ここで、そこで、いろんなところで

日々の生活の中で想う、エッセイ未満のことたち


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納涼ビール電車


このベタなネーミングは、私が考えたんじゃなくて、ずっと前からあるのだ。


私が住んでいる街には市電が走っていて、この季節になると、夕方「ビール電車」が走る。


私はこの土地に来てから「ビール電車」の存在を知ったので、ここだけのものかと思ったら、市電のある地域では、結構あるみたい。


調べたら、長崎や鹿児島や、江ノ電までやっているらしい。


私は電車好き、ビール好きだから、この電車にはものすご~く魅力を感じている。


だって、動く車窓を見ながらビールが飲めるんだよ~!

納涼屋形船の電車版だと思えば素敵でしょ?


以前、東京の恵比寿に、客車を改造したビアホールがあって、私はよく行ったのだ。

ただし、これは動かないので、窓の外に見える山手線を電車が通過するたびに、自分が動いているような錯覚に陥るという仕掛けだったんだけど、それでも好きで、よく通っていた。


なので、毎年この季節になると、友人にお誘いの声をかけるのだけれど、みんなイマイチテンションが低い。


まず、完全予約制で、時間きっちりに発車してしまうので、絶対にその時間に遅れることが出来ないのだ。


そして、このあたりは自家用車が普及している地域なので、自動車通勤の人が多く、仕事帰りにお酒を飲めないパターンが多い。

特に女性は、飲んだら絶対に乗らない人が多い。(あ、男性でもそうです、すみません・・・)


「だって、ビールばっかり飲むんでしょ?つまらないじゃない?」

と、オンナ友達には大抵断られてしまう。

やっぱり女性は、ビールよりも食べ物が充実していないとだめみたい・・。


ならばと、男友達を誘うと

「おまえ、そこまでしてビールが飲みたいのかよ?」

と、ものすごく冷ややかな視線で断られた。

まるで私が酒乱みたいじゃないのよ。


東京の友人たちにビール電車の話をすると、すこぶる評判がよくて、

「絶対に乗りたい!」

と言ってくれるんだけど、なかなかスケジュールが合わない。


そんな私を気の毒に思った心優しい友人が

「おもしろそうじゃない?付き合うよ」

と言ってくれたんだけど、その人、基本的にお酒が飲めない。

それじゃあ、かわいそうだし・・。


ということで、毎年この時期になると、「ビール電車に乗りたい」とぼやいているのだけれど、一度ビール電車に乗ったことがある、という男性とお会いしたことがあった。


その人は、ビール電車で合コンをやったそうだ。

でも不評だったらしい。


ビール飲み放題、所要時間は1時間半で、ある停留所との往復だ。

その間、トイレ休憩が一度しかない。

女性は男性ほど、あんまりたくさんビールを飲めないのと、トイレ休憩が1度しかないので、それを考えると、飲むのを躊躇してしまい、女性はあまり飲まなくて、盛り上がりに欠けたそうだ。


う~ん、体調管理も大切だなあ・・。


ビール電車に乗ったことはないのだけれど、何度かビール電車に遭遇したことはある。


ものすごく暑い日の夜だった。

停留所で電車を待っていたら、その電車が通過したのだ。

冷房のため締め切った車内から、音程のはずれたカラオケの音とともに、ものすごいビールのにおいが漏れ出していた。

周りの空気を一変させながら、その電車はビールのにおいとともに走り去っていった。


いいなあ・・・。

今年こそ、乗りたい・・・・。


どなたかご一緒いたしませんか?

