ここで、そこで、いろんなところで

日々の生活の中で想う、エッセイ未満のことたち


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ランディさんが友人のことを書いていらしたけれど、実は私も家族のことが原因で、体調が悪い時期があった。

一時期、夜中に息が出来なくなって何度も目が醒めた。
私の友人が過去生を見てくれたら、三角関係でオトコを取り合いして、ライバルに首を締められて死んだらしい。(トホホ・・もっとカッコイイ死に方だと思っていたのに・・。魔女狩りにあって絞首刑とか、海で溺れたとか・・。)
なんだか三面記事のようだった。
ライバルは現在の姉らしい。
だから姉と私はなんとなくわだかまりがあるのかな・・。
でも、それがわかってから、なんとなくすっきりして、あまり夜中に息が出来なくなるということがなくなった。
姉とのことも、まだきちんと整理できたわけではないけれど、とりあえず「確執がある」ことを受け入れられたのだ。
いずれ、きちんと向き合わなければならないのかもしれない。

また、ここ1年ほど、風邪をひくとかならずノドに異常をきたして、息が出来ないほど咳が出るということが続いていた。
咳が出るというのは「言いたいことを言っていない、吐き出したいことを吐き出していない」状態のことがよくある。
やはりその友人に観てもらったら、「親子関係で何かあるんじゃないですか?」と言われた。
私的にはこれといって原因も思い出せなかったし、「何もない親子関係なんてあるわけないでしょう?少しくらい引っかかるものがあっても今は平静を保ってうまくやっているんだから、この状態でいいのよ!」と内心思っていた。
それと、「また家族なの?」という気持ちもあって、ちょっと辟易していた。

でも、すっきりとしない状態が続いている時、いろんなシンクロが起こって、その原因がわかったのだ。
そして、「なんでこんな家族に生まれてきちゃったんだろう・・私?」と切なく思う日々が何日か続いたあと、「私はこの家族に生まれてくることを心から喜んでいた」ことを突然思い出した。
その気持ちが甦った時、今までノドにつっかえていたものが吐き出されて、何かが収まった気がした。
それからぴたりと咳がやんだ。
私は「生まれてきて嬉しい!」って言葉に出して言いたかったんだ・・。
(そのときに「生まれてきて、よかったね!」という越智啓子先生の本を読んでいたことも私を助けてくれた)

カラダは時々サインをくれる。
目や耳の病気は、精神的な抑圧のサインだったりするようだ。
ちなみに、婦人科系の病気になりやすい人は、女性に生まれたことを嫌っていたりする場合があるようだ。
それをカラダの病気と捉えることもありだけど、それをきっかけに自分の気持ちと向き合うこともできる。

病気はいろんなことを教えてくれる。
ガンの専門医の方と以前お話した時に、「ガンになったら、その後の生きかたで、本当の自分がわかります」と言っていた。
前向きな人は治る確立が上がるし、落ち込んでしまったらガンに負けてしまうことが多いらしいのだ。

私の場合、家族のことが原因で、カラダに変調をきたすのは、カラダに教えてもらわない限り、きちんと向き合わずに避けてしまおうとするからなのだろう。

「健全な肉体に健全な魂が宿る」とは有名な言葉だけれど、健全、不健全はともかく、カラダと心は切り離すことことが出来ないものなんだなあ・・とつくづく思う。
そのことをもっと理解していたら、私自身もう少し早く気持ちが楽になれて、幸せな生活ができていたはずだけど、これが自分にとって一番いいタイミングだったのだろうから、仕方がないのだ。
でも、いろいろ悩んだり考えたりした自分がいたからこそ、今のささやかな幸せがより輝いて見えるのかもしれないし・・。

カラダのサインを見逃さずに、自分を生きていかなくちゃ・・。
心を柔らかくして、自分の体の声を受け止められるようにして・・。

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ランディさん、やっぱりTBはちゃんと読んでくれているんだ。
そうだと思ってた。

実は私がブログをはじめたのも、hpでエッセイをかしこまって書くのがしんどくなったこともあるけれど、ランディさんに近づきたいとおもったこともあるの。

去年の夏、友人が「神様はいますか?」を私にプレゼントしてくれて、それから三部作やエッセイを貪るように読み始めたの。
そのときがランディさんとの出会いだと思っていたけど、実は「アレクセイと泉」のパンフや「精神世界がわかる本」(実はこれもいただきもの)でランディさんと出会っていたことに気付いたんだ。

ランディさんと私の距離は「作者と読者」で縮まらないけれど、ブログのおかげで、少なくとも、私のヘタクソな文章をランディさんが読んでくれている。
それだけれも私はとっても嬉しい。

