子どもはみんな天才だ!佐伯和也 公式ブログ

子どもが学校に行きたくない、行く理由が見つからないということが増えてきました。その時に、親はどうすればいいのか、子どもにはどう接してあげるといいのか。子どもに家庭教師兼メンタルコーチとして活動しています。


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ゲームには、主に2種類あります。

1.神ゲー

2.クソゲー

です。

※もちろん、そのどちらであるかは、人それぞれ価値観によって分かれます。



『神ゲー』というのは、神様の授かりものの如く、めちゃくちゃおもしろいゲーム、という意味です。

子ども目線からしても、一筋縄ではクリアできない絶妙なレベルに設定されていたり、さらに、世界観もしっかりしていて、まるで小説を読んでいるかのような気分になれます。

遊び終わった後に、

「やってよかったな」

って思えるゲームです。





僕がおもしろかったなぁ、と思ったゲームはいくつかあるんですが、『テイルズ・オブ・ジ・アビス』なんておもしろかったなぁ。

主人公が王子様なんですが、これが甘ったれた性格で、傍若無人。

しかし、ストーリーを進めていくと、実はこの主人公、科学技術によって作られたレプリカであることが判明します。

当然、本物は別にいて。



「自分がレプリカだった」

ってなかなかの衝撃なんですが、何のために作られたか、っていうと悪用して世界を破滅させるため。

しかも、尊敬する師匠が実は悪者で、その師匠にそそのかされて、世界を破滅させる力を軽く使ってしまいます。

そしたら、街がまるごと消滅。



主人公は、

「俺のせいじゃない!」

「騙されていたんだ!」

の一点張り。



それで、次第に仲間たちに見放されながらも、少しずつ自分のやったことを受け止めていく。

仲間たちと仲直りして、騙した師匠を討つ、というストーリーです。



主人公の甘ったれた性格と、とはいえ、作り物だった、という衝撃。

そこから、騙されていたとは言え、まさかの街を消滅させてしまった悲劇。

うじうじしながら、仲間に見放されていく様を見ていると、

「そりゃ、向き合いたくないよな」

っていう共感と、

「いやいや、ちゃんと向き合えよ!」

っていう気持ちと、色々と考えさせられる作品だったなぁ。





ストーリーがおもしろい作品もあれば、ゲームシステムがおもしろい作品もあります。

ゲームシステムでおもしろかったのは、『スターオーシャンシリーズ』かな。

「スーパーファミコン最後のRPG」と銘打って、小5あたりに発売された第一作目。



戦闘画面がまるで3Dのようでいて、戦闘画面を自由に走り回れるというシステムが非常に斬新だった。

最も有名なゲーム『ファイナルファンタジー』は、コマンドを選択して、敵と戦っていくスタイル。

キャラクター自体を操作することはできなかったんですよね

でも、スターオーシャンではそれができた。



また、キャラクターに実際の声優さんが当てられていて、戦闘中に喋るのも良かったなぁ。

「よし、行くぞ!」

とか、

「朱雀衝撃波!」

とか、少年にとっては心躍るセリフがいっぱいありました(笑)



スターオーシャンシリーズは、現在では、全部で五作出ているんですが、第二作目になると、敵が恐ろしく強くなります。

レベル上げてても、油断するとあっという間にやられます。

敵のボスもしゃべります。

「さて、地獄めぐりの片道切符は、貴様らの命で買ってもらうとするか」

みたいな中二病全開なセリフも吐きます。

でも、びっくりするくらい、マジで強い。



一番強い敵にいたっては、HPが300万もありました。

何それ。

倒しましたけど(笑)

(最大ダメージは9999だったので、300回は攻撃を当てないといけない)
 
(第三作目では、最強の敵のHPは2000万に。インフレが甚だしい)





また、スターオーシャンシリーズを作った会社は『トライエース』と言うんですが、同じ会社から『ヴァルキリープロファイル』というゲームも出ています。

これもまたおもしろかった。

北欧神話をモチーフにしているので、登場キャラクターや、敵キャラも北欧神話に登場するものが多いです。

・ヴァルキリー

・ロキ

・オーディン

・フレイア

・トール

・スルト

などなど。

用語も北欧神話由来のものが多く、北欧神話の世界観が随所に見えつつも、全体的にはオリジナルな世界観で、のめり込むには十分おもしろいものでした。



トライエースの作品は、やたらと中二病要素(=現実逃避的に、カッコつけたがる感じ)が強くて、セリフがいちいちカッコいい。

ヴァルキリープロファイルの中に、長々と呪文を詠唱する『大魔法』と呼ばれるものがあります。

戦闘画面の背景にムービーカットが入って、大迫力な魔法でした。

その呪文を全て暗唱できるようにしたりしていました。

今でも、けっこう覚えています。

恥ずかしいから、書きませんが(笑)





こんな感じで、子どもは神ゲーに触れた時、色々と考えたり、テンション上がったりして、とっても楽しめます。

そして、当時のその楽しさが今になっても残っていて、それが今の心の支えになったりもしています。

子どもに、色々残してくれるんですね。






一方、『クソゲー』は、本当にクソ同然の全く面白くないゲーム、っていう意味です。

神と、クソ。

ものすごい差があります(笑)



クソゲーにも色んなものがあります。

最近のゲームで言えば、スマホゲームにはクソゲーが多いですねー。



ゲームをしていると、いちいち広告が差し込まれたり、動画広告が唐突に再生されてゲームが中断されたりします。

ワクワクしてゲームを進めていくと、

「ここから先は有料です」

みたいな感じで、一気にげんなりしたり。

何かとお金を要求されて、ゲームの世界にドップリハマることができないんですよね。



こういう、やたらと課金を促してくるゲームのことを『課金ゲー』と言ったりします。

「目的は、お金儲けかよ!」

って憤ります。

ゲーム作りもタダでやっているわけじゃないので、お金儲けであることは間違いないのですが、請求の仕方が下手くそなゲームは、ストレスが溜まります。



あと、無料ゲームによくあるのが『ガチャ』ですね。

定期的にもらえる特殊アイテムや、課金して手に入れた特殊アイテムを使って、プレイヤーキャラクターや、武器防具などを一定の確率で引き当てるシステムです。

ちっちゃなおもちゃの入った『ガチャガチャ』ってありますよね。

あれのゲーム版です。




僕の感覚は、今の子どもたちとは、異なっていると思うんですが、課金要素があるゲームは何となく敬遠しちゃいます。

無料の範囲でできるだけやろう、って思うんですが、ストーリーを進めるのにお金が必要になったりすると、もうダメですね。

一気にやる気を失ってできません。

『ガチャ』も、結局、プログラムの数字に躍らされているだけでしょ?なんて思うので、あまり燃えません。

僕はね。






神ゲーと、クソゲーの判定は、個人の価値観に委ねられます。

子どもにとって、神ゲーに出会えれば出会えるほど、子どものゲームライフはより充実したものになるでしょうね。



最近のゲームで言えば、

・Minecraft

・Splatoon

・マリオメーカー

・モンスターストライク

などをやっている子どもが多いですよね~。



僕も同じくハマったものもあれば、僕はハマらなかったものまで。

僕がハマったから神ゲーではないし、僕がハマらなかったからクソゲーではありません。

それぞれの子どもにとっての神ゲーと、クソゲーがあるだけです。







ちょいと話は変わりまして、以前、

「ファミコン世代の名作を今の子どもたちにやらせてみたら、おもしろいのか?」

っていう企画がありました。



『くにおくんシリーズ』(僕もやったことない)

をWiiUとか、3DSが当たり前の今の子どもたちにやってもらったそうです。



そしたら、

「めっちゃおもしろい!」

ってなったそう。

昔の名作は、今の子どもたちにも通用するみたいです。



さらに、この記事は、幼い頃からゲームに触れていた少年の話が、親子で登場します。

「ゲームをやっていたから、文字を覚えるのが早かった」

など、なかなかおもしろいので、ぜひ読んでみてください。

電ファミ記事おき場:今の子供達にファミコンの名作をやらせてもやっぱり「つまんない」って言うの? 実験してみた


 

