子どもはみんな天才だ!佐伯和也 公式ブログ

子どもが学校に行きたくない、行く理由が見つからないということが増えてきました。その時に、親はどうすればいいのか、子どもにはどう接してあげるといいのか。子どもに家庭教師兼メンタルコーチとして活動しています。


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子育ては、子ども目線に立てれば、かなりのことが上手くいくようになる、と思います。

 

子どもが自分の気持ちを分かってもらえたような気持ちになるから、人の気持ちも考えられるようになる。

 

自己受容感が高まるから、自己肯定感も高く、様々なことにチャレンジできる。

 

何より、子どもが自立的に、色々と自分で考えて、行動するようになる、と嬉しいことがいっぱい起こります。

 

 

 

そして、これを読んでくれている人も、そのほとんどが、子ども目線に立つことの大切さに同意してくれることと思います。

 

「子ども目線なんて立たなくていい!子どものことなんてどうでもいいんだ!」

 

とは思わないですよね(笑)

 

 

 

実際は、子ども目線に立つことの大切さは、頭で分かっているんだけれども、なかなかできない。

 

ここには明確な理由があります。

 

なぜ、子ども目線に立てないのか。

 

 

 

理由は簡単です。

 

『親が、自分目線に立てていないから』

 

です。

 

 

 

親になると、色々と思い通りにならないことが増えて、我慢することが増えるそうです。

 

それで、どうしても自分よりも、子どもの方を優先してしまう。

 

 

 

「子どもの方を優先する」って、一見すると子ども目線に立っているように思えるかもしれませんが、実は大間違い。

 

「子ども目線に立ってる雰囲気を出してるだけ」

 

です。

 

 

 

「良い親でいなければならない」

 

「きっちりしていなければならない」

 

「親とはこういうものだ」

 

「親なら〜すべき」

 

みたいなのがあって、それを満たそうとしているに過ぎません。

 

これらは、全て思い込みであり、全て『自分目線』です。

 

 

 

さて、さっきから使ってる『目線』とは何なのか。

 

『目線』は、3段構造になっていて、

 

 

1.五感・・・何を見ていて、何を聴いていて、何を感じているのか

 

2.感情と思考・・・何を考えていて、どんな気持ちでいるのか

 

3.本心・・・本当はどうなったらいいのか

 

 

っていう3つをまとめて『目線』っていう言葉を使っています。

 

また、『目線』っていうと、見えていることだけをイメージしがちなので、『立場』という言葉を使うこともあります。

 

 

 

なので、

 

「良い親でいなければならない」

 

「きっちりしていなければならない」

 

「親とはこういうものだ」

 

「親なら〜すべき」

 

っていうのは、誰がそう考えているのか?っていうと、

 

2.感情・思考

 

の観点で言えば、『自分』がそう思っているんです。

 

だから、これは『自分目線』っていうことになるんですね。

 

 

 

これはたとえ、自分の親や、ママ友や、先生、その他周りの人から、

 

「親とはこうあるべき」

 

って言われていても、それを採用するかどうかは自分次第なので、それを採用している時点で、これは『自分目線』となるんです。

 

 

 

 

 

ここから、すごく大切な話をします。

 

 

 

 

さっき挙げた思い込みは、『2.感情・思考』なんですね。

 

特に、『思考』に該当します。

 

 

 

で、何が大切か、っていうと、これはあくまでも"表面上の"思考や、感情であって、『3.本心』に該当するものではありません。

 

よくよく冷静に自分に向き合って、自分の内側を探索してみてほしいんです。

 

自分が『こうあるべき』って思っている親像・・・

 

 

 

本当に、そんな親になりたいですか??

 

仮に、そんな親になれたとしたら、なれているとしたら、自分は心の底からハッピーだと言えますか?

 

そして、そんな親になれているとしたら、自分の周りの人たちもハッピーでいられると思いますか?

 

 

 

あくまでも『自分が』っていう視点で考えてみてください。

 

子どもを幸せにするための『自分』ではありません。

 

自分が自分を幸せにするための『自分』です。

 

 

 

 

 

自分が幸せになっていないなら、子どもを幸せにすることは難しいです。

 

 

 

 

僕は、親は、子どもを幸せにするために生きているわけではない、って考えています。

 

子どもを幸せにするのは、子ども自身です。

 

 

 

僕は、親の役割は、次の2つかな、って思っています。

 

1.子どもが幸せを感じやすい環境作り、雰囲気作り

 

2.親自身が幸せに生きることで、生き方の一つのサンプルを示すこと

 

です。

 

 

 

子どもが自分で自分を幸せにすると言っても、経済的、能力的な理由で、やれることには限りがあります。

 

「できる範囲でやればいい」っていう意見もあるでしょうけど、せっかく親がいるんだから、子どもの世界を広げてやるのも全然ありだと思うんですね。

 

習い事でもいいし、留学でもいいし、IT機器を導入してみるのでもいいし、学校を選択してもいいし、おもしろそうな体験をさせてあげるのもいい。

 

 

 

やるかどうかは、子どもの選択。

 

やれるかどうかは、親がかなりの部分で協力できるはず。

 

 

 

じゃあ、どんな環境を、雰囲気を作ればいいか?っていうと、子どもの意見を聞かないことには、僕にも分かりません。

 

なので、親の都合ではなく、『子ども目線』に立って、子どもが本当に求めている環境作りをしたいんです。

 

だって、あれも、これも、ってやっていたら、親の財力も、体力も、際限なく必要になっちゃうし、せっかく環境を作っても、子どもが見向きもしなかった、っていうこともあるわけ。

 

 

 

せっかく子どものために、環境作りをするなら、子どもに喜んでほしいし、子どもの能力や、個性が十分に発揮されて、発達に寄与するものにしたいじゃない。

 

どんな環境を作ればいいか?っていうのは、育児書や、セミナーでは、絶対に分からない、って僕は考えています。

 

なんでかって、育児書や、セミナーで語られている子どもと、自分の子どもは別人なんだから、求めていることも違うはずだから。

 

たまに被ることもあるでしょうけどね。

 

それはそれでいい。

 

 

 

答えは、子どもの中にしかないんです。

 

だったら、僕らは、親としての役割を果たすために、『子ども目線』に立てなきゃいけない。

 

 

 

子どもの目には何が映っていて、子どもは耳で何をキャッチしていて、身体では何を感じているのか。

 

そんな子どもは、どんな気持ちで、どんなことを考えているのか。

 

そして、子どもが本当に求めていることとは、何なのか。

 

 

 

これは、『子ども目線』に立てなければ、見えてこない。

 

親が『自分目線』でいる限りは、分からないことです。

 

 

 

コミュニケーションを取って、子どもとじっくり話して、聞いて、教えてもらうしかない。

 

子どもを客観的に観察しているだけでは、絶対に見えてこない部分があるんです。

 

 

 

 

 

で、それをやるためには、親が『自分目線』を手放すんじゃなくて、親が『自分目線』をやり切る必要があるんです。

 

親にとって、『自分目線』とは、言ってみれば、子どもよりも大切なものです。

 

親にとって、子どもも自分の人生の一部なんです。

 

 

 

「親は、子どものために尽くすべし」

 

っていうのを実践できている人は、その前提に「自分の本心を満たす」っていうことをやっています。

 

 

 

ここをやっていない人が、子どものために尽くそうと思っても、そのどこかで、

 

「自分を満たすために、子どもを使っている」

 

っていう状態になっています。

 

 

 

だから、子どもにキレるし、子どもをコントロールしようとしたり、子どものことを認められなかったりする。

 

「自分を満たすために、子どもを使っている」

 

から、自分の思い通りにならなくって、子どもにキレるんです。

 

 

 

で、親としての自負を持とうと思って、子どものためにがんばろうとする。

 

でも、またキレたりして、上手くいかないから、子どもへのイライラと同時に、子どもへの罪悪感も蓄積されていく。

 

子育てを放棄したくなってくる。

 

 

 

 

 

僕の観点ですが、そういう場合、本当にやらなきゃいけないのは、

 

「いかに子どものためにがんばるか」

 

「いかに子どもに愛情を注ぐのか」

 

ではなくて、

 

「いかに、親が自分らしく、自分を満たすことができているか」

 

っていうことだと思うんです。

 

 

 

子どもと関わる時に、理性的な自分の存在はあった方がいい、って思っています。

 

『理性的な自分』とは、自分が何を考えていて、自分が何を感じているのかに気付いている自分です。

 

 

 

そのためには、まずは『自分目線』に立ち、自分の中で何が起こっているのか、自分が何をしているのかに気付いておきたい。

 

子どものことをどうのこうの言いながら、考えながらも、最優先で自分を満たしたい。

 

 

 

例えば自分一人でがんばっていてしんどいなら、託児や、ベビーシッターみたいな人や、親戚とかに子どもを預けてみたりして、積極的に自分一人の時間や、夫婦だけの時間を作ってみる。

 

親だからって、ずっと子どもと一緒にいないといけないわけじゃない。

 

 

 

「親は、子どもとずっと一緒にいないといけない」

 

っていうのは、裏を返せば、

 

「この子は、自分たちがずっと一緒にいないと、生きていけない」

 

って思っているわけで、それって子どもたちの生きる力を否定していることにも繋がります。

 

 

 

僕らは、子どもにずっと依存していてほしいわけじゃなくて、子どもに自立していってほしい。

 

 

 

幼少時代に脳性麻痺により手足が不自由な身となった、東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎氏は、

 

「自立とは、依存先を増やすこと」

 

っていう言葉を残しています。

 

 

 

自立とは、何にも頼らずに生きていくことではありません。

 

自分でできることは自分でするけれど、それと同時に、どんどん人に協力してもらう。

 

どこにも所属せずに、孤高な存在になることが自立ではなくて、自分がどこに所属するのかを選択して、依存先を見つけること。

 

それが『自立』なんだと。

 

 

 

だから、子どもには、なるべく早く、親以外に気を許せる存在、落ち着いてそこにいられる場所を持つと、それがすなわち、子どもの『自立』に繋がります。

 

そして、同時に、親は、子どもが他の場所に行っていてくれるから、その時間は自分のことに集中できる。

 

思いっきり『自分目線』でいられます。

 

 

 

親は、その「自分だけの時間」「自分目線でいられる時間」「子どものことを気にしなくてもいい時間」があるから、結果的に、『子ども目線』に立てるんです。

 

なぜなら、先に『自分』が満たされているから。

 

 

 

そういう意味で、子育てとは、「親が子どもを育てること」ではなくて、「この子を一緒に育ててくれる人を見つけること」なのかもしれません。

 

 

 

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子どもが不登校になったら、まず何をするとよさそうか、考えてみました。

 

「子どもが学校に行っていないから、どうのこうの」

 

「子どもが勉強しないから、どうのこうの」

 

ってやりがちなのですが、子どもがやっていないことよりも、子どもがやっていることに関心を持ってみるといいかもしれません。

 

 

 

子どもがやっていないことをやらせようとすると、何が起こるかと言うと、子どもへの勇気くじきが始まります。

 

子ども目線に立ってみるとすぐに分かると思います。

 

 

 

子どもを学校へ行かそうとしたら、子どもを勉強をさせようとすると、

 

「学校へ行っている子は素晴らしい」⇔「学校へ行っていない子は劣っている」

 

「勉強をしている子は素晴らしい」⇔「勉強をしていない子は劣っている」

 

っていう発想が、どうしても親側に出てきます。

 

