SISコラム「どこでもドア」

その人がその人らしく生きていく・・・
そんなふうに生きたいな、と思っていても
そのきっかけが見つからない事で悩み苦しんでみえる方に
何かしらの参考にしていただけたり勇気や希望を持っていただけたら・・・
このドアの前に立ってあなたのリズムで開いてみませんか?

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指示表出度の濃い言葉 
 
 発達障害を考えるにあたって、先々回あたりから《自己表出》《指示表出》という概念を持ちだしてきて、難しい文になっていると思います。ひとえに、私の力量不足によるもので、すみません。
 
 こんな風に考えてみてください。Aさんが、<犬(いぬ)>が大好きでだというときの、その<犬(いぬ)>という言葉について考えてみます。
 
 Aさんにとって、わが家にいて可愛がっているその生き物は、自分が小さいときから一緒にいて、薄茶色の、少し固めの毛で、「ジョン」と呼ぶとまん丸い目をしてすぐさま駆けつけ、足にまとわり、跳びはね、Aさんに追いて来る生き物のことです。
 
 <犬(いぬ)>ではないわけです。Aさんは、その生き物をふだん<犬(いぬ)>とは言わない。
 
 いや、呼び方の問題だけでなく、世の中に<犬(いぬ)>というものは居ない。一匹一匹、毛色も毛並みも、顔つきも、鳴き方も、走り方も違う。
 
 けれども、<犬(いぬ)>という言葉があるのはどういうことでしょうか。
 
  <犬(いぬ)>という言葉は、前足と後足を持ち、猫でも狼でもないほ乳類で、よく人に馴れ、飼育されることが多い動物の総称ですね。
 
 それは、誰にでも通用する、個別性を超えた概念としての言葉(名詞)です。これを、《自己表出》《指示表出》のとらえ方から見ると、『指示表出の密度が濃い』言葉です。つまり、汎用性が高くて、その分、個別性が奥に隠れます。そして、個別性が隠れるということは、その人の・その時・その場で起きる《こころ》から遠ざかるということです。
 
 発達障害の話と、『指示表出の密度が濃い』(<犬(いぬ)>の例のような)言葉の話から、どのようなことが考えられるのでしょうか。
 
 Aさんが、わが家の「ジョン」と触れ合っているときは、<犬(いぬ)>という言葉を使う必要はありません。また、Aさんをよく知る身近な人と、「ジョン」との触れ合いを話題にするときも同様でしょう。けれども、自分や身近な人たちとはもっと外側の人たち、つまり誰にでも通用する話し方を迫られるときは、ちょっと違ってきます。
 
 その辺り・・・その辺りですが、簡潔にうまく説明しにくいところがあります。結論を言えば、その人の・その時・その場で起きる《こころ》から遠ざかって会話を迫られるのが苦手となる、そういうことが発達障害の人たちにあるのではないかと思います。(つづく)
 
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「権力線」の一人歩き 
 
 一年前の今日、7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者を次々と包丁で刺し、19人を殺害した事件が起きました。
 
 少し前に行われた慰霊祭の報道写真を見ると、祭壇に置かれた19人の犠牲者位牌には性別・年齢が書かれているだけで個人名は書かれていません。慰霊に訪れた人は、個人名のない位牌に向かって手を合わせるのです。
 
 植松被告の障害者殺傷行為と、重度障害者は安楽死の対象にすべきだという主張に共感するネット上の書き込みが少なからず継続されていることからの「配慮」だということです。
 
 植松被告によれば、意思疎通がとれないような重度・重複障害者は「幸せを奪い、不幸をばらまく存在」だということです。では、意思疎通がとれるとは、「正確に自己紹介をすることができる」ことだと植松被告は定義しているようです。(植松被告よりの中日新聞社への手紙から。7月23日、中日新聞より)
 
 もたもたし、もごもごと口を動かしながら一向に要領を得ない話し方・・・我慢して聞いているのに、時間ばかり浪費する。そればかりか、こちらからの問いかけをそもそも受け取れているかどうかも定かでない。時間が浪費する、介助・介護の費用も、ぬくぬくと入所できる施設建設のための費用も、働くこともせずに浪費するような人間は必要ない。こういう論理であろうと思います。
 
