プール

テーマ:

最近私は腰痛治療のためプールに通っています。
今日も昼に行きましたね。


医者がプール内を歩くのは、腰への負担が少ないし、
全身の運動になってよいと言っていたので、
プール内を歩くようにしてみたのですが、
確かに腰への負担は少ないように思いました。


1時間位外を歩いていたら腰は痛くなってしまいますが、
プール内だと1時間歩いてもほとんど痛くならず、これは
今の自分に合った運動であると思いました。


ただ今日は2時間位歩いてしまったので、また少しバタ足も
やってみたので、何だか少し腰が痛いように思います。
程々にしていきたいと思いますね。


少しずつやっていって、半年、1年位経てば少し効果があった、
というようになればいいと思いますね。
やり過ぎて痛くなっていてはどうしようもないですし。


これからも通っていこうと思います。

AD

家事支援の外国人受け入れ

テーマ:

http://www.honmotakeshi.com/archives/49544829.html
【悲報】小池都知事、都内全域で『外国人の家事支援』受入れへ
「全国トップの実績目指す」安倍政権と連動


移民は高度人材に限ると言っておきながら、家事支援の外国人を
受け入れるということですね。
ベビーシッターや介護を外国人、それも主に中国人に任せる
というのは、大変危険なことだと思います。
また一度住み着いたらもう帰ることはないので事実上の移民
ということですね。


小池都知事は豊洲移転延期の件や朝鮮大学校の件で頑張っている
と思いますが、裏でこういうことを行っているのはとても
不安であると思いますね。


日本人の介護士や家事支援の待遇を改善して、この問題を解決
するよう根本的に考え方を変えなければいけないように思います。

AD

二重国籍問題

テーマ:

http://fxya.blog129.fc2.com/blog-entry-30317.html
蓮舫氏「(台湾国籍放棄の)手続きが終わったら、この問題は終わり」


>「17歳の高校2年生のときの記憶なんですが、父と手続きをして台湾の
>籍が抜けたと思っていた。そういう認識でした」と記憶違いがあったこと
>を釈明。現在は改めて台湾国籍を放棄する手続きを取っている途中で
>「その手続きが終わったら、この問題は終わりです」とした。


蓮舫は「台湾の籍が抜けたと思っていた。」という認識だったと言うことだけど、


http://hosyusokuhou.jp/archives/48404176.html
蓮舫 「国籍は台湾なんです」 → 「"だった"という部分が編集で省かれて
しまった」


1997年の雑誌「CREA」では「だから自分の国籍は台湾なんですが」と発言。
それに対し、「多分、編集の過程で『だった』という部分が省かれて
しまった」と釈明。


http://hosyusokuhou.jp/archives/48434926.html
【クソワロタw】 蓮舫 中国国籍と告白した記事を「過去形で言った」と
弁明w ハフポスト(=朝日新聞)で


1993年の朝日新聞で「在日中国国籍の者として」、
2010年の中国国内線の機内誌で「中華民国国籍を持っている」と発言。
これに対しては「「だった」という話をしたと思います。過去形で。 」

と釈明。


つまりその後3回、台湾籍や中国籍を持っているという旨の発言をしています。
蓮舫は「だった」が抜けていたというけれど、3回もそんなことが起こる
はずがない。


つまり「台湾の籍が抜けたと思っていた。」という認識だったというのは
嘘で、はっきりと二重国籍であることを認識していたということですね。


ここのところについて説明しない限り、また他にも説明すべきところも
ありますが、この問題は終わらないですね。議員辞職するまで永久に続く
問題だと思います。

AD

人性論 読書メモ(28)

テーマ:

【3】道徳について
(3)その他の徳と悪徳について
⑥この篇の結論
こうして、全体からみてここに示した倫理体系を正確に証明するのに
欠けたところはなにもない、という見込みを私はいだいている。
共感は人間性のうちにあるきわめて強力な原理であり、
道徳的な心情を生み、美の感覚にも大きな影響を及ぼす。


すべて徳を愛する者は〔実際上はわれわれは堕落しているが、理論上は
だれでもそうなのである〕、道徳的な区別が、人間性の寛大さと包容力の
両方について正しい思いをいだかせるようなきわめて気高い源から発する
のを見て、きっと喜びを覚えるに違いない。
なるほど、道徳感覚を人間の心の原初的な本能に帰する人たちでも、
徳の側の言い分を十分な証拠によって弁護できるかもしれない。
しかし、そういう人たちは、広範囲に及ぶ人類への共感によって
この道徳感覚を説明する人たちが持っている有利さを欠いている。
というのは、共感によって説明する人たちの体系に従えば、徳が是認
されねばならないだけでなく、徳の感覚も、さらにはそれが由来する
共感の原理も是認されなければならない。
それらいずれを見ても、たたえられるべきもの、善きもの以外
見当たらないのである。


