子どもに関心を持つのではなく、子どもの関心に関心を持つ | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

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子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

僕らは、子どもそのものに関心を持ちます。

 

子どもは健康なのかどうか。

 

子どもは安全なのかどうか。

 

子どもは勉強しているかどうか。

 

子どもは学校に行ったのかどうか。

 

それらの主語は、全て『子どもは』です。

 

 

 

これは時として、親の心配として、子どもに降り注ぎます。

 

子を案ずる親の気持ち。

 

それを「親だから仕方がないこと」と考えるかもしれません。

 

 

 

もしも、子を案ずる親の気持ちが当たり前で、仕方のないことだとすれば、子どもが親に心配されることで、自信を失っていくこともまた、仕方のないことです。

 

 

 

どういうことか。

 

 

 

子どものことを心配をする。

 

その気持ちの裏側を考えてみます。

 

子どもを心配するということは、その気持ちの奥底には、

 

「この子は、まだ未熟だ」

 

「この子は、一人では生きていけない」

 

「この子は、まだ何もできない」

 

「この子は、しっかりしていない」

 

「この子は、私がついていないといけない」

 

という思い込みがあります。

 

 

 

この思い込みが親の心配を生み、親が子どもに取るコミュニケーションもまた、子どもの不完全な部分を刺激します。

 

言葉にしなくても、「あなたは、まだ一人で上手くできないんだよ」というメッセージ、「私は、あなたのことを信頼していない」というメッセージを身体で受け取ります。

 

言葉にしてくれた方がまだ抗えるけれど、言葉にしなければ、それは非言語で身体や感情に訴えかけます。

 

子どものより深い心にそのメッセージが突き刺さります。

 

 

 

親からすれば、「子どものことを心配するのは、仕方ないじゃない」って思うかもしれません。

 

しかし、子どもからすれば、「勝手に俺のこと心配してんじゃねーよ」って話です。

 

 

 

特に、この反抗的な態度は、思春期に明確に出てきます。

 

子どもであれば、誰でも反抗期があるのではありません。

 

親が、子どもに反抗される要因を作っているんです。

 

だから、反抗されます。

 

火の無いところに煙は立ちません。

 

 

 

「子どもは反抗期だから仕方ないか」

 

ではありません。

 

子どもからすれば、親が自分のことを未熟だと思い込んでいるその態度、が気に入らないんです。

 

 

 

この反抗的な態度は、もっと早い時期から出てきます。

 

魔の2歳児とか、イヤイヤ期とか言われるものです。

 

これも名前以上に、子どもの気持ちが理解されていないんじゃないか、と思います。

 

子どもの実力を甘く見ていて、必要以上に子どもに不信感を抱けば、子どもはしっかりと反抗してきます。

 

 

 

子どもの人生の中で何度かある反抗期に、親の子どもに対する信念が試されます。

 

 

 

この考え方、賛否両論あると思います。

 

けれど、僕は子どもは多くの大人が考えている以上のことができると信じています。

 

子どもに、子ども騙しは通用しません。

 

子どもは、大人と同じことがしたいんです。

 

子どもは、早く自分が誰かの役に立ちたいし、早く自分がどれだけ社会の役に立つのか試したいんです。

 

子どもは、どれだけ小さくても、主体性の塊です。

 

 

 

子どもの主体性を

 

「あなたにはまだ早い」

 

「危ないから」

 

「人様に迷惑をかけるから」

 

などの理由で、無条件で取り上げてしまわないでほしいんです。

 

 

 

子どもから主体性を取り上げ続けると、歳を取るごとに子育てがしんどくなります。

 

その最終形は、『無気力』です。

 

何もやる気が起こらない状態です。

 

一時的なものではなくて、何もやる気が起こらなくて、周りに流されるままに生きます。

 

本当に、ただ生きているだけ、という状態。

 

 

 

 

 

子どもに関心を持ち、心配ばかりかけていると、子ども自身の気持ちが育ちにくくなります。

 

それは先ほども書いたように、親の心の底に「この子は、できないはず」という思い込みがあるから、です。

 

しかし、何度か子どもも「そんなことない!僕は、私は、自分一人でもできるよ!!」というアラートを出してくれます。

 

つまり、親が子どもを心配しすぎて、子どもの主体性を奪ってしまおうとしているよ、という警告です。

 

それが、イヤイヤ期や、反抗期って言われるものです。

 

どちらも本質は同じだ、と考えています。

 

言葉を使わない主張がイヤイヤ期で、言葉を使った主張が反抗期です。

 

 

 

子どもは、生まれた瞬間から、人生に対する主体性を持っています。

 

だから、子ども自身に関心を持ってまで、わざわざ心配なんてしなくてもいいんです。

 

子どもの能力を伸ばしたり、子どもの精神的な成長をさせて、自立を目指していくことが子育てや、教育のゴールだとすると、違うことをしたい。

 

それが『子どもの関心に関心を持つ』ということ。

 

 

 

子ども自身を見るのではなく、子どもの目線の先にあるものを見るんです。

 

子ども自身を見ると、子どもと向き合う形になります。

 

相手と向き合う姿勢は、『対立の構図』です。

 

だから、子ども自身を見ていると、親の心配⇒子どもの反抗、という対立が起こりやすいんです。

 

 

 

一方、子どもの目線の先にあるものを見ていると、顔の向きが子どもと同じ方向を向くと思います。

 

その時の身体の位置を考えてほしいんです。

 

子どもと同じものを見るためには、子どもの隣に位置する必要がありますよね。

 

これが『寄り添う』っていうことです。

 

 

 

子どもと同じものを見て、子どもと似たようなことを感じる。

 

これが寄り添っている、っていうことです。

 

 

 

子ども自身を見るんじゃないんです。

 

子どもが見ている先、子どもが興味を持っているものに、一緒に関心を持つようにする。

 

子どもは物心ついてくると、自分を見てほしいというわけではなくなってきます。

 

子どもは自分ではなく、自分と同じものに関心を持ってほしい、と思うようになってきます。

 

 

 

子どもに自信を持ってほしい。

 

子どもに自分から勉強をしてほしい。

 

子どもに自分で考えて動いてほしい。

 

子どもに人生の主人公として生きてほしい。

 

 

 

こういった願いは、結局、子ども自身に関心を持つのではなく、子どもの関心に関心を持ったコミュニケーションを取っていると、比較的簡単に身に付いていきます。

 

子どもは、親に自分を見ていてほしいんじゃなくて、親と一緒に生きているんだ、ということを実感したいんです。

 

 

 

 

 

 

 

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