局その渦中から逃れられず口だけだったんだと)

依存性が本来どのように利用されるといいか、知るきっかけになりました、利用するものであり、そういう環境である事のメリットもあり、ここは進行係となっている立場のものがどういう心構えでいればその後自然な関係性を保てるか考えさせられる機会でもありました

それをクリアーにするために必要な時間だったのは、自覚なく私にも燻って持っていることからの新たな物の捉え方と比べることになります

褒められることの弊害にハッとして気づいたことがありました

褒めて伸ばすとは言いますが、これはちょっとよく考えて使おうと決める程なのであまり効果的ではないと認識しています

こういう仕事柄、よく褒めて下さるし、いいよと言われます、自分も挨拶代わりにしていたのですから深い意味はなかったのですが、本心からありがとう、なんとかしたいと思う時は違う言動、行動をしている自分自身がいました

しかし、気付くことでその後は随分と混乱し、私なりに十分傷つくこともありました

それで「自分は自分を褒める必要もない、励まされることも必要としていません」と言えるまでに自分というものを観察し続けた習慣からの十分過ぎる対価なのかと思っています




その大ブーイングのグループと離れることを決めたのは、ある旅立とうとする生徒の(大人気ないですが)態度に対応できないため狼狽える反応をし、それを見て「このグループにいてもその先はない」とここから出て行く方向変換を静かに決めた自分の感じたことはそれなりに的を得ていたと思います

その経緯と再会の時の異様さからもう関係はありませんが、それはその後私にはそのままにしてい続けることでは

私自身の先が無いと思い、違う所で今思うと「学びなおし」をしに来いったんだと自覚が今あります

そんなこんなで、今依存ということにある程度の考えでは、依存は程よくあれば悪くはない

しかし満たしたいものが満たされていないと葛藤する、まだまだだと思う自分と外に出たいとなぜか思う「外で試したい」と望むことが本来の欲求なのかもとおもいました

とても自分の中で納得するものもなく、でも先いくのは私自身の力でやらないといけない、大人になろうとする機能が目覚めると「こういう時、その後生徒と先生ではなく共に過ごした仲間として付き合う関係を望む」という自己主張に翻弄されましたが

それでいいよね

その人、その組織では私は所詮通りすがりの者でいいし、(関係が)終われば全く会わない、わざわざ重い腰を上げるように予定を立てることもない

そして本当にすれ違いもし無い

これは離婚経験のある私の中で地元にもかかわらず元旦那やその家族に一切すれ違わないと気づいたときそういうもんなんだと知りました

私は一応教える側の立場であるという自覚と、教えられ立場がその後どう在るものに変化するか

知識だけでもよく分かっているとよかったなと、仲間でも、仕事上でもサラーっと育まれた気楽な関係性の構築を私自身が理解していればよかったなと思います

そもそもその後の自然さが何か知らなかったのでしょう、そのため振り切るようなことが沢山あり結局は乱暴な振る舞いの後悔やら自分自身を傷つけてしまうものかと見ています

そういう時こそ、逆に堅苦しい時に出会ったものは「一体本当は何を満たしたいのか?」と見ていられる余裕があるとよかったな?そう思います

その後どうあることがお互いのためなのか見通しの元は明確に持つ必要性を受け入れました





「先生、何のサプリとってる?」

よく聞かれて、絶対これが良いとは言わないけど

私の経験と体質とライフスタイル等私にとっては良い感じなものですが、そう前置きして

残念だけど、同じ効果は期待できないかも知れんよと言います

もしかしたら必要なタイミングだったかも知れない

良いとか思ったら自然に選んで試して観察すればいいし、無理強いしないように

あと仲間だから、と自分の振る舞いを統制できない、子供のように振る舞うことは私はしないようにしています、効くかどうかは自分自身で感じたことが間違いないですねと付け加えます