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「うちの子は、スマホばっかりして全然勉強しない」

「うちの子は、ゲームばっかりして全然勉強しない」



昨日、お昼のテレビで、「スマホを使うほど、学力が下がる」っていうのをやっていたそうです。

僕は見れなかったのですが、見てた人から話を聞けば、僕の持論とは違うなぁ、っていう印象。



子どもの学力が下がるのは、スマホのせいでもないし、ゲームのせいでもありません。

子どもの学力が下がるのは、子どもが勉強をしていないから、です。



「子どもが勉強をしないこと」

と、

「子どもがスマホを使うこと」

は全く別の話です。



「子どもが勉強をしないこと」

と、

「子どもがゲームをすること」

も全く別の話です。



なぜ、別の話だと言えるかと言うと、

『スマホや、ゲームをしていて、学力が高い子もいる』

し、

『スマホや、ゲームをしていて、学力が低い子もいる』

し、

『スマホや、ゲームをしていなくて、学力が高い子もいる』

し、

『スマホや、ゲームをしていなくて、学力が低い子もいる』

から、です。



「親は、子どもの好きなものを取り上げれば、子どもが言うことを聞くと思ってる」

この記事でも書きましたが、

『子どもの好きなものを取り上げても、子どもは勉強をするようにはなりません』



もう一度言います。

『子どもの好きなものを取り上げても、子どもは勉強をするようにはなりません』



です。



「子どもに勉強をしてほしい」

っていう想いを持っている人は多いかと思います。



その想い自体はいいんです。

でも、着目するポイントが間違っているんです。



さっきも書きましたが、

「子どもの学力が低いのは、子どもが勉強をしていないから」

です。



だから、僕らがやることは、

「スマホや、ゲームを何とかすること」

じゃなくて、

「子どもが勉強をするようにすること」

です。



そして、

「スマホや、ゲームを何とかすること」

と、

「子どもが勉強をするようになる」

っていうのは、違うことです。

スマホや、ゲームを何とかしたところで、子どもは勉強をするようになるとは限らない、っていうこと。



下手すりゃ、子どもはいたずらに楽しみを奪われただけで、生きる気力を失うことだってあります。

「スマホや、ゲームを何とかする」

という働きかけは、僕は割と危険な発想だな、って思っています。

日々の楽しみ(それがたとえ惰性であっても)を奪われた子どもは、生きることに飽きる可能性が出てくるから、です。






で。





なんで、こう考えるのか。

この発想は、原理原則から考えたものです。



子どもが自分から勉強をするのは、勉強をしたいから、です。

それ以外の理由は、全てオマケみたいなもんです。

「勉強をすると、将来の役に立つ」

「勉強をすると、収入が増える」

とか、っていうのは、全てオマケです。

僕らは、このオマケの理由に振り回されがちなんです。



逆に言えば、子どもが勉強をしない理由は、勉強をしたくないから、です。

それ以外の理由も、全てオマケになるわけです。

「スマホをやっているから、勉強をしない」

「ゲームをやっているから、勉強をしない」

っていうのも、全てオマケです。



僕らは、目に見えるものに振り回されます。

子どもをパッと見た時に、スマホをやっていると、スマホを何とかしたくなります。

『スマホを、見ているから』

です。

それで、『スマホ=悪』という認識が作動して、「スマホを何とかしなきゃ」っていう意志を持ちます。



アドラー心理学では、特定の原因をピックアップして、「その原因を排除せよ!」っていう考え方を『原因論』と言って、批判しています。

人間は、原因論的な生き物ではなく、目的論的な生き物だ、と。



心理の働きに、注目すればするほど、拡大していく、増大していく、という働きがあります。

これを『焦点化の法則』と言います。

子どもがスマホをやっているのを見て、『スマホ=悪』という認識を持つと、スマホに対する嫌悪感がものすごく大きくなります。

子どもは、親の持つ『スマホ=悪』という嫌な雰囲気から逃れるために、より一層、スマホにのめり込みます。



『原因論』の何がまずいのかと言うと、今書いた『焦点化の法則』に加えて、もう一つあります。

それは、

「何かが起こる原因は、一つとは限らない」

っていうこと。



「子どもが勉強をしない」

っていうのを考えた時に、子どもが勉強をしない原因は、無数にある、っていうことです。

だから、『原因論』的な考え方で、子どもに関わると、その無数にある原因を潰していくことになります。



子どもが勉強をしないのは、

・スマホのせい

・ゲームのせい

・親の関わり方のせい

・今までの育ちのせい

・遺伝のせい

・友達のせい

・先生のせい

・学校のせい

・生活態度のせい

・家の居心地がいいせい

・学習障害のせい

・○○障害のせい

・学力が低い地域というせい

だ!



って言えちゃうわけ。

これが『原因論』的なやり方で、どんどん悪い原因を見つけて、潰していこう、っていう発想です。



『原因論』の落とし穴は、例えば、今挙げた原因のうち、10個をつぶせたとします。

その時、

「10個の原因から子どもを救えた」

って思うと同時に、

「まだ諸悪の根源が残っている」

って思います。



原因探しに躍起になっていると、一つ見落としができるんです。

「子ども=ダメなやつ」

「子ども=可哀そうなやつ」

「子ども=救ってやらないといけないやつ」

っていう、子どもを下に見るというか、子ども自身の価値を、力を見失っちゃうんです。



いつの間にか、子ども自身を小さく弱いものとして認識して、守ろう守ろうとしちゃう。

そしたら、子どもはどうなるかっていうと、その認識の通り、小さく弱いものとして振る舞うようになります。

そして、

「自分はダメな人間なんだ」

「自分は何もできない人間なんだ」

っていう認識を持つようになります。





っていうのが、親子関係における『原因論』を基準にした一つのストーリーです。

「スマホを使うから、勉強をしない」

「ゲームをするから、勉強をしない」

ってやるのが間違っているわけではないんですが、それじゃあ、子どもは勉強するようにならないよ、って話です。



『原因論』の考えのおもしろいところは、例えば、子どもからスマホと、ゲームを取り上げるとするじゃないですか。

そしたら、何か他のものにハマるんです。

で、結局、勉強をしない(笑)



だから、スマホや、ゲームを何とかしても、子どもが勉強をするようになる確率は、極めて低いでしょうね~。







じゃあ、どうすればいいのか?

僕らは、スマホや、ゲームを何とかするんじゃなくて、

「子どもが『勉強をしたい!』と思えるようなこと」

に取り組む必要があるんです。



「学ぶことっておもしろい!」

「勉強は自分に必要なんだ!」

「この先生、大好き!」

「親に自分の成長を見てほしい!」

「この本をもっと読みたい!」

「これって、どうなってるんだ!?」



どんな理由でも構いませんが、子どもが『勉強をしたい!』という動機をたくさん見つけていくんです。

すなわち、子ども自身が、勉強をする目的を見つけていく。

『原因論』ではなく、『目的論』で考えましょう、って話です。



「じゃあ、スマホや、ゲームはどうしたら!?」

ほっといたらいいんです。



さっきも書いたように、原因は注目すればするほど、嫌な状況が増えます。

だから、子どもがスマホ使ってても、ゲームしてても、基本的には放置です。



ただ、親が子どもがやってるスマホや、ゲームに関心を持つのはオススメです。

これは、「スマホや、ゲームに関心を持ちましょう」って話ではなくて、「『子どもがやってる』スマホや、ゲームに関心を持ちましょう」って話です。

子どもと一緒に、子どもが好きなことの話ができたら、最高です。



とはいえ、子どものスマホや、ゲームに関心を持つことと、勉強をするようになることは、繋がるとは限りません。

親子の仲が良くなるだけです。





まとめると、



・子どもの学力が低いのは、スマホや、ゲームのせいではなくて、勉強をしていないから

・スマホや、ゲームなどの『勉強をしない原因』を取り除いたところで、子どもは勉強をするようにはならない

・スマホや、ゲームに関しては、スルー

・僕らが取り組むべき課題は、子どもに『勉強したい!』と思わせること




です。


 

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「子どもには、ゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

という願いを叶えるための記事、第三弾です。



子どもの遊びの中で、なぜか、ゲームだけが悪者扱いされます。

外遊びや、カードや、人形、おもちゃでの遊びは、そんなに目くじらを立てられないのに。

「うちの子どもは、ずっとベイブレードやってて、いっこうにやめません」

っていう悩みは聞かないのに、

「うちの子どもは、ずっとゲームしてて、いっこうにやめません」

っていう悩みはよく聞きます。



なぜか、ゲームだけが特別、敵対心を抱かれる不思議。

外遊びは、事故で命を落とす危険があったりするのに。

ゲームばっかしてても、誰も死なんよ?

ゲームの中では、たくさん死んでいくけど(笑)





ゲームだけが特別、悪者に仕立て上げられる理由は、3つだろうな、って思っています。

1.親がゲームをほとんどしてこなくて、未知のものに対する恐怖

2.親が子どもの頃に、自由に遊ぶことを許されてこなくて、自分の子どもにもそれが許せない(つまり、嫉妬や腹いせ)

3.本や、テレビなどから、『ゲームをやらせるとヤバい』っていう情報を仕入れてる



時々ね、

「子どもにはテレビを見せない方がいいんでしょうか?」

って聞かれることがあるけれど、僕は、親の方がテレビを見ない方がいいと思っています。



なぜか?

子どもが見ているのって、アニメとか平和なものが多いけれど、親はニュースとか、教育対談とか、子どもよりもネガティブな情報を目にとめがち。

で、その番組から仕入れた情報を元に、

「子どもにゲームをやらせるとマズイ!」

って思っていたりするんじゃないか、と。

情報源は、テレビだけじゃないと思いますけどね。



そうやって、情報を仕入れることで、親自身の認知にバイアスがかかります。

そして、

「子どもにゲームをやらせるとマズイ」

という認知の出来上がりです。



「ゲームは安全だよ」

って主張したいわけじゃなくて、

「ゲームだけが格別、悪者扱いされるのがおかしい」

って主張したいんです。



例えば、ゲームを制限したい理由が

「子どもが勉強しなくなる」

だとしますよね。



そしたら、外遊びしてたって、ベイブレードしてたって、何だって、勉強しなくなります。

外遊びや、ベイブレードは勉強に繋がるけれど、ゲームだけが勉強に繋がらない、っておかしい話です。



「子どもの目が悪くなる」

っていう理由でゲームを制限したい場合。



目が悪くなるんなら、それこそ勉強や読書をさせてはいけないでしょ、って思うんです。

ゲームなんかよりも、勉強や読書している方が、目が悪くなるんじゃないか、って思っています。

だって、学者さんや、優等生の子は、メガネかけてる子が多いでしょ?



「勉強では目が悪くなってOK」

「ゲームでは目が悪くなってNG」

って意味不明でしょ??