 

 

子どもに評価を下す準備ができた状態で、しかも、子どもが劣等側にいるわけです。

 

そしたら、どういうコミュニケーションを取っていても、

 

「うちの子は劣っている」

 

って思っているから、子どもにどうしても勇気くじきをしちゃう。

 

 

 

それを「学校に行かそう」「勉強をさせよう」としたら、そのたびに明確な勇気くじきになります。

 

これはどれだけ親側に理由や意図があったとしても、変わりません。

 

親がどう思っていようとも、「学校に行かそう」「勉強をさせよう」としていること自体が勇気くじきなんです。

 

 

 

 

 

現代日本で言えば、高校への進学率は98%だそうで、大学への進学率は54%だそうです。

 

数字だけ見れば、高い進学率だと思います。

 

果たして日本の子どもの98%もの子どもが「さらに高度な勉強をしたい」と思っているかと言えば、そんなことはないのは容易に想像つくと思います。

 

 

 

中には勉強したくて進学する子もいるでしょうけど、そうじゃない子も進学していく。

 

じゃあ、そういう子はなんで進学するのか、っていったら、「進学しなかったら、落ちこぼれの烙印を押されるのが怖いから」です。

 

社会的な圧力ですよね。

 

 

 

親も、先生も、親戚も、友人も、「高校へ進学するのは当たり前」って思っているから、

 

「なんで高校進学しないの?」

 

とは聞くでしょうけど、

 

「なんで高校進学するの?」

 

とは聞かないですよね。

 

 

 

こういう社会的な圧力があって、たとえ勉強したくなくて、勉強する気がなくても、とりあえず、高校に進学する。

 

それが当たり前。

 

僕ら大人もそうやって生きてきたから、その当たり前は、当然子どもにも適用されますよね。

 

 

 

この当たり前が、子どもを見えなくするし、学校に行かなくなったり、勉強しなくなった子が劣っているように見えちゃう。

 

子どもは親からの勇気くじきが最も精神に堪えます。

 

 

 

だから、ぜひ、子どもが学校に行かなくなったら、「やらなくなったこと」よりも、「やっていること」に注目してあげてほしいんです。

 

何に関心があって、何をしているのか。

 

やらなくなったことや、やりたくないことを何とかしてやらせるよりも、今やっていることを高めていく方が、より少ない労力でより建設的なことに繋がります。

 

 

 

『建設的』というのは、

 

・自分を高めること

 

・誰かの役に立つこと

 

です。

 

 

 

しかも、親への反発もしませんから、親の精神衛生上にもいい(笑)

 

子どもの親への反抗は、子どもがそういう時期なんじゃなくて、親が子どもの反発を誘うようなコミュニケーションを取っているからで、それをやめると子どもからの反発は無くなります。

 

というか、親が子どもへのコントロールをやめると、子どもが親を攻撃する理由が無くなりますから。

 

 

 

 

 

子どもが学校に行かなくなって、ゲームばっかりやっているとします。

 

常識的には、ゲームをやめさせて、学校に行かせようとするでしょうか。

 

 

 

一方で、学校に行かないというのは、

 

「本来、学校に行っていた時間が自由だ」

 

っていうこと。

 

 

 

せっかく学校に行っていないんだから、学校に行っているとできないことをやったり、子どもの今やっていることにじっくりと集中させてあげたり、一緒に付き合ってあげたりするといい。

 

冷静に考えたらすぐに分かると思いますが、学校に行っていると生きるために必要な全てが学べるか、っていうとそんなことはありません。

 

 

 

学校に行っていると学校で学べることを学び、学校に行かないことで学べることは学べません。

 

学校に行っていないと、学校以外で学べることも学べますが、学校で学ぶことは学べません。

 

 

 

学びは、

 

・どこで

 

・誰と

 

・何を

 

学ぶのか、です。

 

学校に行っているのと、行っていないのでは、学びが無くなるのではなくて、学ぶ内容が変わるだけ。

 

 

 

そう考えると、せっかく空いた時間を「何とかして学校に行かせる」「何とかして勉強させる」ことに使うのは、非常にもったいないと思いませんか。

 

子どもが子どもである時代は、もう二度と返ってこないんです。

 

だったら、

 

「学校に行っていなくて、この子は劣っていて残念」

 

ってやるよりも、

 

「学校に行っていないからこそ、この子がやりたいことを思いっきりさせてあげよう」

 

ってやる方がその時間を有効活用している気がしませんか。

 

 

 

学校は、本人が行きたくなれば、サクッと行きます。

 

勉強したくない状態で学校に行くのは、「何のために?」って思いませんか。

 

何とかして勉強したくない子に対して、勉強を教えるのは、お腹空いていない子にご飯を勧めているようなもの。

 

お腹空いていないなら、別のことしようぜ、じゃないですか。

 

 

 

学校に行く必要ないとか、勉強する必要ないとかは、思っていません。

 

本人が行きたくない、やりたくないことを無理してやらせるのは、誰も幸せにならないだろうな、と思っています。

 

だとしたら、子どもに任せてみるか、子どもをよく観察して、本人の関心の方向を見定めて、寄り添った方がずっと建設的だと思います。

 

 

 

また、「子どもが不登校になったら、何もせずに見守っておけ」とも思っていません。

 

何かするし、積極的に交流するんですが、「やっていないこと」に注目するよりも、「やっていること」や、「関心があること」に注目した方がいいんじゃないか、っていうことです。

 

 

 

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最近、高3で使用していた受験用の数学の問題集を解いています。

 

なんで?

 

脳トレですね(笑)

 

 

 

高3の時とは違って、心理学や、脳科学を学んで、どうやって人の学習が進んでいくのか、っていうのを理解した上で解くので、身に付いた感をより感じられています。

 

学生を終えて6年ほど経ちますが、数学の力は衰えているはずなのに、当時と同じかそれ以上に解ける。

 

もちろん、確実に問題演習量は減っているし、定理や公式、解法もいくつも抜け落ちているのにも関わらず。

 

 

 

当時の僕は、問題を見つけたら、とにかく反応的に解いていました。

 

「最小値を求めなさい」

 

「あ!最小値を求めるんだから、微分だな!」

 

みたいな。

 

言ってみれば、思い付いた最初の手を試すんです。

 

 

 

それで解ければいいんですけど、それで解けなかったら、期待を込めていた手だったから、もう八方ふさがりになっちゃう。

 

思考停止しちゃう。

 

「え・・・ここからどうしたらいいの?」

 

って思って、一気に解く意欲を失ってしまう。

 

 

 

解ける問題と、解けない問題には、僕の思考パターンは明確に違っていたんです。

 

当時はそのことに全く気付いていませんでした。

 

 

 

解ける問題に対しては、

 

「先に、解答までのイメージが浮かんでいる」

 

解けない問題に対しては、

 

「解答までのイメージが浮かんでいない」

 

っていう違いがあります。

 

 

 

人の直感のスピードは、超高速なので、解ける問題に対しては、

 

『解答までのイメージを作成』

 

 

『解き方の選択』

 

が一瞬で行われます。

 

 

 

だから、解ける問題の時に、解答までのイメージを脳内で作成していたことに気付かなかったんです。

 

「これは、あのパターンと同じだな!いけるいける!」

 

って一瞬でイメージを描いて、解き方も選択して、解き初めていました。

 

 

 

客観的に僕の様子を見ただけなら、解けない問題の時も、そこそこすぐに解き始めるんです。

 

でも、その時は、解答までイメージは描けておらず、とりあえず、問題の条件に合う定理や、公式をいくつか思い付いているから、それを順番に試しているだけ。

 

 

 

先に解答イメージを描いてから、解法を選択するのと、解答イメージを描かずに、解法を選択するのでは、解ける割合が全然違います。

 

 

 

 

 

 

このことと同じことを僕は、就職活動でも思いました。

 

就活と言っても、僕はとっくに終えていて、コーチングを学んだ後に就活生対象にコーチングしていた時に、思ったことです。

 

なので、この気付きは僕の就活には活かされませんでした(笑)

 

 

 

就活では、

 

・自己分析

 

・企業分析

 

・業界分析

 

など、色んな分析をした覚えがあります。

 

その時、自己分析もやるんですが、何はともあれ企業に就職するので、企業分析にも多くの時間を費やしていました。

 

 

 

この時、日本中の企業って、何百万社という数があります。

 

何となく絞るからその全てではないんですが、それでも100社とか、200社とか、っていう数を分析します。

 

それを「大学の授業、テスト、課題、研究、部活、バイトなどをこなしながら」です。

 

 

 

無理ゲーです。

 

 

 

ほんとは、効率のいい、最も正解に近い解答に近いものを素早く選択するためには、

 

「先に、就活終えて、楽しくやりがい持って働いているイメージを作っておくこと」

 

なんです。

 

 

 

就職するための条件を決めるんじゃなくて、実際に仕事をしている様をありありと臨場感たっぷりに描いておく。

 

そしたら、心が反応するから、直感で分析対象の企業を減らしていけるし、ありありとイメージしているから、条件も自然と絞られてくるんです。

 

 

 

そうやって、自分の進む道に会った企業を選択していった方が、先方に熱意が伝わりやすいし、自分のモチベーションも自然と高くなる。

 

がんばらなくても、勝手にワクワクしちゃうから、自然と動けちゃう。

 

そんな就活だと、楽しいと思いませんか。

 

 

 

 

 

先にゴールイメージを描いておくことは、様々なシーンで使えます。

 

子育てにだって、もちろん使えます。

 

 

 

「10年後の家族像はどうなっていたらいい?」

 

「この子が成人する時に、どんな人間になっていたらいい?」

 

「その時の自分は、どうなっていたらいい?」

 

みたいなことをありありと描いて、ワクワクするようにする。

 

 

 

 

「こうなりそう」

 

じゃなくて、

 

「こうなりたい」

 

ね。

 

 

 

「こうなりそう」

 

だと、それはさっき僕が数学のくだりで書いた「とりあえず、思い付く策を試す」っていうのと同じ発想です。

 

上手くいくかもしれないけれど、そこに至るまでが博打になるし、大変な道のりであることが多くなります。

 

 

 

 

 

 

 

日本人は、子どもの頃に

 

「何になりたい?」(職業)

 

は聞かれるけれど、

 

「どうなりたい?」(人間性)

 

はあんまり聞かれないんですよね。

 

 

 

だから、未来を描くのが苦手な人が多い。

 

そういう僕も、小さい頃に聞かれた覚えはなくて、大人になってから、よく考えるようになりました。

 

 

 

で、「最終的にどうなればいい?」っていうのを考え続けていると、数学にも使えるな、っていうのを最近発見したんですね。

 

今日はそういう話なんです(笑)

 

 

 

いつもは子育てや、教育に密接に関係しない話は、追伸コーナーに書くんですけど、今日は本文に書いています。

 

なんでか?