正義は人為的であっても、正義の道徳性についての感覚は自然的である。
つまり、正義の行為を社会に益あるものとするのは、行動の体系という
形での人々の結びつきである。
しかし、いったん正義の行為がそうした傾向を持つようになれば、
われわれは自然にその行為を是認するようになるのである。


人間が案出したものはほとんどが変化を受けやすい。
だから、おそらく、もし正義が人間の案出したものであることを認めると、
正義もやはり同じ立場に置かれるに違いないと心配されるかもしれない。
しかし、事情ははるかに異なっている。
正義のもとにある利害は想像できる限りの最大のものであり、
あらゆる時、あらゆる場所にまで及ぶ。
こういう利害にはほかのどんな案出もとても役に立ち得ない。
この利害は紛れのないものであり、社会が形成されるそもそもの初めから
あらわになるのである。
こうした原因のすべてが、正義の規則を揺るぎのない、不変なもの、
少なくとも人間性と同じ程度に不変なものたらしめている。
そして、もしも正義の規則が原初的な本能をもとにしているとした場合、
はたしてこれよりも強い安定性を持ちうるであろうか。


この同じ体系は、徳の尊厳ばかりでなく、徳の幸福についても正しい思いを
いだくようにわれわれを促し、われわれ人間の本性のすべての原理が、その徳
という気高い性質を受け容れてはぐくむように関心をいだかせるであろう。
実際、あらゆる種類の知識や才能がその修得から直接の結果として生じる
利益に加えて、その人を人々の目に新たな輝きをもって映るようにし、
広く尊重と是認を伴うことを考えれば、いったい、そうした知識や才能の
追求に熱意が加わるのを感じない者がだれかいるだろうか。
また、自分の平和、つまり内的な満足もまた、社会的な徳を厳格に守るか
どうかによることを考えれば、すなわち、人類や社会に対する役割において
欠けるところのあったような心は、けっしてみずからを眺めるのに耐え得ない
だろうということを考えれば、社会的な徳を少し犯しても、財産でともかく
まされば十分補いがつくなどとだれが考えることができるだろうか。
しかし、この点についてあまり述べるのはやめよう。
そういう考察には、この書物の本来の性格とはかなり違った書物が別に
必要である。
解剖学者は画家とけっして張り合うべきではない。
ただしかし、解剖学者は画家に助言を与える立派な資格を備えている。
解剖学者の助力がなければ、画家がその芸術において秀でることは実際上
できはしない。
そして同じように、人間性についての最も抽象的な思索でさえ、たとえ
どんなに冷たく、面白味がなくても、実際的な道徳に役立つものになる。
そして、この実際的な道徳の学を、その教訓についてはより正しく、
その訓戒についてはより説得力あるものとするであろう。

人性論 読書メモ(27)

テーマ:

【3】道徳について
(3)その他の徳と悪徳について
①自然な徳と悪徳の起原について
さてこれから、まったく自然な、人間の人為や考案に少しも依存しない
ような徳と悪徳を吟味しよう。


まず、共感の本性と力をあらためて考察しよう。
等しい強さに張られた弦で一本の弦の振動が残りの弦に伝わるように、
すべての感情はたやすく一人の人から他の人へと移り、すべての人間に
対応する動きを生む。
私がある人の声や身ぶりに情念の結果を読み取ると、
私の心はすぐにこうした結果からその原因へと移って、
情念についての生き生きとした観念を形作り、
この観念はただちに情念そのものに変わる。
また、同じように、私がある感動の原因を知覚すると、
私の心は結果へと運び移され、似かよった感動で揺り動かされる。
われわれは、これら原因もしくは結果から情念を推し量り、
その結果として、これらが共感を呼び起こすのである。


美の感覚もこの原理によるところがきわめて大きい。
美しいと呼ばれる事物が快さを与えるのは、(所有者である)他の
ある人の快、あるいは都合のよさを生む傾向のためにほかならない。
ところで、交わりもない見知らぬ人の快がわれわれに快さを与えるのは、
ただ共感によってだけである。
そういうわけで、有用なもののいずれにもわれわれが見いだす美は、
この共感という原理によるのである。


人為的な徳を成り立たせているのもこの共感の原理である。
正義が道徳的な徳であるのは、それが人類の善への傾向を持つからであり、
そうした目的のために人為的に案出されたものである。
そして社会の善は自分自身の利益あるいは友人の利益とかかわりがないとき
には共感によってのみ快さを与えるのだから、共感により人為的な徳が
成り立っていると言える。