納涼ビール電車



 


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ここのところ、私の中で答えの出ないこと、よくわからないことを書かせていただいた。

そして、いろんな方からコメントをいただいた。


みなさんのコメントを読ませていただいて、私自身、とても気づきが多かった。

みなさん、本当にありがとうございます。


大人になると「自分の意見」というものが求められる。

そして、何かを書くということは、「自分が思うこと」

つまり「自分の意見」というものが存在するから書いているのだと思う。


書くということで

「では、あなたはどうなのか?」

という問いを自ら発して、自ら答えているようなものだ。


でも最近、自分でもわからないことが多いのだ。


スピリチュアルな世界では

「あなたが信じていることは、あなたにとって正しいこと」

という意味のことをよく言われる。


確かにそうだ。

でも、私たちは一人では生きていられない。

みんなとつながって生きている。

だからこそ、みんながより生きやすい様に、常識が存在し、社会のルールが存在する。


今、その常識が多様化しているし、ルールも変化している。


ある事象について問われたとき、私の中で、答えがすっきりと一つ出る場合もあるけれど、たいていの場合、

「こちらから見るとこう思えるけど、こういう見方をするとああ見える」

というように、しっかりと答えが出ない場合が多い。


そんなとき「はて?」と思う。


では私はどう考えればいいんだろう?

私は何を信じればいいんだろう?


私が生まれた時代に教え込まれた常識と、今の常識が違っていたりする。

今まで正しいと思っていたことが、今の価値観に照らし合わせると間違いであったりする。


たとえば、

「人の嫌がることをしない」

というのは、一般的にルールとして存在する。

でも「人の嫌がること」というものは、個人差がある。

「嫌がること」をやってしまったら、謝るしかないけれど、何度も何度も相手に嫌がられて、いろんな人に謝る事態が生じてしまうとしたら、それはちょっと自分が考え直したほうが生きやすいはずだ。


もちろん、嫌がられてもやらなければいけないことも存在する。

そのときには自分の中に信念がなければ、自分が揺らいでしまう。


人と同じことや人と同じ意見は安心できる。

人と違うことをすることは勇気がいる。


私は大して信念のないオンナなので、「そっか、今までと違う考え方をしたほうが生きやすそうだ」と思うと、コロっと考え方が変わったりする。

 

それでも、変われないときがあるのだ。

どう考えればいいのか、わからんときがあるのだ。

 