 

何となくです(笑)

 

 

 

「先に、解答のイメージを描く」

 

っていうのを考えるんですが、

 

「最小値を求めなさい」

 

っていう問題があったら、解答イメージっていうのは、

 

「最小値が求まっていること」

 

ではないんです。

 

 

 

まずは、

 

「最小値って、何のことを言っているんだ?」

 

っていうところから始めます。

 

 

 

「点Pは一定の速度で自由に動けます。ただし、指定の直線上では2倍速で動きます。目的地までの最小時間を求めなさい」

 

っていう問題があったんですが、この問題を考える時にも、問題を解き始める前に、まずは解答までのイメージを描きます。

 

 

 

色んなルートを脳内でシミュレーションしてみて、一番早く着きそうなルートを選定します。

 

気分は、目的地を検索中のカーナビです。

 

 

 

「一番早く着くんだから、直線でまっすぐ行くのが一番早く着くのかな?」

 

「でも、倍速で動く直線を通った方が早く着くのかもしれない」

 

「ということは、途中まで直線を通って、途中での道を外れて、目的地に進路変更をするのが早そうだ」

 

みたいに、先に全体像を描いてしまいます。

 

 

 

言ってみたら、目的地の近くまで高速道路で行って、あとは下道で行く、っていうルートが一番早そうだ、っていうイメージを描きました。

 

そうか、これは高速道路を使ったドライブなんだな、とか、これがもし点Qもいたしたら、これはデートになるな・・・とか問題に関係ない妄想も膨らみます(笑)

 

 

 

この全体像が描けたら、

 

「最小時間って、何のことを言っているんだ?」

 

っていうのを特定していきます。

 

 

 

「時間は、"はじきの法則"で、距離を速さで割り算すればいいのか」

 

「直線上は倍速なのだから、直線上だけ1/2になることに注意すれば、あとは全て距離を考えるだけでいけるな」

 

「高速道路÷2と、下道の距離を足し算して、それが最小になるところを見つければいいのか」

 

「ということは、微分して、増減表書いて、最小になるところを計算すれば解けそう」

 

みたいにして、解答イメージを作った後は、そこに至る具体的なルートを描いていきます。

 

 

 

ここまでできたら、あとは持っている知識を使って、手を動かすだけです。

 

それで、ちゃんと解けたし、答えも合っていました。

 

 

 

 

 

 

 

「先に、ゴールイメージを描く」

 

っていうのって、思い付きそうなもんだけど、少なくとも僕の学生生活では、一度も教えてもらわなかったことなんですよね。

 

それなのに、めちゃくちゃ便利で、しかも、あらゆる科目の勉強にも使えます。

 

 

 

例えば、漢字や、英単語の記憶するのにも使えます。

 

漢字って、どうやって覚えますか。

 

一般的なのは書いて覚えるのでしょうか。

 

 

 

より脳みそを活用した覚え方は、

 

「先に、イメージを作ってから、書く」

 

です。

 

 

 

「霊峰」

 

っていう言葉を覚えたいとします。

 

 

 

その時に、いきなり「霊峰霊峰霊峰霊峰・・・」って書き始めない。

 

まずは、手は動かさずに、頭の中だけで「霊峰」っていう漢字を思い浮かべます。

 

もちろん、事前に正しい漢字をじっくりと見ておく必要があります。

 

 

 

見て、イメージして、見て、イメージして・・・っていうのを繰り返して、まずは頭の中だけで「霊峰」の漢字を描けるようにします。

 

漢字を書くのは、このイメージを作れてからです。

 

 

 

このイメージが作れたら、あとは脳内に作ったイメージをそのまま紙に転写します。

 

ここでようやく書く。

 

この時に、イメージを作る時と、転写する時に、微妙に感覚が違うので、上手く転写できないことがあります。

 

 

 

漢字の練習とは、

 

「脳内イメージと、転写時の感覚のズレを修正していく作業」

 

っていうことをしたいんです。

 

 

 

ここのズレを修正しない限り、何回漢字を書いてもなかなか覚えられません。

 

それこそ10回、20回書いても、まだ間違う、なんてことが起こり得ます。

 

 

 

ひたすら書いて覚えようとするのは、手の感覚に記憶させよう、っていうことをしています。

 

手の感覚で覚えることはできるんですが、それこそ何度も何度も繰り返し刷り込んでいくことが必要です。

 

感覚で書けるようになるには、相当な練習量が必要です。

 

漢字が1つ2つならいいんですが、10個も20個も、ってなると、手の感覚だけで記憶するには、非常に時間がかかる。

 

 

 

「漢字の練習とは、脳内イメージと、転写時の感覚のズレを修正していく作業」

 

っていうことを知っていれば、先に部首や旁を覚えてみよう、なんていう発想も有効です。

 

漢字の構成は、部首と旁の組み合わせに過ぎないので、パーツを記憶していると、完成形のイメージはすごく作りやすいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右が全て『寺』であることに気付けば、あとは部首を覚えるだけで、これだけの漢字を覚えるのがすごく楽になります。

 

 

 

 

 

 

 

なんで、イメージを作るといいのか、っていうと、思い出しやすいから、です。

 

実は、

 

・覚える

 

と、

 

・思い出す

 

っていうのは、脳内では違うことが起こっています。

 

 

 

覚えるのは、比較的簡単に覚えられます。

 

たとえ思い出せなくても、実物を見れば、

 

「あー、それそれ!」

 

ってなる体験は誰しもがしたことあるはず。

 

 

 

覚えるのは簡単なんですが、思い出すのが大変なんです。

 

僕らは、覚えるのと、思い出すのでは、記憶の手順が逆になります。

 

 

 

『覚える』

 

見る ⇒ イメージ化 ⇒ 記憶

 

『思い出す』

 

記憶 ⇒ イメージ化 ⇒ 書いたり、話したり

 

 

 

っていうのをやっています。

 

記憶しているものをそのまま書いたり、話したりすることはできないんです。

 

 

 

記憶しているものから、一度イメージで起こして、それから書いたり、話したりしているんです。

 

だから、覚える時にも、一度イメージでしっかり作っておくようにすると、思い出しやすくなります。

 

 

 

僕がメルマガで毎回長文書いていたり、色んなことをかなり具体的なところまで話せるのも、イメージ化をしっかりしているから、なんです。

 

イメージをしっかり作ることができれば、一回聞いた話をしばらく時間が経っても思い出すことができるようになります。

 

 

 

もちろん、やっていることはそれだけではないんですが、イメージ化はかなり重要なことです。

 

このイメージ化を挟まないならば、勉強は楽しさが激減するし、暗記は根性論になってしまいます。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、このイメージ化。

 

ゲームをやりこんでいる人は、すんなりできるようになると思います。

 

なぜなら、イメージを具象化したものをしょっちゅう見ていたわけですから。

 

 

 

こんな感じで、イメージ化をしっかりとできれば、数学だろうが、理科だろうが、漢字だろうが、量子物理学だろうが、生物だろうが、何でもかなり効率的に学ぶことができます。

 

子育てや、コミュニケーションにも生かすことができます。

 

 

 

頭の中でイメージを描くこと。

 

ぜひやってみてくださいね~。

 

 

 

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ゲームってね、やり込んでいくとくじけにくくなります。

 

 

 

ゲームの特徴は、失敗してもすぐにやり直しができるんです。

 

今のゲームには「リセットボタン」なるものは存在しません。

 

手元のコントローラー一つでゲームを中断したり、ホーム画面に戻ったりすることができます。

 

ゲーム自体のシステムでも、ゲームオーバーになっても、すぐにやり直しができる仕様になっているので、わざわざリセットボタンを押すまでもないことが多いです。

 

 

 

失敗してもすぐにやり直せるということは、

 

「あの時、もっとこうしていれば・・・!」

 

っていうのをすぐに実行できます。

 

 

 

ということは、すぐに改善行動に移れます。

 

もちろん、失敗したら凹みますし、怒りも覚えます。

 

それと同時に、

 

「失敗しても、またやり直せばいい」

 

っていうことを体感で学びます。

 

 

 

ただし、ゲーム以外の親子のコミュニケーションで、失敗した時に叱ったり、責めたりしている場合は、

 

「失敗しても、またやり直せばいい」

 

とは思いにくくなります。

 

 

 

ゲームでは失敗してもすぐにやり直すけれど、ゲーム以外では失敗したらすぐにくじけるようになります。

 

結局、ゲームで身に付いたことを実生活で活かすにも、親子の関係性を良好に保っておくことは必要そうです。

 

 

 

人の成長は、成功した時ではなくて、失敗した時にこそ多くのことを学びます。

 

・失敗しても人生が終わらないこと

 

・失敗してもまたやり直せばいいこと

 

・失敗したら違う進路を選択するのもありだということ

 

・思っていたことと違ったことも起こるんだということ

 

・見えていない部分が多くあったんだということ

 

とかとか。

 

 

 

親が子どもに対して、

 

「ほら、また○○して」

 

「なんべん言ったら分かるの!」

 

って叱ってみたり、子どもに対して物覚えが悪いとかっていう印象を持ったりすることがります。

 

 

 

こういうコミュニケーションや、印象は、子どもを失敗から遠ざけ、失敗に対する恐怖を持たせることがあります。

 

失敗を怖れるようになるということは、それだけ成長が遅れ、学ぶことからも遠ざかります。

 

それが結局、知的好奇心の喪失や、知的好奇心の発達の遅れに繋がり、勉強嫌いも助長していくことになります。

 

 

 

例えば、数学の問題が解けなかったら、「解けない!や~めた」ってなりやすくなります。

 

だって、解けなかったら嫌な顔されたり、怒られるんだから、それなら始めっから解かない方が省エネです。

 

 

 

ゲームをやり込む

 

 

親が結果に対してゴチャゴチャ言わない

 

 

 

っていう両方ができると、子どもは自然と、上手くいかなかったら悔しがるようになります。

 

この悔しさは、ゲームの中で散々体験してきた気持ちです。

 

 

 

「よし、敵発見!追いかけて倒すぞ!!」

 

って思って敵を追いかけていったら、返り討ちにあった、とかね。

 

「なんで!?そんな!!」

 

ってめっちゃショックです(笑)

 

「なんでやねん!ふざけんな!!」

 

って怒りを抱くこともしばしば。

 

 

 

こういう時に、ゲームをやらない人は、

 

「ゲームって娯楽でしょ?ストレス溜まってんじゃん」

 

って思うかもしれません。

 

 

 

それはとんでもない誤解です。

 

ゲームは、ストレス発散のためにやっているんじゃないです。

 

娯楽のためにやっているんじゃないです。

 

 

 

真剣勝負のためにやっているんです。

 

本気なんです。

 

子どもがどれだけゲームに情熱を傾けているかっ!!