どっちも目が悪くなってんじゃん、って思うんです。



ちなみに、僕は、両目とも視力が1.2以上あるので、ゲームしまくってても、目が悪くなるとは限らない、って実体験で思っています。




「ゲームは依存症を引き起こす可能性がある」

って言うのも同じね。



ひたすら読書をしている子もいますよね。

彼らは、「読書依存症」とは言われないわけだ。



ひたすら友達と遊んでいる子もいますよね。

彼らは、「友達依存症」とは言われない。



ひたすらレゴで遊んでいる子もいますよね。

彼らは、「レゴ依存症」とは言われない。



ゲームだけは、なぜか、子どもの遊びではなく、お酒やたばこなんかと同列で扱われる。

もしも、子どもが何にも依存せずに生きていくんだったら、それはすなわち、何からも本質を学ばない、っていうことと等しいわけで。



ちなみに、子どものゲーム依存を何とかしたい場合は、2月7日のメルマガに書いてあるので、メルマガに登録してバックナンバーから読んでみてください。

ここにもチラッと書いています。

http://ameblo.jp/sinosakura/entry-12245473828.html







子どものゲームに関しては、圧倒的に、親子の間で、認知がズレます。

そして、親が子どものやっているゲームを悪者にしているうちは、子どもはゲームの世界から抜け出してきません。

自分で、ゲームをコントールすることもしないから、親が管理するしかなくなってしまう。



「子どもは、ゲームをコントロールできない」

っていうのは、ちょっと深く掘りさげておく必要があるだろうな、って思います。



親が子どものゲームを管理しているうちは、子どもの方に、

「自分でゲームをコントロールしよう」

というモチベーションは生まれません。

なぜなら、親が管理してくれるんだから、わざわざ自分で管理する必要はありませんよね



親が管理してくれるんだから、自分で管理する必要もないし、自分で管理する気もないから、自分で管理する能力も鍛えられないまま。

だから、「子どもは、自分でゲームをコントロールできない」っていう状況が生まれます。

この時に、親が管理をやめない限り、子どもに何をしたって、子どもが自分でゲームをコントロールできるようにはなりません。



「子どもに、自分でゲームをコントロールできるようになるためには、『遊びの解放』をしているのが大前提で必要」

っていうのが第一弾の記事でした。



「『遊びの解放』をした時、次に考えるのは親子のコミュニケーションであり、親の子どもに対する認識を改める必要がある」

っていうのが第二弾の記事でした。



第三弾は、「ゲームにネガティブなバイアスをかけず、ニュートラルに見れるようにする」っていう内容です。





僕は、

「ゲームは危険だよ」

とも言わないし、

「ゲームは危険じゃないよ」

とも言いません。



僕が常々言い続けているのは、

「ゲームは道具だよ」

っていうこと。



ゲームが悪いから、ゲームに依存性があるから、子どもが抜け出せなくなるわけじゃありません。

ゲームは子どもがハマるように作られてはいるけれど、上手くゲームをコントロールできる子もいれば、コントロールできない子もいるわけです。

だから、ゲーム自身の依存性のせいにしていると、いっこうに、子どもはゲームから抜け出す術を学びません。



さっきも書きましたが、ゲームは、『遊び』と同列に捉えられるのではなく、なぜか、お酒やたばこ、麻薬みたいなものと同列に語られることもあります。

ゲームは、道具であり、遊びです。

お酒や、たばこ、麻薬のような中毒性とは違ったものがあります。



何が違うのか?

決定的に違うのは、

「身体への影響」

です。



お酒は、体内にアルコールを摂取します。

たばこは、体内にニコチンを摂取します。

麻薬も、体内に何か摂取しますよね(詳しくは知りません)。



身体にダイレクトに影響を与えるものばかりです。

僕らの意識を支配する強さは、

1.身体

2.感情

3.思考

です。



中毒性が体内にダイレクトに与える場合、自分の意志の方が圧倒的に弱いので、どうあがいても自力では抜け出せないことがあります。

飽きることがありません。



しかし、ゲームが与えるのは、思考であり、感情です。

身体的には、ほとんど影響を与えません。

飽きたらやらなくなります。

だから、遊びと同列に考えたいんです。



ただし、家庭や、親子関係が険悪な場合、現実逃避先にゲームを選択する場合があり、子どもにとってゲームは、遊びではなく安全地帯になります。

その場合は、ゲームをどうこうする、っていう話じゃなくて、家庭事情や、親子関係を何とかしないと、子どもはゲームから抜け出してきません。

この時に、ゲームを何とかしちゃうと、子どもの唯一の心の拠り所を奪う結果となります。







結局、親子の間でのゲーム論争って、

子ども ⇒ ゲーム楽しいから抜け出してこない

親 ⇒ 『ゲーム=悪』という発想から抜け出してこない

って、どっちも依存的な発想を持ってるんじゃないかな、なんて思っています。



『ゲーム=悪』

っていう発想を何とかできれば、子どもは意外なほどあっさりと、ゲームに飽きたり、ゲームだけじゃなくて、勉強を始めたりします。
 
 

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「子どもには、ゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

という願いを叶えるための記事、第二弾です。
 
第一弾
http://ameblo.jp/sinosakura/entry-12247712023.html



「親が、子どものゲームをコントロールする」

という依存的に育てるのではなくて、

「子どもが、ゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

という自律的に育てていくためには、まずは大前提として、

『遊びの解放』

が必要ですよ、っていう話でした。



『遊びの解放』

というのは、

・親が、子どもの遊びを制限しない

・親が、子どもの遊びにかけている条件を撤廃する

・子どもは、自分の意志で、自分がやりたいだけ遊んでもいい

っていう考え方です。



『遊びの解放』

って中身を覗くと、

「放任と何が違うの?」

って思うかもしれません。



僕が言及しているのは、あくまでも、

『子どもの遊び』

に関してです。

子どもの遊びを全面的に認めつつ、放任じゃなくて、しっかりとコミュニケーションを取っていきます。



でね、

「ゲームは1日どの程度にするのが適切か?」

っていうコミュニケーションは、親の心の片隅に、

「子どもの遊びをコントロールしたい」

っていう想いが見え隠れてしているは分かりますでしょうか。



「子どものゲームは、1日どれくらいにするのがいいのか?」

「子どものゲームは、どんなものを選ぶのがいいのか?」

「子どものゲームは、どうすればいいのか?」

「子どものゲームは・・・」



って考えているうちは、『遊びの解放』じゃなくって、結局、子どもの遊びに規制をかけようとしています。

これらのことは、全て子どもに任せます。



そして、

『子どもが自ら相談してきた時に限り』

子どもの遊びをどうコントロールするのかを、子どもと話します。



言い換えれば、子ども自身が、自分の遊びをどうコントロールすればいいのか、っていうことに関心がないうちは、話題には挙げません。

なぜか?

「子どもが、問題視していないから」

です。



親自身が子どもの将来に危機感を持って、子どもを何とかしようとしちゃうんですが、その危機感は、親自身が何とかすべき課題です。

子どもの危機感を煽ったり、子どもの遊びを具体的に制限し始めると、親による子どもの支配が始まります。







なので、

「子どもには、ゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

って願った場合、親子のコミュニケーションを全面的に変更していく必要が出てくるわけです。



「親が、子どものことをコントロールしてもよい」

という前提で行ってきたコミュニケーションをやめて、

「子どもが、自分のことをコントロールできるようになる」

という前提を持ったコミュニケーションに、一から再構築していくんです。



この時、表面的なコミュニケーションをいくら変えても無駄です。

「子どもがゲームと上手く付き合えるようになるためには、どんな声掛けをしたらいいでしょうか?」

「どんな声掛けをしても、さほど変わりません」

です。



僕らが再構築をしていきたいのは、

「子どもをどんな存在だと見ているか?」

っていう信念レベルの話です。



「親が、子どもをコントロールしてもよい」

って思っているうちは、どんな声掛けをしたって、どんなコミュニケーションを取ったって、子どもは依存的になっていきます。



「育児本に書かれている通りにやっても上手くいかない・・・」

っていうことがあるのは、表面的なコミュニケーションだけ変えているからです。

本当は、信念レベルからガラッと変えていく必要があります。





子どもをどんな存在だと思っているのか。



例えば、

「子どもには、親の助けが必要である」

って思っているとします。



この信念は、親が自発的に、

・朝、親が起こす

・宿題を忘れないように声掛けをする

・ゲームのやり過ぎを注意する

・子どもの勉強をチェックする

っていう行動に繋がります。



そしたら、子どもは、

・親が起こしてくれないと、起きれない

・親が声掛けをしてくれないと、宿題をやらない

・親が声掛けをしてくれないと、ゲームをやめれない

・親が勉強をチェックしてくれないと、自分からは勉強をしない

っていうのを身に付けていきます。





一方、

「子どもは、自分のことを自分が一番真剣に考えている」

って思っているとします。



そしたら、親の自発的な行動は、

・朝、起こさない

・宿題について声掛けしない

・ゲームをやっていても、注意しない

・子どもの勉強をチェックしない

ってなります。



なぜなら、

「子どもは、親が言うまでもなく、自分のことは、自分が一番わかっているでしょ」

って思っているから。



そうすると、子どもは、何度かの失敗を重ねると思います。

・朝、寝過ごして、遅刻して気まずい思いをした

・宿題を忘れた、やらなかった、で先生に怒られた

・ゲームをやり過ぎて、次の日がしんどい

・勉強をしなくて、成績が悪かった

みたいな。



そして、子どもはこれらの失敗から、学びます。

・朝、寝過ごすと、気まずい思いをするから、目覚まし時計をダブルで設置

・宿題を忘れると先生に怒られるから、ギリギリでも仕上げる

・ゲームをやり過ぎると、次の日がしんどいから、時間を調節する

・成績を上げたいから、勉強をする

みたいな感じになっていきます。



この間、親は子どもには、目立った制限も、声掛けもしていません。

朝、一度くらいは声を掛けるかもしれません。

「朝だよ~」

みたいな。

声を掛けてあげると温かみは出ますからね。

でも、それは一度きりで、起きてくるまでは声掛けしない。





子どもは、自分の選択したことにより、成功と、失敗を受け取ります。

上手くいっているんなら、特に変える必要はありませんよね。

例えば、ゲームは1日何時間もしているけれど、赤点は取っていないし、留年もしていない、とか。

朝、起きるのギリギリだけど、遅刻はしていない、とか。



でも、失敗した場合は、そこから学んで、自分で変えていかない限りは、子ども自身が失敗による受け取りたくない結果を、受け取り続けることになります。

それが嫌な場合は、自分で変えていくしかないんです。

だから、自分の意志で変えていくようになる。



なぜなら、

「子どもは、自分のことを自分が一番真剣に考えている」

からです。






このように、子どものことは、声掛けなどのコミュニケーションのスキル部分を変えるだけでは不十分です。

親子関係の場合は、関係性の近さから、あざといやり方は、子どもにすぐに見抜かれます。

だから、コミュニケーションのより本質的な部分、信念レベルで再構築していく必要があります。



そういう意味で、

「ゲームをどうしようか?」

って考えているうちは、どういう手段を選んだって、子どもは依存的に育っていきます。



ゲームをどうするのか、っていうのは、どっちゃでもいいんです。

ゲームをやりまくってても、子ども自身に主体性があれば、自分の人生を自分で何とかしていきます。

ゲームをやりまくっていなくても、子ども自身に主体性がなければ、自分の人生は親に何とかしてもらう、って思っていたりします。



大事なのは、ゲームじゃない。

ゲームは、子どもが必要性を感じたら、勝手に何とかします。

まずは、

「子どもをどんな存在だとみなしているか?」

っていうところを見つめなおしていく必要があるんです。
 
 
 

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子どもには、

「ゲームとは、上手く付き合えるようになってほしい」

って思うんじゃないかな、って思います。



親が、

「子どもには、ゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

「子どもには、できるだけゲームをやらないでほしい」

「子どもには、1日1時間ならゲームを認められる」

って思っていると、正反対のことが起こります。



ゲームとは上手く付き合えないし、めっちゃゲームするし、1日何時間もゲームをします。



じゃあ、

「子どもは、ゲームと上手く付き合えなくてもいい」

「子どもは、たくさんゲームをやってもいい」

「子どもが、1日何時間ゲームしてもいい」

って思っていたら、何が起こるか?