効いたらラッキーやったねぐらいの気楽さでね

そこまで、無駄のようなフォローをするのはそこには「許される」という子供のような無邪気さが可愛らしいとかで、無責任というものを居座らせないよう自分に言います

それは相手にとって考えた行為なっているか、そして「気にしない」

どう決めるか相手がすることや、と

ただ、お互いその後は軽くいられるよう

こっちがいいなぁとか

これはいいなぁとふっと、静かにお互いいられるように、負担にならないしそうできるよう心がけることに心配ると関わりが楽しくなりました







因みに、同じMSMでもこのマークが入ったものは服用しても問題ないです

MSM、調べると結構面白いよ


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種ば蒔かんと芽がでんとぞ④

テーマ:
何かを習得することは自然なことだと思うんです

フェルデンクライスのキャッチフレーズのように「学びかたを学ぶ」とか言うけど、私が今感じているのは逆なのか、何を学んでいるのか見届けています

今までは学んでいたと言葉で表していたものは、訓練と言われるものなんだ

私がいう学んだというものは、どうも、一方方向で応用はないバカのひとつ覚えと言われる訓練というのも知らず知らずこれも学びとして含んでしまっているのだと学ぶ

まだ数年あるから、今の気付くことやら認識したり新たな発見が見出されてもこれが答えとしないよう、無理強いせず楽に動き続けていいかと思っている

理屈なくスッと選んだものが、拓くきっかけとなっているからです

以前記事にも書いたけど、本来人は進化し成長し続ける存在なんだと

数年前に読んだ「パワーか、フォースか」にありましたから、概念では知っていた

そして今「成熟した状態」の概念が知識として入った





ただどういう状態か今ひとつよくわからない、実社会でどういう状態であればそうなのかよくわからないのは

感情に巻き込まれていたところだったから、なんとかわかろうと、無理くり自分の仕方を強要していたんだと理解する

(環境を変えることはほんの小さなことでもやり続けると、分かるとおもいますが、居心地がわるい、空気を、違和感を感じるなどあっても徐々に環境に馴染むよう自分をその環境に合うよう自分を操作するし、耐えられずバン!と行動し離れるかそれが当然と決めるかわからなくとも何となく自然と離れる、離れると見える、理由も自己認識の範囲で分かる)

すぐ見届けられない、あまりにも習慣的で認識さえされないものがあり、それに頭で認識するのはほぼ不可能に近いですがそれらが寄生虫的な故だと思いました

新しいことをはじめるには、今言えることはかなりの決意がないと「いつも通り」を選択してしまう働きが機能として存在している人というものだからです

しかし、人はそこを超えることができるものであり、動物ではないということ、知性を育むことができる存在なんだと再認識が必要だと思います

困難にぶつかり、それをサラリと解決する振る舞い方を持っていないので抵抗を感じて、子供じみた態度で癇癪をおこしたり、やらなくてはいけないと思いながら「努力感なくできる振る舞い方」が構築されていないため無理といい、無気力になり創造できない

しかし、人は進化するもので、変化することを自分に常に言います、周りにもそれがあり、それが全体にあるもので常に同じはヘンだよと

ただ、あまりにも繰り返すことで習慣となり、観察する力もなく反射的に起きる行動に支配され「私ってこうなんだよねー」「病気だから、年齢が、性別が、生育環境が、親が家系が等」ありとあらゆる事が原因として一体なにがはじまってしまっているか気づくことなくいたものが、まさに初めて無言のザ・私、を見た感じでした

悪い癖というのは私の寄生虫的なところがいっぱいありました、それを見ていました(見ているだけです、まずはいじらない)




身体に無意識であっても備わる屈曲と言われる動作が何を意図しているのか

理解するよう進んでいく

そして今後どうするか選択肢が生まれているのは、やらないということも含まれています、本来のスムーズな使い方を模索するようになりました





アスリートやら、職人がパフォーマンスが一流と見て取れるのは目的がはっきりしている

記録を、得点を、クオリティを、機能美、アートを求めている

発揮するときは決められているのでその時に最善な状態にしなくてはいけない、練習中に怪我をしている訳にもいけない、練習で上手くできたことが本番でできることは当たり前でなくてはならないし、さらに伸びることは可能かどうか自分に問いながらいる

そういう人たちは自分はこうだからこうする、ではない世界にいる

ただ、ただ

動く際に起きる余計に寄生虫的に働く動きや部分に気付くよう集中して、それを落として、捨てて、可能性や効率を高めていく

その為に必要なことならどんどん試す、いわゆる試行錯誤する、吸収することに恐れがないのは目的がはっきりしているから

「頭が柔らかい」

はっきりと行く場所を見据えているのだと思えてきた





目と腰の関係性(目が潜水艦のソナーで腰がパワーポイントとして使う、概ねその逆にしがちですが)が

フッとレッスン中に動きとして「あっ」と感じ取れたとき、日常にも違う動きとして生まれた時にバラバラにしていく事の意図が理解できた、そして周りにはコツを伝えだしていた

