最近、ポピュリズムという言葉をよく聞きます。「大衆主義」とか「大衆迎合主義」と翻訳されます。民主主義社会において、エリート権威主義と対立するのが、この大衆主義です。社会の支配層や知的エリートの権威に対する民衆の不信感や反感を掬い上げて、広範囲な大衆の支持を得て行われる政治がポピュリズム(大衆主義)です。ただし、学識者や知的エリートの側からは、扇動政治家の人気取りパフォーマンスに無知な愚民が操られている「衆愚政治」の状態と見做されている向きもあります。
例えば、学識者やリベラル・マスコミの側では、アメリカのトランプ大統領の誕生、イギリスのEU離脱決定、欧州全体に巻き起っている移民排斥運動、安倍長期政権の存続、さらには日本における嫌韓意識の高まりなどは、このポピュリズムの負の側面が顕在化した問題だと言われています。
この場合の「ポピュリズム」は、大衆にとって耳触りの良い意見を声高に主張し、耳目を集めて巧みに扇動することで、手段を選ばず広範囲な人気を得て、権力を握ろうとする政治のあり方(扇動政治/衆愚政治)を示し、通常、これを批判する用語として使われています。そして、大衆の不安や願いを代表(扇動?)して、既存のエリートの権威や意向に対抗する思想の持ち主や政治家を、良い意味でも悪い意味でもポピュリスト(デマゴーグ?*)と言います。
貴族から政治の実権を奪って小農民や商工業者を保護し、平民の不動の支持によって権力を固めた古代ギリシャの僭主ペイシストラトス、コルシカ島の田舎貴族の出身でありながら軍事的才覚によって庶民の人気を得て、フランス皇帝にまで登りつめたナポレオンなどは、ポピュリストの代表です。また、左派リベラルによって、もっともよく用いられるポピュリズムの例は、優れた経済政策と反ユダヤ主義でドイツ国民を熱狂させたヒトラーのナチス・ドイツです。

けれども、「今日の政治状況におけるポピュリズムが問題だ」と言っているのは、反トランプ、移民排斥反対、EU離脱反対、安倍政権打倒、9条護憲といったリベラルな意見を持つ左派の人々ばかりです。
そして、彼らは、国論を二分するような問題に関して、「自分たちと対立する意見の人々は、無知な大衆を扇動する『危険なポピュリスト(デマゴーグ)』か、扇動された愚かな民衆か、そのどちらかである」と、安易に断定してしまう傾向があります。
さらに、例えば「安倍首相は、根っからの戦争好きのポピュリストだ」「そして、それは、岸信介に繋がる彼のDNAが証明している」というように、ポピュリズム=ナショナリズムのセットで誹謗する人が多いのです。
ナショナリズム(民族主義)に関して、彼ら左派リベラルが真っ先に自動的に連想するのも、やはりナチスです。そして、一般にナチス=邪悪ですから、その点で、相手側の主義主張を一切認めない不寛容の裏側で、「自分たちの側こそが正論であり、正義であり、道理である」という強固な(自信に満ちた?)思い込みを、わたしは感じます。
つまり、反トランプ、反安倍政権、反9条改正、反移民排斥、反捕鯨、反嫌韓、反原発、反EU離脱という主義主張を掲げる左派リベラルの人たちは、「対立する相手側は完全に邪悪であり、自分たちは絶対的に善の側に立っている」と、頭から一方的に信じ込んでいるように見えるということです。
だから、「正義を貫いて悪を叩き潰すのに、手段を選ぶ必要はない」と、自分の側の策略(マキャベリズム)や宣伝工作(プロパガンダ)は、良心の呵責なく正当化してしまえるのではないでしょうか。例えば、代表的な左派リベラルの朝日新聞による吉田〝慰安婦狩り〟証言の取り扱い方、あるいは、加計学園問題に関する前川文書の取り扱い方にも、そうした偏向した情報戦略が見られます。