ゲームとは上手く付き合おうとしないし、めっちゃゲームするし、1日何時間もゲームをします。



何が言いたいか分かるでしょうか?

「子どもがゲームが好きなら、親がどう思っていてもゲームをする」

っていうことです。



おもしろい原則ですよね~。

ただし、例外があります。



それは、親が物理的にゲームを制限した場合。

子どものゲームを取り上げてみたり、破壊してみたり、捨ててみたり、売ってみたり。

子どもがルールを破ったら、叩く、蹴るなどの体罰を加えてみたり。

また、物理ではありませんが、子どもがルールを破ったら、烈火のごとく怒ってみたり。



物理的にゲームを制限した場合は、子どももゲームのやりようがありません。

子どもが小さければ小さいほど効果的です。

子どもの精神的ダメージも絶大です。

想像に難くないですよね。





子どもの好きを奪うためには、親は子どもを徹底的に痛めつけるしかないんです。

そしたら、子どもも好きなことを諦めていきます。

生きる希望と一緒に、ね。



だって、楽しいことが奪われた人生なんて、

『生きたい』

って思う?

思わないでしょ?







また、

「やることをやっていたら、何も文句を言わない」

っていう人がいます。

親が、子どもの行動や、思想に、制限を加えていく、っていう発想です。



親が、子どもに条件や、制限を加えていくと、子どもは

『親の劣化コピー』

に育っていく、って考えています。



「やることをやっていたら、何も文句を言わない」

っていうのを正論だと思う人がいますが、これもまた価値観であり、思想です。

つまり、

「そういう考え方も、できる」

ということであり、正解ではありません。



なんでかっていうと、

「やることをやっていたら、何も文句を言わない」

っていうのは、

「親が、子どものことを決める権限を持っている」

っていう前提があるから、です。



僕が、

「やることをやっていたら、何も文句を言わない」

っていうのを、

「価値観であり、思想だ」

って言っているのは、

「親が、子どものことを決める権限を持っている」

っていう部分です。



さらに言えば、

「親は、子どもを管理してもいいし、自由にしてもいい」

っていうことであり、支配下であり、道具だ、って言っているのとさほど変わりません。



「子どもがやるべきことをやっていなかったら、親は文句を言ってもいい」

っていうのは、

「文句は言うけれど、それに従う必要はない」

っていう意味じゃないですよね。

「子どもは、やるべきことをやっていないうちは、親によって自由を制限される義務がある」

っていう意味ですよね。



親が子どもに文句を言うのは、子どもを制限するため、ですよね。

文句言うだけいって、ストレス発散だけできればいい、っていう意味じゃないですよね。



子どものやること成すことに、親が制限して育てていった人間のことを、僕は、

『親の劣化コピー』

って言っています。



その理由は、親が子どもを制限するんだから、親子関係の裏側に支配構造があるから。

支配構造があれば、子どもは、親を超えることはできません。



インドのカースト制のように、人口比が支配階級:労働者階級=1:9なのに、

「反乱なんて起こしたら、来世で悪いことが起こる」

みたいに、自分たちの持っている牙を抜かれるんです。



だから、親子関係に支配構造があれば、親が子どものことを制限したり、子どものことを決定していたりすると、子どもは『親の劣化コピー』となるわけ。





でね、僕のこの考え方は、

「子どもに自立してほしい」

という願いの元で書いています。



子どもに自立してほしい場合は、子どもへの支配をやめなければいけません。

「やめなければいけません」

って、義務を言っているんじゃなくて、原理原則の話です。



リンゴジュースを飲みたいのに、ミカン絞ってたら、リンゴジュースは飲めませんよ?

リンゴジュースを飲みたい場合は、ミカンじゃなくて、リンゴを絞らなければいけません。

みたいな意味での「やめなければいけません」っていう話です。

でも、「ミカンジュースでいいや」って思ったら、そのままミカンを絞り続ければいい、っていうこと。



「子どもが自立しなくてもいいや」

「子どもが『親の劣化コピー』になってもいいや」

っていう人は、子どもへの制限や、条件付け、禁止、命令とかを続ければいいんです。

そしたら、順調に子どもは自分の意志を見失って、依存的に育っていきます。




もっとシンプルに書けば、

親が子どものことを決める ⇒ 子どもは依存的になる

子どもが子どものことを決める ⇒ 子どもが自律的になる

っていうこと。



冒頭に書いた、

「子どもには、ゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

って思った場合、親がそう願うのは自由です。



ただ、その願いを実力行使に移した場合、すなわち、親が子どもに、

「ゲームは1日1時間までね」

とか、

「ゲームの前に宿題をしなければいけません」

みたいな条件を課すと、子どもへの支配が始まります。



願うのは自由で、条件を課すと、子どもへの支配が始まって、子どもを依存的に育ててしまう。



ということは、です。



『やり方』が違うんです。



やり方。



「子どもがゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

ってなった場合、親が起こす具体的な行動が間違っているんです。



親が子どもに条件を課したり、実力行使に出ると、

「子どもがゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

って思っているのに、やっていることは、

「親が、子どもをゲームと上手く付き合わせるようにする」

っていうことをやっているんです。



「子どもがゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

は、主語が『子どもが』です。

だから、この願い自体は、子どもの自立を願っています。



でも、やっていることは、

「親が、子どもをゲームと上手く付き合わせるようにする」

であり、主語が『親が』になっていて、行動レベルで、親は主体的だけど、その主体性に子どもが依存する構図になるんです。







なので、

「子どもがゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

という願いは、

「子どもの主体性に委ねている」

という前提が必要です。



遊びに関するこの前提を僕は

『遊びの解放』

って言っています。



親の否定的な介入(~しなければならない、~するべき、~してはいけない)をやめる。

子どもがゲームをやるのか、やらないのか、ということには、一切の口出しをやめます。

やる、やらないに口出しをすると、ほぼ間違いなく、子どもの主体性を否定することに繋がります。



なので、

「子どもがゲームと上手く付き合えるようになってほしい」

と思った場合、本当にそれを実現させるためには、

・ゲームの制限

・ゲームを取り上げる

・ゲームを廃棄する

・ゲームを監視する

っていうことではなくて、

『遊びの解放』

っていう一択です。



子どもがゲームをやるのかどうか、どれくらいするのか、っていうことに介入をすると、その関わり方は、子どもの親への依存関係を前提にしているので、

『親の劣化コピー』

への駒を進めていきます。

「親が、子どものゲームを上手くコントロールする」

っていう状態ですね。
 
 
 

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「親子関係の問題は、夫婦関係の問題に帰着される」(=夫婦関係の問題が先立つ)

