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「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」
武将の墓めぐり、真理姫の墓-1の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道」史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。
※一部追記しました。

人物名墓のある施設住所
真理姫大通寺長野県木曽郡木曽町福島4926-2
誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、再読み込みすると表示されるようです。
真理姫の墓は大通寺にあります。
発見難易度★★☆☆☆
本堂の手前左手にあります。
お墓の横に石柱が建っているので分かると思います。
※右地図はこれ以上拡大しませんが、マークした場所はあってると思います。

くるまr境内に停めても大丈夫だと思います。

真理姫は、武田信玄の三女です。
信玄の信濃侵攻に伴い傘下となった木曽義康の嫡男・義昌に嫁ぎました。
その時、義昌は16歳、真理姫は6歳でした。
武田の親族衆となった義昌でしたが、信玄の死後は徐々に武田から心離れをしていき、岩村城の攻防戦では義兄弟である勝頼の要請を断り援軍を出しませんでした。
天正9年(1581年)の新府城の築城に際し、莫大な出費、労力を強いられたことで不満が更につのり、遂に天正10年(1582年)織田方へ寝返ってしまいました。

「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」によりますと、
「天正10年正月6日の夜、勝頼の重臣・阿部加賀守(勝宝)のもとへ、真理姫に仕える茅村備前守、山村新五郎左衛門から急使が到着し木曽義昌謀反の報せを伝えた」とあります。
織田方の資料としては、「信長公記」に、
「2月1日、織田信忠のもとに手紙が届き、苗木久兵衛(遠山友忠のこと)が木曽義昌の調略に成功した」とあります。

勝頼に夫・義昌の離反を報せる!ビックリマーク
一説には真理姫も武田を裏切った夫・義昌を許せず、急使を兄・勝頼に出したと言われています。
その説の出所を僕は見つけられなかったので、何とも言えませんが、先に記した通り、真理姫に仕えた者が勝頼に使者を出していますので、それを真理姫の命令によるものとしているのかもしれません。

追記
大正4年発行の「西筑摩郡誌」に「天正10年正月6日、木曽義昌夫人(真理姫)千村左京密使を派し義昌の叛計を甲斐に告ぐ」とありました。


そして、離縁をし、木曽の山村で暮らしたと言われています。(記録が残っています)
(ただ、後に木曽義昌は千葉県の網戸(あじと)へ転封となり生涯を閉じますが、網戸の菩提寺の住職さまの話では真理姫も網戸へ来ており、仲睦まじかったと伝わっているそうです)


さて、大通寺ですが、
慶長4年(1601年)、木曽代官の山村良勝(よしかつ)が建立しました。
良勝と父・良候(よしとき)は木曽義昌に仕えており、そのゆかりで真理姫の供養塔が建てられたようです。


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大通寺への小路。
いい感じです(´∀`)



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鐘楼門。
安永7年(1778年)の建立です。



haka_marihime_daituuji02
大通寺本堂。



haka_marihime_daituuji04
真理姫の墓。
鐘楼門をくぐってすぐ左側にあります。



haka_marihime_daituuji05
これ、「福」ですかねはてなマーク



haka_marihime_daituuji03
桜がきれいでした*さくら*




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