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「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」
お城めぐりの旅、新府城の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道」史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。

城名(別名)住所関連する人物
新府城(韮崎城)山梨県韮崎市中田町中條武田勝頼、穴山信君、真田昌幸、曽根内匠助(昌世)、浦野孫六郎、原隼人佐(貞胤)、織田信長、徳川家康
誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、再読み込みすると表示されるようです。
新府城は県道17号線沿いにあります。
くるまr城と県道17号線を挟んだ反対側に駐車場があります。

新府城は武田勝頼が作った巨大な城です。
織田・徳川・北条連合軍と敵対する勝頼にとって、代々武田家の本城とされてきた躑躅ヶ崎城+詰めの城・要害城では太刀打ち出来ないと感じていたに違いありません。
勝頼にとって必要な城は、大軍勢を相手に出来る堅固な城であり、それが新府城でした。
城下町も形成していますので、もしかしたら小田原城のように総構えを目論んでいたのかも知れません。

「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」によりますと、新城構想の始まりは、穴山信君の進言のようです。(進言は天正9年7月になっていますが、工期を考えると、天正8年の間違いではないかと思います)
「甲陽軍鑑」を要約すると、穴山信君の進言は以下のような内容です。
「信長、家康、氏政がひとつになりました。武田家と手を結んだ上杉家も、謙信ならばともに戦って勝利できるでしょうが、景勝ではまだ若く心許ない。どうか新しい城をお造りください」
それを聞いて勝頼はもっともだと思ったことでしょう。
「甲陽軍鑑」によると勝頼はこう述べています。
「甲州一国の中によい城は無く、本城である躑躅ヶ崎の館も堀一重の館構でしかない。父・信玄の考えは間違っている。」と。
たしかに新しい見解だと思いますよ。
躑躅ヶ崎で大軍を迎えるのは無理ですよね。差し迫った危機も感じていたことでしょう。
それに加え、家臣達に屋敷を与えて領地から切り離し力をそぎ与力化するという目的もあったでしょう。
町人や寺社も積極的に集めてますし、奇しくも宿敵・織田信長と目指すところは同じだったように思います。
ただ、頭の固い家臣達は陰で不満や疑問をブーブー(`ε´)言うんですよね。
「無駄な浪費が…。信玄さまならそんなことしなかった…。新しい城が必要なのか…。」って。
これ、後々家臣が勝頼を裏切る要因の一つになってますビックリマーク

昼夜を問わずの突貫工事で、わずか一年で巨大な城を築く
築城の開始時期は定かではありませんが、天正9年(1581年)正月22日付けで真田昌幸が普請の人足徴発をした記録が残っていますので、月末ころに始まったと思われます。
「武田三代軍記」によると、普請奉行は真田昌幸と曽根内匠助(昌世)で、作業は昼夜を問わず行われました。
浦野孫六郎、原隼人佐(貞胤)宛てに3月6日付けの、原隼人佐(貞胤)宛てにはさらに5月13日付けの、「夜を継いでの作業に対する労いと、入念に抜かりなく進めるように」という勝頼の手紙が残っています。

勝頼が入城したのは、天正9年(1581年)12月24日で、勝頼一行の艶やかな引っ越しの様子は、「信長公記」によると、「金銀をちりばめ、輿車、馬鞍美々しくして、隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬斜ならず。見物群集をなす」「理慶尼記」には、「御移りの時は、金銀・珠玉をちりばめたる興車、あたりも輝くばかりにて、御供の衆、数知れず」と書かれています。
おそらく、御殿や屋敷も豪華なものだったのでしょう。

しかし、翌天正10年(1582年)3月3日、自ら城を焼き、勝頼一行は落ちて行くことになります…メラメラ

それは、また後ほどのブログで…。



さて、新府城の攻城レポートです。
まだ未完の上(織田信長の甲州侵攻が早すぎたせいですが)、後に徳川も戦で使用しているので改修した可能性があります。
遺構が失われている部分も当然あるでしょうから、当時の様子を明確に知ることはできませんが、武田家の集大成ともいえる巨大な城でした。


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首洗池。
草ぼーぼーで全体がよく分かりませんが、水はありました。
城と県道17号線を挟んだ向かい側の山の下にあります。
下の縄張図でいうと、稲荷曲輪の下になります。



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縄張図。
現在aからb結ぶように県道17号線が通っています。



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本丸跡にある藤武稲荷神社。



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本丸跡にある聖域。
武田勝頼と十四将を祀っています。
藤武稲荷神社に向かって左側にあります。



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本丸正面にある蔀(しとみ)の構え…なんですけど、明確に残っているわけではなくよく分かりませんでした。
蔀は城内を見通せないように工夫したもので、植込み・蔀土居・蔀塀で構成されているのだそうです。



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本丸と二の丸間。
これ、堀と土橋ではなく、平坦地を囲っている土塁です。



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二の丸を囲う土塁。



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二の丸馬出し付近。



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西三の丸の土塁。



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大手馬出付近の土塁。



siro_sinpu11
城北側にある西の堀。


siro_sinpu12
城北側にある東出構(でがまえ)。
当時は堀と湿地帯に囲まれていました。
城北側には東出構と西出構の2つ出構があります。
出構は新府城にしかないそうです。


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西側より見た釜無川越しの新府城。

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