ただし、それは私が見た世界でありこれがいいとかあれがダメとかしないで欲しいとは思っています

無理やりやらないことは条件として提示しても、やってしまう人はいるがそれも捨てられる事だから今までのことと、これからどうするかは本人が決める事と見守る、お互いいい大人なんだしね、カタチを求めるか応用の利くクオリティを求めるかはその人の生育環境で何をよしとしたかあるだろう

でも、楽に動こうとすることが絶対にいいわけではなく、いかに自分はこの身体をうごかしているのかな?ということに「私が」そうやっているから、その視点での提供が生まれただけです

なるだけ自分自身に無理強いはしないようにとだけ伝えている事の気楽さがいつの間にかレッスン中のリードもどんどん変えていました

「攻撃的な動きと暴力的な動きの違い」が区別されると、人は攻撃的なものだというのがわかってくる

自分を(結果、周りにも)乱暴に扱わないようにすることが育まれます





頭と骨盤の関係性だけでなく、なにかにも気づきだしたことで

偶然にできたようでも、楽しいから何度も繰り返す、飽きずに何度もやれるとは疲れないからです、それは速く繰り返すことでもゆっくりでもです(疲労ってね同じ動作を繰り返すことが出来なくなって生まれるんです)

赤ちゃんが分化しながら、徐々に組織だった使い方を構築したように、組織だったこととはどういうことかある程度の前知識があったから

これだ、これなんだと見つけた時に嬉しかったです(これは遠慮気味ですね、ふわりと、パーっと何かがひらけた感じで自分に感動しました)

私はヨガやピラティスや体操やストレッチではなく、フェルデンクライスを選んだのは、元々九年前に体験したから、訳わからずもその時のレッスンの体験が静かに入り込んでいたから、そこを基準にしていたから当然と言えば当然で、遠回りをして戻ってきたんだと納得する

あの当時、訳も分からないながら、自分に必要な事としてフェルデンクライスを受けながら、仕事ではアクアビクスのあのゆっくりと動いたレッスン後ガチガチになっていたのが、フェルデンを受けだしたら動く最中に楽しんでいた自分を発見した

でも、その当時の指導者から学び続けることを辞めた

その理由になることは自分が誘発したかことでありますし、なぜそうしたかの(自分自身にも、その当時の指導者がやる行為に耐えられないと判断したことも)行為よりどんな働きが自分に起きたか理解が今はあります

人とは、そういうもんなんだという理解がある

今こう居られるのも、客観性を備えるためにはある程度の知識を連動させながら全体を俯瞰する力は自分の中に少しづつ育てていく必要が私自身に私が求めたことだからです





無意識にしている姿勢、身体の休息の仕方(多少の活動はあっても、くつろぎ方など)、積極的に行為しているとき

人は攻撃しながら生きて、成熟した様に向かっていくのは自分を自分で育てる方向性へと切り替わる

赤ちゃん、幼年期、と過ごしながらそこは必然的に依存的な存在でスタートした私たちは、ある所から訓練ではなく創造する存在に自分に向かわせるものなのかな?それを命ある限りこの身体が死ぬまで続けられる、そう思っている所ですが、それを楽しめるようにい続けられることは不可能ではないんじゃないかな?と

可能性にする工夫ができるには

その為に学び直すこと、必要が無くなったもの、捨てていくこと、シンプルになっていくことが可能なんだと今のところ思い行為している所です

学びは本来、可能性が広がるものであるんだ(自然と笑みが起きるようになっていること、快適さがあること、達成することは努力根性じゃないということ、これは認めにくいでしょうが私もそれは能天気バカだと思っていましたが、違ったんです。だからそれを私が私に求めないように決めたのです)、だから今学んでいることが楽しめているから、ちょっとは成果が上がっているのかと思います

もうそろそろ46歳になる私ですが、この年でもうちょっとフェルデンクライスで楽しもうと、飽きるまでね、そういうのあるっていいなぁと赤ちゃんだった私は知っていたのだろうか?