 

 

 

真剣勝負だからこそ、

 

「負けたから、や~めた!」

 

ってならないんです。

 

 

 

真剣勝負だからこそ、勝つまでやりたいんです。

 

負けた時や、上手くいかなかった時は、怒り狂っていることが少なくありません。

 

これが傍から見たら、ゲームに依存して、狂っているように見えるんです。

 

 

 

でも、その実態は、真剣勝負なんです。

 

スポーツで雄叫びを上げるのと感覚は近いかもしれません。

 

 

 

子どもがゲームを真剣勝負でやっているのか、精神安定剤みたいな道具にしているのかは、子どもの様子を見ていたり、子どもの立場に立てばすぐに分かります。

 

ここを誤解すると、子どもを「かわいそうな子」ってみなしちゃうことがあります。

 

そしたら、ゲームから得ている素敵な影響も、全て台無しになります。

 

 

 

個人的には、ゲームは、スポーツとか、音楽、芸術と近いかなぁ、って思います。

 

何の生産性も無いけれども、自分の感性は刺激されるし、数学や理科などと違って、表現の自由度が高い。

 

さらに、真剣にもなれるし、いくとこまでいけば、プロの世界もあります。

 

そして、他の人がやっているところや作品を鑑賞する、という文化もあります。

 

 

 

でも、スポーツや、音楽、芸術は、歴史が200年、300年やそれ以上なのに対して、歴史は圧倒的に短い(精々20,30年くらい)。

 

だから、社会的な受け入れ感はまだまだだなぁ、っていう印象です。

 

 

 

あと、「ゲームは視力が悪くなる」みたいな身体に対するリスクも、スポーツとは特に共通しますね。

 

むしろ、スポーツの方が圧倒的に身体リスクは高い。

 

音楽や、芸術は、腰に来ることがあるんじゃないでしょうか。

 

 

 

まだありますね。

 

中学の5科目や、高校の5教科7科目などは理解すればそれでOKですが、ゲームや、スポーツ、音楽、芸術は、何度も繰り返し練習して、身体に覚えさせることが重要です。

 

だから、冒頭に書いた「やり込んでくじけにくくなる」っていうことも、スポーツなんかも同様にあるはずです。

 

 

 

 

 

 

ゲームのメリットを書けば、すぐにデメリットを思い付く人がいるんですが、よく考えてほしいんです。

 

子どもはゲームをデメリットのためにやっているのか、っていうことを。

 

子どもはゲームのデメリットを感じていない、見落としているのか、っていうことを。

 

 

 

こちらがデメリットだと思うことを子どもはデメリットだと認識していないことの方が多いと思います。

 

その時に!

 

ここから、超大事なことを書きます。

 

 

 

ゲームのデメリット。

 

こちらが思っているデメリットは、子どもはデメリットだと認識していないことが多いです。

 

 

 

その時に、僕らは、

 

『こちら側の思っているデメリットを子どもに押し付ける』

 

んです。

 

 

 

子どもは全然気にしていないことなのに、

 

「こんなデメリットがある!危険だ!!」

 

ってやります。

 

 

 

これ、もう、ほんとに、余計なお世話もいいところです。

 

真剣勝負に水を差すんじゃないよ、と。

 

自分は、親の道具じゃないんだぞ、と。

 

いいから、すっこんどけ、と。

 

そう言い返してやりたくなる気持ちが湧いてくることがあります。

 

 

 

そんなことをやるから、中学生や、高校生くらいになると、親が子どもに相手にしてもらえなくなるんです。

 

保育園や、小学生の頃は、ママ!パパ!って喜んで寄ってきていたのに。

 

 

 

「ゲームのデメリットを放置しておくと、何かマズイことが起こるんじゃないの?」

 

って思うかもしれませんが、親の思うデメリットを押し付ける方がマズイことが起こります。

 

そのマズイことっていうのは、親子関係の悪化ね。

 

 

 

親子関係が悪化した状態だと、子どもは基本的に親の言葉に耳を傾けません。

 

コミュニケーションに参加すらしてこなくなります。

 

 

 

コミュニケーションを取ると、嫌な気持ちになる相手とは、コミュニケーション取りたくないでしょう?

 

職場の嫌な上司を思い浮かべてくれれば、その子どもの気持ちは少し理解できるかもしれません。

 

 

 

どうですか?

 

「○○くん(あなた)、ここ間違ってるよ」

 

「○○くん(あなた)、なんでこんなこともできないのかね?」

 

なんて言われてたら、嫌いになるし、一度嫌いになれば、関係を修復しない限り、こちらからはコミュニケーション取りたくないでしょう?

 

 

 

親子関係でも、そういうことは起こるんです。

 

仕事関係だと、割かし少ない回数で、嫌な関係になっちゃいますが、親子関係の場合は何年かかけてじっくりと醸成されます。

 

 

 

子どもに相手にしてもらっていない場合は、まずは親子関係を修復するところから始める必要があります。

 

コミュニケーション取ってもらえないと、親がどう思っていても、その想いは子どもに伝えることはできません。

 

嫌な相手からは、どんなメッセージも受け取りたくないでしょう?

 

嫌いな上司から、仕事に対する熱い想いを聞かされても、鬱陶しいだけですよね(笑)

 

 

 

 

 

「でも、ゲームにはデメリットが・・・」

 

って言う人がいます。

 

とにかく、子どものゲームに踏み込みたいし、干渉したいし、何とかしたい、って思う親。

 

 

 

それがダメだと言いたいわけじゃないんです。

 

やりたかったらやってもいいんです。

 

 

 

その代わり、やったら、それに付随する結果もオマケ(関係の悪化)でついてきますよ、っていうのは知っていても損は無いかな、って思います。

 

僕は、親の関わりをジャッジしたり、制限したいわけじゃないんです。

 

 

 

「親子関係の悪化っていうオマケがついてくることがありますよ」

 

っていうことを解説したいだけ。

 

やるかどうかは、本人の自由だと思っているから、そこは僕がどうこう言うことじゃない、って思っています。

 

 

 

「でも、ゲームにはデメリットが・・・」

 

って思うのも自由です。

 

僕は、そう思っていることも別に悪いとは思わないし、そこを変えようとも思わないです。

 

 

 

ここまでゲームのメリットのうち、

 

・失敗してもくじけない

 

・真剣になれる

 

っていうことを書いてきましたが、それを上回る熱意で

 

「でも、ゲームにはデメリットが・・・」

 

っていう場合は、そちらを優先してあげればいい。

 

 

 

まず、行き着くところまで行ってみるのもありです。

 

僕の考えは仮説に過ぎませんから、これが合っている保証なんてどこにもありませんからね。

 

実際、それで上手くいくことだってあります。

 

 

 

それこそ、やってみないと分からないし、やってみて上手くいかなければ、やり直せばいいだけ。

 

失敗してもくじけずに、改善して再出発をすればいい!

 

(これが書きたかった)

 

 

 

 

失敗してもくじける必要なんてない。

 

子どもたちは、それをゲームから学んでいるし、僕らは子育てからそれを学べる。

 

学べることは同じで、何から学ぶのかだけの違い。

 

 

 

親は、子育てに真剣。

 

子どもは、ゲームに真剣。

 

 

 

親は、子育てから失敗しても大丈夫なことを学ぶ。

 

子どもは、ゲームから失敗しても大丈夫なことを学ぶ。

 

 

 

親子で同じことを学んでいるのかもしれませんね。

 

 

 

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僕は、ゲームは自由にやったらいいじゃないか、って思っています。

 

ゲームはほんとに使い方次第で、自分の能力を高める道具にできます。

 

むしろ、ゲーム脳ゲーム脳言ってると思考停止に陥るだろうし、親が思考停止すれば、その親と密に関わる子どもも思考停止気味に陥ります。

 

 

 

個人的には、子どもがゲームをやりまくるよりも、親の思考停止の方が怖い。

 

思考停止とは、強い思い込みがあって、それ以外のことが考えられなくなったり、考えようとしていない状態のことです。

 

 

 

なんで思考停止が怖いか、っていうと、こんだけ情報に溢れた社会で思考停止に陥ると、簡単に色んなものに騙されます。

 

騙される、って言っても、それは悪意あるものだけに限りません。

 

というか、その情報のほとんどは、きっと善意で発信されているもの。

 

 

 

「こうしたらいいよ」

 

「これはやめといた方がいいよ」

 

ひとたび、スマホやパソコンでネットに繋げば、こういう情報はいとも簡単に手に入る。

 

ネットに繋がなくても、ママ友や自分の両親をはじめとして、様々な情報を手に入れられる。

 

 

 

彼らはきっと善意で言ってくれています。

 

その中には、自分の優越感を満たすための発信もあるでしょうけど、善意なものも少なくない。

 

 

 

だから、騙す気はないんですけど、結果的にその人たちや、そういう情報によって振り回され、結果的に騙されたのと変わらないことが起こる。

 

いくら善意であっても、その情報を鵜呑みにして振り回されれば、僕らはその発信者を責めます。

 

 

 

オンライン上の情報なら発信者を責めることはできないことがあるから、その人の悪評を立てたりすることもあるかもしれない。

 

これって、冷静に考えれば、自分で受け取った情報を、自分の判断で採用した結果、生み出したものだから、責任転嫁もいいとこなんですよね。

 

しかも、責任転嫁したところで、何かが解決することは無い、と断言しても過言じゃない。

 

 

 

僕らは思考停止状態に陥らずに、一つ一つ丁寧に考えていきたい。

 

子どもに、そんな目には遭ってほしくないじゃないですか。

 

自分の思考力や判断力に乏しいために、自ら騙されにいくようなことをしてみたり、それを誰か他の人の責任にしていたりすることには。

 

 

 

子どもがそうならないためには、自分で考えて、自分で判断する力を養うしかありません。

 

そして、そのためには、まずは親がそうでありたい。

 

 

 

余談ですが、心屋さんのところでは「前者後者論」っていうのが盛り上がってて、前者か後者かの判断は「人の話を聞いてて、頭が真っ白になるかどうか」だそうです。

 

ここでいう「思考停止」とは、頭が真っ白になることではありません。

 

強く思い込んでしまって、その前提を疑わない、っていうことを言っています。

 

だから、前者でも、後者でも当てはまります。

 

 

余談、終わり。

 

 

 

 

冒頭にも書きましたが、僕は子どもがゲームから悪影響を受けるよりも、子どもが思考停止することの方が怖い、って思っています。

 

思考停止の影響は、子どもが大学生とか、社会人になった時に顕著に現れます。

 

 

 

どんな感じで現れるかと言えば、自分の進みたい道が、どっちか分からなくなる。

 

そしたら、条件で進路を選んだり、「こちらに進むべき」っていう義務感や常識で進路を選ぶようになり、選んだ道に生き甲斐が感じられなくなるかもしれない。

 

 

 

生き甲斐が感じられない生き方を選択するようになる。

 

これって、すごく危ういことだと思いませんか。

 

だって、本人が生きてる実感や、生きてる意味を自分で見出そうとしていないんですから。

 

 

 

その生き方がどんな生き方かっていうと、簡単に想像つくのは無気力な感じ。

 

何もしたがらない。

 

自信が無いというか、何かができると思っていない。

 

自分が誰かの役に立ててるとも思わないし、役に立てるとも思っていない。

 

ただひたすらに、自分を守る生き方です。

 

 

 

ここでいう「自分を守る生き方」とは、「自分を大切にする生き方」とは違います。

 

「自分を大切にしていない」

 

っていうのにも関わらず、その自分を守っている生き方です。

 

 

 

自分で、自分のことを「価値が無い」と信じ切って、そんな自分を守り続ける生き方です。

 

今まで、誰かに道を選んでもらってきたし、誰かに行動や思考を制限されて生きてきた。

 

選んでくれた、その誰かさんはとても価値がある存在なんだけど、選んでもらってた自分には価値が無いな、って思うようになります。

 

 

 

アドラー心理学で言えば、共同体感覚が感じられていない状態です。

 

共同体感覚とは、すなわち、幸せな気持ちそのものです。

 

 

 

 

 

その発端は何かっていうと、親が子どもの行動、思考、何で幸せを感じるべきなのかを決めてきたり、介入してきたから、です。

 

子どもの背中を押すような応援の仕方ではなく、子どもの手を引くような応援の仕方をしてきた、っていうこと。

 

 

 

親の方に「幸せとは、こうあるべき」っていう強い思い込みがあれば、子どもはそれに縛られます。

 

そしたら、子どもは身体で幸せを感じられなくなり、子どもも思考停止に陥るようになります。

 

 

 

ゲームの話で言えば、

 

「ゲームやり過ぎて、勉強しなくなったら、良い学校に行けなくなって、将来がダメになる」

 

っていう不安を抱き続けて、それを子どもに押し付けてしまうことです。

 

 

 

僕から言わせれば、こっちの方がゲーム脳です(笑)

 

子どもがゲームに熱中しているんなら、

 

「より楽しめるためには、どうしたらいいか?」

 

「より成長に繋げていくにはどうしたらいいか?」

 

っていうのを考えてみる。

 

 

 

子どもがゲームに関心がある時に、手を引いて、勉強など、別のことに関心を向かせようとするのは子どものためではありません。

 

子どものため、っていうなら、子どもの関心に関心を持ったり、子どもの関心の一歩先に関心を持ちたいんです。

 

それがたとえゲームであっても。

 

 

 

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ゲームは、脳には刺激が強い、って言います。

 

脳波が乱れたり、脳の組織が壊れたりするんですって。

 

色々な研究で明らかになっているらしい。

 

それならば、きっと僕の脳みそも今頃ボロボロなのでしょう、きっと。

 

 

 

「ゲーム楽しい」

 

っていうのと、

 

「勉強嫌いじゃない」

 

っていうのが合わさると、勉強することは比較的やりやすい、って思う。

 

 

 

現状、多くの家庭で起こっているのは、冒頭に書いたような研究結果などに振り回されて、親子関係がこじれてしまっていることかな、って思います。

 

その結果、ゲームを制限して、さらに勉強嫌いになっちゃってる。

 

 

 

研究結果や、ゲームに関する色んな見解を採用するのはいいんですが、コミュニケーションの取り方を間違えているために、結果的に、子どもの勉強嫌いも引き起こしてしまっている。

 

それじゃあ、本末転倒じゃない??