自分の世界が広がり、いろんな方と知り合えば知り合うほど、いろんな考え方、いろんな意見と出会う。


そのたびに

「うんうん」

とうなずいたり、

「へ~、そうなのか」

と感心したりする。


いろんな人がいろんな意見を持っている。

同じであったり、微妙に違っていたり・・・。


そこでまた考える。


その中で、私はどう考えて、どう信じていくのが一番私らしいのか考える。

そして私は、今までの自分とは少し違う自分で考えることになったりする。

当然、今までと違う自分の意見が存在することになる。


それでもやっぱりわからないことはわからない。


大人になったって、わからないことはわからないのだ。


自分の中で変わらないものもあるけれど、変わるものもある。

そして、変わった自分の中で、今までと違う答えが出てきたとしても、それも私だ。


わからない私も私。

今までと違う私も私。


そして自分が変化するごとに、またわからないことも増えたりする。


そうやって、私はわからないことを抱えて、変化して生きていくのかもしれない。


ここにコメントを下さる方たちは、私と違う意見であっても、私を否定したり、怒ったり、ケンカをうったりしないで、ただ、ご自身の意見を述べてくださる。


すごくありがたいと思う。

そうしていただけることで、私は感情的にならず、冷静に自分の考えをまとめることが出来る。

それこそ、大人の意見の述べ方だよね。


相変わらずわからないことだらけの私だけど、みなさまへの感謝だけは、はっきりとわかっていることの一つです。


いつもお付き合いいただいて、本当にうれしいです。








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今日は町内の清掃の日だった。


この季節、530(ゴミゼロ)という語呂合わせによって、5月30日は「ゴミゼロの日」と呼ばれ、全国で清掃活動が行われる。


私が住んでいる地区は、5月30日に近い日曜日が、いつも清掃の日に当たり、一家庭から最低一人、代表が出て、地区の清掃活動をすることになっている。


以前は一家庭一人と言わず、大人や子供や大勢の人が出てきて、みんなで清掃をした記憶があるけれど、今ではせいぜい一人、そして出てくるのは女性か老人だ。


働き盛りのお父さんたちは、日曜日は寝ているか、ゴルフか、釣りか、まあ、そんなところで忙しいらしい。


日ごろゴミだしの場所として、お世話になっている敷地の草刈をする。


ここ何日か好天に恵まれたため、大地はがっしりと固まり、そこに根を張る雑草もがっちりと生えていて、なかななか思うように作業がはかどらない。


「一体何時間かかるかなあ・・」

とみんなでぼやいていたら、そのうちの一人の奥さんが

「こんなの手でやってたら大変だから、うちの主人起こしてきます。

草刈り機もってきます」

とおっしゃってくださった。


「あら、そんなの悪いわ~」

と言いながら、みんなの顔がほころぶ。


10分後、まだ眠気が取れず、ぼおっとしたカンジのだんなさんが、草刈り機を肩に担いで、奥さんに連れられてやってきた。


しかし、さすがに草を刈り出したらものすごく早い。

てきぱきと草を刈って、ものの20分ほどで、その敷地の雑草を刈り取ってしまった。


私たちはそのだんなさんの後を追っかけて、刈った草をゴミ袋に詰め込んだ。

30分ほどで作業は終わってしまった。

仕事を終えただんなさんは、軽くみんなに会釈して、ささと帰ってしまった。

そのとき、彼がヒーローになったのは言うまでもない。


みんな口々に

「やっぱり男の人って頼りになるわねえ」

と、そのだんなさんを誉めそやしていた。


こういう時にいつも感じるのだけれど、この仕事の早さと頼りがいは、男性ならではだな~と思うのだ。


確かに、女性でも、草刈り機を自由に操って、ガンガン草を刈る人もいるだろうし、男性でも草刈り機を扱えない人はゴマンといる。


でも、オンナばかりのところに、一人男の人が来てくれると、とても頼もしいし、安心する。


そして、もう一つ思うのは、

「こう感じることは、男女差別なのか?それとも男女区別なのか?」

ということなのだ。


今、「男女平等」ということで、男性の世界に女性が進出したり、またその逆もある。

学校では、私たちが男女別々だった家庭科の時間は一緒の授業だと聞いている。


それによって今まで閉ざされていた門戸が開かれ、やりたい職業の選択の幅もずいぶんと広がったことだろう。


でも、女性が夜間のタクシードライバーをしていたりすると、

「怖くないのかな」

と思ったりする。

だって、男性に比べたら、絶対的に腕力ではかなわない。

夜間はタクシー強盗とか、多いではないか。


女性が大きなトラックを運転して、大きな荷物を運んだりしているのを見ると、

「身体をこわさないかなあ」

と心配になったりする。


また、祖母が入院しているとき、男性の看護士さんが担当だったことがあった。

祖母は、下のお世話などで、彼が来るのを極端に嫌がった。

やっぱり女性として、どこか気恥ずかしい気持があったりするのだ。


そのときに、その看護士さんと話をする機会があった。

以前だったら、男性の看護士は、体力のいる、精神病院くらいしか雇ってもらえなかったそうなのだ。

今ではいろんな仕事ができるようになって嬉しいといっていた。


個人の満足とか、幸せを考えると、まったくみんなと同じと言うことはありえない。


だから、行政とかは、どうしても多数決で多いほうの意見を汲まざるを得なくなる。

「男女平等」は多くの人が願っていたから実現したのだ。


それはよくわかっている。


人間として、オトコとオンナは平等だ。

それはとても当たり前のことだ。


でも、オトコとオンナは違う構造をしている。

それも当たり前のことだ。

もちろん、神様のいたずらで、両方持ち合わせている人もいるけれど・・。


等しさの中に違いを認めると言うのは、とてもややこしいし、見解の違いもある。


だからと言って、全部を「平等」として平たくならしてしまうのもなんだか違う気もする。


私はオトコの人が優位だとは思わないけれど、「オトコの仕事」や「オンナの仕事」ってあっていいように思っている。

「男らしさ」も「女らしさ」もいいと思っている。


そしていつもわからなくなる。

これって私の中にある差別意識なのか、それとも区別なのか・・?


