鵜飼秀徳著『寺院消滅 失われる「地方」と「宗教」』日経BP社刊
「地方」に於いて、
高齢化→人口減→社会共同体の崩壊、とくると、
当然の結果ながら、寺院というものの存続が危うくなってくる。
後継者難ということは半世紀も前から語られてきて、
通常は教師や公務員を務めて、休日に住職仕事をするとか、
(これは、農家での農業従事者の後継者問題と通底する)、
一人娘なので、婿養子をとりたいとか、
いろいろな努力がなされてきたのだが、
いよいよ、ここまで至ってきたという話である。
「葬式仏教」といわれてきたのだが、
その葬儀の形が大きく変容して、お寺さんの出番がなくなってくれば、
いよいよその衰滅の時期を迎えるということになる。
で、どうするか、どうするべきか。
本書では、その問題の実態をルポしながら、
それぞれでの試みを掬い上げているのだが、
解決の方向性も、問題克服の方策も、うまく打ち出せているわけではない。
本書では、仏教寺院の苦難の近代史を、
明治初期の神仏分離=廃仏毀釈の厄災と、戦後の農地解放を指摘されているのだが、
仏教寺院が大きく抑圧されたのは、明治期の「上知令」に拠るもので、
京都でも、境内地その他一部を残しながら、そのほとんどの寺領地が収公されたのだった。
明治維新後の、京都の街の構造と景観を決定づけたのは、この「上知令」によるとされている。
明治後期には「神社整理令」が施行されて、神社の「整理」がなされて、
多くの神社が失われたのだから、
仏教寺院だけが「近代史の苦難」を被ったわけではない。
むしろ、近代国家の宗教政策史をきちんと学ばないと、現在の問題が見えてこない。
例えば、今になって「皇道仏教」が批判されたりするのだが、
明治維新以降、これだけ国家権力からいじめ抜かれた仏教が、
国家権力に寄り添い、そのお役に立ちましょうとばかりにその「パシリ」に走ったのは、
粗のようにでも方向転換しなければ、本当に抹殺されかねないという、
危機対応でのやむを得ないことだったと言えるかも知れないのだが、
いや、単に時流便乗しただけの粗忽な自己保身と見るのが本当かも知れない。
こういうことを敢えて言うのは、
「寺院消滅」という壊滅的な危機状況を目前にして、
「癒しの仏教」とか何とか布教の力点をずらして、時代対応という大衆迎合に走り、
皇道仏教の時代の過ちを再び犯すことにならないかと、危惧するからである。