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2012-02-22 02:09:39

ショックドクトリン

テーマ:ブログ
まず、仲間から引き離し孤立させ、独房で電気や水などでショックを与え、記憶を消滅させる。
そうすると人間は人格改造されやすくなるというショック療法がある。

CIAがテロリストや捕虜を人格改造させるのに使ったこの方法をビジネスに利用するのが1980年代から流行している。
これをショックドクトリンという。

これを解き明かしたのは、カナダの女性ジャーナリストであるナオミ・クライン氏、41歳。

例えば、2004年のスマトラ地震の被災地に大資本が投入され大リゾート地が作られるビジネスが展開されたり、ハリケーン・カトリーナが襲ったニューオールリンズでは、公立の学校が廃校にされ、教育バウチャー制度の社会実験が行われたりした。
これ以外にも多くの実例を挙げて、ショックドクトリンの実態を解き明かしている。

このようにショックドクトリンとは、大自然災害、戦争、テロなど突発的な社会システムの混乱をビジネスチャンスとして捉え、大資本を流入させて、短期で利益を狙う改革や乱暴なやり方のことである。

そして東日本大震災の復興に、ショックドクトリンは「特区」という名で今襲い掛かっている。
要するに被災地でひと儲けを当て込んで、復興を進めているということである。

これの何がいけないのか?

被災地で傷ついた人の中で、漁業を生業とするある男性がこのように言った。

「オレは何度津波が来てもここで漁業をやる」と。
被災民としての、どう復興したいかを表現したひとつの端的な例である。

これは非常に伝統に根ざした、人間の根本的な生き方ともいえます。
先祖から何十年も漁業をやっていて、それを自分の代で途絶えさせたくない。あるいは自分の命ひとつと引き換えに、漁業民同士の共同体を壊すことは、それ以上に大きなものを失うのではなかろうか。
この思いの根拠は、そんな風にも想像できます。

自分が暮らした土地で自分の生業を取り戻す。

これが復興の基本のはずだが、震災で何ヶ月も政府からほったらかしにされた東北の人々は、ショックドクトリンによって「何でも受け入れてしまう」精神状態が芽生え始めていても不思議ではないのです。
復興が遅れ、被災生活が極限に来ていれば、それがたとえ大資本家の短期の儲け話でも、受け入れてしまいかねないのです。

自分が暮らした土地も生業も捨て、安全な場所に移住することは、ショックドクトリンからすれば、その人たちの安全を考えているわけではない。
むしろ共同体の破壊、地域の切捨て、即ち、「弱者切捨て」につながることを思い知らる必要があります。

そして、何度津波が来てもここで漁業をやると言った男性の生き方が、なぜ忠実な生き方と言えるのだろうか?

ごく単純な話で、震災だろうが、混乱だろうが、それらの人間が生きてるうえで直面する苦難に対し、抵抗したり、防災したり、被害を受けたらケアしたり手当てをするのが、そこの共同体で暮らす忠実なあり方であるのに対し、ショックドクトリン的にビジネスチャンスとして捉える対処の仕方は、何かにすがったり、単純なものに飛びつく、いわゆる新興宗教に飛びつくのと同じで、人間が危機に直面したときの大事な振舞い方を消滅させてしまうことになるからなのです。

ショックドクトリンとはビジネスチャンスという目的のために発動されるものです。ビジネスのチャンスを成功に導くために、ショックを利用したり、意図的に作り出したりするものなので、ビジネスに組み込まれる人のことは全く考えていません。こういう考え方を「新自由主義」といいます。
新自由主義に自分の生活や雇用が飲み込まれないようにするには、新聞やテレビの意見を聞くことでも、新橋の飲み屋で政治の批判話をすることでもなく、危機に直面したときに何を大事にするかを持っているかどうかにかかっているのです。

何を大事にするかは、素朴な時代でない現代の多様性の中で決定するのは非常に難しく、決断力も必要ですが、ひとつ注意するべきは、損得勘定や世論の意見に流されたりするのが日常的に習慣化してる新自由主義的な発想が、私達自身の体に既にこびりついてるということは常に忘れてはなりません。
2012-02-09 02:43:15