自然な徳にも色々あり、主なものは、温順、慈しみ、思いやり、寛大、
憐れみ、節度、公正などである。これらは社会の善への傾向を持つ。
道徳的な区別の大部分は社会の善への傾向から生じる。
社会に対するこれほど広範囲に及ぶ関心をわれわれが持つのは共感の原理
による以外にはない。


自然な徳と正義との違いは次の点にあるだけである。
すなわち、自然な徳の結果として生じる善は一つ一つの行為のすべてから
起こり、なんらかの自然な情念の対象であるが、一方、正義の一つ一つの
行為はそれ自体として考えると、しばしば公共の善に反することが
ありうるのであって、行為の全体的な組織、体系として人類が共同して
働くとき初めて、公共の善に資するようになる、ということである。


道徳的心情の生じる原因は以下の二つがある。
・性格や情念の単なる種別、現われ方から生じる
・人類の幸福および個々の人の幸福へのそれらの傾向を反省することから生じる


これら二つの原因が入り混じって道徳的心情を生み出している。
これはたいていの種類の外的な美に関してわれわれが裁定する場合の仕方
と同じである。
ただし後者の方が遥かに大きな影響を及ぼしていると思われる。
しかし、さほどたいしたことでない場合には、前者の、直接的な好み、
心情が是認を生む例もある。機知とか、あるくつろいだ、打ちとけた
ふるまいは、他人にとって直接に快い性質であり、当然、他人から愛され、
尊重される。


このように、ある性質が公共の善への傾向をなんら持たないのに他人に
とって直接に快いことからその価値を得るのと同じように、ある性質はそれを
持っている本人自身にとって直接に快いことから有徳であると呼ばれる。


こうした快、こうした苦は四つの異なった源から起こりうる。
われわれが受け取る快の性格は以下の四つのものがある。
・他人に有用であるよう自然に適している
・本人に有用であるよう自然に適している
・他人にとって快い
・本人にとって快い


ところで、おそらく、これらの利害と快のすべてのなかにわれわれ自身の
それを無視していることを意外に思うかもしれない。
というのも、ほかのどんな場合でも自分自身の利害と快がわれわれに
きわめて身近に影響するからである。
しかし、この点については、次のことを考えれば簡単に納得がゆくだろう。
つまり、すべての個々の人の快や利害は異なっているから、人々が心情や
判断において一致するのは、なにか共通の視点を選んでそこから対象を
眺め、対象が人々のすべてに同じように現われるようにさせなければ
まったく不可能なのである。
そして、そういう利害や快はわれわれ自身のものよりも弱く影響するには
しても、しかし、われわれ自身のものよりも移り変わりがなく、普遍的
であるから、実際上から言っても、われわれ自身のものと釣り合うように
なり、理論上では、それだけが徳および道徳性の基準として通用するのである。
つまり、こうした利害と快だけが道徳的な区別の依存する特有な感じまたは
心情を生むのである。

人性論 読書メモ(26)

テーマ:

【3】道徳について
(1)徳と悪徳一般について
②道徳的な区別は道徳感覚に起因する
こうして、議論の筋道によって、われわれは次のように結論づけるよう
導かれる。すなわち、徳と悪徳は理性によるだけでは、つまり観念の比較
によるだけでは見いだされ得ないのだから、徳と悪徳の違いを定めること
のできるのは、これらがひき起こすなにかある印象または心情によるので
なければならぬ、ということである。
道徳は判断されるというよりも感じられるというほうが適切なのである。


ある行為、心情、性格を有徳または悪徳と感じるのは、それを見ると
特殊な種類の快または不快がひき起こされるからである。
また、ある性格が満足を与えるから有徳だと推理するのではなくて、
快いと感ずることによって、事実上有徳であると感じているのである。
この事情は、あらゆる種類の美、好み、気持についての判断と同じである。


この道徳的な善と悪とを区別する特殊な快または苦は、いったいいかなる
原理に起因するのか、なにから人間の心に起こるのか。
→第一に、こうした心情が心のある一つの原初的な性質、本来的な構成に
よって生み出されるとするのは不合理である。
なぜなら、われわれの義務の数は限りがなく、われわれの原始的な本能が
そういう義務のそれぞれにまでに広がるということは不可能であるからである。


→第二に、こうした原理を自然のなかにさがすべきか、あるいはなにか
別の起原のなかに求めねばならないのか。
→自然という言葉は曖昧で多義的で、定義次第。
自然を人為と対比されるものとして取ると、いくつかの徳の感覚は人為的
であり、別の徳の感覚は自然的である、と言える。