 

 

 

ゲームに関するデータを採用するのって、

 

「子どもに勉強してほしいから」

 

であって、さらに言えば、

 

「子どもの可能性や、能力を引き上げたいから」

 

であって、それが

 

「子どもの幸せに繋がる」

 

って信じているから、でしょう?

 

 

 

だったら、ゲームに関する様々な見解を採用した結果、

 

・子どもが自信を失う

 

・自分の可能性を塞ぎ込む

 

・子どもが能力を発揮しようとしない

 

・子どもが生きにくさや、絶望感を感じている

 

・子どもが不幸を感じている

 

っていう状況は親の本意じゃないですよね。

 

 

 

親のコミュニケーションって、大きく分けると5のパートに分けられます。

 

1.「親の信念、価値感がある」

 

 

2.「親の信念、価値感に基づいて、コミュニケーションを取る」

 

 

3.「そのコミュニケーションから子どもが自分の信念、価値感に基づいてメッセージを受け取る」

 

 

4.「子どもが受け取ったメッセージを元に、子どもが行動を選択する」

 

 

5.「選択した行動に関連した信念、価値感を形成する」

 

 

 

こんな感じで、子どもの信念や、価値感の形成に繋がっていきます。

 

このうち、親がコントロールできるのは、1と2までです。

 

3,4,5は親がコントロールできることではありません。

 

 

 

そして、このコミュニケーションの発端である、1番はすごく大切なところです。

 

僕らはついつい出来事や、どういう言葉を掛けているかに注目しがち。

 

それらは結果論でしかなくて、出来事に注目しても、起こったことはどうしようもありません。

 

言葉に注目しても、コミュニケーションにおいて言葉が担う割合は、わずか7%しかありません。

 

 

 

親のコミュニケーションが、ミスコミュニケーションに繋がりがちなのは、1⇒2のところです。

 

すなわち、本心をそのまま伝えればいいんですけど、色んな意見や、データに振り回されてしまって、本心を見失ってしまう。

 

 

 

「子どもに幸せになってほしい」

 

って願っていても、それを見失ってしまえば、勉強することや、遊びを制限することや、厳しくすることに目が向いてしまう。

 

 

 

親が願う、子どもの幸せ、って何なんでしょうか。

 

 

 

たとえ、子どもが好きなことで遊んでいて、楽しい声をあげて、明るい表情をしていても、

 

「それはきっと将来、不幸に繋がる!!」

 

なんて思うんでしょうか??

 

 

 

「子どもは勉強していないと、今は楽しくても、将来は不幸になる!!」

 

なんて思うんでしょうか。

 

 

 

じゃあ、今、目の前で、明るく楽しく、振る舞っている子どもは何なんでしょうか。

 

 

 

こういうことを書くと、

 

「ついつい厳しくしちゃう私はダメだ」

 

って自分を責める人が出てくるんですが、自分責めって、時に逃げになります。

 

 

 

だって、自分を責めている間は、自分を見ているんだから、子どもを見なくてもいいんです。

 

「あ~ぁ、またやっちゃった」

 

ってやっている間は子どもに向き合わなくて済む。

 

 

 

だから、自分を責める。

 

自分を責めることは、時に快感なんです。

 

 

 

自分を責めちゃダメだ、って言いたいんじゃなくて、それはどっちでもいいんです。

 

自分を責めてても、責めていなくてもいいから、そんなことはどっちでもいいから、目の前にいる子どもの姿を刮目したい。

 

 

 

刮目とは、目を見開いて、そこに集中して、見ることです。

 

親にとって、子どもって、大切な存在ですよね。

 

 

 

大切な存在だからこそ、しっかりと見ていたい。

 

子どもの姿をしっかりと見ていたい。

 

 

 

そして、考えたいんです。

 

自分が大切なのは、ゲームをしないことか?それとも、子どもなのか?って。

 

成績なのか、子どもなのか、先生なのか。

 

 

 

自分が親として、大切にしたいことは何なんでしょう。

 

 

 

「この点数は何なの!?」

 

ってやっているのって、それは親が「子どものため」だと思っていても、実は親の目に映っているのは、子どもじゃなくて、成績です。

 

この時、親が大切にしているのは、子どもではなくて、成績です。

 

 

 

 

 

「学校には行った方がいい」

 

「ゲームをやり過ぎると様々な問題が起こる」

 

「勉強はしておかなければいけない」

 

 

 

親が、親として、大切にしたいことは何でしょう?

 

学校に行くことが大切なら、今、目の前にいる子どもじゃなくても構いませんよね。

 

 

 

「いやいや、その子が学校に行くことが大切なんだよ」

 

って言うならば、学校に行っていないその子は大切じゃない、っていうことですよね。

 

 

 

揚げ足を取っているように感じると思いますが、まさに揚げ足を取っています(笑)

 

このように揚げ足を取れる可能性が残されている、っていうことは、子どもにもそういう解釈の余地がある、っていうことです。

 

 

 

親は、子どもが学校に行くことが大切だと思っている。

 

実際、子どもが学校に行っていないとする。

 

そしたら、子どもは「学校に行っていない自分は大切にされない」って感じることもあるんです。

 

 

 

そこの解釈が、親と子どもでズレてしまった場合、「子どもが学校に行くことが大切だ」って思っている親には、もはや成す術はありません。

 

だって、「親に大切にしてほしい」と思っている子どもが「学校に行っていない自分は、親から大切にされていない」って感じるんです。

 

だとしたら、親が「子どもが学校に行くことが大切だ」って思っている限り、この子には親の言葉は届きませんよね。

 

 

 

この子に届くのは、「学校に行っていないあなたも大切だよ」とか、「学校に行くのも、行かないのもどちらでもいいよ」って思っている人の言葉です。

 

 

 

ちょっと想像してみてほしいんです。

 

 

 

まだまだ女性が家事をする機会の方が多いと思うんですが、自分が家事をしていることを想像してみてください。

 

横に家事を全くしない男性がいるとします。

 

 

 

その男性から、

 

「家事の大変さ、すごく分かるよ」

 

とか、

 

「この洗濯物は、もっとこうした方が効率がいいよ」

 

とか、

 

「ちょっと!このお味噌汁、塩味が濃いんだけど!?」

 

って言われたら、どんな気持ちになりますか?

 

 

 

腹立ちますよね(笑)

 

 

 

このイラ立ちの正体は、

 

「あんたは家事していないのに、口出さないで!!」

 

「こっちの大変さを知った風な口を叩かないで!!」

 

みたいな感じでしょう?

 

 

 

家事の大変さは、家事をやっていない者には分からないんです。

 

 

 

それと同じで、学校に行かないことの大変さは、「子どもは学校に行くべし」って思っている人には分からんのです。

 

だから、親が「子どもは学校に行った方がいい」って思っている時点で、学校に行っていない子には寄り添えません。

 

親が寄り添っている気になることはできるけれど、子どもに寄り添われている感を感じてもらうことはできません。

 

 

 

 

 

学校のことや、将来のことを手放せ、って言いたいんじゃないんです。

 

今の状況で、最も大切なことは何?っていうのを考えたいんです。

 

 

 

ゲームのことや、動画のことが気にかかっている。

 

学校や、成績のことも気にかかっている。

 

色んな体験談や、研究結果、ネットの記事なんかも気になっている。(この記事もネットの記事ですね笑)

 

 

 

この情報化社会の中では、特に自分の大切にしていることを見失いやすい。

 

だからこそ、今一度、しっかりと考え直したいんです。

 

 

 

自分が親として、大切にしたいことは、何?

 

 

 

って。

 

 

 

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僕のブログやメルマガを読んでくれている方の中には、

 

「佐伯はゲーム容認派だ」

 

って思っているかもしれませんが、ちょっと違います。

 

 

 

正確には、

 

「佐伯は、ゲームどっちでもいい派だ」

 

です。

 

 

 

ゲーム容認派っぽいことばっかり書いているのは、ネット検索すればゲーム否定派の人が多く記事をあげているから、それとバランスを取るためです(笑)

 

僕個人としては、どっちでもいいんです。

 

 

 

ゲームは所詮道具なので、使い方次第でどうとでもなります。

 

それに、ゲームを中心に議論しすぎると、あたかも子どもの人生の中心がゲームなんじゃないか、って思えてきます。

 

んなこたぁない!