 植松被告が、その人生の青年期までに、このような論理を身につけたことにゾッとします。また、彼の論理を後押しするネット上の書き込みが存在する事態にゾッとします。
 
 植松被告は、《意思疎通がとれる/とれない》で『線引き』をします。それは、彼がそうされ(線引きをされ)、そこ(線引き)から脱け出せない故に権力的に断罪され、それ(断罪)が何度も繰り返され、精神に刻印されたのに違いない。そう、思います。植松被告の精神と論理をつくった誰かが、彼の近くにいるのだろうと思います。
 
 人を『線引き』することが、「権力線」を生み、「線」を超えられないならば権力をふるっても構わないんだという論理を生み出す・・・そのことを、芹沢俊介氏の一連の発言から学びました。(芹沢俊介「現代子ども暴力論」春秋社。「子どもたちの生と死」筑摩書房。ほか)
 
  「権力線」は、放置すれば一人歩きし、増殖する、これが相模原事件の教訓だと思います。
 
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その人の息の区切りで・・・ 
 
 言葉の働きには、《自己表出》と《指示表出》がある。《自己表出》は何かを伝えようとする内部意識の動きであり、《指示表出》はそれが誰かに伝わるかどうかの効果・結果の関係である。そして、《自己表出》は《指示表出》に先行するものである。・・・こういう難しいことを前回に書きました。そもそもの振り出しに戻って、言葉や、言葉をめぐる意思疎通の問題を考えるためです。
 
 私が現役の教員だったとき、最初に担任したMくんが放送局で仕事をしはじめ、永六輔さんのトークを収録したそうです。Mくんは、今や放送界の指導者となって、その永さん収録の経験を材料にして後輩に次のような指導をしたということです。
 
 《録音の区切りは、言葉の句切りではなくて、その人の息の区切りで行うことを大切に!》
 
 私は、この話を聞いて思わず膝を打ちました。素晴らしい!!
 
 言葉が途切れたところで録音を区切るのでなく、その人の息づかいをよく聴いて区切る。それは、言語の発声のみならず、話し始めの意気込みやためらい、話し終わりの余韻や終息感など、目に見えないが表現として表に出されたものを根こそぎ拾うようにしようということです。
 
 前回、《自己表出》《指示表出》について書いたことは、このMくんが培ってきた「話を聴く」エピソードにとても通じるものがあると思います。
 
  その人が話そうとすることは、言葉面(ことばづら)に表れるだけでなく、沈黙や間(ま)もふくめて体のなかで起きていることが表に出てくることです。結果として表現された《指示表出》=社会的に通用する言葉だけでなく、言葉の奥にあるこころの動きとしての《自己表出》に耳を傾けようということです。
 
 放送界のみならず、文化全体あるいは日々の暮らしのなかでMくんが言っているような精神が広がっていくのなら、私たちの周囲はもっと変わっていくことだろうと思います。
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自己表出と指示表出
 
 
 人と会話をするとき、内心で冷や汗をかくようなことは少ない方がよいと思います。けれども、多いか少ないかは別として、会話のなかで冷や汗をかくことは「ある」のではないでしょうか。会話のなかで、通じなくてドギマギしたり、取り違えてあたふたしたりなど、さまざまなことがあるのではないでしょうか。
 さて、ここで突然に哲学的で難しい話になりますが、そもそも言葉とはどういうものかについて考えてみたいと思います。「意思疎通が困難」という問題に対して、言葉がどのように関係するのか、あらためて考えてみたいと思うからです。(以下の出典・芹沢俊介「宿業の思想を超えて」批評社)
 
  たとえば、次のような言葉が人物Aと人物Bの間で交わされたとします。(図①)
―――――――――――――
 〈ここに 本が ある
――――――――――――― 
 これは、ある一定の場所(ここ)に、書物(本)が存在している(ある)という至極単純な文です。
 