種ば蒔かんと芽がでんとぞ③

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先の記事であげた写真にある布団を丸めたものは、いろいろな使い方があるのですが

私は股関節や骨盤の動きに鈍いことを知り身体全体に意識をむけながら苦手な所からどう影響するのか見る時に使います

銀のマットの上で横寝になり、両脚の間に入れて天井方向にある片方の脚全部のっけて、もし頭と床の距離を感じるなら(快適さを感じられないなら)頭と床の間に枕を入れます

抱き枕を抱えたような状態になるのですが

快適さがあるか無いかでいいですが、何を基準としてこの姿勢をするかと言いますと


「椅子に座っている状態」


これを再現しているんですね

だから横寝の姿勢を背中側から見たら、骨盤から背骨、頭蓋まで線がだいたい直線で引ける感じ、でも感じているのが心地よく無ければ枕や脚に挟んでいるのは微調整していきます




脚は軽く開き椅子の前側でスッと腰を落とし前方を見ている感じをそのまま、横寝でするのです

重力のある中、椅子に座っていることでさえしんどい人も居るかもしれませんよね

私も段々と前かがみになり易く、腹筋や胸は前に縮み、首は引っ張られ、腰は倒れこみと、まぁ色々と身体は始めます

身体の感覚が鋭くなり、今までこんなことしてたんだと観察出来るよう、良い意味で敏感になると

じゃ、何が一体良いのかと混乱するのは、今分かる範囲であっても楽に座っている状態を「体験、自己体験」が備わったからですね

他所から見ればあれこれ指摘があろうと、ということに基準を持たず

シンプルに自分の感じでいいですよ、その新しい体験は今まで無いものだから観察することで気づける範囲で構わない




床の上に寝るというのは、床につく身体の部分が多いと無駄に筋力を使わないようにできるんですね

その状態を横寝で再現するのです




何かが始まれば、何かが生まれ

顎やら肩やら、細かいものが不快として(身体の感覚でやってること)ありますけど、それはいいんです、重要ではない

それよりも完成に至る過程が分かるように、質をみたり、行って帰ってが滑らかにできる道のりになるよう小さなステップをよく見てね

床についている辺りは?、足は天井方向の肩や、もうぜーんぶ

最小限の力で、速くなっても遅くても途中で止まっても楽で同じ質だったかな?と観察しています

先週、後から思えばエアロビクスで跳ねて着地に失敗し思いっきり足首を捻ってみましたが

あの時、他の部分が瞬間的に共同したのを感じました、そして何事もなく一週間が過ぎて

身体が勝手に自然と大事にならないよう働いたと

ちょっと進歩したのかも、事なきを得たことにホッとしました




今回、冬のフェルデンクライスの養成に行く前

ある知人の投稿写真を見て

うわ!キモ!

パッと思考し、「それ、私の悪い癖だよ」という明瞭な言葉が生まれました

それは、うわ!キモ!という頭の中に浮かんだ言葉を包み込みました

悪い癖だよって、もしかしたら知らずに癖だから気付くことが出来ずにいた事に注目してみようか

自然に思っていました

なのでフェルデンクライスの2度目の養成では、積極的に自分の悪い癖を見ようとテーマを持って過ごしました

でもなんで、うわ!キモ!なんだろう、何を見てそう思ったのか今ひとつモヤっとしていましたが

私の悪い癖だと認識していたこと、投稿写真の様子

そして新たに手にした資料(フェルデンクライス関係のものですが、教えて貰わなかったら縁はなかった)を、ちょっと難しく普通の読み方じゃない方法を使いこの3週間、どっぷりその資料と元々手にしていた本の内容の、どことなく今ひとつ理解出来なかった言い回しなどが

スーッと理解して読めるようになった

成熟した状態に向かうこと

あ!これかぁと思いました






なので、投稿写真に対して感じたことも

あながちいい線ついていました

そして、私自身も子供じみた判断基準で養成中「出来ない!出来ない!」とやる前からイヤイヤという未熟な反応を意識化する自分に驚いた

「成熟した状態って?」

こんな発想は初めて提示されたと思いました

もしかしたらあったかもしれないけど、今まで気づけなく

やっとそこに来たのでしょう





結構楽しんでますけどね

種ば蒔かんと芽がでんとぞ②

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毎朝、仕事行く前にこの銀マットの上で寝っ転がること30分前後