って考えています。

一人親の人は、自分のご機嫌度合、みたいに言い換えてもらえればいいです。



この話は言い換えれば、

「親は、親らしくしてる?」

って話です。



「親は、楽しくしていなければならない」

「親は、笑顔でいなければならない」

みたいな話ではありません。



笑ってたっていいし、怒っていたっていいし、ダラダラしてたっていいし、全然ダメでもいいし、良い親であってもいい。

何だっていいんです。

それが自分らしい、と思っていれば。







こういう話をした時に、時々いただく相談が

「夫婦で価値観が違います」

っていうの。

「私は、子どもを自由にさせたいけれど、夫は子どもに厳しすぎる」

みたいな。



「親子関係の問題は、夫婦関係の問題に帰着される」

って、何が問題なのか?って話です。



「夫婦で価値観が違うこと」

が問題・・・じゃないですよ。



夫婦で価値観が違うのは当たり前です。

価値観が違えば、教育観や、家族観も変わります。



「夫婦で価値観を合わせようとすること」

っていうのは、それはすなわち、

「パートナーの価値観の否定」

に繋がる可能性があるんです。



お互いの価値観が元々似通っていて、夫婦で価値観を合わせやすい夫婦もいます。

でも、お互いの価値観が正反対な夫婦もいます。



「親子関係の問題は、夫婦関係の問題に帰着される」

って、何が問題かって、

「親が、親らしくいられていない」

っていうことです。
 


夫婦で価値観を合わせようとして、パートナーの価値観を否定すれば、

・自分が我慢して、相手に合わせる ⇒ 自分が自分らしくなくなる

・相手が我慢して、自分に合わせる ⇒ 相手が自分らしくなくなる

・価値観が合わさらず、平行線 ⇒ 二人とも自分らしくなくなる

っていうことが起こるわけ。



これは、「親が、自分らしくない」っていうこと。

主語は、『親』なので、自分だけの話じゃないです。

自分と、パートナーをひっくるめての話です。







じゃあ、どうすればいいの?!って。

その答えは、

「価値観を合わせようとせず、自分も相手も認める」

っていうことです。



自分が子どもを自由にさせてて、相手が子どもに厳しくしていたとしても、それを非難しないし、変えようともしない。

「そうなんだ」

って認めてもいいし、

「どうして厳しくしようと思ったの?」

って興味を持ってもいい。



自分が自分らしくいられて、相手も自分らしくいられる。

家庭が、子どもにとって安全基地になるためには、家庭が親にとって安全基地になっている必要があります。

妻がいつも夫を責めたててる・・・そんな家に誰が帰りたいと思うでしょうか。

夫はいつも妻を責めたててる・・・そんな家で誰が安心感を感じられるでしょうか。



夫婦がお互いを否定し、批判し合う心は、子どもにも確実に伝わります。

子どもに夫婦の否定し合う気持ちが伝わった時、子どもの心は不安定になります。

子どもの心が不安定になった時、子どもは夫婦の仲を取り持とうと、自分を犠牲にすることがあります。



子どもが問題行動を起こしたり、病気になったり。

問題行動や病気を起こせば、夫婦の注目はお互いから、子どもである自分自身へ移ります。

そして、子どもに注目している間は、夫婦の意識は、

「子どもを助けなきゃ!」

で一致しているから、夫婦で協力し合える。

その間だけ、子どもの状態は良くなる。



でも、子どもの状態が良くなると、また夫婦仲が険悪になる。

そしたら、また子どもは注目を自分に集めるために、問題行動や、病気を起こしたりする。



もちろん、全ての問題行動や、病気が夫婦の注目を集めるためになされているわけじゃありません。

純粋に身体的な原因を持っていることもあります。

しかし、心因的な原因の場合は、夫婦仲を取り持つために、子どもが無意識に引き起こしている、っていうこともあるんです。

これはザックリと「ストレスによるものですね」って言われたりするんです。





「夫婦仲を良くする」

っていうのは、2人で常に笑い合っていろ、って話ではありません。

「お互いが自分らしくいられるように、お互いのことを認め合う」

っていうこと。



「妻は、こういう人間だよね」

とか、

「夫は、こういう人間だよね」

とか。



そして、

「それでOK」

って思えていること。
 
これがすなわち、
 
「夫婦にとって、家庭が安全基地になっている」
 
っていうこと。





例えば、「夫は、すぐに忘れ物をする」っていうのがあった場合、

「だから、ダメ、何とかしなきゃ」

じゃなくて、

「だから、私がフォローするの」

「それでも、特に困ったことはないからいいの」

みたいな感じで、夫本人を何とかしようとはしない、っていうこと。



そうやって、相手のことを認めていると、気付くことがあるんです。

「忘れているのって、どうでもいいものばかり。本当に大事なものは忘れていない」

とかね。

「何でもかんでも大切にしようとするんじゃなくて、本当に大切なものを大切にしているんだ」

とかね。





「夫婦の価値観が違う」

っていう時に、

「だから、相手を変えなければいけない」

ってやっているということは、

「自分は正義」

「自分は正しい」

って思っているわけ。



それと同時に、

「相手からは何も学ぶことはない」

「相手は何だか低俗な感じ」

と自分を上にして、相手を下にする思想も潜んでいるわけ。



相手を下に見ている時って、イライラするんです。

これを僕は、『頭で怒る』って言い方をしています。

型にはめようとしているだけ。



「相手からは何も学ぶことはない」

「相手は何だか低俗な感じ」

っていう時に、もう一つ同時に起こっていることがあって、

「自分の成長を拒否している」

っていうことも起こります。



家庭の外では成長しているのかもしれません。

しかし、家庭の中では成長を拒否している。

だから、夫婦のことで悩み続けるし、親子のことで悩み続ける。



そして、家庭のことは、家庭の中で気付くしかありません。

僕や、他のなんか偉い人なんかが、

「これがいいよ!」

って言ったとして、その言葉の意味を理解するだけじゃダメなんです。



その言葉を家庭に持って帰って、照らし合わせて、

「そうか!自分の家庭の中では、こういうことが起こっていたんだ!」

っていうことに気付いて初めて、家庭の中での成長が起こります。



しかし、相手を否定している間は、家庭の中での自己成長は起こりづらくなっています。



なぜならば。



価値観の違う相手は、自分が学ぶことがある相手だ、っていうこと。

逆に言えば、価値感の合う相手からは、特に学ぶことはありません。

一緒にいて居心地はいいけれどね。





「夫婦仲を良くする」

っていうのは、

「相手の価値観を認めること」

であり、

「自分の価値観も認めること」

です。




相手の価値観のズレにイラッとする時は、

「私と、あの人は、合わない」

って思うは、当たり前の話です。



その時に、相手に合わせる必要なんて、全く無いし、相手を合わさせる必要もありません。

あるのは、

「どういう理由で、そういう発言をするんだろう?」

「どういう人生を歩んできたから、そういう発想をするんだろう?」

「どうして、そういうことができるんだろう?」

「そうやることで、何がいいのかな?」

って、自分が理解できていない部分を理解しようとすること、です。



価値観が違う場合は、合わせる合わせないじゃなくて、そこには学ぶことがある、っていうことです。

そんだけです。

あとは、学ぶのか、否定し続けて、学ばないのか、です。

もちろん、学んだからって、それがすなわち、自分を変えることを意味しません。
 
学んだ上で、自分は自分のままでもいいんです。

変わりたかったら、変わればいい。
 
変わる必要性を感じていなければ、変わる必要はありません。







「夫婦で価値観がズレていれば、子どもが迷いませんか?」

っていう疑問もあるかと思います。



子どもには、迷わせてあげてください。

それがすなわち、

『考える』

っていうことです。



そして、迷った末に、夫婦どちらの価値観を採用するかは、子どもの自由です。

親としての良さをジャッジするのは、子ども自身です。

子ども自身を認めてみると、その子が求める親像も見えてくると思います。



むしろ、夫婦で価値観がズレていれば、子どもは2人分の価値観を一度に学ぶことができます。

価値観に良い悪いはなくて、

「子どもは、そっちを選んだ」

っていうだけの話です。



子どもに選ばれたからって、偉ぶる必要は無いし、子どもに選ばれないからって、子どもに選ばれるために、自分の価値観を書き換える必要もありません。

「この考えは、たしかに間違っていた」

って気付いたなら変えたらいいし、

「いや、自分は自分だから、これでいい」

って思うなら変えなくてもいい。

自分もひっくるめた家族全体の利益を考えて、選択していけばいいかな、って思います。








★まとめ★

「親子関係の問題は、夫婦関係の問題に帰着される」

っていうのは、

「相手のこと、認めてる?

認めてなかったら、子どものことも認められていないだろうし、夫婦関係からこじれているんだよ」

っていう話。



つまり、お互いの価値観の違いに気付いて、

「自分は、自分のままでいい」

「相手は、相手のままでいい」

って思えているかどうか、っていうこと。



決して、

「夫婦で価値観を合わせましょう」

って話ではありません。



自分の価値観を正義として、相手を断罪したいわけじゃありません。

また、相手の価値観を正義として、自分を否定したいわけじゃありません。

むしろ、そういうことをするから、夫婦関係がこじれて、そのこじれが親子関係にも伝播しているんです。



で、夫婦の価値観の違いに気付いて、認められたら、あとは、どちらの価値観を選ぶのかは、子どもの自由です。

子どもにも、夫婦どちらかの価値観を押し付けたりはしない方がいい。

子どもは、何も言わんでも、それぞれの価値観のいいとこどりをしていきます。



「自分の価値観が間違ってた!」

って自分で納得した時に、自分の価値観を変えていけばいい。





今日の話は、

「家庭が子どもにとって安全基地である前に、夫婦にとって、安全基地になっていますか?」

っていう問い掛けです。
 
 
 
 

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僕が主張している『遊びの解放』は、後々、『知的好奇心』に繋がってきます。

子どもって、勉強をさせるとか、義務化するから勉強をするんじゃなくて、

・自分の人生に必要だと気付いたから

・学ぶことが楽しいと気付いたから

勉強をするんです。



間違えても、

・親が必要だと思っているから、子どもに勉強をさせる

・先生が必要だと思っているから、子どもに勉強をさせる

っていうものではありません。



ましてや、

・義務教育だから、子どもは勉強をしなければならない

なんて勘違いも甚だしいところです。



『義務教育』って、本来の意味に即して言えば、『権利教育』というべきものです。

義務を負っているのは、親であり、子どもじゃありません。

子どもが学校に行きたがっていたり、学びたがっているのに、親が何らかの理由で勉強をさせないのは、憲法違反です。

子どもが持っているのは、普通教育を受ける『権利』です。





小学生くらいの子どもが、

「この勉強が、自分の将来に役立つ」

っていうのを明確に認識するのって、難しいと思うんです。

だとしたら、親や、先生は、子どもに学ぶことの楽しさや、各分野の楽しさを感じさせてあげてほしいんです。



「あなたの将来のためだから」

っていうのは、嘘ではないと思いますが、

「あなたが勉強してくれないと、私が不安だから」

っていうニュアンスの方が、大人側の気持ちとしては強いんじゃないでしょうか。



で、焦って子どもに勉強を押し付けるわけですが、その結果、

「勉強なんてしたくない!!」

って勉強に嫌悪感を示す子どもが増産されていく。



大人でもそうだと思いますが、一度、嫌いになったものを好きになるのって、全く初めての状態から好きになるよりも、大変だと思うんです。

一度、

「勉強なんてやりたくない!」

っていう気持ちを根付かせてしまえば、そこを取っ払うのには、ものすごく神経を使います。

元々、好きな子にはどんどん話ができるのですが、勉強が嫌いな子に、嫌いな勉強のおもしろさを感じさせるのは至難の業です。



僕の関わる子が「勉強やりたい!」ってなっていくのは、僕一人の力じゃありません。

僕の考え方に共感をしてくれている親が、子どもとの関わりの基本を『遊びの解放』にシフトしてくれるんです。

もちろん、しばらくはひたすらに遊びます。



遊んで遊んで、遊び倒して、これでもか、っていうくらい遊びます。

その間、勉強は全くしませんし、勉強の『べ』の字も出てきません。

親は、勉強をさせたい気持ちを我慢するんじゃないんです。

親が勉強をさせたい気持ちを我慢してても、子どもにはバレますから、『遊びの解放』の意味がない。



親すらも、『子どもに勉強をさせること』を手放します。

『子どもが勉強をすること』は手放しませんよ。

手放すのは、『子どもに勉強を"させる"こと』です。



勉強が、子どもの将来の選択肢を増やし、仕事の質を高め、より豊かな生活に繋がるのは間違いないと思います。

だからと言って、どストレートに

「あなたの将来のためなんだから、勉強しなさい!」

ってやると、子どもにとっては将来のことなんて、想像もつかないんだから、

「大人は、自分を使って、何か悪いことをたくらんでいるのかもしれない!」

みたいな不信感を持って、勉強を頑なに拒否するようになります。



子どもが自分の将来を描いていることは、ごく稀です。

「将来は、○○になりたい!!」(職業に限らずにね)

って思えていたら、そのために必要なことをやってもいいかもしれません。



でも、それでも、学ぶことの楽しさは、子どもに伝えてあげてほしいな、って思います。

何かのために学ぶこともいいけれど、学ぶこと自体が目的になれば、自分からどんどん学んでいけます。

だって、学ぶことが楽しいから!