レレレのおじさん

テーマ:ブログ
かつて町にはおせっかいにも、アナタの行動を監視するおじさんがいた。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと八百屋まで…」
向こう三軒両隣り、という近所づきあいで安全が担保される習慣のあった頃の話である。

やがてプライバシーを重視することの方が安全という価値に取って変わり、近所づきあいや周囲の目というものはわずらわしいものとなった現代では、“他人に構うな”が他人との接し方の標準となった。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと(うるせえじじい)…」

電車の中ではマナーの悪い若者に注意すべきかどうか、いまだに答えは見出せていない。

偉そうにおじさんがマナーを注意すると、そのおじさんがルールになってしまい、「何でお前の言う事を聞かなけりゃならない」と、子供から反論をされてしまうからです。

この見知らぬ誰かが怒らないと仕方がない状況とは、何なのか。

かつて子供らの行動範囲というものは、電車に乗る必要もほとんどなく、せいぜい近所か町内といった狭いエリアに限定されていた。
そして町中にはレレレのおじさん的な、防犯の役目となる人や子供らの悪さを寸止めする効力となる人がいたのです。
「あのおっさんの前ではおとなしくしていよう」と。
そうすることで、社会に盾突くにはリスクがあると子供たちは自然と学習したのです。

だが、アットランダムに人が集まり、色んな考えの人間が一堂に介す電車の中で、一応の了解を示しあうには、偉そうにおじさんがいくら真っ当なことを言っても聞く耳を持ってもらえるはずもなく、共通のルールやマナーという人じゃないものに中立公平の機能を担わせて何とか安定させているのです。
ところが、ルールやマナーというは空気のようなもので、各人がないと思えば、たちまち効力はなくなってしまいます。

かくして、電車の中という空間は制御不能のカオスとなってお手上げ状態なのです。

しかし、やはり子供にものを教えてやれるのは大人の役割です。

近代社会で暮らす上で、電車のひとつやふたつにも乗るだろう。
そしたら、ルールやマナーをひとまず守らないとやってゆけないのは仕方ないのだよ、
ルールやマナーが絶対的な力があるのではないが、それに寄りかかってゆくしかまとまる方法がないということ、
そんな近代社会の生きにくさを教えてあげられてる大人は本当に少ない。

言い換えれば、レレレのおじさんがいなくなった社会は安全装置がはずされた社会です。
その典型が電車の中なわけで。

電車賃払ってんだから、乗客に権利がある。
大の大人が子供と同じ理屈で納得するしかないほど、私たちはまたしてもこんな自由論を抱いてしまってるのです。

電車の中では「レレレのおじさん」は「変なおじさん」と思われても仕方ないです。
だが「レレレのおじさん」が介入する余地のない社会になってしまってること、このことのリスクを社会は教えてくれません。
2012-01-28 21:11:28

人工的な絆

テーマ:ブログ
東日本大震災があったからか、先行き不安な社会状況を目の前にして今年の新成人たちも口をそろえてこう言う。
「絆が大切」

その大事とする「絆」とは具体的に、
募金やボランティアに関心を持つこと
福島で苦しんでる人たちを見て涙を流すこと
こんな風な手合いのものと解釈されている。

気持ちは分かる。

が、おおよそニッポンでは小さい頃から「友達は大事だよ」と同じように、ヒューマニズムの脈絡で「絆が大切」は扱われてることを見逃してはならない。

友達は大事ですよ、でもちょっと前まで散々、「絆が大事なのは分かるが、自分の身は自分で守らなきゃ。他人に構ってられない。やっぱり本音は自分が大事だ」とすることが主流だったのに、
ありゃ、どこに行った?