しかし、本来、国民の間で拮抗する二つの意見は、どちらかが完全に正論で、もう一方は完全に間違っていると、安易に決めつけることは、そうそうできないはずです。それを、「自分は常に正義の側で、相手方の意見は歪んだポピュリズムである」と断定して一方的に批判するのは、あまりにも都合が良すぎます。
それとも、無意識にではなく意識的に、相手を蔑み貶める〝レッテル貼り〟の明確な意図を持って、わざと決めつけた言い方をしているのでしょうか。結局、それは、相手を陥れるための巧妙な策略なのかもしれません。
その上で、「自分は絶対的に善意なのだから、目的は手段を正当化するのだ」と本気で思っているなら、程度の差こそあれ、テロリストと変わらない狂信者です。あるいは、根っからの卑劣な下衆の魂胆で、ナチスと何も変わらない所業に勤しむ邪悪な存在、大衆のルサンチマン(恨/ハン**)を自己の欲望のために煽る、良心なきデマゴーグ(大衆扇動者・扇動政治家)かもしれません。
そうでなければ、本人がルサンチマンそのもので、相手を「ポピュリストだ!」と殊更になじるのは、自分が実は思想的に脆弱な知的弱者であることを自覚しているが故の苦しい自己正当化に過ぎない、ということも、少なからずあるでしょう。
いずれにしても、表面上、自分は真面目で立派で非の打ち所がないと信じ込んでいる人は、日頃、自分の内面について悩むということが一切ありません。どんな時でも、常に「自分は悪くない」ので、罪悪感も後ろめたさもなく、そもそも悩む理由(動機)がないからです。それで、一生涯、自己について悩むこと(反省)がないので、人間的成長も死ぬまでないのです。
しかし、そのようなリベラルやマスメディアの防衛機制的(精神病的)な自己肯定の態度は、国民の間の分断をさらに深めるだけです。

ともかく、ポピュリズム、ポピュリズムと、繰り返し、紋切り型の一方的な物言いで非難をされていると、逆に「ポピュリズムで何が悪い?」と返したくなります。実は、そう言う、彼らこそ、勝手に都合のいい対象を選んで〝敵〟認定し、その妄想の敵を「絶対の〝悪〟である」と大衆を扇動する最悪のポピュリズムに陥っているのではないでしょうか。
例えば、欧米における反捕鯨の風潮など、まさにエコテロリストの扇動による悪しきポピュリズムそのものです。また、韓国の「ロウソクデモ」で大統領になったムンジェイン氏など、衆愚政治に陥ったポピュリストの代表と言っていいでしょう。
それを、「『ロウソク』は民主主義の勝利で、トランプの勝利はポピュリズムだ」とか言うのは、意味がわかりません。ロウソクが民主主義の勝利なら、トランプ大統領誕生も、民主主義の勝利であるはずです。
同時に、「ムンジェイン政権の支持率の高さは、韓国民の民度の高さを示している」としながら、「安倍政権の総選挙の勝利は、日本国民の民度の低さを示すと共に、心配されていたポピュリズムの顕在化である」と主張するのは、国民の過半数に喧嘩を売っているにも等しい、ひどい偏向姿勢です。
トランプ支持派にも安倍政権支持派にも、それなりに真っ当な支持理由があります。反移民派にもEU離脱派にも、もっともな原因と理屈があります。反中にも嫌韓にも、捕鯨推進派にも、9条改正支持派にも、当たり前に納得のいく当然の理由があるのです。リベラルが信じ込んでいるように、知能程度の低い無教養な頭空っぽの野人が、悪魔に扇動されて操られているわけではない、ということです。
わたしから見ると、朴槿恵さんを牢獄につないでいるムンジェイン支持者のロウソク民主主義の方が、トランプ支持者よりも、よっぽどファッショに見えます。

果たしてエリート権威主義に染まった独善的で偏狭な意見は、実生活の荒波を乗り越えてきた生活者の知恵より、どれほど優っているでしょう。レヴィ・ストロースではありませんが、「科学的思考」は「野生の思考」より優位にあると、誰が確信を持って言えるでしょうか。
例えば「白人警官は常に悪で、黒人一般市民は常に善」というリベラルの大前提は、本当に疑う余地のない真実でしょうか。「実は黒人市民の方が、凶暴でとんでもなかった」ということは、まったくないのでしょうか。「悪い白人警官と無力な黒人市民」という〝神話〟は、常に真実というわけではないかもしれません。「黒人が権利を叫ぶのは許されるが、白人が権利を叫ぶとレイシストと非難される」というKKKの言い分にも一理あります。
あるいは「ケダモノ日本兵は、無垢な韓国人の少女を、20万人も無理矢理〝性奴隷〟にした」という韓国人の信じる大前提は、本当に正しい歴史なのでしょうか。「実は、ほとんど嘘だった」ということは、考えられないでしょうか。「慰安婦に少女はほとんどいなかったし、みんな政府の募集に応じたのであって、誰も日本軍に強制連行されて慰安婦にされた者はいない」とは?
「常に、日本は悪で、韓国は善である」という〝神話〟も、真実でないかもしれません。日中・太平洋戦争の日本兵と、朝鮮・ベトナム戦争で大虐殺を繰り返した韓国兵では、本当はどちらがより残虐だったのでしょう。そもそも、四・三事件や保導連盟事件だけでも、同胞を100万人以上虐殺している韓国軍よりも残虐な軍隊は、世界的に見てもポルポト軍ぐらいでは?
「鯨やイルカを食べる日本人は野蛮で、豚や牛や羊や鹿やカンガルーや鳩を食べる西欧人は文明人」という神話イメージは、信じるに値するでしょうか。「移民排斥論者はレイシストであり、移民推進論者はそうではない」という前提は、どうでしょう。「沖縄の基地反対派は常に弱者で正義であり、基地推進派は常に利権がらみの悪党」とか「左派リベラルは常に正しく、愛国者は常に胡散臭い」という〝神話〟については?
すべての思い込みを取り払った時、どんな真実が見えてくるでしょうか。