 もし、人物Aが発した言葉は、「ずうっと本を探していたが、思いもかけないこんな場所にあったのか」という気持ちから言ったとすれば、「ここ」の部分に《力こぶ・力点》があると言えます。(図②)
 また、人物Aが、「ここにはさっきまで何も置かれていなかったが『本』があるのはどうしてだろう」として、「本」の部分に《力こぶ・力点》がある場合もあります。あるいは、最近は活字に飢えていたが「本」がある、「良いものを見つけた」、というように、やはり「本」の部分に《力こぶ・力点》がある場合もあります。(図③)
 〈ここに 本が ある〉という一つの文を例にとっても、《力こぶ・力点》はいろいろとあることがわかります。《力こぶ・力点》というのは、その人(話し手)のその時その場合の内部意識の動き=《こころ》から出てくるものです。
 
 この、〈ここに 本が ある〉という文例は、芹沢俊介氏が思想家・吉本隆明氏の言語にかかわる思想を敷衍化するために取り上げているものです。芹沢氏によれば、吉本氏は言葉の働きには《自己表出》と《指示表出》があり、両者は織物のタテ糸とヨコ糸のような関係にあると言います。
 
 それまでの言語論は言葉が存在することを前提として考えられていましたが、吉本氏はそもそもの振り出しに戻って、人間が使う言葉の成り立ちや働きを考え、思想として展開したのです。
 
 いくつか例示した《力こぶ・力点》が、《自己表出》にあたります。そして、<ここに 本が ある>と文字化されて示されているのが《指示表出》にあたります。
 
  《自己表出》と《指示表出》との関係は、何かを伝えようとする動機と、それが誰かに伝えられるかどうかという効果・結果の関係だと思います。ある人が、その時その場で《こころ》が動き(自己表出)、それを社会的に通用する言葉にして伝える(指示表出)という関係であり、両者は密接にからみあっているのです。
 
 ということは、《自己表出》は《指示表出》に先行しているということです。
 
 この、《自己表出》の存在をきちんと正視し、思想として展開したことが吉本思想の大きな功績でした。《自己表出》は《指示表出》よりも「先」であるのに、目に見える《指示表出》だけに目を奪われたり、ちゃんと通用する言葉でなければ「ダメだ!」と評価されたりすることが多いからです。
 
 ※今回は、哲学的な難解な書き方になりました。しかし、言葉と発達障害の問題を考えるのに、一度は通らなければならない内容だったと思います。言葉の問題、あるいは「意思疎通が困難」ということについて、何回かにわたって考えていきたいと思います。
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内心で冷や汗をかく経験
 
 『他人の気持ちを読み取るのが苦手で、人との相互的な意思疎通や状況に応じた適切な行動がとりにくい』
 
 発達障害・自閉スペクトラム症の人たちには、上記のような特徴があるとされます。コミュニケーションが苦手、ということです。
 
 それは、時と場合によっては私たちにもあると思います。自分が思ったことを言っても通じなかったり、相手が言ったことを受け取って行動したつもりが思わぬトラブルを招いたりなど・・・。
 
 誰しも、多少なりとも身に覚えがあるのではないでしょうか。そして、それ(意思疎通が困難な時)が「多め」になる時があります。たとえば、・・・
何人かの集まりで会話をしている。自分を除いた人たちはどんどん会話のキャッチボールを進めていくが、どうしても自分はそこに入れない。会話から遅れていってしまう。
 
 これには、二つほど理由が考えられます。1つには、ほかの人は会話している話題についてよく知っているが、自分はあまり知らない。だから、少しずつ遅れていく。
 
 2つ目は、ほかの人は互いに以前からの知り合いだが、自分はさほどでない。どちらかと言えば、新参者だ。それで、会話の流れは気心知れたほかの人たちのペースで運ばれ、自分は一歩引く感じになる。
 
 1つ目は、経験や知識の問題。2つ目は、関係性の問題。・・・とでも言えるでしょうか。こういう場面に遭遇し、「置いてけぼり」感を感じながらも、そこから脱け出すわけにもいかずに内心で冷や汗をかいている経験があるのではないでしょうか。
 
 このように、内心で冷や汗をかくような経験、それもたっぷりと冷や汗をかいた経験を思い出してみると、そこに何かヒントがあるような気がします。
 
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