そして、ブログの世界に飛び込んだことで、また新たな出会いもいただけたし、私の世界もまた広がった。

ランディさんにありがとうが言いたい。
私の友達は「コンセント」を「私の家族の物語だ」と言っていた。
またある友達は「朝倉ユキと自分は同じだ」と言っていた。
みんなの心にあるものを物語にしてくれてありがとう。
そして、私のブログを読んでくれてありがとう。

これからもずっと読んでいます。

ただ一つ・・。
カラカラに置いてきた「三岳」はランディさんに届いたのでしょうか・・・?(笑)


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ランディさんが恋人との関係が不安定だった時のことを書いていて、それを読んでいて思い出したことがある。

オーラソーマのコースを受講していた時、ある人が「私はこんなにみんなを愛しているのに、どうしてみんなは私のことを愛してくれないの!」と泣きながら叫んだ。
オーラソーマとはカラーセラピーの一種で、このメソッドを取得するために、いくつかのコースを受けなければならない。
その段階で、「人を癒すためには、まず自分が癒されなければならないこと」に気付き、感情を吐き出す人が出てくる。

私は彼女の言葉に共振して、今まで押さえ込まれていた感情がどっと表に溢れてきた。
哀しかった、寂しかった、もっと愛されたかった・・・。
彼女と同じように私も泣きじゃくっていた。
私も彼女と同じように愛されたいと思っていたのだ。

そんな彼女と友達になった。
彼女は自分のことを「愛にクレージー」だと言った。
「いつでも愛のことを考えているのだ」と・・。
クレージーな状態とは、いつもそのことを考え、いつも不安なものだ。

実は私は恋をすると、いつでも恋のことを考えている。
そして、そのことだけがアタマの中をぐるぐる廻りだし、やがてそれが血液に乗って、体全体が恋で一杯になる。まさにクレージー状態だ。
相手が何をしているのか気になるし、相手が自分のことを考えてくれているのかどうか気になって不安になってくる。
それで相手と一緒に深みにはまり込んだこともあるし、私が途中で正気に戻って相手を振ったこともあるし、また逆に、相手に重たく思われて振られてしまったこともある。
でも、私は「恋にクレージー」になる。
「恋からは学べない。同じ過ちを繰り返す」と言うけれど、何度も同じことを繰り返しているのだから、そうなのかもしれない。

で、最近自分の感情を冷静に考える機会があり、私は愛と恋を混同していたのではないかと思った。
だから、恋が続いている時は愛も続いているように思ってしまう。
恋がうまく行かなくなると、愛もなくなってしまうように思ってしまう。
恋と愛を混同していた私も、彼女と同じように「愛にクレージー」だったのかもしれない。

恋に愛はあるけれど、愛は恋ではない。
人類愛、兄弟愛って言うけれど、人類恋、兄弟恋とは言わないもの。
この歳になってやっと気付いた。
ああ、もう少し早くきづかせていただきたかった・・・。

恋は恋だ。クレージーになるほど、不思議なものだ。

そして、愛はなんだろう・・・?
ただ、一つだけ思うのは、恋のようにクレージーになるものではなく、「愛は自分自身がなるもの、または自分自身にあるもの」のように思う。
決して外にあるものではないから、クレージーにもなれないんじゃないのかな・・。
だから私自身に答えが出せないように、愛にも答えが出せないように思う。

それとも愛もやっぱりクレージーなものなのだろうか・・・?

http://blog.ameba.jp/randy/archives/000652.html

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寝屋川の中学校で事件を起こした少年が、日記に「人間関係が希薄で自分を変えたい」というようなことを書いていたらしい。

ふと、自分の若い頃のことを思い出した。

私は少しヘンな子で、小学生のころからテレビの「洋画劇場」が大好きで、親と一緒に古い映画を観ていたし、NHKの大河ドラマも大好きだった。
「新・平家物語」など、今でもよく覚えている。
その頃はやっていたアニメなどにはあまり興味がなかった。
そういう子供だったので、以前から友達と話が合わないところがあった。
それでも、小学生の頃はナントカ一見フツーにやっていたのだ。

中学になったらビートルズに目覚め(そのころはとっくに解散していたけれど)ロックに目覚め、パンクやレゲエを聞いていた。
萩尾望都さんの漫画も大好きだった。
そういう中学生だったので、やはり友達とはあまり話が合わず、ありきたりな会話は出来ても、深い付き合いなど出来ない状態だった。