 

 

 

というわけで、子どもがゲームしてても、していなくても、どっちゃでもいいです。

 

ゲームをしているメリットもあれば、ゲームをしていないデメリットもあるんです。

 

 

 

僕の本心としては、

 

「ゲームなんていう些細なことに振り回されずに、子どもの姿をしっかりと見ようぜ!」

 

って思っています。

 

 

 

ゲームやっていても、やっていなくても、子どもは子どもです。

 

ゲームやっている子どもは可愛くなくて、ゲームやっていない子どもは可愛い、って何だかおかしな話でしょ。

 

 

 

もしも、そう感じるんだとしたら、もしかしたら、ゲームに毒されているのは、子どもじゃなくて、親の方かもしれません。

 

過去にこんな記事も書いているので、良かったら読んでみてください。

 

 

 

「残虐なゲームをやり過ぎて、うちの子も残虐になるんじゃあ・・・」と不安を抱く親へ

 

 

 

 

 

 

ゲームってね、「子どもがするもの」「子どもが楽しむもの」って思っている人が多いかもしれません。

 

その時、すっぽりと抜け落ちているのが、

 

「親である自分も、ゲームを見ている」

 

っていうこと。

 

 

 

もうちょっと正確に言えば、

 

「親である自分も、ゲームを意識している」

 

っていうこと。

 

 

 

だから、僕が一つ仮説で持っているのが、

 

「ゲーム依存症の子は、ゲーム心配性の親の元で育つ」

 

っていうもの。

 

 

 

ゲームに拭い去れない心配を持ち続けている時、ゲームをしている子どもとの関わりはネガティブなものになりやすいです。

 

そしたら、子どもは大好きなお母さんを傷つけてしまった、心配をかけてしまった・・・っていう落ち込みをゲームで解消しようとします。

 

その様子を見ていた親がまた心配するのから、悪循環が出来上がる。

 

 

 

ゲームは、子どもの心の余裕があれば、自分で離れられたり、ちょっとした一声で離れてくれます。

 

しかし、子どもの心の余裕がなければ、ゲームから離れると途端に不安や、心配が襲ってくるから、人から言われても、自分からもなかなか離れられない。

 

 

 

親が『ゲーム=悪』という思い込みをなかなか手放せない。

 

そのことと、子どもが執拗にゲームにのめり込み続けることは、強く関連しているんじゃないか、っていう仮説を持っています。

 

 

 

だから、「子どもがずっとゲームをし続ける」っていうことで、親が何とかできる課題は、次の2つだと考えています。

 

1.ゲームに対する思い込みを変えること

 

2.子どもとのコミュニケーションの取り方を変えること

 

です。

 

 

 

この2つを何とかすると、子どもはゲームはするけれども、病的な要素は抜けていきます。

 

言い換えれば、この2つを何とかせずに、子どものゲームを何とかしようとし続けている限り、子どものゲームはより病的になっていくこともイメージできます。

 

 

 

理由はとってもシンプルで、「親に『ゲームをする自分』を認めてもらえていないから」です。

 

親が『ゲームをする自分』を認めることができるようになるまで、子どもは"娯楽の範囲を超えて"ゲームをやり続ける、っていう感じ。

 

 

 

子どもを信頼するための練習期間ですね。

 

子育てのトレーニング。

 

 

 

信頼とは、無条件の承認です。

 

「ゲームをしていない子どもは認められて、ゲームをしている子どもは認められない」

 

っていうのは、信頼ではありません。

 

子どもを信頼していない。

 

 

 

でも、信用はしているかもしれません。

 

信用とは、条件付きの承認です。

 

まさに、

 

「ゲームをしていない子どもは認められて、ゲームをしている子どもは認められない」

 

です。

 

 

 

承認するために「ゲームをしていない」っていう条件が付いていますよね。

 

ゲームをしていない場合に限り、承認しているので、承認していないわけじゃない。

 

 

 

何が問題なのかって、

 

「子どもは、親からの信用は求めていない」

 

っていうことなんです。

 

子どもが求めているのは、親からの『信頼』の方です。

 

 

 

子どもからしたら、いらんものを親から提供されていることになりますね。

 

勘違いしてほしくないのは、子どもが求めているのは、『親から』の信頼です。

 

信頼がほしいんじゃなくて、『親から』の信頼です。

 

 

 

当たり前のことを書きますが、『親からの信頼』を子どもに与えられるのは、親しかいません。

 

親以外の人間には『親からの信頼』は与えられません。

 

 

 

だから、子どもは親に執拗に絡んできたり、親が迷惑を感じるようなことをしてくることがあるんです。

 

それらも全て、子どもは親からの信頼を欲しいがため。

 

 

 

でも、子どもがやっていることは、実は、親からの信頼じゃなくて、親からの信用を勝ち取ろうとしている行動なんです。

 

つまり、子どもは、自分が求めているものに対して、自分がやっていることを間違えているんです。

 

 

 

普通にしていると信頼が得られなかったから、何か特殊なことをやると、親が承認してくれんじゃないか、って勘違いして、何か特殊なことを始めるんです。

 

褒められようとがんばってみたり、逆に、悪いことをしたら承認してくれるんじゃないかとか。

 

「これはもしかして、勝負なのか!?」と思って、親に直接対決を申し込んでみたり。

 

 

 

それでもダメなら、「こんなにがんばってるんだから認めろよ!」って言わんばかりに、親が本気で嫌がることで復讐したり、無気力になって、自分の存在を危うくさせようとします。

 

 

 

子どもは、本当は『親からの信頼』が欲しいはずなのに、結果的に、『親からの信用』を得ようとしてしまっている。

 

そのことに子どもは気付いていないわけですが、親も気付かなかったら、信用を与えてしまうことがあります。

 

 

 

これがさっき書いた「ゲームをしていない子どもを褒める」みたいなことですね。

 

条件付きで、子どもを承認しているから、信用なんです。

 

 

 

信頼じゃなくて、信用だと何がまずいのか。

 

子どもの中に『恐怖』が常に付きまとうようになるんです。

 

 

 

信用には、条件が伴うということは、逆を言えば、その条件が満たされなくなると、承認が得られない、っていうこと。

 

上手くいっている間はいいけれど、上手くいかなくなることを想像すると、とっても怖い。

 

 

 

イメージで言えば、2棟の高層ビルの間に渡されたロープの上を歩いていて、風が吹かないだろうか、って怯えている感じ。

 

子どもは親からの承認が得られなくなると、この世の終わりと思っていたりするから、ほんとにこんな心境かもしれません。

 

それくらい子どもにとって、親の承認っていうのは大事なことなんです。

 

 

 

 

 

 

そう考えていくと、子どもが見ているのは、

 

「自分がゲームをしている時の親の態度や、関わり方」

 

だったりします。

 

 

 

意図的にジャッジしているわけではないんですが、ゲームをしている愛されないんじゃないか、って思うと、子どもは希望にすがろうとします。

 

「いや、そんなはずはない!もう一度、ゲームをしてみよう」

 

みたいな感じで。

 

 

 

それが親から見たら、ゲーム依存症に見えるんです。

 

でも、その実態は、自分を無条件で信頼してほしい、っていうアピールだったりもします。

 

この論理は、スマホも、動画も、テレビも、どれにも共通する要素はあると思っています。

 

 

 

 

 

僕らは、本当は普通にしていても、愛されていい存在です。

 

産まれてきたばかりの時は、きっとそう信じていたはず。

 

だから、親が話し掛けているのに、おもちゃに関心を持って、全然こっちの言うことを聞いてくれないこともあった。

 

親に関心を向けていなくても、きっと親は自分を見ていてくれるはず、って思っていたから。

 

 

 

でも、大きくなるにつれて、視野が広がってくると、ちょっと違うことに気付き始める。

 

親が自分に関心を向けてくれる時と、そうでない時があることに。

 

 

 

子どもの中で不安が広がる。

 

今までとやり方を変えて、親の気を引こうとしてみる。

 

そのやり方がたまたま親の価値観に合うことなら承認されるけれど、合わないことなら承認はされないけれど、注目はされる。

 

 

 

本当は無条件で愛されたいんだけど、子どもの方も、どうやったら無条件で愛されるのかが分からなくって、途方に暮れる。

 

この時点で、子どもも実は条件付きの愛情を求めようとしている。

 

 

 

「こんなにがんばったよ!」

 

ってやって、がんばったことを認めてほしいんじゃなくて、自分そのものを認めてほしい。

 

でも、自分そのものは認められないことを学習してしまっているから、もう自分にはがんばるしかない、って思っている。

 

 

 

そう思っていた矢先に、知ったゲームという存在。

 

誕生日だったか、何だったかでねだったら買ってもらえた。

 

 

 

『親が』買ってくれたゲーム。

 

 

 

子どもからしたら、新しいやり方を見つけた!と思ったんです。

 

親の承認を得られるんじゃないか、親と交流ができるんじゃないか、っていう期待の新アイテム。

 

 

 

でも、実際、やり始めてみると、以前よりも、親は承認してくれることが少なったような気がする。

 

『親が』買ってくれたゲームで、なぜか、認めてもらえない。

 

 

 

どうしたらいいんだろう。

 

そう考えて、悩んでいる間も、ゲームは相変わらず楽しい。

 

その楽しさに身を委ねている間だけ、子どもは親から承認を得られていないことを忘れられる。

 

 

 

そうするうちに、子どもは親からの信頼、すなわち、無条件の承認を得る代わりに、ゲームからの無条件の承認を得るようになる。

 

子どもは、気付くんです。

 

 

 

『親からの承認は条件が必要だけど、ゲームからの承認は条件がいらないこと』に。

 

 

 

本当は、『親から』の無条件の承認が欲しかったけれど、この際、ゲームからの『無条件の承認』でいいや、ってなる。

 

子どもの妥協、ですね。

 

この状態を「勇気をくじかれている」って言います。

 

 

 

妥協で手に入れられたものでも、そこそこ気持ちいいから、ずっとゲームの世界に居続けてしまう。

 

その様子を周囲の人間が見れば、ずーーーーっとゲームやっているんだから、ゲーム依存症に見えるんです。

 

 

 

 

 

 

 

もうお分かりだと思いますが、子どもがゲームから抜け出すために、親にできることはたった一つです。

 

 

 

『ゲームをしている子どもも承認すること』

 

 

 

です。

 

すなわち、子どもがゲームをしている・していないで態度を変えず、同じように接する、っていうことです。

 

それが承認です。

 

褒めることじゃありません。

 

 

 

今の生活の中で「子どもが可愛いな」って思った時にしているコミュニケーションの取り方がありますよね。

 

それと同じようなコミュニケーションをゲームをしている子どもや、ゲームの話をしている子どもと、取るんです。

 

 

 

それを『遊びの解放』って言っているんです。

 

 

 

ゲームしている・していないで関わり方を変えないことを指しているので、

 

「ゲームを好きなようにやらせています」

 

だけでは不十分なことがあります。

 

 

 

あくまでも焦点を当てるべきは、ゲームを開放しているのかどうかではなく、親のコミュニケーションの取り方です。

 

ゲームをしている・していないで、子どもへの態度が変わっていないかどうか、です。

 

 

 

子どもへの態度を変える、っていうのは、

 

ゲームをしている ⇒ イライラ

 

ゲームをしていない ⇒ 落ち着いている

 

とか、

 

ゲームをしている ⇒ 否定的

 

ゲームをしていない ⇒ 肯定的

 

とか、

 

ゲームをしている ⇒ 指示、命令型コミュニケーション

 

ゲームをしていない ⇒ 対話型コミュニケーション

 

とか、っていうことです。

 

 

 

 

 

また、『遊びの解放』を実践しても、親が無条件の承認をしているとしても、子どもが抜け切れないことがあります。

 

それは、根本的なことは良くなったけれど、症状だけ残っている状態です。

 

 

 

つまり、親からの勇気くじきは無くなったんだけど、子どもは勇気をくじかれたまんま、っていうことです。

 

勇気くじきをやめただけでは、もしかしたら、子どもは「どうせ自分なんて」って思い続けたまんまなことがあります。

 

 

 

だから、そこからは勇気付けのコミュニケーションが必要になります。

 

 

 

 

勇気付け・・・

 

さすがにちょっと長くなってきたので、ここらで一旦記事を終わります。

 

ここまでで約5000文字・・・お疲れ様でした。

 

 

 

ここまで書いてきたことをまとめると、

 

・子どもがゲームと上手く付き合えるようになるには、ゲームをしている、していないで親の態度を変えないこと

 

・信頼⇒無条件の承認、信用⇒条件付きの承認

 

・子どもがゲーム依存症に見えるのは、無条件の承認を親ではなくゲームに求めるようになった説

 

・『遊びの解放』ができても、子どもの勇気がくじかれたまんまなことがあるから、その時は勇気付け

 

っていう感じでしょうか。

 

いくつか抜けているかもしれませんが、言いたいことは書けています。

 

 