イントラになる前の養成生のときで既に故障した

イントラデビューはアクアビクスからなんですが

アクアビクスの指導が出来るように、今まで先生がプールサイドで踊るのを「見て」プールの中で水抵抗を利用していた参加者だった私が、水の中の動きを陸でやるために養成中に故障しました

どうしてもイントラになりたかったし、これを仕事に今選ばないと一生後悔して、とあの時は選んだのですが

選んだら足首が痛い、靴底を何万も出したり、加圧ベルト買ってトレーニングしたり、そりゃもう何でもやった、その中で出会ったフェルデンクライスが最後に残ったのはなんでだろ?

出来るようになりたいと思ってここにいるのに、身体がついていかない、痛くて動けないしね、どんどん課題が出されるのにと

元より私は壊れていたんだなぁと、壊れる身体を知るために、ますます壊すように身体を壊す仕事を選んだようなものですが

イントラとなって尿路結石を患い、未だ身体の中にありますよ、そして徐脈低血圧でゼイゼイ言いなが仕事したり

これも元々そういう病理になりやすい傾向を強調した結果(食べ方や思考傾向や遺伝的な資質や体質やら)、そうなって初めて

そうなる事を見て選ばないという選択をするようになります

それを新しく構築するには?と試行錯誤しなが新しく作ったライフスタイルは十年前、多分若い頃より充実しなが生きられるようになっているため

なんで、あんなに疲れていたんだろうと初めて知る、疲れていたと自覚がないのでその時はそう思わなかったのですが

でも自分がやりたい事は、本当にそれだけの為にやってはいないと理解し始めます




ウェーバーフェフイナーの法則というものがあります

静かならその静けさと同じく、その強さと相対的に刺激は伝わるってことですが

感じることを、感受性を高めたければ?

あのフェルデンクライスの養成中、何をやったか、何を学んだか思い返しながら復習する時間は私も同じく静けさの中にいると

あ、こんなことやったなぁと記憶から取り出せました




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その為に、工夫する

そらちゃんのお布団を拝借して、股関節を感じてこれからまた仕事に行きます


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学んだことを自分のために利用することで、蓋が外れて出てきたものは、違うやり方を見つけ、自分に「選択肢を与える」

これが自由なんだなぁと、生きるサバイバル能力を育てることの一つを私は見つけたと

あの時イントラを選んだ自分と共存しています
年明け、早速養成行ってたよ(また春に行きますけどね)

楽しかったねー、いろんな意味で

今回はオーガナイザーの先生にも「私は今回テーマを持って来ているものですから」そう宣言していましたからね

出来るだけテーマを軸にして、私がどう認識するか、どう活かすかアイデアまで繋げられるか

多分、前回よりも頭フル回転状態でしたが意外と迷路には入らず「なるほど、なるほどね」とまず受け入れて流しました

う??と思うようなことは傍に置いといてね

だからか、余裕だったと思いました





前回は初めてでしたからね、今回は二回目でしょ?一回やれば二度目は小さなつまずきにも直ぐ気付く

つまずき、失敗は小さな内に気付くこと

早い気付きは修正効くし

変化も早いし

大きな失敗、例えば体として考えます、病気や怪我としましょう

それらは小さな失敗の集大成だと認識したら「このまま知らんぷりにしちゃあかんわね」と素早く対応出来る、もしくは観察しましょう時間はたっぷりある

止まる事もフェルデンを通して大切な事と知りましたから

(身体は止まっているように周りには見えても、中では止まっている筋肉の別なところにある他の筋肉が向かうべき位置に動くんだよ、その感覚はとても心地よいよ)