自我にも目覚め、精神的にも不安定だったし、常に孤独だったし、誰も私のことを分かってくれないと思っていた。
あの頃の私を知っている友人は「あなたは自分を持っている子だった」と言う。
いわゆる「個性的な子」だったのかもしれない。
でも、個性的というのは人と違うのだから、孤独なのだ。
人と共通点がたくさんあるという事は、個性的ではないけれど、安心感はある。

誰も分かってくれないのも当たり前。
自分以上に自分のことをわかってくれる人間など、いるハズがないのだ。
そのことに気付くのに私は随分と時間がかかった。
最近になって「自分という孤独」を受け入れられるようになった気がする。
それは今だからわかることであって、あの頃はただただ「どうして自分はこんなに寂しいのだろうか」と思っていた。

事件を起こした子は中学の後半から不登校になったという。
おとなしい子だったというから、目立たなかったのだろうか。
「目立たない」というのも、ある種の個性のようなもんだ。

孤独だったのかな・・。
寂しかったのかな・・。
こんな孤独な世界をなぜ生き続けなくちゃいけないのか、いっそのことめちゃめちゃにしちゃえと思ったのかな・・。

彼がどういう気持ちで事件を起こしたかなんて誰も分からない。

でも彼は、これからの人生、罪を償いながら「自分の孤独」と向き合っていかなくてはいけない。
誰も分かってくれない自分と向き合いながら・・。


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「教養とは人の心を知る心」

先日養老孟司さんの講演を聞きに行った。
彼は大ベストセラーの「バカの壁」を書いた方だ。
演壇で講演されるのかと思ったら、ホワイトボードを使いながら、まるで授業のような方法で行われた。
笑いのツボもしっかりと押さえて、1時間半、あっという間のたのしい講演だった。

その中で、彼の恩師の言葉として、冒頭の文を引用していた。
辞書を引くと「教養」という意味には二つあり、一つは学問や知識によって養われる品位とあり、もう一つはおしえ育てることとあった。
そして「おしえ育てる」という意味の方が先に出ている。

私は「教養」という意味をずっと前者の方だと思い込んでいた。(そのくせ教養学部についてはさして疑問を持たなかった。「知識を身に付ける学部」だと勘違いしていたフシがある・・恥ずかしいことだ・・。)

養老さんは、「個性重視の教育」というものに疑問を呈していた。
大切なのは「人のことが分かること、すなわち、人と違うことではなくて、人と同じ感性を持つこと、相手の心がわかること」ではないかと・・・。
それは自分を個性というワクにはめずに、どんどんと変化していくという意味も込められている。
私たちが一般的に考えている「人と違う個体という私=個性」という意味と若干ニュアンスが違う気もしたけれど・・。
(それは日本人を一括りにしてしまう戦前教育とはまったく違う意味として、個性という言葉が出てきたと思っている)

私自身がエラソーなことを言える偉い人間ではないので、誰かを「教える」とか「育てる」とかと言う言葉はニガテだ。
でも、長年生きていると、年下の人びとが多くなってしまい、好まざるとしても、誰かを育てたり、教育したりということも日常的に起こってくるのだ。
養老さんはもう一つの言葉で、「教育とは変化を助けることだ」とも述べていた。
人が成長するという事は「変化する」ということだとおっしゃっていた。

そうか。
「教える」とか「育てる」とかって考えずに、変化を助けていると思えばいいのだ。
そして、私自身も変化をしながら、相手の変化を助けていく。
これなら素直に受け入れられる。
ちょっと先にうまれた人間が、相手の変化を促す手助けをしていると思えば、主従関係ではなく、楽しい関係になれる。
また、相手の変化から自分の変化を促される場合もあるだろう。
私たちは変化の中をお互いに変化しながら生きていく。

「教養とは、相手の心を知る心。
そして、変化を助け、変化を受け入れる心」

そしてそれは絶対性ではない相対性というこの世界を、しなやかに生きていくための柔らかい心を持ちつづけることでもある。

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昨日、何気にtvをつけたら「波乱万丈」をやっていて、堀江社長が出ていた。
途中からだったので、幼少期とかは見れなかったし、外出する予定があったので、後ろ髪ひかれる思いでtvを消して出かけなければならなかった。

その中で彼が東大に受かったことについて「受験のコツ(って言ったかな?)があって、それが分かっていたから、勉強して受かったんですよ」みたいな発言のあと、「なんでもコツがあるでしょ?」って言っていた。
そして、学生時代も興味のないことには一切手をださない主義だったことなどが紹介され、インターネットのアルバイトの中で、強烈に「これだ!」と感じたことなどが紹介されていた。

