じゅにあのTV視聴録

~視聴した番組のメモ、雑感などを書いています~


テーマ:
【NHKスペシャル】
「女たちの太平洋戦争~従軍看護婦 激戦地の記録~」

(NHK総合・2015/8/13放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0813/

<感想>

 連日太平洋戦争のドキュメントを放送しているNHK特集。この日は従軍看護婦の実態が生々しい証言とともに浮き彫りになりました。ひとつの記録として大変価値のある番組だったと思います。

 要望として感じたのは、エピソードがあちこち飛びすぎる構成上の問題を感じました。ビルマ(ミャンマー)の話とフィリピンの話が交互に交錯したのと、証言者のインタビューに頼りすぎて焦点が視聴者に分かりづらかったと思います。私もメモをまとめてようやく全体像が掴めたというのが正直なところです。

 それでもメモがこれ以上私の能力ではまとめられないぐらい長くなりました。おそらく読まれる方は少ないと思うので、下記の7点のポイントだけ読んでいただければいいかなと思います。

・従軍看護婦が戦時中5万人以上送り出され、亡くなった数は分かっていない。
・現地で熱帯特有の病気になった兵士や看護婦が多かった。しかし薬も少ない状況だった。
・看護も十分に出来ないほど多くの兵士が負傷し戦死した。火葬も出来ない兵士もいた。
・連合軍の攻撃やゲリラの襲撃で命を失った看護婦も多くいた。
・現地での食糧などの略奪もあり、現地人の殺戮も目の当たりにした。
・負傷した自軍の兵士を殺すことも目の当たりにした。
・そうした極限状態の中で人間の感情を失い、戦場での経験に心を苦しめられた看護婦も多くいた。


 戦争の悲惨さ・愚かさについては、この間感想でずっと言ってきたので繰り返しませんが、ふと疑問に感じたことを。当時から赤十字の看護活動についてはジュネーブ条約で攻撃が禁止されていたにも関わらず、攻撃を受けていたのですね。これは第二次世界大戦全体で連合国も日独伊各国もすべて何でもありの戦争をやってきたことを表していると感じました。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・1945年8月、戦いに敗れた日本軍の中に女性の姿があった。いわゆる従軍看護婦だ。日中戦争から太平洋戦争まで5万人を超える女性が戦地に送られた。
・軍の求めに応じ多くの従軍看護婦を送り出しのは日本赤十字社だった。長く非公開とされてきた「戦時救護班業務報告書」には、病院での治療や看護の実態、現地の状況に応じた訓練や派遣されてから帰国するまでの日々、傷病兵と向き合った看護婦たちの記録が残されている。
・日本が戦争へと突き進む中、使命感に燃え戦地へ向かった女性たち。南方の戦場で最も多く従軍看護婦が送り込まれたのは、ビルマとフィリピンという激戦地。兵士の命を守ろうとした女性たちはやがて自らも死と隣り合わせの状況に追い込まれる。おびただしい数の死と向き合い続けた女性たちの記録。

※証言者の方言については主旨が変わらない程度に修正しています。また見出しは当方で付けました。

<5万人以上の従軍看護婦を送り出した日本赤十字社>
・19歳から3年余りを従軍看護婦として過ごした奥秋野さん(92)。戦場の記憶は今も心に深く刻まれていて、今でも夢にうなされることがあるという。彼女はフィリピンの病院で毎日50人以上の負傷兵の看護にあたっていた。
・従軍看護婦は国内外の病院に派遣され、軍医や衛生兵とともに負傷兵の治療や看護にあたった。兵士になることができない女性にとって、従軍看護婦として国に尽くすことは憧れの生き方だった。
・中国とビルマに派遣された長谷部鷹子さん(94)は、看護婦は兵士たちにとって母のような存在だったのではないかと振り返る。
・1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃とともにマレー半島に上陸。シンガポール、ビルマなど東南アジア各地へ急速に戦線を拡大していった。
・翌年1月14日、陸軍大臣から侵攻した地域へ救護班の派遣を命じる電報が日赤本社に届いた。戦時救護班は婦長を中心に約25名で編成され、班ごとに戦地に置かれた軍の病院に派遣された。
・頼藤ツルさん(92)は志願して20歳で従軍看護婦となった。「一旦緩急あれば義勇公に奉じ(国に一旦ことが起これば、公の勤めに行きなさい)」という心境だったという。
・日赤は、全国35箇所の養成所から毎年2000人以上を送り出した。彼女たち宛てに発行したのは「戦時召集状」いわゆる赤紙だった。
・萩森敏子さん(97)よると、赤十字の看護婦は卒業後12年間否応なしに召集の義務に応じなければならなかったと証言している。
・看護婦の多くは20代前半の若い女性たち。中には既婚し家庭を持っていて乳飲み子を置いて派遣された人もいたという。
・従軍看護婦の数は終戦までに5万人以上、その派遣先は中国、東南アジアさらに赤道を越えて南太平洋まで及んだ。