今日、ポピュリズムは、ナショナリズムの特徴の一つとされる排外主義とともに語られます。けれども、わたしとしては、例えば、右派や安倍政権をポピュリズムであると非難する辺野古・高江の活動家たちこそ、時として誰よりも排外主義的で不寛容であるように思えるのです。
また、節操なき人気取りポピュリストとして、わたしの頭に真っ先に浮かぶのは、自分は火の粉の飛んでこない安全なところにいて、「打倒安倍政権」と「原発ゼロ」を叫ぶ小泉純一郎氏と細川護熙氏のお二人です。小沢一郎氏と並んで、小池「希望の党」の影の画策者でもあります。
彼らは、おそろしく自信に満ちていて、自分を疑うことも、深く内省を迫られることも、罪悪感に苛まれることもありません。「自分は常に正しい」からです。
ところで、リベラル・マスコミの「自分は常に正しい」は、「知らせたくないことは一切報道しない」「知らせたいことは、極めて一方的な論理で伝える」という手法で行われてきました。アメリカでのトランプ報道も、日本での沖縄報道や安保法制報道や反核運動報道などもそうです。
ところが、2000年代に入って、市民社会へのインターネットの普及が、彼らのこうしたプロパガンダを非常に困難にしています。市民は「マスコミが知らせたくないことを、勝手に知るようになった」からです。
例えば、2000年代になって「嫌韓」意識が広まってきたのも、市民が日常的に自由に韓国の言論に触れられるようになったことが大きいのです。私たちは毎日、韓国で発行部数1位の「朝鮮日報」2位の「中央日報」の日本語電子版を無料で読めます。そこで、韓国では「親日派」と非難される右派の新聞で、どのような言論空間が創られているのか、リアルタイムで知ることができます。さらに、日本人や韓国人の個人の手による韓国ネット言論の日本語翻訳ブログを読めば、ハンギョレなど左派新聞の記事も読めますし、一般の韓国人の考えていることを、より具体的に知ることができます。そして、「韓国の知識人・言論人の主張を知れば知るほど韓国が嫌いになる」のです。
これが日本国民の「嫌韓」を促進した最大の理由です。
ちょうど「『沖縄タイムス』『琉球新報』の記事を読めば読むほど沖縄が嫌になる」のと、構造はよく似ています。ただ、沖縄の場合もそうですが、おそらく市井の人々は、学識者・知識人ほど反日なわけでも偏向しているわけでもないでしょう。韓国や沖縄では、一般に学識者・知識人ほどタチが悪いのです。




*ポピュリスト(大衆迎合政治家)とデマゴーグ(大衆扇動者)は、本来、「大衆が持っている不安や願望を焚きつけて自らの利益のために利用する大衆扇動者である」という点では、大差なく用いられる用語です。ただし、その時、扇動に利用する情報が、必ずしも嘘ではない場合はポピュリストであり、情報がまったくのデマである場合はデマゴーグであると言えます。しかし、両者の間には、限りなく広いグレイ領域があり、どちらとも言える場合も決して少なくありません。
一方で、ポピュリストには、既成権力や知的エリートに対して、市井の一般大衆の知恵や経験を持って立ち向かう庶民の味方(代弁者)というプラス・イメージの積極的な意味もあります。デマゴーグには、マイナスの意味しかありません。