それを観ていて、「この人は商売の女神をみたんだな・・」と思ったのだ。
彼は、今のシステムの隙間に女神(コツ)を見つけ、それを捕まえるというゲームをやったんだ。
そして、それでうまく行って、そのおもしろさの虜になって、今度は自分の考えた新しいルールでゲームをしようとしているんだなって・・。

実を言うと、私は人生を楽しんでいる人は好きだ。
先日は江川さんの記事の中の堀江さんの言動にいやな気持ちを持ったけれど、今はちょっと違う印象をもっている。
おもしろい人なのかもしれないなあ・・と思う。
だって、ビジネスの話になると「おもしろくて仕方がない」ってカンジで眼が輝いていたもの。
営業も好きだと言っていた。
「相手を説得して、いいものを提供してナットクしてもらうことがとても好きだ」みたいなことを言っていたし、きっとその時は「相手を落とす」戦略を立ててゲームに臨むような感じなんだろうな。

でも、商売のコツは掴んだけれど、きっと世間をうまく泳ぐコツはこれから掴むんだろうなあ・・。
でなければ、あんなにバッシングされなくても済むのになあ・・。
まあ、それはそれでよいのかもしれないけれど・・・。
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ランディさんのブログで興味を持ち、江川詔子さんのhpでライブドアの堀江社長のインタビュー記事を読んだ。
確かにドライな感じがする。
そしてその中で、人気のない記事を「ゴミ記事」と呼んでいる事に、あまりいい気がしなかった。
以前バブル真っ最中の頃、某銀行で、庶民の定期預金のお金を集めることを「ドブさらい」と呼んでいるということを知ったときと同じ感情だった。

偉くなった人はまるで雲の上に住んでいるかのように、地上でアリのように働いている人たちの生活がわからなくなるんだな。
それは都会の人間が地方の人を「田舎モノ」と言ったり、お金のある人が一般庶民を「貧乏人」と言ったりするのと同じような感覚なんだろう。
誰かを貶めることで、自分が偉くなった気持ちになるもんなんだろうな。
「人を差別する気持ちなんて全くありません」と言えるほど、私も純粋な人間ではないけれど・・。

そしてある政治家が「お金でなんでもできると思うな」と言っていたけれど、バブルの時はみんな「お金でなんでもできる」と信じていたんだ。
そして、その時代に子供だった人たちが「お金があればなんでもできる」と刷り込まれていたって別に驚くことではない気がする。
あの頃、アメリカの象徴であるビルや、映画会社を、それこそお金にモノを言わせて買っていたのは誰だというのだろうか。
買い戻すことを暗黙の了解で売りに出された名画を、かっさらっていったのはどこの国の人たちだったというのか。

「お金がなければ何にもできない」社会に私たちは住んでいる。
どんなに奇麗事を並べても、やっぱり生活するためにはお金は必要なのだ。
でも、その中で、お金には代えられないことをしていただいたり、受け取ったりすると、ココロが洗われたような気持ちになるのはなんなのだろうか?
力のないものを「ゴミ扱い」する人たちにはそんな気持ちもないのかな・・・。

人が求めるものを売らなければお金が手に入らない時代。
でなければ生き残れないのかもしれない。

でもね、お金がなければ生きられないけれど、お金があれば幸せになれるというものでもないってことを、バブルな時代を20代30代で過ごしたオバサンは感じているのであった。
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たとえば・・・。
とても落ち込んでいたクライアントさんが、元気になって、夢が叶い、幸せになってくれたら、セラピストの私としてはとても嬉しいし、その幸せを心から喜ぶことができる。
その幸せへの足がかりを、自分もちょっと手伝ってあげられた気持ちになって、自分のことのように幸せに思える。

でも、それがたとえば、友達だったり、知り合いだったりすると、ちょっと複雑な気持ちになるときがあるものだ。
自分の心の奥に住んでいる「嫉妬の虫」が顔を出す。
「いいな~。うらやましいな~。」と鳴きだす。
特に、自分が何かに失敗しているときなど、その鳴き方は激しい。
そして「どうして私はうまくいかないんだろう、欲しいものが手にはいらないんだろう」と嘆く一方で、「どうして私は人の幸せを素直に喜んであげられない、狭い了見の人間なんだろう・・」と落ち込んでみたりする。
「もっとみんなの幸せを願える人間にならなければ・・」と「嫉妬の虫」を押しこめようとする。

