スクール・ダイバーシティ@成蹊高校

成蹊高校生徒会の一パートとして活動しています。

あらゆる多様性に気づく繊細さ、
すべての多様性を受け止める寛容さ、

疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を
少しでも広く共有したいと思って活動しています。


テーマ:

 編み物に夢中になった自分自身や編み物に夢中になっていた誰かの姿を思い返すとき、わたしたちはこんなことを実感するのです。


モノやコトにはいつのまにか特定のジェンダーが染み着いていて、そしてその
ことは、ホントなら大好きになっていたかもしれないいろいろや、才能を発揮できたかもしれないいろいろからわたしたちを遠ざけてきた―。


 ちょっと結論めいてしまいましたが、こういったことをはじめ、たくさんの納得や気づき、そしてどこかにつながりそうな「何で?」がちりばめられたトークライブだったと思います。以下、当日の内容を小見出しでまとめながら。なおトークライブは、横山さん含めてm4名、f3名でスタート、会場からの声も交えてにぎやかに進められました。


①男たちが編んでる!

進行m:あらためて、編み物をやってみてどう?90分、かなり夢中になるタイミングもあったと思うけど。

生徒m:「夢中で何かを作ってるときに、自分が男だとか女だとか考えてますか?」っていうことを踏まえてどうかなと考えていた、でもそれを考える間もないほど無心だった。

進行m:横山さんが言ってたことを意識したわけだ。まあ、やっぱり考えないよね。

生徒f:男性が編み物をやっている光景、初めて見る光景だった。自分の中にあった「あたりまえ」を実感。

教員m:ぼくが夢中でやってるところどうだった?

生徒f:どんな男性でもかわいくなる()

教員m:彼なんかも?

生徒m:おれは自他とも認める大型ゴツい系ですから(会場笑)


生徒f:糸を選ぶときから色を見るのに夢中だったし、編むときは手元の一点しか考えていない、神経集中状態だった。ジェンダーとか関係なく。

生徒f:誰かが編み物やってることについて違和感みたいなものは全く何もなかった。むしろ自分がやっていることに違和感。


*と、こんな感じでスタートしたわけですが、編み物と男性の組み合わせや編み物と自分自身のセットに何かしらフレッシュなものを感覚する自分たちを軽くチェックする感じは悪くないし、「編み物」がジェンダーレスに「かわいさ」を構成するととらえてみるのも悪くないかなと言えそうです。また、編み物に限らず、女子が「いかにも女子なこと」をやるときの「女子力高い!」的な揶揄についても考えるとおもしろいかもしれません。


②ボールペンは男?女?

生徒m:色のジェンダーという話が事前ミーティングで出たけど、ぼくはピンクを選んだ、好きな色を選んだだけ、違和感はなし。

生徒f:あえてピンクを選んだのだと思った。実は男女の差は関係なくて、似合うに合わないという個人差でしょ。ちょっと前までは男は青、女はピンクが定番だけど。

進行m:でも実際にはモノ、モノ作り全体がジェンダー化されているのではという事前ミーティングの話だね。

生徒m:例えばランドセルなんかはっきり決まってたらしいけど。筆箱はどっち?黒い筆箱、ピンクの筆箱となると分かれてくると思うけど?

生徒m:今はランドセルの色、ジェンダレス化進んでるでしょ。成蹊小学校はもともと全員黒だけど。

生徒m:事前ミーティングのとき、成蹊中学の卒業記念ボールペンが男子青、女子ピンクっていう話あったよね。

教員m:ランドセルについてはちょっと調べて見た。01年イオンが初めて24色カラー、06年頃から徐々に浸透していったみたい。

進行m:資料に上げてあるけど、100年前のイギリスだと、ピンクが男の子、青が女の子が当たり前だったらしい。この違いや変化という事実は重要。ジェンダーが作り上げられるものだということがよくわかる。

http://s.news.mynavi.jp/news/2014/05/28/592/index.html



*というわけで、このあと例えば筆箱だけでは判断できなくても、中身を見れば、持ち主の性別が分かるのでは、といった、モノとジェンダーという感じのトークがあり、それから、編み物の話題に戻って、2017年早春公開の映画、「彼らが本気で編むときは、」についての話にいきました。

http://www.cinra.net/news/20160322-kareragahonkideamutokiha

生田斗真が演じるトランスジェンダーの男子が女子になっていくなかで編み物が出てくる、というわけで、またしても編み物のジェンダー化、女子化が進むのではないか、というような話のあと、横山さんに少しまとまった話、編み物と社会についての興味深い観点を紹介してもらいました。それは、こういう観点でとらえると幅が広がるし、最終的にはジェンダーの話に戻ってくるという感じの話です。以下、横山さんの話を要約、整理したいと思います。