**ニーチェの定義によるルサンチマンと韓国の恨(ハン)は、基本的に同じ精神状態を指しています。両者ともに、絶望や諦めを伴う「叶わぬ願望」や「解消できない嫉妬」の感情に耐えきれない「弱者」が、そのような感情を自分に与える「強者」への恨みを抱き、「こんな気持ちを自分に抱かせる相手が悪いんだ」と自己正当化するものです。そして、自分の正当性を信じこむ事で、強者に対して道徳的優位に立っていると勘違いし、「自分は正当な理由で相手を憎んでいるのだ」と考えるのです。実は、そうではない事を示すあらゆる事実や証拠を無視し、さらに憎しみを募らせます。そして、ついには、暴力的手段を用いてでも、強者を引きずりおろそうとするのです。最大の共通点は「自分には相手を憎む正当な理由がある」という強固な思い込みです。
ニーチェは、「キリスト教道徳」と「社会主義」を、ルサンチマンとして否定しました。例えば、キリストは「貧しい人は倖いである」「金持ちには天国の門は狭い」と言ったので、貧しい人々は「俺たち貧乏人が善で、金持ちは悪なのだ」と考えるようになったのです。また、マルクスは「一部の資本家が、大多数の労働者を支配するのは間違っている」と言ったので、貧しい労働者は「俺たち正義の労働者は、悪党資本家どもを引きずりおろす権利がある」と考えるようになったのです。しかし、これらは、どちらも、彼ら貧しい者たちにとって、都合のよい勝手な理屈であり、思い込みであるに過ぎません。
一方で、「恨」は、韓国文化の基盤をなすもので、伝統的国民性の根幹と言ってもよいものです。そして、近年においては「日本」に対する思い込みと刷り込みに、大きな特徴があります。「日本は韓国にひどいことをした悪魔だから、日本に対しては、韓国人は何をしてもいいし、どんなに憎んでも当然だ」と、彼ら韓国人は考えているのです。
しかし、「恨」は、韓国人の専売特許というわけでもなく、わたしとしては、安倍政権を引きずり倒そうとする左翼リベラルの言動にも、強烈な恨(=ルサンチマン)を感じることがあります。「安倍は戦争好きの悪魔だから、悪魔を引きずり降ろそうとする我々は正義なのだ」と、彼らは思っているのです。
そして、沖縄県民の「内地」に対する心情にも、根深い恨(=ルサンチマン)があります。「沖縄は差別されてきた犠牲者なのだから、我々が内地人を恨むのは当然だし、償いを求めるのも正当なことだ」と、彼らは感じています。
さらに、沖縄の左翼の場合は、上記の二種類の「恨」が合体しているだけに、その反米反日意識は、なかなか強烈なものがあります。そして、ついには、金正恩が大好きになって、毎年1月8日に那覇で生誕祭を祝うというのも、一見過激には思えますが、「日本憎しの成れの果て」というか、無理からぬことなのかもしれません。
彼らにとっては、米軍と対峙し、「日本帝国主義(?)」を倒すポテンシャルすら持つ(ように見える)北朝鮮は、いつの日か沖縄を解放してくれる英雄国家に見えるのでしょう。そうした沖縄左翼の心情は、「ロウソク民主主義」で、親中親北反日反米思想のムンジェイン氏を大統領に押し上げた、韓国の従北派の意識と深いところで重なるように思います。
しかし、彼らの恨み憎しみの心情は、すべて、自分だけに都合の良い理屈に則って形成された勝手な思い込みに基づいたものなのです。彼らの覚えている過去も、彼らにとって都合のよい限定された過去だけで、しかも、それらの記憶は、実に自己本位に大幅に偏向解釈され、ほとんど捏造と言ってよいほど大胆に編集されていきます。そして、その日々更新されていく人工記憶に基づいて、己の絶対的正当性を振りかざしているのです。
ニーチェは、このようなルサンチマン特有の性質である「自己に都合のよい理屈(権威)を盲信する欺瞞に満ちた道徳意識」は、「『君主の道徳』ではなく、『奴隷の道徳』である」と述べて、その心理的欺瞞を激しく非難しています。
一つ、ニーチェでなくとも言えることがあります。それは、「彼ら、『恨(ハン)を抱く者たち』には新しい時代を切り開く能力はない」ということです。偽りの過去に執着する歪んだ心情である「恨(ルサンチマン)」に、未来への希望はないのです。彼らに用意されているのは、常に「亡国の道」だけです。