では、「妬み、嫉み」ってそんなに悪い感情なんだろうか・・・?
確かに、それが昂じて誰かの不幸を願ったり、藁人形を打ったりすることはあまりいいこととは思えない。

私の場合、最初は嫉妬してあれこれ考えているけれど、そのうち、「私ってそんなに毎回うまくいってない人生だっけ?」と思えてくる。
そして、自分がうまく行っている時に、みんながうまく行っているわけではなくて、それぞれのサイクルでその人が望んだものを手に入れたり、やり遂げたりしていることに気付く。
そうやって、自分の感情を見つめなおし、羨む感情、自分を卑下する感情を通り越すと、「私も夢が叶うように、毎日を大切にして生きなくっちゃ・・」と思えるようになる。

そこに至るまでにはやはりそのときの自分の状態によって様々だけでど、そう考えていくと、人を羨む気持ちは、自分が生きていく上で、もう一度自分の生き方を見直したり、気持ちを見つめなおしたりできる大切な起爆剤の役割を果たしているのではないかと思う。

妬みやひがみも私が持っている大事な感情なんだ。
自分のココロの中にあるもので、不必要なものなんて何一つないものだ。



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やっとガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読み終えた。
もともと遅読なうえにお風呂の中でしか読んでいなかったので、ほんとうに時間がかかった。
おまけに字も小さいし・・・。

不思議な物語だった。
長い時間読んでいると、この独特な文学の世界に引き込まれて、この中に登場する主人公達に親近感を覚えていた。
彼らが持っている孤独を私も持っている。
百年という時間の流れの中で受け継がれていく血の物語は、自分の中でこの私に至るまでに、単細胞の時から綿々と引き継がれてきたDNAが、はるか彼方の昔の記憶を懐かしみ、郷愁のあまりに声を発し、それが身体の中でこだましているような、奇妙な感覚を呼び起こしていた。

私たちは生まれ、やがては死ぬ。
変化していくことは私の体の中の細胞のレベルから、種、そして宇宙に至るまで、変わらない法則だ。

この本の中で登場人物たちは生きて死ぬ。
一つの一族の存亡の物語の中に、この不変性が盛り込まれていて、ただ、百年のある一族の話で終わらない。
永遠に続く孤独の物語としてこの小説は存在する。

私たちは永遠であり、一瞬である。
愛ではじまり愛で終わるドラマ。
そしてその中で、私たちの孤独は終わらない。
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最近、カラーボトルを使ってチャクラ(身体のエネルギーセンターのようなもの)バランスを整えるマッサージをしている。

私は交通事故に遭っていて、首の骨が少しずれているので、それもあって時々整体マッサージを受けている。
チャクラマッサージの講習を受けたとき、実感として「やっぱりマッサージはやるよりもやってもらう方が絶対に気持ちがいい」と思ったし、おそらく自分には向いていないとも思った。

それがひょんなことからマッサージをする立場になった。
すると思いも寄らない感情が湧いてきた。

相手に委ねられるってなんて素敵なことなんだろう。

マッサージというのは相手が自分を信頼してくれているから身体を任せてくれるんだし、心地よくうとうとしてくれるという事は、安心しているからこそ到達できる状態だ。
でなければ誰かに身体を触られながら寝たりなんてできないものだ。

マッサージはクライアントさんに直接触るので、相手の体温が手を通してじかに伝わってくる。
以前小鳥を雛から飼ったとき、心細げに鳴きながら私の手の中に入ってきて、ほっとしたように寝ていたあの暖かさを思い出す。
ちょうど自分に自信をなくしていた時だったので、「こんな私でも必要としてくれるのかな・・」と思うと、自分の手の中で眠る小さな命に、ありがたさで胸が熱くなったことがあった。
委ねてくれていることにふと感謝が湧いてくる。

赤ちゃんはお母さんの胸の中で安心して眠る。
世の中のお母さんは、この委ねられる心地よさを知っているから大変な子育ても頑張れるんだろうなあ・・・。

最初は手順を覚えるだけで必死だったけど、最近は少しゆとりが出てきたので、マッサージをしながら、クライアントさんが、嫌なものを吐き出して、新しいものをたくさん吸い込んでもらえるように願っている。

しかし、ティーチャーからは「自分のエゴでマッサージをしてはいけない」と注意されている。クライアントをコントロールしようとしてはいけない。
私はエネルギーの通り道になって、相手をサポートするだけだ。
それを忘れてはいけない。
これってやっぱり子育てに似ているように思う。
子供のココロを尊重しながら育てるって、凄く大切なんだろうな・・。

私は残念ながら子育ての経験はないけれど、委ねてもらえる素晴らしさが経験できて幸せだな・・と思う。

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