昔話 | エフネットスポーツ社長日記

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埼玉を本拠地に活動するフットサル・サッカー関連会社の社長日記です。
仕事のこと、プライベートなこと、気ままに書いております。

自分の出身少年団である「新座片山FC」から35周年式典の招待状が届いた。
35年。改めてその歴史と積み重ねによる結果をみながら、子供のころを思い出してみた。
 
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小学生の自分の夢はプロのサッカー選手。
キャプテン翼にあこがれ、毎日サッカーに明け暮れていた。
人より少し体の成長スピードも速かったため、同年代と比べても大きい選手。
4年生のころには6年生の試合にも連れて行ってもらっていた。
一つ上の代は強かったが、自分の代は人数も少なく弱小。
下の学年から人を足さないと試合ができない状態だった。
試合に負ければすべて自分のせいだといわれ続けて育った。
 
中学からブラジルに留学していた先輩にあこがれ、小学校を卒業したらブラジルに行きたいと両親に相談していたが、あえなく断られ、読売クラブを受けにって3次選考ぐらいまで言った記憶があるが受からず、地元の中学に進むことになった。
 
自分の住まいは志木市であったが、少年団の中心は新座市。
一つ上の先輩たちもみんな新座の中学校だった。
その中学の指導者の方はいい指導者だという評判もあった。
親にお願いして、越境で新座市の中学に通うことができるようになった。
親が別居している扱いにして、友達の家に居候しているみたいな体裁だったと思う。
 
そして中学三年間。志木市から新座市まで毎日自転車で45分。通う生活が始まった。
朝練があるので、それに間に合うように家を出て友達の家に。
そこで制服に着替えて学校へ。
部活が終わったら、友達の家で着替えて、また自転車で家まで帰る。
帰りはほんと毎日くたくたで、信号待ちで居眠りをしていた記憶がある。
 
中学では上の代では県大会に出場したりできたが、自分たちの代はやはりそこまで強いチームにはなれず。しかも中3の時には、顧問の先生が家庭の事情で練習を見ることができず。
練習を見れないので、練習はできないみたいな話になり活動ができなくなる危機もあったが、みんなで校長先生に直談判に行き、何とか練習ができるようにしてもらった。
 
中学でも比較的体格が大きかったため、目立つ選手だった。
運よく県トレセンにも呼んでもらい、その後の縁で高校も地元の西武台に進学できた。
 
高校になったら、体格の差なんて全く意味がなくなり、周りにもっといい選手も多くなり、非常に苦労をした高校生活。その話は長くなるので別の機会にしようとおもうが
小学生、中学生時代の経験が、心も体も成長させてくれ、それがあったからこそ高校での壁も乗り越えることができたのだと思う。
 
今、小学生から中学生の指導をしている。
焦らずじっくり。時には回り道でも、もがき苦しみ、考え、自分の力で乗り越えていける人間に。それはフットボール選手としても一人の人間としても。いざ勝負の時に、自分で乗り越えられるメンタルと道具を持った人間に。そんな子供たちを少しでも送り出せるように。