平等が叫ばれている時代に、区別を考えるのは難しいなあ・・といつも思う。

 










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GWに博多に帰っていたとき、たまたま「アルタイの秘宝展」を見ることが出来た。


アルタイ共和国については、去年までまったく知らなかった。

それが、アルタイ共和国からの歌手、ボロット・バイルシェフを聴きに行ったり、そのご縁で、「ベロボディアの輪」というアルタイのシャーマンの本を読んだりして、ちょっと興味が沸いていた。


その「ベロボディアの輪」の中に「刺青をしたミイラ」の話が出てくる。

なぜかとてもその話に興味を覚えた。

「一体どんな刺青をしているのだろう・・」


そしたら、博多でアルタイの秘宝展をやっていて、なんと刺青のミイラも来ているという。


これは行くしかないではないか。


私はドキドキしながら、博物館に出かけていった。


マンモスの骨も、やじりも、全然興味はない。


ミイラ、ミイラ・・・。


頭の中はミイラで一杯だった。


いよいよミイラの展示場に入る。


ミイラがあった・・・・・!


髪の毛をきれいに結い、身体をくの字に曲げ、肩に刺青がある男性だった。


ミイラだ・・・!


観ることができた喜びと同時に、なんだか申し訳ない気持になった。


誰に?

もちろん、そのミイラに・・・。


そのミイラは、ちゃんと洋服を着て、装飾品と一緒に埋葬されていたのだ。


なのに、ここにいるミイラは、身包み剥がれて、すっぽんっぽんにされて、こうやってみんなに見られている。

わざわざ日本にまで運ばれて、日本人の私にまで見られている。


もし私がミイラにされて(そんなことはありえないけれど)、学術的、または教育的な分野で貴重な資料とされながらも、素っ裸で展示され、見世物にされたら、私はとってもいやだ。


ミイラはミイラとしてこっそりと眠らせて欲しい。


日本に来ていたミイラは男性だったけれど、女性のミイラも発見されている。

それは来ていなかったけれど、着衣は展示されていたから、きっと素っ裸で保管されているんだよね。


なんだか気の毒・・・。


そう思っていると、ふと上村松園さんのラブレターの話を思い出した。


宮尾登美子さんが上村松園さんをモデルにした「序の舞」を書くとき、松園さんのラブレターを拝見させてもらうことができたらしい。

それはかつての恋人がこっそりと取っておいたものだ。


それを観た時、宮尾さんは、それを捨てなかった恋人に憤りを感じたそうだ。

資料としてはとても役に立ったものの、同じ女性として、ものすごく気の毒に思えたそうなのだ。


恋人にだからこそ言えることや、甘えを、いくら芸術的、文化的な価値があるからと言っても、後から誰かに見られたりするなんて、私だっていやだ(私の手紙がそんな価値がつくはずもないので、そう考えるだけ無駄だけど・・)。