どうやら大震災という天変地異を体験して、自己中心的もやり過ぎはよくないなぁと、「絆が大切」とでも言わなきゃ気まずくなったという風に気まぐれで言ってるようにしか聞こえない。

要するに「絆が大切」とは言ってのけてみたものの、本当は腑に落ちてないのです。

絆とは、ボランティアでもやって義務的に他人のことを思いやったり、人間なら自然に清い心があるはずとヒューマニズムにうったえたり、人工的に生み出すものではありません。

絆とは?
ごく単純な話なのです。

アナタの目の前に、もし働く意欲もあり努力もしてるのに悪戦苦闘した結果、どん底にいる人がいたとしたら…。
その人を何が何でも助けなければならないのです。
なぜなら、自分が助けるべき人と認めた人を助けなければ、、自分が良しとする価値観も正義もただのキレイゴトでしかなくなり、アナタという人間はこれが正義だという価値観を持たない単なる動物に成り下がるからです。
そこでもし彼を見捨てたとしたら、他に何を大事にするべきかをアナタは本質的に見失い、開き直りの境地にさまよってしまうはずです。

個人主義がダメな理由、共同体破壊がいけない理由はここにあるのです。
何も自分のことのみを大事にし、好き勝手やってる人をねたんで言ってるのではないのです。

だから助けるという行為も、福祉制度で国家が助けるべきだとか、困ったときはお互い様でギブアンドテイクの関係が前提にあるのではなく、自分が「善」だとすることを揺るがせにできないと感じ、守ろうとするとき、
例え自分の全財産の半分を差し出してでも、本当は行わなければならないはずなのです。

しかしこの当たり前に皆が持ってるともいうべき「善」という感覚はいつ、誰かに教えられたものではない。
アナタ個人で見つけたものでもない。
どうやって身に付けたのだろうか。

その答えは、この世の中、この国、この土地や町で、何が「善」とされてるか、そこに掛かってくる訳です。

この土地、この町という共同体的な場所で暮らす人々が共通に「善」だとする『共通感情』というものが見えない形で実際には存在してるのです。
これは長年に渡ってそれが「善」だとされてきたものを、この土地や町で暮らす人々が伝統や文化、習慣という形で確実に受け継がれているのです。
これは昨日今日、外国から輸入されてきたような価値観でもなく、アメリカという国が誕生したのよりもずっと前からある日本という土地で長い年月をかけて日本人が固有に共有してきたものなのです。

「あいつのやってることは人としておかしい」
「いや、あいつの言うことにも一理ある」
というように、何が善なのか目には見えない『共通感情』というものを人々は共有し、時には議論し、また今生きてる人間だけでなく、先に生まれた人からその子供へ伝えられてゆく共同体という環境が、どこかから輸入されてきた近代資本主義や近代民主主義によって破壊されている。
そういう背景から、自分の子供が死にそうになってるのに平気なお父さんやお母さんが誕生してしまうのです。
2012-01-16 23:55:01

ドリームの温床

テーマ:ブログ
「夢は絶対に叶う!」
おおそうかと、本を1ページ開いてみると

「年収1000万円は可能です」

といきなり年収の話になる。

最近やたらと「夢を持とう」と、メンタルトレーナーみたいな人やビジネスマナー講師、経営コンサルタントなる人物までもが、それを利用して人を引き付けている。

どこからともなくやってくるこの夢、「ドリーム」は、分かりやすいが、どことなく
ちまたで流れる自由とか平和とかと同じ匂いがする。
皆さん「自由」ですよと言われても、やりたい放題の自由なのか奴隷が束縛から解放されることなのか、自由にも良い面と悪い面があることが全く仕分けされていないのとよく似ている。
「夢」も同じで、夢という不確定な未来に向けたビジョンに気分や雰囲気だけで
「金」や「地位」が「夢」だと単一化させてるのです。
夢には悪夢もあるのですよ。
このように、その辺で語られるドリームの温床にはふんだんに気分や雰囲気が支配しているのです。

「夢を見るなんて甘い、現実を見ろ」、といいたいのでない。
むしろ夢に敗北した者も、その単一化された夢をうらやましがり、虎視眈々と次の機会を狙っている点では彼らと同じ夢を見てるのと変わらないのです。

つまり夢の描き方が最初から間違えてるのです。

人間は時間の中で生きてる限り、過去を振り返り、未来を見据えざるを得ない。
しかし夢を持つということは、起きてしまった過去に囚われてばかりはいられなく、不確実だが未来に意識を向けていかざるを得ません。
その未来はあいまいで不確実なゆえ、どうしても夢を有形の「金」や「地位」と単一化したくなるものです。