<ビルマ(ミャンマー)で病に苦しめられた看護婦たち>
・南方の戦地で最も多くの看護婦が送り込まれたのが、当時イギリスの植民地となっていたビルマ(ミャンマー)。日本軍は資源を獲得し、連合軍の中国への補給路を遮断することが侵攻の目的だった。
・日本軍はイギリスからの独立を求めるビルマ人の協力を得て戦いを有利に進め、首都ラングーンを占領。さらに北部へと侵攻を続けていた。
・1942年4月、戦時救護班の第一陣がラングーンに到着。従軍看護婦が働く病院は兵站病院と呼ばれ、戦線の動きに応じ各地に置かれた。軍医や衛生兵約350人が勤務し、1000人が入院できた。
・看護婦たちの任務は召集から2年間だったが、報告書には「期限満了まで勤続は不可能かと思われる」との記述がある。彼女たちを苦しめたのは熱帯特有の病だった。
・西内清子さん(96)は、自分がデング熱に罹った経験があるという。40度ぐらいの高熱、体に赤い発疹が出た。同じ部屋全員が罹ったと証言している。体調を崩し帰国する看護婦が各地で相次いだのだ。
・そして兵士たちの間にも、蚊を媒介するマラリアが蔓延した。高熱に何度も襲われ、治療を怠ると脳に障害を起こし死に至る病だ。
・イギリス軍はマラリア対策のため医薬品の補給体制を整えていた。しかし日本は特効薬であるキニーネを外国製に頼ってきたため開戦と同時に輸入が途絶え、末端の兵士にまで薬を使えなかった。マラリアの脅威を懸念する声が陸軍で挙がったにもかかわらず、多発地帯に兵士が送り込まれたのだ。
・イギリス軍が反攻を開始すると戦闘は激しさを増していった。敵の攻撃を避けジャングルの中に作った病院で頼藤ツルさん(92)や田中ミツコさん(94)は大勢の重症患者の看護にあたったという。病院の患者最大収容力が3倍以上にも達していたと報告書には記されている。
・追い詰められる医療の現場。南方戦線の医療の責任者だった青木九一郎中将は兵站病院の増設を求めたが、受け入れられることなく戦線はさらに拡大していった。

<無謀なインパール作戦に巻き込まれた従軍看護婦たち>
・1944年3月、インパール作戦。日本軍はビルマから国境を越え東インドにあるイギリス軍の拠点インパールを攻略しようとした。しかし国境地帯には標高4000mのアラカン山脈が立ちはだかり、武器や食糧の補給は極めて困難だった。十分な補給もないまま強行軍を強いられた。飢えと病に苦しむ兵士たちにイギリス軍の激しい攻撃が浴びせられた。
・病院に運び込まれ、次々と最期の瞬間を迎える兵士たちを長谷部鷹子さん(94)さんは多く見てきた。火葬にすら出来ないほどの数で、衛生兵が腕や指を切って(部分的に)火葬したと証言している。
・さらに新たな問題に直面した。前線の野戦病院から兵站病院に送られてきた重傷者のうち回復の見込みがない場合は日本などの陸軍病院に後送することが原則だったが、その輸送路をイギリス軍に絶たれてしまった。
・その一方で、前線では一人でも多くの兵士を復帰させようとした。当時婦長だった吉田八千代さん(96)は軍への対応にあたったという。部隊から迎えがきて「生きてる者はみんな連れていく」と。しかし、目が見えない人を連れていっても死にに連れて行くようなものだった。患者は何も言わない中「連れて行っても役には立たない」と自分たちが引き止めたという。
・インパール作戦は4か月で中止。補給と兵站を蔑ろにした作戦は5万人の命を奪う結果となった。

<フィリピンの激戦で命を落とす従軍看護婦もいた>
・太平洋でも戦局は急速に悪化していた。1944年7月、サイパン陥落。日本本土への侵攻をめざす米軍に対して日本軍が決戦場と位置づけたのはフィリピンだった。首都マニラにあった南方第12陸軍病院には東南アジア最大の1000人を超える看護婦が勤務していた。
・同年9月、米軍は兵士を送り込もうとした日本の輸送船団を攻撃した。当時最年少の看護婦だった木村美喜さん(87)、川崎啓子さん(87)、奥村モト子さん(90)たちが負傷兵の手当をしたという「どこから手をつけたらいいのか分からなかった」「患者のただれた皮膚にすぐアリやらゴキブリがたかってきた」「お薬も包帯もガーゼも洗って再生して使っていた」と生々しい証言をしている。
・1945年に入ると米軍はルソン島に上陸。1月22日、第12陸軍病院も米軍の爆撃を受けた。川崎啓子さん(87)は、仲間の一人が戦死するのを目の当たりにした。一緒に出征した森塚さんは当時、腸チフスで入院していた。空襲警報が鳴って川崎さんは防空壕に逃げたが、重症だった森塚さんは動かせずに病室に残った。その直後、爆弾が病院を直撃。川崎さんが戻ると森塚さんの体は顔から上が無くなっていたという。
・マニラに迫る米軍を逃れ、日本軍はルソン島北部に撤退を開始。各地の兵站病院も軍とともに移動した。看護婦たちが重症患者を連れて逃げ延びた場所の一つに使われなくなった金鉱山の坑道があった。排水路の上に板を敷き、その上に1000人以上の患者が寝かせられ、毎日何人もの患者が命を落としていったという。奥秋野さん(92)は、そんな中で人が物のようにしか思えなくなり、悲しいという感情が無くなっていたという。