実はずいぶん前に、ある人に沢山手紙を書いていた時期があった。

ちょっぴり恋をしていたような感じ・・。

でも、相手が結婚するときに「どうぞ、その手紙は全部捨ててください」とお願いした。


私も実は、その人から手紙をいただいていたけれど、それは捨てなかった。

青春の思い出として、とっておきたかったのだ。


それから月日が流れて、その人と再会したとき、向こうは「捨てた」と言っていた手紙は実は「とってある」と言い出した。

で、私もとってあることが判明して、

「自分で捨ててくれと言いながら、なんでとっているんだ!」

と相手が言うので、

「私はあなたに捨ててと言ったけど、私自身が捨てるとは一言も言った覚えはないわ!」

と言って、とても醜い言い争いをした記憶がある。


でも、私だっていつか死んでしまうのだから、私が死んだあとに、誰かがそれを見て

「げ、これってラブレター?」

とかなんとか言って、興味本位に見られるのもいやだなあ・・・。


このトシになれば、秘密にしておきたいことの一つや二つや三つや四つ・・いや、いくらでもあるものだ。

でも、その痕跡を残せば、それは必ずあとから暴かれることになってしまう。


宮尾登美子さんも、

「捨ててしまったほうがいい」

とアドバイスをされたと言うようなことを書いておられた。


青春の思い出は、モノで残さずに、自分の胸のうちにしまっておくのがいいのかな・・。


ミイラのように、さらされちゃう前に・・。




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最近、手作りのものをいただくことが多い。


手作りのカードとか、ランチョンマットとか、お菓子とか・・・。

みんな器用で、みんな愛情がこもっている。

手作りが上手な人ってうらやましい。


先日は友人から、自家栽培のスナックえんどうとさやえんどうをいただいた。

買ったものより、すごく甘くておいしい。


そういえば、私の母はいろんなものを作ってくれた。

パンやお菓子から、セーターやら、食べるものから着るものまで、いろんなものを手作りしてくれた。

思えば器用な人だ。


子供の頃は、手作りのお菓子より、お店で買ってきたケーキのほうが食べた買ったりしたけれど、今思うと、母の精一杯の愛情だったんだな。

ありがとうございます。


その娘はどういうわけか不器用で、情けないくらいだ。


だから、プレゼントというと買うしか仕方がないのだ。


ふと思った。


ちゃんとその人の顔を思い浮かべて選んだのかな。

ちゃんとその人の気持を考えて選んだのかな。

手作りの愛情と同じくらい、愛情を込めて選んだのかな。


お金の受け渡しの中で、時々忘れそうになることを、こうやって思い出させてもらえる。


手作りってありがたい。





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先日もちょっと書いたけど、未来に対して

「こうなるといいな」

ではなくて

「こうなっている」

と断言することが大切なんだそうだ。


たとえば、5年後の自分をイメージしたときに、

「海の見える丘に住んでいるといいな」

ではなくて

「海の見える丘に住んでいる」

とイメージするということ。


あと、具体的なイメージを紙に書くといいとも言われている。


今まで、そういうことは何回も聴いていた気がするのだけれど、なぜか今回そういう話になったとき、自分の中でぽっとイメージが浮かんだ・・。


5年後の私・・・。


そして、初めてだけど、紙にも書いてみることにした。


5年後、つまり2010年、「私はこうなっている」と。


そうすると、ちょっと不思議だけれど、そのために具体的なイメージがどんどんと沸いてきたのだ。


これを、自己暗示と観ることもできるし、神様がメッセージを与えてくれている、と思うことも出来る。


どちらでもいいよね。


要するに、こうやって、紙に書いたり、イメージすることで、自分にやる気と前向きさが出てくれば、それに越したことはないんだもの。


5年後の私。

今からちょっと楽しみ。


みなさんの5年後はいかがですか?

どんなイメージが浮かびますか?


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昨日は本当に美しい満月だった。


その前の日は、とてもきれいな十四夜で、一瞬「今日は満月だったっけ?」と疑いたくなるほどだった。


「田舎に住んでいてよかったな」

としみじみと思えるのは、空が広くて、月や夕日がとても大きく見えるときだ。


人が創ったアートも好きだけど、やっぱり自然にはかなわない。


オノヨーコさんも言っている。

「空よりも美しいアートなんてあるだろうか」

って。


昨日、いけばなのおけいこに来ている女の子たちに

「月がきれいだったね~」

と話しかけたら、きょとんとされてしまった。

若い子達はあまり月を見ないらしい・・。


20年も前の映画だけれど、「満月の夜」というのがあった。

フランスのエリック・ロメール監督のものだ。


パスカル・オジェという、キュートな女性が演じるルイーズが主人公のおしゃれな映画だった。

(彼女は残念ながら、この作品のあと、24歳の若さで急逝)

恋人の束縛から逃れるため、恋人と暮らす郊外の家と、隠れ家のようなパリのアパルトマンを行き来し、自由を謳歌しようとするけれど、失敗して、恋人の待つ家に帰ろうとする。


そして、始発電車を待つために入ったカフェで、子供のインスピレーションを絵にするという男性から、

「今日は満月の夜ですよ」

と教えられる。


子供たちは満月の夜にぐっすりと眠る。

自然のリズムと調和して・・。

自然と切り離された都会での生活を楽しむ彼女には、月なんてどうでもいいのだ。

そうやって、彼女は自分を見失ってしまう。


そういえば、自分が若い頃、そんなに空を見上げたりしなかったかも知れない。

恋や仕事に忙しくて、空を悠長に見上げる時間なんてないのかもしれない。


今日もまた、月は出てくれるだろうか?


