交心空間

◇ 希有な脚本家の創作模様 ◇


テーマ:

「先輩はどうして結婚しないんですか?」
 同僚の結婚披露パーティーに出席した帰りのタクシーの中、一回り違う入社
二年目の真理子が少し酔った口調で聞いた。私は、ビールを飲みすぎたせいか、
いや、はっきり言ってその手の質問は煩わしいので、眠った振りをして答えな
かった。
「恋人いないんですか?」
 なんて機嫌がいいんだろう。ケラケラ笑いながらまた聞いた。抑えて抑えて。
そう言い聞かせながら腕を組んだ。そしてわざと真理子の方に上体をくねらせ、
目を閉じていることを見せた。にもかかわらず真理子は、軽く咳払いをしてま
た聞いた。
「仕事が恋人ってことないですよね」
 いびきでもかいてやろうか……しかしその言葉は満更外れでもない。プログ
ラマーという仕事について十年。今では、疑問の渦の中で藻掻く自分に快感す
ら覚え、その中で閃くアイディアに「どうだ!」とガッツポーズを送ってしま
う。溌剌とコンピュータに向かう私の姿は、やはり真理子には異様に映るのだ
ろうか。
 物憂い空気を吸い込みながら徐に脚を組むと、右の踵にピクッと痛みが走っ
た。買ったばかりの赤いハイヒールが合ってないのだろう。靴擦れができたら
しい。思いっ切り顔をしかめたが、声は出さなかった。
 日曜の夕暮れ、タクシーは八丁堀のデパート前でノロノロしていた。前後を
市内バスに挟まれ、隣の車線にはどでかいトレーラーがピッタリ付いていた。
タクシーの運転手はハンドルに乗っけた指で小刻みにそれを叩いていた。
 私は大きく溜め息をついて、ガバッと運転席に身を乗り出した。
「運転手さん、そこで停めて下さい」
 すぐさま笑顔を作り、真理子に顔を近付けた。
「ね、飲み直そう!」
「これからですか?」
 真理子は目を丸くした。
「いいじゃない、付き合ってよ」
「でもォ……」
 真理子は口籠もりながら俯いた。
 多分このあと真理子は短大時代に合コンで知り合った彼氏と会うのだろう。
そういえばタクシーに乗る前、高そうな口紅を丸々一本使い切ってしまうのか
と思うくらい唇に塗りたくっていた。それに私の家より遠いのに、先に乗るの
を遠慮していた。それならそう言えばいいのに、全くうちの姥ギャルは自己主
張と遠慮のタイミングをわきまえない。
 タクシーがスーっと左に寄って停まった。私はバッグから財布を取り出し、
中身を見ながら言った。
「あなたも途中で降りるんでしょう」
「どうして分かるんですか?」
「これで足りるわよね」
 と二千円を真理子に渡した。ドアが開くと、真理子を乗り越えるようにして
さっさと降りた。
「ごめんなさい。今度付き合いますから」
 真理子は茶目っ気たっぷりに手を合わせた。
 これが真理子の武器である。職場の男たちはこの笑顔に一コロだ。プログラ
ムでチョンボしてもあっさり許してしまう。それどころか、後始末まで真理子
に代わってやってしまう。
 私は両手を腰に当て、あっけらかんとした顔でタクシーを見送った。タクシ
ーの中から真理子が、私に向かって二千円を握り締めた手を振っていた。私の
気持ちはアカンベーをしていた。


 よし! と気を引き締め、サッと振り返った。「イタ!」と息を吸い込みな
がらその場にしゃがんだ。靴擦れが……足首をギューっと握り、痛みが上がっ
てくるのを食い止めようとした。無駄な抵抗だ。痛みはあっという間に頭を突
き抜けていた。道行く人の何人かが、私を見やりながら通りすぎていく。視線
を合わせなかった。救けを求めているように思われるのが嫌だったからだ。
「大丈夫ですか?」
 背後で男の声がした。ちょっと鼻声だが、落ち着きのある口調だ。私はニン
マリと笑みを浮かべた。街で知らない男性に優しい声を掛けられるのは、正直
な話、初めてだった。ゴクリと唾を飲み込んで、意識をうなじに集中させた。
「はい、大丈夫です」
 私はしゃがんだまま首を後ろに回した。男の顔は見えなかったが、黒いギタ
ーケースが目に入った。
「本当に?」
「はい」
「本当に、本当かな?」
「ええ、大丈夫です」
「強がってない?」
「そんなことありません」
 私は反射的に返した。ちょっとぶっきらぼうだった。“しまった!”一瞬ベ
ロを覗かせた。
「じゃ、立って」
「え?」
「何でもないってとこ、見せて欲しいな」
 男が少し意地悪く思えた。私は一息吐き出して、仕方なく男の言葉を受け入
れた。左足だけでそーっと立ち、まだ痛みの残る右足は軽く地面につけ、何で
もないように見せた。男は相変わらず私の背後にいた。一体、どんな男なんだ
ろう。
「その場でいいから、軽く跳んで」
「はい?」
「大丈夫なんでしょう」
「ええ、まァ……」
「人目が気になる?」
「いえ、それは別に」
「じゃ、跳んで」
「でも……」
「俺も一緒に跳ぶから」
「はい?」
 私は、背中に男の視線を感じながら、じわーっと腹が立ってきた。完璧にか
らかわれてる。今度男が何か言ったら、振り向いて男の顔を睨みつけてやろう
と思った。しかし、またズキンときてしゃがみでもしたら、この男はきっと大
笑いするに違いない。それならこのまま男の顔は見ずに、礼のひとつも言って
この場を立ち去ろかとも思った。
 春物衣類のバーゲンの札を掲げながらも、ガランとしたブティックの中にあ
る時計は五時半を回ったところだった。
 男がポンと手を打った。そしてクスクス笑いながら、それまでとは全く違う、
低音でポンと投げ出すような口調に変わった。
「考えてばかりだと、売れ残っちゃうぞ」
 私はピンときた。そのしゃべり方、そして同じ言葉を五年前にも聞いたこと
があるからだ。妙な緊張感はフーっと消え、右手を後ろに回した。そして背中
のミュージシャンにVサインを送った。
「売れ残ったら、あなたが引き取ってくれる?」
「どうしようか」
「安くしとくよ」
「へ~、そういう言葉が返ってくるとはね」
 彼は疑いの声を上げた。
「久し振り、直人!」
 私は笑顔で振り向いた。
「よッ、ただいま」
 直人はギターケースを立て、その上に頬杖をついてじっと私を見つめていた。


--------------------------------------> 短編小説集『背中の男』より 
--------------------------------------> つづきは本書でお楽しみください


短編小説集『背中の男』(Amazon.co.jp/文芸社発刊)
   ・背中の男
   ・バグな夜
   ・ミッドナイト・ロジカル
   ・25時のメール


 多彩に絡む男女の綾……。心に染みる人間模様を4編収録。

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