久々に再会した養成仲間

他人の事なのによく見ていらっしゃる

「まりさん、後半壊れてたものね(笑)」

「そうそう!前半の勢いからどんどんとねー」

自覚あるある

「久々にまりさんに会って、誰か分からなかったよ、どちらさんですか?と思ったよー(笑)」

あら、そうですか、どう言う意味ですかね?そこは突っ込むところじゃないでしょうから、雑談の中ですし

私も皆んな変わったのは何故?と思ったけど

頑張ってたんだよ、私は

インストラクターとして、45歳の女として、ここに来ることはとても待ち遠しくやっとたどり着いたからには・・・

そう思っていたんだ、そう後から無意識のハイテンションにそうとも知らずいたと一度目の養成から二度目の養成で仲間との雑談で自分を分析していました

前回の養成で、後半は全く動くことは出来なくなり、日常も二ヶ月ほどは気持ちが緩慢としていたのがサクサクと喋りだしたなぁと思ったのはもう年が終わろうとしていた11月辺りからでした

「もう、私はうざくたっていいじゃない」

ドラマの逃げ恥見ていて←こういうのもありでしょう楽しめたよ、小賢しいやつと言われた主人公がへこんだ時に思わずなのか

自分と当てはめてました

心の働きも知りたいと京都に通い、結果自分の方向性が見えてそれに従い今フェルデンクライスの養成に行き

そこから見えている事を提案してみても、いいと言われるし早く進めとも言われる

自分がはっきりとノーという事や、寛ぐことを優先することを譲らないという事は少なからずの葛藤が生まれるのは「皆んなとは違う世界を見ている事に進もう」とすると仕方ないのかなという感じでしょうか

きっとイントラとしては、こういうのはうざいんだろうなぁと心の何処かで確かめている、確かめつつ私は今生まれた方向性を明瞭にする

そんな時に見ていたドラマの主人公の行動は、共感する部分があったのかへこむ様子に

小賢しくたっていいじゃない

ならばこの際、私は極めたれ!と

逆手に取ったら何が起きるのか見てみるのも悪くないと吹っ切れた時でした、もう既に小出しでそうしていましたからゴーサインは既にしていました

意図的に意識化していく事に躊躇していただけでした

勝手なセルフイメージでも、それを才能に変えるのもいいんじゃないかい?軽く、楽に、ゲームのように楽しむ(意外と問題ありませんでした)