少し生きる速度も遅くなって、空を見上げるゆとりも出来てきたのかもしれない。


満月の夜 DVD
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養老孟司毅先生の「死の壁」を読んだ。


そこに靖国神社のことが書かれている。


日本人は「人は死んだら仏さま」くらいの感覚しかなく、つまり、死んでしまえばみんな平等だと考えている。

しかし、中国では、「墓を暴いて死者に鞭打つ」という考え方があるくらい、死んでも個人は個人であると言う感覚が強いのだということだ。


私はこの箇所を読んで、胸のつかえが取れたようで、とてもすっきりとした。


でも、私自身がすっきりしたところで、「靖国問題」は外交問題にまで発展しているのだし、依然すっきりなんてしていないけれど・・。


また、賀上由紀子さんのブログ「平和プロジェクトへようこそ」 の5月16日の記事で、胤森貴士トーマスさんの、小泉首相にあてた手紙の抜粋があった。

 

その中で特に印象に残った部分をここに掲載させていただく。

 

「小泉総理、あなたが15日に靖国に参拝されると聞いた時、反対する人々への津波のような共感に揺さぶられました。
しかし今、私はあなたに別の意味で参拝して欲しいと思うのです。

恐怖と不信は恐怖と不信をはぐぐみ、暴力は暴力を生み、戦争は戦争を呼び、果てしない復讐を繰り返すのです。
私たちが各自の心の闇を見極め、犠牲者に心から謝罪し、和解することによってのみ、その連鎖を止めることができるのです。
首相は勇気を持って、参拝を真の謝罪と和解のための儀式に変え、世界を戦争の闇から遠ざけてください。

祖先の霊をあがめることは、彼らのしたことを正当化することではありません。
私たちが彼らのしたことを十分に認識し、彼らが人間としての欠点も併せ持っていたことを認めることが慰霊だと思うのです。」

 

この方、本当にすばらしいなあ。

私のような薄っぺらい感覚ではなくて、心から日本人だし、心から平和を望んでいる。

強い心を持った方だとつくづく思う。

 

基本的に、こういう政治的なことは書かないようにつとめている。

というのも、どうも私は言葉をあいまいに使う癖があって、厳格に言葉の意味を突き詰める人が読むと、支離滅裂なすきだらけの文章に見えるらしく、揚げ足を取られたり、突っ込まれたりすることがある。


そのたびに

「理論的な文章なんて所詮書けないんだから、書かなきゃよかったのに・・・」

といつも反省する。


それでも、書きたいなあ・・と思ったのは、

「政治家としての参拝をこだわる首相も変な感じだけど、中国の対応もちょっとピリピリしすぎじゃない?」

という思いが、いつも心の片隅に遭って、

「靖国神社の首相参拝。

賛成だけど、反対なのだ」

というバカボンのパパのようになってしまうからなのだ。


あそこには私のおじさんが祀られている。

うちの祖母は右翼でもなんでもないけれど、死ぬ前に一度はおまいりしたいと言って、悪い足を引きずって、わざわざ九州からおまいりに行ったことがあった。

自分の身内が祀られていれば、あそこは聖地になんだ。

そのことも、私の中でヤスクニを特別にしているのかもしれない。


そして、最初は戦犯は祀られていなかったと聞いている。

なぜ、祀られるようになったかというと、

「戦犯だからと言って、遺族年金も受けられない、靖国にも御霊が祀られないのはかわいそうではないか」

と、某党の方がおっしゃって、戦犯も祀られるようになったと読んだことがある。


たとえば、子供に

「なぜ靖国神社には、戦犯も一緒に祀ってあるの?」

とTVをみた子供に問いかけられたら、あなたはなんと答えるだろう?