未来という不確実なものから絶えず受ける挑戦に対し、「金」や「地位」と構えてみせるのは、生きてる上での矛盾、葛藤にどう対処するかという人間の知恵を使わないで済むのです。

便利な世の中で夢を単一化したくなるのは無理もありません。
テレビをつければスターがいて、それに憧れる。こんな少年少女の素朴な夢を持つことも大事なのは確かだが、大人になりいくつかの人生経験を通して、まじめに生きていると、矛盾や葛藤からの人間の知恵に対する挑戦がおぼろげにでも、ほのみえてくるのもです。

そういう矛盾や葛藤に知恵をしぼって向かってゆくことを自覚してゆかなければ生きてる値打ちもないというものです。

80歳にもなりそろそろ死にそうになったとき、年収1000万円であーよかったとか、一生低賃金でイヤだったなあとか、死ぬ間際にそんな風に思わないものです。年収1000万なら1000万なりの、100万なら100万なりの、絶えず受ける矛盾や葛藤の挑戦を自覚し、取り組んでる人を、例え年収100万円でも社会は簡単には見捨てないものです。


2012-01-07 20:36:10

決意、葛藤、おっちょこちょい

テーマ:ブログ
子供を産む産まないの判断は人間しかしない。
犬猫をはじめ動物は必ず産む。
当たり前だが動物自身で避妊や中絶をするわけはなく、獣らに産まない選択などない。
人間の場合、育ててゆけるか、あるいはただ育てるだけでなく、子供をある程度立派な学校に入れて、優秀な会社に就職させてあげられるかまでを考慮に入れて産むということを考えてしまう。
人間が少なくとも犬猫以上の高尚な存在だとするなら、産む産まないの選択をする人間の行為は、高尚と言えるのかもしれない。
だから景気が安定しない今の時代に産まない選択をする人が増える結果、少子化となるのは人間が高尚な証とも言える。

本当だろうか?
いや、全く違う。

産むか産まないかの判断する能力があること自体は人間が高尚な証かもしれないが、その判断の基準を何にするかで本当に高尚かどうかが決まるはずである。
少子化になること自体は地球にとっていいことか悪いことかは別にして(多分いいことだろうが)、将来を悲観し、未来の安全を担保して産まない選択をするのは賢い選択かもしれないが、残念ながらそれは状況適応でしかない。
状況適応とは物事を考えないことである。

では産む判断の基準は、将来を予測してではなく、何にかかってゆくのだろうか?

産めるか産めないかということ以上に、産みたいか産みたくないか、つまり産む意味を考えてしまうのが人間が高尚である証なのです。
子供を産むのにどんな貧乏人でも出来損ないでも、その意味を持たざるを得ないということです。
産まない選択が悪いと言うわけではなく、産む意味を感じない者は決定的に欠けてるものがある、ということです。

では欠けてるものとは何か?

子供を産むことひとつとってもその意味を考えるということは、必ずその過程に決意なり、葛藤なり、おっちょこちょいなどが複雑に絡んでくるわけで、そういったものをリアルに身に迫られることで、本当の生きてる実感や生きる活力が生まれてくるものなのです。

そういう頭の痛くなるようなことを避けて、育てられるかどうかだけを考えたり、それすらも考えず産み捨てるような者は状況適応のただ中にさまよう生き方を延々と続けるのです。

はっきり言って状況適応は自分で考えないで済むから楽なのです。状況だけで判断したり、うまくやってゆけると思うのはうぬぼれであり、せっかくの生きる活力も生まれてこないのです。

子供を産むこと、生きることなどには必ずと言っていいほど犠牲を伴うもので、いいとこ取りはできない。
産む意味を問い続ける場面でのギリギリの決断や葛藤、おっちょこちょいはそのことを如実に教えてくれるのです。

状況適応は結果よければ過程は何でもよい帰結主義です。
それはオレが、あなたが生き残れればいいというだけのことです。

人はいつか死ぬ存在だと本当に認めるなら、オレが、あなたが個人の生にすがりつく姿は傍から見てみすぼらしい。
だからといって「オレなんてちっぽけな存在だ」と居直るつもりも毛頭ない。
ちっぽけな存在だからこそ全力で事にあたる人にこそ、産む産まないの選択する権利が発生するというものです。

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