 

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勉強をしていたら、子どもは賢くなるのか。

 

僕は、NOだと思っています。

 

 

 

じゃあ、ゲームをしていたら、子どもは賢くなるのか。

 

僕は、これもNOだと思っています。

 

 

 

それでは、ゲーム以外の遊びをしていたら、子どもは賢くなるのか。

 

僕は、これにもNOです。

 

 

 

賢いことが全てではありませんが、「子どもが自分から勉強を始める親のコミュニケーション」なんてメルマガを書いているくらいなので、子どもの賢さには興味津々です。

 

ここで言っている『賢さ』とは、学力のことだけじゃなくて、生きる力みたいなものです。

 

 

 

 

 

アドラー心理学では、

 

1.自立

 

2.協力

 

っていう2つを身に付けることを目指します。

 

 

 

『自立』とは、自分のことは自分で選択をする意志のこと。

 

そこには、『自分軸』と、『どんな環境でも生きていく力』があります。

 

この2つが勉強や、遊びで身に付くか、っていうとそうとも限らないかなぁ、って思います。

 

 

 

『協力』には、相手への『尊敬』と、『社会性』があります。

 

社会性とは、自分の伝えたいことを"相手を傷つけずに"伝えるコミュニケーション能力の高さのことです。

 

 

 

こう考えると、勉強だけでも、遊びだけでも、ゲームだけでも、足りません。

 

学校の勉強だけなんて、ほとんど役に立ちません。

 

 

 

でも、勉強も、遊びも、ゲームも、活かすも殺すも、子ども次第ですし、親の関わり方次第なんです。

 

子どもが「実生活に活かそう!」と思えば、そこで学んだあらゆることが日常生活の中で活かすことができます。

 

大切なのは、子どもの世界をしっかりと現実世界に結び付けてあげることだと思うんです。

 

 

 

子どもの世界と、現実世界を結びつけるために、

 

1.自分軸

 

2.どこでも生きていける力

 

3.尊敬

 

4.社会性

 

の4つが大切なんじゃないか、って思っています。

 

 

 

どういうことか、詳しく見ていきましょう。

 

 

 

 

 

【1.自分軸】

 

自分は何をして、何をしないのかを自分の意志で決められます。

 

そこには自由が存在しますが、同時に責任も伴います。

 

日本では、責任の方が重視されて、なかなか自由が発揮されにくいという印象を持っていますが、責任の取れる範囲が広がるにつれて、自由の範囲も広がってきます。

 

そのための学びだし、トレーニングです。

 

 

 

 

【2.どこでも生きていける力】

 

学歴偏重の考え方をすると、学校へ行くことや、学校の勉強をすることを第一義的に考えます。

 

それらを疎かにするなら、遊びは制限される、っていうような考え方があります。

 

 

 

学歴があるけれど、勉強もできるけれども、コミュニケーションが取れずに社会にも馴染めない、自分の意志で決断できない、みたいに育っていくと、今の社会で生きていくのはしんどいかもしれません。

 

大手企業でさえ事業縮小や、倒産してしまったり、時代の変化も速くなっているからこそ、柔軟に、自由に、考え、動いていくしなやかさが大切ではないか、って思います。

 

 

 

もちろん、どこでも生きていけて、学歴もあるのに越したことはないです。

 

 

 

 

 

【3.尊敬】

 

相手を尊敬するということは、横の関係で関わるということです。

 

上から目線は相手を大切にしていないことがイメージしやすいと思いますが、逆に、下手に出るのも相手への尊敬の念はありません。

 

 

 

例えば、相手が困ったらすぐに手を差し伸べると、「この人は自分の力では解決できない人だ」と見なしているのと同じ態度で関わることになります。

 

それが結局、勇気くじきをしてしまう。

 

お互いに、勇気付けをし合う関係でいたいんです。

 

 

 

 

 

【4.社会性】

 

これは伝える力です。

 

相手の立場に立ち、そこに関わる様々な人の立場にも立ち、適切な関わり方で、自分の想いを伝えていきます。

 

 

 

主張せずに我慢する伝え方でもなく、主張して相手を責める伝え方でもない。

 

また、遠回しに嫌味っぽい伝え方もしない。

 

 

 

相手の立場に立ち、自分の主張もする伝え方をしたい。

 

 

 

 

 

 

 

子どもにこの4つの力を身に付けてもらうために、一言で言えば、親子関係の中に『コーチング』的なコミュニケーションを導入したいんです。

 

「子どもが自分から勉強を始める」っていうのも、一つの通過点に過ぎません。

 

もっともっと大きな視野で、親も、子ども自身も、子どもの人生を捉えてほしい。

 

 

 

視野を広く持てば、子どものやっているあらゆる行動、関心と、社会との繋がりは見出せるはず。

 

その繋がりが適切なら強化していくし、不適切ならコミュニケーションを取りながら修正していきます。

 

 

 

修正は誰がするか?

 

子ども本人です。

 

 

 

だから、子どもがゲームばっかりして、一切勉強をしない時も、親がその行動を修正したりはしません。

 

その代わり、子どもとコミュニケーションを取りたいし、どんな些細なことも伝え合えたいんです。

 

 

 

今、何を感じていて、何を考えていて、どういう目的で、それをしているのか。

 

そして、それがどうなっていると認識しているのか。

 

そんなことを子どもとの交流の中で、一緒に考えていく。

 

 

 

親子の間で交わされる定期的なコミュニケーションをコーチング的なものにしていけば、子どもは親とコミュニケーションを取れば取るほど、より主体的かつ、他者とは協力的に生きていくことを学べるはず。

 

そのためには、もちろん、親自身がコーチング的なコミュニケーションを身に付けている必要があります。

 

 

 

そのためのメルマガだし、コーチングだし、BASEです。

 

僕のやっていることは、全てそこに集約されます。

 

 

 

もちろん、まだまだ完ぺきではないので、僕も試行錯誤しながらです。

 

ただ、おかげさまで、メルマガでたくさんお返事をいただいたり、コーチングでフィードバックをいただいたり、BASEでは活発に議論をしてくれていて、色んな視点で考えることができています。

 

これはほんとにありがたい。

 

 

 

 

 

勉強も、ゲームも、ゲーム以外の遊びも、子どもの人生を彩る一つの要素でしかない。

 

子どもの勉強を応援するよりも、子どもの人生を応援したいじゃないですか。

 

 

 

そのために、親がコーチング的なコミュニケーションを取れるようになるといいなぁ、って思っています。

 

コーチング的なコミュニケーションと書いているのは、

 

「親の意向に子どもを沿わせる」コミュニケーション

 

 

「子どもの主体性を尊重する」コミュニケーション

 

への意向のことを言っています。

 

 

 

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Googleで「子ども ゲーム」で検索すると、

 

「子どもがゲームと上手く付き合えるように、親が取るべき対処法」

 

みたいな記事が上がってくることがありまして。

 

 

 

いくつか記事を読みましたが、そのどれもが親目線でした。

 

親が対処すべきだし、親が管理すべきだし、親が工夫すべき。

 

 

 

ゲームは、『子どもの課題』です。

 

本来、親が何とかすべき話ではありません。

 

 

 

親が何とかすべきだ、って思っているのは、おそらく

 

・勉強時間が減る

 

・問題行動が増える(って思っている)

 

・(親の)話を聴かないようになる

 

っていう親側の都合が悪くなるからだろう、って思います。

 

 

 

子どもがゲームを使って、親に何か具体的な影響を与えていない限り、ゲームは子どもの課題です。

 

例えば、「ゲームを始めてから、子どもが話しを聞かなくなった」っていうのは、あたかもゲームが悪いみたいに言っていますが、裏を返せば、

 

「親が子どものゲームに無理解で子どもとの距離が開いた」

 

とか、

 

「親が子どもの都合の悪い話ばっかりするから、聞く耳を持たなくなった」

 

っていう側面もあったりするんです。

 

 

 

世間的に、『ゲーム=悪』っていう思い込みがあるから、

 

子ども ⇒ 悪い、改善すべき

 

親 ⇒ 悪くない、何も改善しなくていい

 

みたいな構図がチラホラ見受けられます。

 

 

 

親子のコミュニケーションにおいては、起こっていることの責任がどちらか一方に100%ある、っていうことはありません。

 

どんな場合も、その責任の50%は親にもあるんです。

 

子どもにももちろんある。

 

 

 

そして、自分が親である限り、変えられるのは、自分の関わりだけです。

 

子どもは親の操り人形ではないので、親は子どもを自由にコントロールすることはできません。

 

それと同時に、親は子どもの言いなりではないので、子どもも親を自由にコントロールすることはできません。

 

これがコミュニケーションの原則です。

 

 

 

親が子どもを変えようとしている限り、コミュニケーションは現状維持か、より悪い方向へ行きます。

 

親子の関係を改善して、より良い方向へ行くためには、

 

・子どものことを理解する

 

・子どもにとって都合がよく、親にとっても都合がいいコミュニケーションを取る

 

っていうことから始める必要があります。

 

 

 

子どものことを理解しようとしないのならば、子どものことに関しては、それ以上の進展は難しいです。

 

だって、分からないんなら、何もやりようは無いでしょう?

 

やるとしても、当てずっぽうでやるしかない。

 

 

 

まぐれ当たりもあるでしょうけれど、それを続けるのは難しい。

 

だから、子どものことを理解しようとせずして、子どもとの良好な関係は望めません。

 

 

 

言ってみれば、数学の勉強をしていないのに、数学のテストで良い点取りたい!って言っているようなもんです。

 

いやいや、その前に数学の勉強しろよ、って話でしょう?

 

祈っていれば、その願いが通じて、数学の点数が上がるわけじゃないんです。

 

数学の点数を上げるには、数学の勉強をするしかありません。

 

 

 

それと同じで、子どもとの関係を良くするためには、子どものことを理解しようと努める他ありません。

 

そして、親子の関係が良くならない限り、子どもが自分からゲームのことを何とかしようとするところには行きません。

 

 

 

親が子どものことを理解しようとしないように、子どもも親の言葉に聞く耳を持とうとはしませんから。

 

 

 

ゲームのことは、親が管理すべき問題ではありません。

 

ゲームは、子どもが自分で管理すべき課題です。

 

 

 

そこを履き違えている限り、親はゲームのことで長く悩み続けるかと思います。

 

もっと根本的なところに突っ込めば、僕らには

 

『親の方が偉い』

 

っていう強烈な思い込みがあります。

 

 

 

その辺のことは、この記事に詳しく書きました。

 

【親が子どもと上下関係を築いちゃう理由】

 

 

 

 

『親の方が偉いんだから、何とかしなければ』

 

『親の方が、子どものことを何とかしなければ』

 

っていう想いを手放さない限り、課題の勘違いは続きます。

 

 

 

そして、ゲームをキッカケに子どもとの関係がこじれ、子どもはよりゲームにハマるようになります。

 

でも、ゲームは単なる象徴でしかない。

 

 

 

「親子の関係の築き方がおかしいで」

 

っていうことを教えてくれているシグナルに過ぎない。

 

 

 

消防署のサイレンが鳴った時に、そのサイレンを止めようとしても、火は消えません。

 

消すべきは、サイレンじゃなくて、火です。

 

 

 

何とかするべきは、ゲームじゃなくて、親子関係です。

 

もっと言えば、親のコミュニケーションの取り方です。

 

 

 

やることは、親の意見を押し付けるのをやめ、子どもの話を聞き、親の考えも伝え、そして、一緒に考えていく。

 