僕は子どもがやりたいように任せて、『遊びの解放』をします。

親も『遊びの解放』をします。

親経由で、先生も、子どものことを認められるようになったりします。



子どもを尊重する三者体制ができると、子どもが

「勉強でもしてみよっかな」

って思えてくるんです。



勉強が子どもの将来のためなのであれば、勉強をするかどうかの決定権は、子どもにあるはずですよね。

親や、先生が、義務感を使って、押し付けていいものではありません。

親や、先生が、勉強を義務感を使って押し付けている時、子どもが勉強するメリットは、大人側にあります。

「勉強をしなさい!」

ってやるのであれば、その勉強は、子どものためではなく、大人のための勉強です。



子どもが勉強をしないと困るのは、大人の方。

だから、

「勉強をしなさい!」

っていう言葉を発することができます。



「勉強は、子ども自身のため」

って思っている人は、子どもに、

「勉強をしなさい!」

って言うことはできません。



分かるでしょうか。



「勉強が子どものため」

であれば、子どもに、

「勉強をしなさい!」

って、言ってはいけないのではなくて、言えないんです。

言うことが許されていないのではなくて、原理的に不可能なんです。



だから、

「勉強をしなさい!」

って言っている時は、100%間違いなく、

「子どもが勉強をする目的は、『勉強をしなさい!』と言っている人のため」

です。



こう考える前提には、

「子どもの人生は、子どものもの」

という考え方があります。



なので、

「子どもの人生は、親のもの」

みたいな考え方を持っていると、

「子どものため」

って思いながら、子どもに

「勉強しなさい!」

って言うことができます。

子どもの人生が親のものであれば、子どもが勉強するしないも、親の自分事になりますからね。







『遊びの解放』で子どもが勉強をするようになるのは、僕だけの力じゃないよ、って話。

子どもは生得的に、知的好奇心を持ち合わせています。

何に対して、どれくらい持っているのか、は分かりません。

だから、探してみる必要があります。



子どもの知的好奇心は、親の意識の範疇にあるとは限らないんです。

だから、遊びを制限していると、子どもが学ぶことの楽しさを感じられる確率は、著しく低下します。

なので、子どもの遊びを制限しながら、

「勉強しなさい!」

って言うのって、冷静に考えれば、意味不明なんです。



自分の足でドアを押さえておきながら、ドアノブに手をかけて開けようとしている感じ。

「いやいや、ドア開かんように、自分で押さえてますやん!」

って話ね。



子どもの知的好奇心が発揮される範囲を制限しておきながら、

「勉強しなさい!」

っていうのはそういうこと。

だから、子どもに勉強をしてほしい場合、特に、親が何も言わんでも自分からしてほしい場合は、まずは『遊びの解放』です。







子どもが学ぶことに興味を持ち始めたら、子どもをほったらかしでも構いません。

でも、欲を言えば、親子の会話の中や、一緒にやる活動の中に、知的な要素を混ぜていって、親とも一緒に学べるとなおいいなぁ、って思います。

『遊びの解放』をしていれば、親子の関係はかなり良くなっていると思います。

子どもは元々、親のことが大好きなんだから、自分の好きにさせてくれて、自分を認めてくれる親であれば、なおさら大好きでたまらんと思います。



母親でも、父親でも、両方でも、何でも構いません。

学校だけで学ぶよりも、家でも学べた方が、より学習量は増えますよね。

学校ではカリキュラムが決まっているから、家では、科目にとらわれない幅広い学習がいいかもしれません。

学校は専門性が高く、家庭は柔軟性が高い。



親自身が学ぶことに積極的であれば、親との会話や、活動を知的なことにしていけるから、子どもの知的レベルは向上しやすくなるし、知的好奇心も、より育ってくると思います。

親は、子どもに勉強をさせる存在から、子どもを見守る存在になり、子どもと一緒に学ぶ時代になってきているんじゃないかな、って思います。



子どもに学ぶ楽しさを伝えるんだから、親も学ぶ楽しさは実感できるんです。

自然な発想ですが、両親が学ぶこと大好きな家庭に生まれた子どもと、両親が学ぶことが大嫌いな家庭に生まれた子どもでは、知的レベルに大きな差は出てくると思います。

だから、親自身も、学ぶことの楽しさを実感して、学び続けてほしいなぁ、っていうのは僕の願いの一つです。

 

 

 

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昨日のブログ、今朝のメルマガでは、
 
『褒める』
 
 
『勇気付け』
 
について書きました。
 
 
 
簡単に書けば、
 
褒める ⇒ 他人の価値観による評価・判断
 
勇気付け ⇒ ポジティブな具体的な事実の指摘
 
です。
 
 
 
『褒める』の方は、人によって評価が分かれるし、自己否定を引き出してしまう可能性や、上下関係を作り出してしまう可能性がある。
 
一方、『勇気付け』の方は、事実を指摘しているだけなので、自己否定できないし、横の関係でも、上下関係でも、できます。
 
 
 
子どもが
 
「今日は、1時間、勉強した!」
 
って言った時に、
 
「へぇ!偉いなぁ!」
 
っていうのが『褒める』で、
 
「おお!1時間も!!」
 
っていうのが『勇気付け』です。
 
(厳密に言えば、『へぇ!』とか、『おお!』とか、1時間『も』、っていうのも区別できるんですが、そんなに細かいのは高度なのでおいておきます)
 
 
 
『褒める』っていうのは、他者からの評価なので、「○○さんに褒められた!」ってことで「他者肯定」に繋がり、『依存心』に繋がりやすい。
 
『勇気付け』っていうのは、事実の指摘なので、「自分すごい!」すなわち「自己肯定」に繋がり、『自立心』に繋がりやすい。
 
 
 
 
 
ここまでを確認しておいて、今日、考えたいのが
 
「『褒める』も、『勇気付け』も、習慣化する」
 
っていうこと。
 
 
 
『褒める』は、『依存心』に繋がるから、褒めれば褒めるほど、
 
「褒めてほしい!!」
 
「認めてほしい!!」
 
っていう気持ちが強くなり、褒められるための行動が増えていきます。
 
 
 
褒められるための行動が増えていけば、子どもが行動を起こす動機が変化します。
 
「これは、褒められそうだ!」
 
って思えた時のみ、行動を起こすようになります。
 
 
 
逆に言えば、
 
「これは、あんまり褒めてもらえなさそうだな~」
 
って思えば、てこでも動かなくなります。
 
 
 
親が褒め続ければ、子どもはどんどん、
 
・褒められそうなら、動く
 
・褒められそうになければ、動かない
 
っていう行動パターンが形成されていきます。
 
 
 
つまり、子どもの行動原理として、『親が見ている』っていう条件が必要になります。
 
そもそも、親が見ていないのであれば、何もしなくなります。
 
親が見ていても、褒めてくれそうになかったり、ご褒美が無ければ、やらなくなります。
 
 
 
これは、ほんっとーにめんどくさいです。
 
「いやいや、自分のことなんやから、自分でしろよ」
 
って思うんですが、自分のことすら、親が見ていてくれないと、やらなくなります。
 
 
 
 
 
ちっちゃい子がよく
 
「見てみて!」
 
「聞いて聞いて!」
 
って来ますよね。
 
 
 
ちょっと難しいコミュニケーションかもしれませんが、この時に一つ注意点がありましてね。
 
子どもが持ってきたものを見たり、子どもの話を聞きますよね。
 
この時に、
 
「すごいね!」
 
「偉いね!」
 
「賢いね!」
 
とか、親が子どもや、持ってきたもの、話に評価や、判断をするとしますよね。
 
すなわち、『褒める』ってことね。
 
 
 
こっちが子どものことで評価や判断をするということは、時と場合によっては、
 
「わぁ!すごーい!」
 
って言うこともあれば、
 
「んん?あんまりすごさが分からないなぁ」
 
って、評価が上下することがあるはずです。
 
 
 
そしたら、子どもの関心は、
 
「親に話を聞いてもらいたい!」
 
っていうことから、
 
「親に認めてもらいたい!」
 
って思うようになります。
 
 
 
だって、褒めてもらえるのと、褒めてもらえないのなら、褒めてもらえる方がいいじゃないですか。
 
だったら、褒めてもらえるように気持ちや行動が変化していくのは自然な流れですよね。
 
 
 
子どもは、親にいかに認めてもらえるか、いかに褒めてもらえるのか、って躍起になっていきます。
 
褒めてもらえないなら、そっぽを向いたり、拗ねたりします。
 
 
 
まずは、承認欲求を発動させる。
 
それでダメなら、注目を集めるようなことをし始める。
 
それでダメなら、親に歯向かってくる。
 
それでダメなら、親に嫌がらせをしてくる。
 
それでダメなら、試合放棄です。無気力化。
 
 
 
子どもを褒める、褒めないってやると、こういう流れに、ベルトコンベアー式にハマっていきます。
 
 
 
しかも、子どものやっていることって、親からしたら、どうにもしょーもないことが多い。
 
石ころ拾ってきて、
 
「見てみて!」
 
って言うんだけど、
 
「えっと・・・(石ころのどこを褒めろと!?)」
 
みたいになって、結局、お世辞になったり、褒めれなかったりする。
 
 
 
だから、「子どもを褒めて育てる」っていうのって、親からしても、けっこうしんどいんです。
 
「こんなの、どこもすごくないわーーー!!」
 
って言ってやりたくなる。
 
でも、
 
「褒めなきゃ、子どもがダメになるかも、育たないかも・・・」
 
って書いてあるから、褒めないといけない気持ちになってくる。
 
 
 
