交心空間

◇ 希有な脚本家の創作模様 ◇


テーマ:

「傘、持ってったら」
 月曜の朝。マンションを押し潰さんばかりに、低く垂れ下がった灰色の雲を
見ながら妻が傘を差し出した。
「ああ……」
 俺はぼんやり返しただけで、結局傘は持たずに家を出た。家はマンションの
五階だ。そのベランダから六歳になる娘が、元気な声で見送ってくれる。娘の
日課である。ちょっと見上げただけで、手は振らなかった。
 駅まで十分くらい歩き、四十分ほど満員電車に揺られる。一般的な通勤時間
といっていいだろう。さして苦になるものではないが、日によって時間の経過
が早かったり、遅く感じたりする。見知らぬ人間同士が決まったようにその車
内のその場所に乗り合わせ、しかしながら挨拶を交わすでもなく、視線を合わ
せるでもなく、ただ時間だけが過ぎてゆく。
 ──俺の存在感は、何グラムだろう。


 電車を降りると、スーツの波に押し流されて改札口を抜ける。切符を受け取
る駅員は、テープレコーダーのように「おはようごさいます」を繰り返してい
る。ふと足を止め、改札口の脇にある伝言板に目を向けた。
“三十分待った。辛抱切れた。サヨナラ……美佐子”
 妻と同じ名前だった。このカップルの寿命は、俺の通勤時間にも満たない、
わずか三十分の遅刻というだけで、消滅してしまったのだろうか。
 ──彼ら自身、お互いの存在度は、何パーセントだったんだろう。


                             《つづく》

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