親の持っているA案でもなく、子どものB案の主張でもなく、一緒にC案を考えていく。

 

 

 

「子どもの話を聞く」っていうのは、ただ単に耳に入れて記憶すればいい、っていう話ではありません。

 

子どもの話を肯定的に、子どもが理解してほしいように理解することです。

 

そのためには、より具体的に積極的に突っ込んで聞いていくようにする必要があります。

 

 

 

分かった気にならず、「これは、こういう理解で合ってる?」って事細かに確認していきます。

 

それが「子どもの話を聞く」っていうことね。

 

 

 

何のゲームをしているのか。

 

そのゲームでは何ができるのか。

 

そのゲームはどんなところが楽しいのか。

 

やり始めてどのくらい経つのか。

 

ゲームしている時、どんな気持ちでいるのか。

 

イライラしているようにも見えるけど、あれで楽しいのか。

 

 

 

などなど。

 

率直に気になったことを聞くだけでもOK。

 

大切なのは「分かった気にならない」「分かっていることも、敢えて聞いてみる」っていう姿勢です。

 

 

 

親子関係がこじれていくのは、上の立場になって、自分は子どものことなら、よく分かっていると思って関わることです。

 

ゲームのことを本人に聞けばいいのに、ママ友とか、本とか、こうしてネット記事とか、誰か偉い教育者の人とかに聞いて、分かった気になることです。

 

 

 

「なるほど、ゲームにはこういう危険性があるのね!」

 

って簡単に納得しちゃう。

 

 

 

そうじゃなくて、子ども本人に聞けばいいんです。

 

何が良くて、懸念点は何なのか。

 

 

 

懸念点を話してもらうためには、特に親子の信頼関係がしっかりしていないと、聞いても話してくれません。

 

子どもがゲームから何を感じているのか。

 

それは、子どもによっても変わるし、状況や、気分、様々な要因で変化します。

 

そして、そこに寄り添う。

 

 

 

子どもがゲームと上手く付き合えるために、それを何とかするのは親じゃなくて、『子ども』です。

 

親はあくまでも、その主役ではなくて、サポーターです。

 

サポーターなんだから、子どもが必要としていない間は、手出しも口出しもしません。

 

 

 

だから、「子どもを何とかするため」のコミュニケーションではなく、「子どもを理解するため」のコミュニケーションを取りたい。

 

そこが抜けていると、子どもとコミュニケーションを取れば取るほど、子どもとの信頼関係が崩れます。

 

 

 

子どもとの信頼関係が崩れれば、親が子どもを信じられないように、子どもも親を信じてくれません。

 

ゲームどうこうよりも、そっちの方が重大な問題だと思いませんか。

 

そうなれば、ゲームだけじゃなくて、他のことにも親が役に立てなくなりますから。

 

すぐそばにいるのに。

 

 

 

何度も繰り返しますが、子どもがやっているゲームも、子どもがやらない勉強も、子どもの課題です。

 

だから、親が強権的だったり、一方的だったコミュニケーションを取れば上手くいかなくなります。

 

逆を言えば、「上手くいかない」って思っている人は、自分が子どもに対して強権的か、一方的なコミュニケーションを取っている可能性があります。

 

 

 

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ゲームそのものは、学校の成績や、学力には影響を与えません。

 

 

 

ゲームには、

 

・論理的思考力

 

・状況判断力

 

・推理力

 

・クリティカルシンキング

 

・空間把握能力

 

・暗算力

 

・創造的思考力

 

など、さまざまな思考力を鍛える要素があります。

 

 

 

じゃあ、それがそのまま学校の成績や学力に反映されるか、っていうと、それは違います。

 

ゲームをして鍛えられた思考力は、子どもが勉強に対して、主体的な意欲を見せた時にのみ、作用します。

 

つまり、「子どもが自分から勉強を始める」時ですね。

 

言い換えれば、子どもが勉強への意欲が低い時は、子どもの能力は上手く発揮されにくい、って言えます。

 

 

 

何が言いたいか、っていうと、ゲームと、勉強は基本的には分離して考える必要があるんじゃないか、っていうことです。

 

基本的には、って書いたのは、ゲームと勉強の関連性は、時間だけでのみ、って考えているから、です。

 

ゲームをしていると、勉強する時間は減りますよね。

 

影響があるとしたら、それだけ。

 

 

 

そして、

 

「学力は、勉強時間と相関はしていても、因果関係は無い」

 

です。

 

つまり、たくさん勉強したからといって、必ず学力が高まるとは言えない、っていうこと。

 

 

 

そう考えていくと、何とかして子どもに勉強をさせようとするのは、非効率な活動だ、って言えます。

 

すなわち、親ががんばった割には、子どもの学力に反映されるとは言えなくて、骨折り損になることがある、ってことね。

 

 

 

子どもに何とかして勉強をさせることは、イライラするし、時間も、労力もかかる割に、子どもは全然勉強しない。

 

それがゲームを制限したり、ゲームを取り上げたりすることも、そんなに学力には繋がらない。

 

 

 

勉強をさせようとしたり、ゲームを制限することで、子どもは恐怖や落胆の中、勉強をすることはあるでしょうけれど、それは間違いなく意欲的じゃない。

 

「よーし!ゲームの約束の1時間が終わったから、勉強するぞー!」

 

とはならないんじゃないかな。

 

「あーぁ、もうちょっとゲームしたかったけど、約束だから、やめるかー」

 

みたいな感じになりやすいんじゃないでしょうか。

 

 

 

そして、とっても低いモチベーションのまま、能力も十分に発揮されない状態のまま、勉強が始まります。

 

そうすると、冒頭に書いたような、ゲームで培われた能力は、学力にはあまり反映されない、っていう状況が出来上がります。

 

 

 

 

 

このことに含まれている一番の勘違いは、

 

「子どもの好きなものを制限すれば、勉強をするようになる」

 

っていうのはあるかもしれないけれど、

 

「子どもの好きなものを制限すれば、学力が上がる」

 

っていうのには繋がらない、っていうこと。

 

 

 

つまり、行動そのものを親が思う通りにコントロールできたとしても、その行動は何も生まない確率が高い、っていうこと。

 

だから、結果的に、学力や、子どもの幸福感に繋がりづらいので、ゲームを制限することは、「良かった、うちの子、勉強している」っていう親の安心感を作るくらいの意味しか持たないことになる。

 

 

 

ゲームを好きなだけやると、勉強時間が無くなる。

 

かと言って、ゲームを制限して、勉強時間を確保したとしても、勉強をしたとしても、学力にはちょっとしか影響しない。

 

そう考えると、ゲームを制限することには、親にとっても、子どもにとっても、あんまり旨味の少ない関わり方なんです。

 

だから、ゲームの制限は、やるだけ無駄なことが多い。

 

 

 

 

 

ゲームで培った思考力が、勉強に活かされるのは、子どもが主体的に勉強をする時に限られ、無理やりやらされた勉強では、ゲームで培った思考力は活かされにくい、っていうのが僕の考えです。

 

 

 

 

スタンフォード大学の心理学者であるキャロル・S・ドゥエック博士の考え方では、子どものマインドセットには、「やればできる!」って思う『Growthマインドセット』と、「やってもムダ」って思う『Fixedマインドセット』の2つがあります。

 

無理やり勉強をさせられている時は、「やってもどうせムダ」って思いやすいから、たとえ子どもに能力があっても、それは発揮されにくい。

 

主体的かつ能動的に勉強をしている時は、「やればできる!」って思いやすいから、子どもに能力があれば、それは発揮されやすい。

 

 

 

さらに、継続的な成長も視野に入れれば、無理やり勉強をさせると『Fixedマインドセット』が強化されやすく、主体的かつ能動的に勉強をしている時は、『Growthマインドセット』が強化されやすい、っていうのも容易に想像できると思います。

 

言い換えれば、強制的な勉強は、親や先生によって、将来に向かって子どもの可能性を狭められていき、主体的な勉強は、自分の力で可能性を切り拓いていきやすい、とも言える。

 

 

 

そういう意味で、子どものゲームや、勉強に対する親や先生の関わりは、子どもを行く末をかなり大きく左右するわけです。

 

子どもにどうなってほしいのかは、それぞれの家庭で持っていたらいいと思うし、僕の考えを信じるかどうかも自由です。

 

ここまで書いたことは、あくまでも一つの考え方に過ぎません。

 

 

 

 

 

 

 

よく「勉強が将来の何の役に立つの?」っていう問い掛けがあります。

 

この問い掛けに対する僕の答えは、

 

「役立てようと思えば、何でも役立てられるし、役立てようと思わなければ無用の長物になる」

 

です。

 

 

 

つまり、学んだ内容を活かすも殺すも、自分次第だ、っていうこと。

 

そして、親や先生が無理やり勉強をさせる関わりをしていれば、子どもは身に付けてみたものを殺す方向に行動し、子どもの主体性を尊重すれば、身に付けてきたものを活かす方向に行動しがちである、っていうことね。

 

 

 

だからこそ、子どもがゲームに主体性を発揮しているなら、そこを奨励しておけば、子どもは自分の能力を、自分で勝手に高めていってくれます。

 

でも、子どものゲームを制限していくと、いや、もう少し正確に言えば、子どものやりたいことを制限していくと、子どもは自分の能力も、自分で勝手に制限していくんです。

 

 

 

そこから、「好きに遊んでどうぞ!」ってやっても、自分の能力を自分で制限することを覚えているから、それだけでは、子どもの能力は解放されません。

 

遊びの解放は、『解放』であって、『開放』ではないんです。

 

違い、分かりますか。

 

 

 

遊びの扉を開けただけでは、子どもはそこを通ろうとしないんです。

 

今まで制限されてきていると、自分で能力を発揮しようと思わない、っていうことね。

 

これは『開放』です。

 

 

 

だから、遊びの扉を開けた上で、「さぁ、一緒に遊ぼう!!」ってやりたいんです。

 

子どもの遊びのスイッチも入れてあげたいんです。

 

ここまでやって『解放』です。

 

 

 

そこが僕が何度もメルマガやブログで言っている『コミュニケーション』の部分です。

 

いわゆる『放任』は、遊びの扉を開けただけ。

 

『遊びの解放』は、遊びの扉を開けた上で、積極的に子どもに介入していきます。

 

 

 

もちろん、ここで言う介入とは、肯定的な介入です。

 

肯定的な介入は、簡単なのは、「さぁ、一緒に遊ぼう!!」ってやるか、子どもが遊んだ話を聴くことです。

 

 

 

 

 

 

 

まとめると、親の関わりによって、子どもの能力が発揮されるかどうかは、大きく左右されます。

 

 

 

子どもの遊びに否定的 = 勉強に対して強制的 ⇒ 子どもの能力は閉鎖的

 

子どもの遊びに消極的 = 放任 ⇒ 子どもの能力は、本人の主体性による

 

子どもの遊びに肯定的 ⇒ 遊びの解放 ⇒ 子どもの能力が発揮されやすい

 

 

 

親のベクトルに合わすのか。

 

親のベクトルを0にするのか。

 

親のベクトルを子どもに合わせるのか。

 

 

 

そのどれによるかで、子どもの能力の発揮され具合は、大きく変わる。

 

それにより、子どもの人生の質も大きく変わります。

 

学力や成績から書き始めたけれど、親の関わり方の影響は、その限りじゃない、っていうことね。

 

 

 

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