横山さんの「モノづくりの文化史」


 横山さんは、マンガを経由してモノづくりの「古典-モダン(近代)-ポストモダン」をこんなふうに図式化します。


 手塚治虫が古典段階の代表。そこではストーリー性、キャラクター性、さまざまな人間的ドラマが大切な要素となる。しかし、やがて迎えるモダンな世界、すなわち近代主義的世界で求められるのは大量生産、大量消費であって、例えば「ドラゴンボール」はその象徴だ。ストーリー性と人間ドラマは削ぎ落とされる。スピードと効率が落ちるからだ。主人公たちの際立ったキャラクター性が重視され、彼らが盛大に戦い、そして勝つ。そうするとまたおもしろいライバルが出てきて、でもまた勝つ。以下、売れてる限りこのパターンでエンドレス。けれども、もちろん飽きられる。こうしてポストモダンの世界へと向かうわけだが、そこでは例えば「ワールドトリガー」なんかはとても分かりやすい。その主人公もやはり戦う。ただいろいろな意味で弱いのだ。でも、何とかやっていくのであって、そのためにはさまざまな人たちとのつながりが不可欠で、そうするとそこではストーリーや人間ドラマが再び大切な要素となってきて、こういった状況がポストモダン、というわけだ。


 さて、ではここに編み物やジェンダーの話はどうからむのかということですが、こんな感じでつながっていきます。



 編み物の古典時代は、日常的なモノを手で編む時代。そこでは編み物は生活を支える仕事の一部でもあって、だから男性も編む。漁で使う網やセーターなんか。中世ヨーロッパのギルドのような職人の世界はむしろ男性しか入れなかった。編み物の古典時代は、ジェンダーレスで日常的な手編みの世界。では、モダンの編み物は?

 大量生産、大量消費の波はもちろん編み物にも及んでいて、そこでは機械編み、工場が決定的な役割を果たす。ファストファッションの店に行けば2000円くらいから、まあこれならいいかな、くらいのセーターを手に入れることができるが、それは機械と工場のおかげだ。そして、この過程で男たちは編み物の現場、実際に編み棒を手にする空間から姿を消す。機械は編みまくり、男たちは売りまくるのだ。でもここにもやはりポストモダンな感性が生まれ根付いていく。単調な製品には飽きるし、スピードと効率の日常はやっぱり疲れる。こうして、スピードとも効率とも無縁、もちろん大量ともまったく無縁の様々な手編みが静かに復活するのが、編み物のポストモダンだ。

 例えば、こういった写真。これは「ゲリラニッティング」と呼ばれるムーブメントの

なかで生まれた作品。電話ボックスを、歩道を、木の幹を、パーキングメーターを編み込んでいく…こういった作品に実体的な何かをではなく、単に心地よい何かを見いだす。おもしろかったり、ホッとしたり、温かかったり、素敵だったりということ。モノ消費からコト消費、ととらえるといいと思う。素敵なコトを共有しましょうという、モノの後の「ストーリー」を感じさせるあり方が、編み物のポストモダンだととらえたい。

 



電話  
歩道

木  
パーキングメーター


 どうでしょう、編み物の「古典-モダン-ポストモダン」を流れるように話していただきましたが、トークライブはこれをきっかけにさらに展開していきます。「じゃあ、編み物=女性、というイメージはどうやって?」「男たちと編み物の関係は?」といったダイバーシティな議論はもちろん、編み物で震災復興に関わってきたという話や、そういった現象と「ポストモダン」な感性のかかわりなど、まだまだ続くのですが、ちょっと長くなってきたので、つづきはまた。











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