「みんなはいけないと思うけれど、政治家が勝手に入れちゃったんだよ。それで、よその国もみんな怒っているの」

と答えるのか


「日本人は、昔から、人は死んだらみんな一緒、つまり、悪い人も、いい人も、みんな仏様になると思っているんだよ。だから、戦争の裁判で裁かれた人たちも、同じく戦争で命を落とした人たちと一緒に祀られているの。

でも、その気持ちは日本人独特のものらしくって、外国では理解してもらえないの」

と答るか。


これは、ひょっとしたら、世代的な感覚であるのかもしれないとも思う。

私たちは、まだまだ「地球人」としてより「日本人」としてのアイデンティティーを大切にする人たちが、たくさん残っていた世代だから。

それをナショナリズムとして悪く捕らえてしまうことも出来るけれど、「日本人」としての自分を大切にすることは素敵なことだと思っている。

何でも度を越すとよくないけれど・・・


今の若い世代の人はどうなんだろう?

「人は死んだら仏になる」

って感覚、わかるのかなあ。


「死んだらおしまいじゃん」

くらいは思うだろうけれど、

「死んだら罪が許されるの~?ウッソ~?」

って感じているんじゃないのかな。


たとえば、仲の良くなかった身内が死んだりしても、お葬式の時には、

「あの人は、いろいろあったけど、いい人だった」

と、思う。

心のどこかに「死んじゃったからもういいよ」

と、思う感覚がどこかにある。


「死んでも恨みは消えない」

と思われる人は、相当何かひどいことをした人で、あまり一般的にはないのではないのかなあ・・。


だから、極悪非道の人が死刑になることを望んでも、

「死んで償ってもらう」より

「生き続ける中で、反省して償ってもらいたい」と心のどこかで思ったりする。


これって、私には日本人独特の優しさに思える。


中国の人たちはどうなのだろう。

「死んでも恨みは消えない」と思うのが一般的なのか、特に日本に対してはそういう感情を持っているのか・・。

 

だから、私は靖国に戦犯の人が一緒に祀られていることに、あまり抵抗はないのだけれど、こういう風に世界が大きく一つの常識を持とうとしているときには、そういう感覚はひょっとして、世界の中の非常識になりつつあるのかもしれない。

 

本当のことを言えば、あそこに祀られている人たちを静かに眠らせてあげて欲しい。

でも、日本が敗戦国である限り、それは無理な話なのかな・・。

小泉首相が国の総理として御参りするというのなら、国民の意識調査をきちんとして、きちんと答弁して、参拝して欲しいと思う。


人は死んだら、みんな平等に仏になる。

私はそう思っている。


だから、靖国問題は政治的に利用されるのは反対。

でも、日本人として、日本人の魂を敬い、平和を願うという意味でなら、賛成。


これはとてもとても個人的なヤスクニについての意見。


きっと反論されても答えられないくらい、感情的、感覚的な私の胸のうちだ。









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今日はエナジーをたくさん交換した日だった。


・・・というよりも、いただいた方が大きい日だったのかな・・?


ハワイのカウアイからnaokaさんがいらしていて、午前中、名古屋で会うことになった。

彼女とは、hpがご縁で知り合った。

そして、ディジュリドウプレーヤーのtoshiさんとその奥さんの七海さん、土岐市の中澤ご夫妻もご一緒だった。


みなさんとても暖かくて、前向きで、明るくて、楽しい。

みなさんから素敵な波動がバンバン感じられて、なんだか一緒にいるだけで、こちらも楽しくなってしまった。


そして、

「こうありたいじゃなくて、こうなっているって思わなくちゃ」

とみなさんがおっしゃる。

みんなが素直に、楽しそうにそうおっしゃるので、本当にそうだと思える。


5年後、私はこうなっている。

とイメージしてみる。


そして楽しいひと時のあと、

「では来年、カウアイでみんなで会います!」

と宣言して、名残を惜しみながらお別れした。


そのあと、美濃加茂市に住むルチルさんのお宅で、私が彼女にオーラソーマのチャクラバランスマッサージをしてあげ、彼女からはヘッド・マッサージと、エドガー・ケイシーのオイルマッサージを受けた。