でも、昨日からずっと書いているように、子どもを褒める(=評価)必要なんてどこにもありません。
 
そして、子どもは褒めなくても、ダメにはなりませんし、モチベーションも落ちません。
 
 
 
子どもがモチベーションを下げるのは、
 
「親が褒めたくもないのに、褒めようとして、上手くいかずに、イライラしていること」
 
です。
 
だから、そもそも、心からすごいと思わない限りは、子どもを褒める必要なんてどこにもありません。
 
 
 
石ころ持ってきて、
 
「見てみて!」
 
ってやってきたら、しっかりと見てあげて、
 
「おお!石やな!」
 
とか適当に言っとけばいいし、
 
「これはなぁに?」
 
とか聞いてあげればいい。
 
 
 
子どもが石を持ってきたんだから、それに対して、
 
「おお!石やな!」
 
って言っても、別に間違ってはいないから、勇気くじきにはなりにくい。
 
「違うよ!これは私の宝物!」
 
とかって訂正されたら、
 
「そっかそっか、これは宝物なんやな!」
 
とかって、言われた通りに乗っかっておけばいい。
 
 
 
「わぁ!この石の、この丸っこくなった、何て言えばいいかな、まるで優しく何か語り掛けてくるような気持ちよさがあるね!」
 
みたいな意味分からない方向から褒めたりしなくてもいいんです。
 
「褒めて育てなければいけない!」
 
って思うと、なんだかトリッキーな、子どもの気分が上がるようなことを言わなければいけない気持ちになったりします。
 
でも、そんなことをしなくても、何も問題ありませんし、子どもの気分が上がることを毎回連発するのは、かなり難しい。
 
 
 
僕の書いてる適当な関わり方で、なんか子どもを傷つけてしまいそうなら、
 
「これはなぁに?」
 
って子どもに聞いてあげればいいんです。
 
 
 
子どもが描いているストーリーにそのまま乗っかってしまえば、子どもが傷つくことはあんまり無いかと思います。
 
分からんことは、分からん。
 
思ったことは、思った通りに伝える。
 
感じたことは、感じたまま表現してみる。
 
気になることは、そのまま聞いてみる。
 
良いと思ったことは、素直に良いと言ってみる。
 
微妙やなと思ったことは、どこが良いのか教えてもらう。
 
微妙やなと思った時に、「微妙やな」って言っちゃうと、「わかってくれてない!」ってなるので、その時は聞く。
 
 
 
親の素直なコミュニケーションの蓄積が、結局、子どもへの『勇気付け』に繋がるんです。
 
「見てみて!」
 
って言われて、たしかに無視せず見たし、
 
「聞いて聞いて!」
 
って言われて、たしかに無視せず聞いた。
 
 
 
この時に、子どもが求めていることは、親から認められることでもないし、褒められることでもありません。
 
アドバイスや、誤りの指摘や訂正でもありません。
 
見てほしいだけだし、聴いてほしいだけです。
 
 
 
子どもの声を聞けていればわかりますよね?
 
「見てみて!」
 
って言われたから、見るんです。
 
「聞いて聞いて!」
 
って言われたから、聴くんです。
 
 
 
それだけで、子どもの期待には十分応えているわけ。
 
何もテクニカルなコミュニケーションは要りません。
 
 
 
 
 
『褒める』ことが、すなわち、ダメなことではありません。
 
大切なのは、本心じゃない褒め方をしない、ってこと。
 
本心で思った時は、褒めたったらいいんです。
 
子どもに良く思ってもらうため、気に入られるための褒め方なんて、必要ありません。
 
 
 
親は、感情に素直に子どもと接しているだけで、それが十分『勇気付け』になります。
 
すごいと思ったら、素直にすごいと伝えてみる。
 
子どもをハグしたいと思ったら、ハグしてみる。
 
子どもが「見てみて!」って言ってきたら、見る。
 
子どもが話したがっていない時は、聞かない。
 
子どもが何かに夢中な時は、邪魔しない。
 
子どもが何か邪魔してきた時は、「今は○○してるから、10分後でもいい?」って伝えてみる。
 
子どもにせがまれても、やりたくないことはやらない。
 
 
それは、親が感じている『事実』でしょう?
 
だから、『勇気付け』にも繋がるんです。
 
 
 
 
 
親は、なぜに自然体でいるだけで、子どもにとって『勇気付け』になるのか。
 
子どもと接する時に、忘れちゃいけないことがあるんです。
 
 
 
それは、
 
「子どもは、親のことは、無条件に大好きだ」
 
っていうこと。
 
 
 
何か特別なことができる親。
 
何か特別なことをしてくれる親。
 
何か特別なことを言ってくれる親。
 
 
 
子どもが好きなのは、そんな親じゃないです。
 
子どもが好きなのは、いたって普通の親なんです。
 
だから、親が元気で普通に生きてれば、子どもにとっては十分『勇気付け』になります。
 
 
 
しかし、
 
「子どもを褒めなきゃ!」
 
「子どもに○○してあげなきゃ!」
 
「しっかりした親でいなきゃ!」
 
「良い親にならなきゃ!」
 
みたいな感じで、あなたが、あなたじゃなくなっていくから、変なことが起こるんです。
 
 
 
あなたは、
 
生きて、
 
普通にしてればいい。
 
 
 
それだけで、子どもとの関わりは、そんな変なことにはなりません。
 
なぜなら、子どもは、無条件で、親のことが大好きだから。
 
 
 
そして、子どもは、自分の力で生きていくことができるから。
 
 
 
です。
 
僕らは、そのことを信じていればいいんです。
 
 
 
大丈夫。
 
 
 

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アドラー心理学では、子どもを叱るのも批判的ですが、褒めるのも批判的なんです。

子どもの『自立』を目指すのを考えた時、「子どもは褒めて伸ばす」系の話は『自立』と反対、すなわち、『依存』に繋がります。



簡単に言えば、子どもを褒めれば褒めるほど、

「親に褒められたから、やる子」

「親に褒められないと、やらない子」

が育つ可能性を無視できないんです。



「親に褒められたから」っていうのも、「親に褒められないと」っていうのも、親に依存していますよね。

分かりますでしょうか。



しかも、アドラーは褒めることに関して、もう一つ批判していることがあります。

それは、

「子どもの要求がエスカレートする」

っていうこと。



例えば、子どもを褒める代わりに、子どもにご褒美(物)を与えることを考えます。

子どもが小さい時は、勉強したらクッキーをあげていたとします。

でも、年齢が上がってくると、クッキーに満足しちゃって、クッキーを求めて勉強することはしなくなっちゃう。



そしたら、クッキーよりも美味しい何かを与えなければなりません。

例えば、ケーキにしましょうか。

イチゴのショートケーキ。

勉強をしたらイチゴのショートケーキを買ってもらえるんです。



イチゴのショートケーキもしばらくしたら、食べ慣れてしまって、勉強をしなくなります。

もはや、イチゴのショートケーキでもダメ。

じゃあ、今度は、バーミヤンでも連れていってやろう、って思うわけ。

勉強したらバーミヤン。



もちろん、バーミヤンも行き慣れて飽きてしまいます。

じゃあ、今度はもっと高いところか、別のファミレスか、ってなっていくのは想像に難くないと思います。



こんな感じで、

「褒める」

ということは、

「ご褒美に慣れる」

「ご褒美に飽きる」

っていうことと隣り合わせなんです。



理由は簡単で、ご褒美で得られることは、単純な刺激で、単調なんです。

だから、「次もどうせいつもの刺激でしょ?」って予想ができてくる。

だったら、予想できた刺激を必要としていない時は、いらない!ってなるわけです。

ご褒美で釣っている限り、ご褒美がいらないんだから、勉強だってやらなくなります。



子どものご褒美に、お金を渡す場合も似たようなことが起こります。

・金額がエスカレートする可能性がある

・お金が必要な時しかやらなくなる

っていうことね。



ただし、お金の場合は、物と違って、お金は物に交換される前の物です。

子どもが知的好奇心を持っていて、お金をさらに知的好奇心を満たすために使うのであれば、いい感じに循環するかもしれません。

ご褒美をあげた後のことは、親はノータッチだと思いますから、なかなか子どもの意志まで親の思い通りにするのは難しいと思いますけどね。



こんな感じで、子どもをご褒美で釣る、っていうのはダメなわけではないんですが、なかなか難しいんです。



ただ、ご褒美は上手くシステムに組み込んでやると、子どものテンションを上げることはできます。

それこそ、ゲームで使われているようなシステムですね。



・一定以上やるとレベルアップ

・一定以上やると何かもらえる

・何度かももらうと、もらえるものがグレードアップする

・やったことが数値化して見える

とかね。



この辺のシステムを作れるなら、作ってみるのもありです。

子どもはそんなにアホじゃないから、単純に「物をあげる」とか、「お金をあげる」くらいだと、前述のようにすぐに破綻する可能性があります。

なので、ご褒美や褒めることをシステム化するのは、システム化することが得意な人がチャレンジするといいかな、って思います。

上手くやれば、ほんとに子どもは楽しそうにやってくれますから。

僕は、あまり得意じゃないので、やりません(笑)






で、もう一つ、僕の観点での「褒める」ことへの批判があります。

僕も、アドラーも、主張していることは、あくまでも『自立』です。

なので、自分のことは、自分で認められるようになってほしいんです。



厳しい見方をすれば、自分のことを自分で認められないうちは、『依存』なんです。

だって、「誰かに認めてもらえないと、自分を認められない」っていうんだから、「自分を認める」ということに関して、その認めてくれる『誰か』の存在が無くてはならないわけですよね。