<ビルマ人のゲリラの襲撃にもあった>
・この時期、ビルマの日本軍も連合軍に追撃されて南部へ退却を強いられていた。これまで後方と位置づけられた兵站病院のある地域が戦闘の最前線になっていった。2月26日、イギリス軍の戦車がビルマ中部にあった兵站病院に迫った。防空壕に逃げた頼藤ツルさん(92)は「いざという時は私を殺して」と軍医に言ったという。「死んでも捕虜にはなるな」と教育されていたのだ。
・4月27日、ビルマ各地の兵站病院に撤退命令が下り、敵の目を逃れての逃避行が始まった。食糧も尽きて現地住民の食糧を徴発した救護班もあった。また、大雨で増水した川を渡ろうとして命を落としたり、イギリス軍との戦争に巻き込まれて死ぬ人も続出した。
・その中を生き延びたのはインパール作戦のために派遣された戦時救護班第490班の看護婦たちだった。20日間の行軍の末、軍医や衛生兵とともにある村に辿り着いた。そこである事件が起こったと岩本あや子さん(92)は証言した。近くで銃砲が聞こえたので何かあったのか聞いたところ、兵士が「道案内に連れて来たビルマ人を(自分たちの行動を知られないため)殺した」というのだ。
・この頃、こうした行為や食糧の徴発などでビルマ人の間で日本軍への反発が広がっていた。各地の村で農民ゲリラが組織され、日本軍への蜂起が相次いでいた。イギリス軍もこうした動きを水面下で支援していた。
・そして第490班の看護婦たちもゲリラの襲撃を受けたという。先ほどの岩本さんを始め、永井日出子さん(89)はその時のことが忘れられないという。この襲撃で婦長の中尾敏子さんを始め、9人の看護婦が戦死したという。

<極限状態になっていたフィリピンの従軍看護婦たち>
・フィリピンではマニラを脱出した日本軍司令部は島の北へと追い詰められていた。救護班は多くの重傷患者を抱え、山岳地帯を点々としていた。
・間近に米軍が迫る中、看護婦たちに重傷患者を殺せという命令が下されたという。奥村モト子さん(90)は「動けない患者を処置するから手伝ってくれ」と言われ、看護婦が病人を殺すなんて絶対できないと思ったという。
・密林を彷徨っていた看護婦たちには、飢えと病が襲いかかった。ルソン島作戦指導要領には「自活自戦永久抗戦」つまり自分で食糧を確保し永久に戦えと命じられていたのだ、そんな中で現地人がつくった芋や稲穂を泥棒して食べていたという証言もある。
・また戦場の極限状態の正直な心境として、渡邊民子さん(90)や木下とみよさん(99)は、兵士たちを救うことよりも自分自身が生き残りたかったと語っている。

<戦場での体験は何だったのか>
・看護婦たちが終戦まで書き続けた「戦時救護班業務報告書」には「班員一同士気益々旺盛ニシテ使命の達成ニ邁進シアリ」と綴られている。しかし戦場で待っていたのは、看護婦としての誇りも人としての尊厳も打ち砕く無残な現実だった。
・従軍看護婦となった女性が何人が亡くなったのか、確かな記録は残されていない。
・戦後70年、あの戦場での体験は一体何だったのか。3人の元従軍看護婦が語っている。

・頼藤ツルさん(92)
「あの時間は何だったんだろうかと思っている。本当に無益な何もならない。帰ってから暫くの間、人の死に対してあんまり感じることができなかった。今は本当に人の命を大事にするのに(当時は)軽いものだった」

・黒瀬サツ子さん(88)
「戦争をした人は誰だ思って、腹が立つときがある。誰か10人でも20人でも絶対戦争はだめって言って止めてくれる人がいたら、こんな悲劇は起こらなかったと思う」

・西内清子さん(96)
「戦後間もないある日、偶然元患者だったという人と汽車の中で再会した。『ラングーンでお世話になりました』と言われたが、私は恥ずかしくて何とも言えなかった。(なぜなら)そう言われるような看護をしてなかった(できなかった)から」

(2015/8/14視聴・2015/8/14記)

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