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「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」 、戦乱の旅、
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道」史跡めぐりの旅です。

天正10年も2月に入り、いよいよ武田、織田の両軍が動き出します。
両軍の動きは、「信長公記」に詳しいので、図にして紹介しようと思います。
以下は「信長公記」に記された内容です。
分かりやすくするため、記事を色分けしました。
赤は武田黒が織田寝返りは青です。図も同色になってます。
※一部追記し、図も訂正しました。
図の訂正:木曽口・ルートの修正
追記:「甲乱記」に書かれた2月14日の飯田城撤退の様子


kousyu_seibatu01a天正10年(1582年)2月2日、
武田勝頼・信勝親子、武田典厩(信豊)は木曽義昌(木曽福島城主)の謀反を知り、1万5千の兵で新府城から出陣。
上原城に入る。


2月3日、
織田信長の出撃命令
「駿河口から徳川家康、関東口から北条氏政、飛騨口から金森長近、伊那口からはこの信長と嫡子・信忠が二手に分かれて攻め入る」メラメラ


※金森長近が進んだ飛騨口・ルートは資料が少ないので、おそらく進んだと思われるルートです。


kousyu_seibatu_odasinkou01

織田信忠は即日、森勝蔵(長可)、団平八(忠直)を先陣として、尾張と美濃の兵を木曽口岩村口へ出撃させる。

2月6日、
伊那の滝沢城を守るは下条伊豆守(信氏)。
しかし、家老の下条九兵衛(氏長)が叛逆し、伊豆守を追放。
岩村口から河尻与兵衛(秀隆)軍を招き入れる。

2月12日、
織田信忠が岐阜から出陣。
その日は土田(岐阜県可児市)に布陣。

2月13日、
織田信忠、高野(岐阜県瑞浪市)へ布陣。

2月14日、
織田信忠、岩村城へ入る。
配下の武将は、滝川左近(一益)、河尻与兵衛(秀隆)、毛利河内守(長秀)、水野監物(直盛)、水野宗兵衛(忠重)。

信州松尾城主・小笠原掃部大輔(信嶺)が恭順を申し入れる。
そのため、妻籠口 a (長野県木曽郡南木曽町)からの侵攻が難なく可能となる。
団平八(忠直)、森勝蔵(長可)を先陣として出撃させ、晴南寺口(清内路口:長野県下伊那郡清内路村)より侵入。
木曽峠を越え、梨野峠(長野県下伊那郡阿智村)へ。

小笠原掃部大輔(信嶺)、これに呼応し諸所に戦いの火の手をあげる。
飯田城の坂西織部、保科弾正(正直)は色めき立ち、夜になって撤退。
「甲乱記」によりますと、夜になって城外に鉄砲の火種の火が無数に見えたので慌てて逃げ出したとあります。
実は、城下に火を放ち籠城した際に馬糞に燃え移った火がまだ燻っていたものだそうで、「源平の戦いの際に群れる鷺の羽音に驚き逃げ出したという事はあったが、馬糞に驚いて城を逃げ出すとは聞いたことが無い」というような事が記されています。

2月15日、
森勝蔵(長可)は三里ほど進軍。
市田(下伊那郡高森村)にて逃げ遅れた敵兵十騎余りを討ち取る。



一方、別働隊は木曽福島城へと駒を進める。
そして、
2月16日、
鳥居峠の戦いにて、両軍の大激突が始まるドンッ


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