自分以外の存在が無くてはならない状態を『依存』って言います。



誰かに認められて喜ぶな、って話じゃないんです。

自分で自分を認められていて、誰かに認められても嬉しい、みたいなのは『自立』です。

言い換えれば、誰かに認められていなくても、自分で自分を認められているから、大丈夫、っていうのが『自立』なんですね。




自分で自分を認められていないから、誰かに認めてもらっていなかったら不安、みたいなのは『依存』です。

自分を認められることが、自分以外の『誰か』が承認しているかどうかによって、揺れ動くんですから。

『自立』の場合は、自分以外の『誰か』が承認していようと、していまいと、関係なく、自分を認められます。

もちろん、自分以外の『誰か』も承認をしてくれたら、嬉しいです。





で、何を批判しているのか、っていうと、

「『依存』は、褒められれば褒められるほど、自分の中にある穴を大きくしていく」

っていうこと。



「親に褒められたから、がんばる」

っていうのを考えた時、ひっくり返せば、

「がんばれば、親に認められる」

っていうことですよね。



ということは、同時に

「がんばらなかったら、親に認められない」

っていうのも同時に存在します。

つまり、自分で自分を認められていない。



すなわち、自分で自分の中に穴(=ダメな自分)があるのを認めているわけ。

ただ、ダメな自分がいることは、別に構わないんです。

人間、誰だって不完全で、できないことや、問題、障害があって当然です。

それは別にいい。




ここからが、めっちゃ大切な話なんです。




褒めらなかったら、この穴が大きくなります。

褒められたら、この穴を少し埋められます。



褒められても、

褒められなくても、



『この穴に注目をしている』




っていうのは分かるでしょうか。



心の働きに

『焦点化の法則』

っていうものがあります。



「注目すればするほど、拡大する」

っていう心の働きです。



クラスの中で騒いでるやつがいて、そいつに

「こら!静かにしなさい!」

って注意すると、そいつに注目するから、余計に騒がしくなる、っていう感じのやつですね。



「ケアレスミスをしないように」

「ケアレスミスをしないように」

「ケアレスミスをしないように」

って意識すればするほど、ケアレスミスが増える、っていうやつです。



これが『焦点化の法則』です。



・褒められると、ダメな自分が癒される

・褒められないと、ダメな自分が顔を出す

っていうのは、どちらも『ダメな自分』に着目をしていますよね。

明確に意識していなくても、褒められて癒されているとしたら、心の中のダメな自分が主張をしてきているんです。



心の働きに「注目したところが、拡大する」っていうのがある以上、『ダメな自分』に注目すればするほど、自分の中のダメな部分が拡大していくんです。

そして、しばらくしたら、

『自分=ダメな人間』

みたいな認識が出来上がるんです。



『自分=ダメな人間』

っていう自己認識を持っちゃうのは、この先、生きづらくなるのは想像に難くないと思います。



「自分には、ダメな部分がある」

っていうのと、

「自分は、ダメな人間である」

っていうは、ニュアンスが全然違うのは分かるでしょうか。



言い換えれば、「一部がダメだ」と思っているのと、「全部がダメだ」って思っている違いです。

僕ら人間の特性は、さっきも書いたように「一部がダメだ」っていう方です。

「全部がダメだ」って思っちゃうと、人間の特性に反するから、生きづらくなるんです。






「子どもを褒めてはいけない」

って言いたいわけじゃないんです。



子どもを褒めることは、あくまでもオプションであり、サブなんです。

「子どもが勉強したから、褒めなきゃ!」

ではなく、

「子どもが勉強しているなぁ。たまには褒めてやるかぁ」

くらいでいいんです。



最近流行りの「子どもは褒めて育てる」みたいな話を鵜呑みにすると、褒めることをがんばっちゃったりしますよね。

「子どもを褒めなければいけない」

というのは、言い換えれば、

「子どもを褒めなかったら、ダメな人間に成り下がる」

っていう思い込みがどこかにあるんです。



そうじゃなくって、

「子どもは、褒めても、褒めなくても、変わらず素晴らしい存在」

っていうことを信じていたいんです。



だから、子どもを褒めなければいけない理由なんて無いわけです。

ほんとにすごいと思った時だけ、

「お前、マジすげーな!!」

って言ってあげればいいんです。






明日のメルマガで、褒める代わりの勇気づけ、について書きます。

ここまで見てきたように、『褒める』っていうのは、子どもの成長を考えた時に、色々とリスクがある関わり方なんです。
 
 
 

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今朝のメルマガ『子どもがゲームしかしなくなる理由』がなかなか好評で嬉しい限りです。

読んでみたい方は、メルマガに登録してみてね。

バックナンバーから読むことができます。





ブログの方では、違う角度からもう少し書いてみます。

僕が学習塾で働いていた時に出会った中3の男の子の話。

この子は、マレーシアに長く住んでいた日本人で、いわゆる帰国子女でした。



彼の通うインターナショナルスクールには、インド系の子や、中国系の子が多く、受験戦争を勝ち進んでいくような子ばかり。

彼自身も、当時は、偏差値が60を超えていて、かなり勉強ができたようです。



日本に来てから、僕が働いていた塾に来たんですが、まー、全然勉強しないし、コミュニケーションがやたらと暴力的。

他の先生たちもぶっちゃけお手上げ状態。





僕が塾で働いていた目的は、子どもの話を聴くためだったので、彼が勉強をしないことは、ぶっちゃけどうでも良かったんです。

それよりも、彼の気持ちを知りたいし、彼が何を考えているのか知りたかった。

色々と話を聴いていくと、どうやら、両親との仲があまりよろしくないようです。

毎日のように、父親と、母親と喧嘩をして、それで勉強がどんどん嫌になっている、っていうことが分かってきました。



彼の趣味は、読書で元々は学ぶことは好きなようでした。

しかし、両親と衝突した直後はモチベーションが下がる。

両親は勉強をさせたかったけれど、その両親のコミュニケーションの取り方が彼を勉強から遠ざけていたわけです。



彼の話を聴いていると、僕は子どもとのコミュニケーションの取り方に関する重要な示唆をもらいました。

それは、



「親は、子どもの好きなものを取り上げれば、言うことを聞くと思っている」



というもの。





ある時、彼が話してくれたのが、バドミントンをやり始めた、っていう話。

親にバドミントンのラケットを買ってもらって、すごく嬉しそうだったんですね。



しかし、数日して、イライラした彼が塾にやってきました。

話を聴けば、

「勉強しなかったから、父親がラケットを取り上げやがった」

って言うんです。



「勉強しなくて、ラケットを取り上げた」

ということは、彼の父親の目的は、

「彼に勉強をさせること」

だし、思惑としては、

「好きなことを取り上げて、罰を与えれば、好きなものを取り返してほしくて、がんばるだろう」

みたいな感じです。



しかし、彼の話を聴けば聴くほど、その思惑も、目的も、見当違いな方向へ行ってしまっているのが分かります。

すなわち、父親への不信感、そして、勉強への嫌悪感を高めている、っていうこと。



好きなものを取り上げたら、やりたくないことのモチベーションが上がるわけではないんです。

好きなものを取り上げたら、好きなことのモチベーションすら下がるんです。



ということは・・・



ここからめっちゃ大切な話です。




好きなものを取り上げても、やりたくないことのモチベーションが上がらない。

好きなものを取り上げたら、好きなことへのモチベーションも下がる。

つまり、子どもの全体的なモチベーションが下がるということ。



ということは、

『子どもの好きなものを取り上げる』

という罰を与えると、子どもは少しずつ毎日の生活から潤いを失い、果ては生きる希望すら失っていく、っていうこと。




子どもを褒めたり、罰を与えたりする教育のやり方を

『賞罰教育』

って言います。



実際、彼の父親や、母親がやっていた関わりによって、彼は塾に来ている間、ずっと両親への不満を爆発させ続けていました。

授業中は両親に対する愚痴をこぼして怒り続けたし、休み時間は先生や、友達、関係なく、蹴ったり、殴ったりしていました。

塾側としては、子どもも、両親もお客さんなので、そんなことは両親に報告できませんから、両親の知るところではないでしょう。

親本人に向かって、

「親の愚痴をこぼして、その憂さ晴らしを先生や、友達にしていますよ」

とはなかなか言えませんよねぇ。

塾の営業成績にも関わりますし。





『親は、子どもの好きなものを取り上げても、子どもは言うことを聞くと思っている』



ゲームに関して、親VS子ども、という対立構造も、結局はこういうことです。

ゲームを制限したり、取り上げたりして、子どもに言うことを聞かせようとしたり、子どもに勉強をさせようとしても、逆効果ですよ、っていうこと。



だから、

「子どもにはしっかりと勉強をしてほしい」

と願っていることを目的として捉えれば、

「ゲームの時間を制限する」

とか、

「ゲームを取り上げる」

とか、

「ゲームよりも宿題や、勉強をするように言う」

っていうのは、間違ったコミュニケーションの取り方だ、って言えるわけです。



逆に言えば、

「子どもには一切、勉強させたくない」

って願っている場合、

「ゲームの時間を制限する」

「ゲームを取り上げる」

「ゲームよりも宿題や、勉強をするように言う」

っていうコミュニケーションの取り方が正解だ、っていうことです。



どっちを選ぶのかは、僕が決めることではなく、親自身が決めることです。

つまり、子どもが勉強するようになるのも、子どもが勉強をしなくなるのも、親次第、っていうことです。



今朝のメルマガに書いたことも、

「子どもをゲームの世界に押し込めているのも、親のコミュニケーションの結果ですよ」

っていうことね。

そして子ども自身は、基本的には学ぶことが大好きなので、あんまり手出し、口出ししなくても、勉強はするようになります。

その『勉強』が、学校の勉強である、とは限りませんけどね。
 
 
 
そして、子どもの好きなものを尊重して、自由にし続けている限り、子どもが生きる希望を持ち続けます。
 
だって、毎日が楽しいことばかりなんだから!!


 

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  ・川村早余子(門真市立第7中学校PTA会長)

  ・実島直美(生涯学習センター長)

ファシリテーター

  ・なかたかおり(門真出身のソロアーティスト)

サポート

  ・門真市教育委員会教育センター代表

 

申込はこちら

 

 

 

◆仙台◆

 

○2017年2月18日(土)10:30~12:30@PARM-CITY131

「子どもが自分から勉強するコミュニケーション 〜子どもの将来に一抹の不安を覚える方へ〜」

 

○2017年2月18日(土)17:00~19:00@PARM-CITY131

「量子物理学的引き寄せ講座 ~波動編~」

 

申込はこちら(両講座共通)

 

 

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