今回は何が起きるのか結構冷静に努めてました

いいとか悪とかはまず決めつけず、私には種がまかれているなぁ、そう思う事として認識する事が出来ていたのも「客観視」を努めていることを忘れていなかった為だと思う

覆い隠しても在るもの、出すべき価値観や認識だから

じゃ、それを今後どうするか?活かすか、発展させるにはどう扱うか、その認識や古い価値観の方向性は、私の今はどう予測するか

思い切って「古い価値観」として寄生虫的なものだなと見届けてみたり

自動的に働く感情はなんなのか、沢山のものを見ていました

小賢しい私でもOKよですからね(咲かせていない種を咲かせる)、何も心配はないから咲かせること、種から生まれるものを容認する

すると

一旦冬の養成が終わり自宅に帰り

あれ?とこの数日で気付いたのは

「もっと効率が良いこと」を自然と体からの動作なり姿勢を変えていたこと

変えたと気づき、後から「こっちのほうが効率的だ」と「明確なる認識」が思考したからでした

例えば自主学習として参加していないセグメントの音声を書き起こしを一昨日していた時

工夫していたのです、書き起こし作業自体は同じでパソコンからの音声をiPodに録音し直してからノートに書くのですが

はっきり言って面倒くさい作業です

しかし私には大事な作業として始め、その効果を実感しているから今更止めようなんて思っていない

私にとってまだ続けるべき作業ですが

「私には面倒くさくてもコレをしなくてはならない作業」から

「私にはコレはしなくちゃいけないが楽に出来る楽しい作業」となるように姿勢や作業方法が効率よく出来る新たなアイデアでサクサクやっていたのです

あれ?と気付いたのは

なんで今までこのやり方でやっていなかったの?と意識化されたからでした

ウザさを解放したら、ウザくなくなってる

そう認識する事が帰ってから、書き起こし作業の他に沢山ありました

「そういえば今までこうしていたのに、やる事は同じだがやり方が変わってる」と気付けた事でした




ちょっと長くなりましたが

今回の養成中のエピソードで「覚醒」という事について、私の認識を雑談の中に提供しました

私は覚醒というカテゴリーが本来ならどうなのかは

はっきり言って間違いなく私に備わっているとか、普遍的意味はこうこう、こういう状態になるとですと明瞭な知識も体験も他者からの同意も持っていないんだけど

ただ言えることは、頭の中じゃ幾らでもあり得るがそれが行動にともわないなら思考遊びじゃない?という見解なんですね

これはフェルデンクライスの養成に行く前にお世話になった京都での四年近くの時間が、そこで過ごしながら日常での無意識に発動する自我と共存することで

私のような凡夫でも、気付きと言うものは存在すると気付いた時からです

しかしながら、じゃどうするかと葛藤する

心にフォーカスしたらする程沢山、小さな葛藤は多くあると分かりはじめました

習慣がそこに存在していると初めて知ったのです

その習慣を変えることを小さくできるよう、京都での四年近くの歳月にお金もかけたけどそれ以上私に手を貸してくれたから今ここにいるのですが

「覚醒」て?改めて話題に出たので、まずどう定義しているのか

フェルデンクライスならどうなのか

ちゃんとあったよ



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『覚醒した意識の出現は進化の歴史上でまだ新しい事件だから、個人によってその程度はいちじるしく異なり、その他の能力の相対的配分にくらべると、そのちがいははるかに大きい。さらにまた、各人の覚醒した意識と、人格の他の側面にたいしてそれがもつ価値には、大きな周期的変化が生ずる。ときには覚醒した意識が瞬間的にあるいは一時的に消滅する低落期が訪れるだろう。またきわめてまれであるが、すべての能力がひとつの全体に融合して、ちょうわのとれた統一体となる高揚期が訪れるときもあるだろう。

ー略ー

このように、覚醒した意識が、感情、感覚、運動、思考とひとつになることができたときには

ー略ー

すると発見が、創造が、革新が、そして「悟り」が可能になる。おのれの小さな世界とまわりの大きな世界がひとつのものにほかならず、この統一のなかで、もはや自分が独りではないことを体得するのである。(フェルデンクライス身体訓練法)』

・・・だね、と読んでいました

だからまだ覚醒について説明が明確に出来なくても、私は分からないでいいとしました

いずれ分かるからです、もうあるのか、もしかしたら明日か、一年先か

でも、フェルデンクライスの考え方にはそうありますし、急いで分かろうとしなくていいし

分からないと生きていけない!みたいに真剣になり過ぎないようにと言葉をかけますからそれに習おう思います

ただ、覚醒については、ひとりぼっちで済むことじゃないんじゃないかな?生きる、それも新しく生きることの楽しさ、喜び、周りとの調和や全く新しい創造が生まれるのでは?という認識です

京都での四年過ごした考え方とフェルデンクライスの考え方に幾つか親和性があり、だからかな?私の中ではとてもフェルデンを楽しめているんですね

この本を手にしたときは八年前かな?フェルデンクライスを初めて受けて、本読めー本読めー言われて買ったものの

ちんぷんかんぷんでした

何言ってるの?でした

今、この本が私の教科書です

教科書に覚醒についても書いてあった、そう見つけたとき

私はずーっとこの本の中で過ごしていたのかと驚く





先日この本の中のレッスンを皆んなに披露しました、ノートに絵をいっぱい書いて言葉も書いて動く様子をイメージして、自身の体で実際に動いて

養成中過ごしたマンションに篭って、どこにも遊びに行かず課題にどっぷりしていたら二週間の養成はあっという間でした

とても簡単なのを選んだ筈なのにどんどん深みにはまっていましたが、選んだレッスンの意図を理解しようとしていたからこその疑問符が

結果、先生からのフィードバックを得、そのやり取りで多く理解を得ました

次回、春の養成ではこれを読んで今度仲間とディスカッションしてプレゼンをするんだよ

こんなご縁になるとは



そして

これ凄く今のお気に入りの言葉ですが

先生に教えて貰った、私が今回一番印象に残り思わず身体を動かしたくなった言葉です

discover

「ふたを外す」を発見=discoverですって

discover‼︎

さぁdiscover‼︎しようよ‼︎

ヒュー🎶

前の記事の続きは後程書くよ、私の悪い癖から何を得たかそれをどうしたか

種を刈り取る作業は決して拷問じゃないよ!って思いました、だから今回養成中バンバン咲かせました

興味があったらご覧下さい

今回のは養成後の独白、世間話でした

お終い