ヘッド・マッサージは本当に気持ちがよくて、うとうとと眠ってしまっていた。


そして、いろんな話をしながら、

「またやりましょう」

と言って、お別れをした。


今日使ったお金は、交通費と食事代くらいのものだ。


でも、とても充実していたし、とっても楽しかった。


なんだかたくさんエナジーをいただいて、こちらもたくさんエナジーを放出したカンジ・・。


いいエナジーと出会うと、こちらのエナジーも活性化されるから不思議だ。

そして、そういう人たちが集まると、エナジーも相乗的に波動が高くなって、膨らんでいく感じがする。


なんだかクヨクヨ悩んだり、誰かをうらやましく思ったりしたことがウソみたいだ。


もちろん、そういう気持ちもあって、そういう自分も大切にしてあげたいけれど、やっぱり楽しいことを考えていたほうが、気持ち的にもいいなあ・・。


いつも会えない人とあったりすると、日常とは違う観点から物事を見ることが出来たりするものだ。


ほんの少しの時間でも、何もお金がなくても、私たちはいつでもリセットできるんだな・・。


今日はとても大きくて、きれいな月が出ていた。

明日は満月だ。


さあ、明日から、いつもの毎日が待っている。




naokaさんのhp kiss aloha


toshi小島さんのhp 喜楽堂


七海さんのhp インナー・エステ・カメリア

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3年ほど前、メープルソープ&アラーキーの「百花乱々」展というのがあった。


私は以前から、メープルソープとアラーキーは、光と影、コインの表と裏のように思っていたので、同じ感覚のキューレーターの方がいらっしゃったことに、びっくりした、と同時にうれしくなった。


メープルソープはすでに他界しているから、インタビューはできないけれど、アラーキーがインタビューに答えていて、メープルソープの写真のことを

「俺よりピュアで、彼岸っつーかな、聖のほうに行ってるね。

中略

俺がベッドルームか、キッチンの花だとすると、彼のは祭壇の花。こんなにしっかり撮ってるから疲れちゃうんだよ。」

(百花乱々展、カタログより)

と語っていた。


さすが、アラーキー。


私が本格的にメープルソープを知ったのは、エイズによる死の3年後の92年の回顧展だった。

写真の中にある透明感、そして緊張感は、日本の書を思わせた。


完璧な肉体。

完璧な花。

完璧な構図。


そして、そのときに初めてわかったことがあったのだ。


有名なパティ・スミスの「牝牛」のジャケットを撮ったのは彼だったのだ・・!


パティ・スミスのデビューは、私が中学生のときで、NYパンクの女王として、とてももてはやされた。

そして、あの独特な存在感の漂うアルバムジャケットは、とてもセンセーショナルなものだった。


私はそのころはまったく写真には興味がなかったし、パティの同棲相手なんてどうでもよかったので、気にも留めていなかったけれど、あのジャケット写真だけは妙に目に焼きついていた。


そして、私は成長して、再びその写真とめぐり合ったのだ。


もう一度そのオリジナルプリントを見る。


オンナと言うより、オトコに近い肉体と、見透かしたような瞳。


彼はパティの中にある精神的に崇高なものを撮ろうとしていたのではないかと思った。

恋人ではなく、女性ではなく、性別を超えた一人の人間として、一人の芸術家としてのパティ。


それは、思春期という、性的に不安定な自分に、大人になることをどこかで拒否している自分に、よくわからないながらも、相通じるものを感じたような気がする。


オンナではなく、一人の人間として、私をみて。私を感じて。


きっとメープルソープは、パティ・スミスという被写体を通して、私の心を写し出してくれた写真家だったんだな。


命を削って撮り続けた彼の作品たち。


その中に込められている精神の気高さ。

それは、いまだに私の心を捉えて離さない。


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メープルソープのflowers


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