(2)正義と不正義について
①正義は自然な徳なのか人為的な徳なのか
いくつかの徳の感覚は人為的であり、別の徳の感覚は自然的であるが、
正義は人為的な徳に当たると私は主張する。


明らかに、われわれがある行為を賞賛するときには、それらの行為を
生み出した動機だけを考慮し、行為はその外面的な印、表示として考える。
有徳な行為はすべてその価値を有徳な動機からのみ得るのである。


そこで、その動機が、その行為の徳を考慮すること、というものであれば、
循環論に陥ってしまう。その行為が有徳であるためには、それとは別の
有徳な動機がなければならない。


そうすると、正義の行為、正直な行為に対して、正直を考慮するのとは
別個になにかある動機を見つけ出すことが必要になる。
そしてこの点に大きな困難があるのである。


もしそういう行為の動機が公共の利益への考慮である、と主張するならば、
次のように言えるだろう。
すなわち、まったくの純粋な人類愛、つまり各個人の地位、職務、自分自身
との関係といったものとかかわりのない人類愛のような情念は人間の心
にはない、ということである。
たしかに、どんな人間でも、その幸、不幸がわれわれの身近に置かれて、
生き生きとした色合いで示されるときには、ある程度われわれの心を動かす
のは事実である。
しかしながら、こうしたことはただ共感からのみ起こるのであり、
人類へのそういう普遍的な愛情の証拠にはならないのである。


こうしたことから、公平の法を守るようにする動機としては、われわれは、
公平そのものとこれを守ることの価値以外には、なんら真の、普遍的な動機も
持たないということになる。
ここには明らかに循環論があり、ゆえに正義や不正義は自然に起因するの
ではなく、人為的に、教育と人間のしきたりから必然的に生じるという
ことを認めなければならない。

人性論 読書メモ(25)

テーマ:

【3】道徳について
(1)徳と悪徳一般について
①道徳的な区別は理性に起因しない
すでに述べたように、知覚のほかにはなにものもけっして心に現われない。
したがって、われわれが道徳的な善悪を区別する際の判断でも、
一つの性格を是認し、別の性格を非難するのは、それだけの異なった
知覚があるということにほかならない。
ところで、知覚は二種類に、すなわち印象と観念とに別れるので、
その徳と悪徳を区別するものは、印象(情念)であるのか観念(理性)
であるのかという問題がある。


徳が、真理と同様、ただ観念によるだけで、つまり観念の並置や比較
によるだけで見分けられる、理性だけから道徳的な善悪を判別できる、
という意見の人々がいる。
しかし、もしも道徳が人間の情念や行為に対し本来いかなる影響も
及ぼさないのなら、道徳を教え込もうとどれほど苦労したところで
無駄であろう。
普通、哲学は思索的なものと実践的なものとに区分されており、
そして、道徳はつねに後のほうの区分けに含まれているのだから、
道徳は情念や行為に影響を及ぼし、知性の冷静な、心を動かさぬ
判断の範囲を越え出るものと想定されているわけである。
そういうわけで、道徳は理性に起因し得ないということになる。


理性とは真と偽を判断するものであるが、情念、意志作用、行為は
原初的な事実、現実であり、真とか偽とかいったものはない。


理性は情念を手助けするものでしかなく、仮に理性の判断が間違っており、
それが情念や行為に影響したとしても、そうした誤りは普通は
ごく罪のないものであり、運悪くそういう誤りに陥った人に対して
いかなる種類の咎め立てもしないのである。
道徳論者たちはこうした間違いを完全に不覚なものと見なして、
罰になるとは一般に思っていないのである。


どの道徳体系ででも私はいつも気がついていたのだが、その著者は、
しばらくは通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、
人間に関する事がらについて所見を述べる。
ところが、このときに突然、である、ではないという普通の連辞で
命題を結ぶのではなく、出会うどの命題も、べきである、べきでないで
結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。
この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。
なぜなら、このべきである、べきでないという新しい関係が、全然異なる
他の関係からいかにして導出されうるのか、この全く考えられないと
思われることに理由を与える必要があるからである。

慰安婦への10億円拠出

テーマ:

http://hosyusokuhou.jp/archives/48298538.html
【10億円】外務省、元慰安婦1人につき1000万円プレゼント


これは間違っていると思いますねぇ。
ゴネ得が日本政府に通じるということを示してしまったということですね。
韓国人はこれからもますますゴネるようになると思いますし、
中国なども勢いづくと思いますねぇ。


安倍首相としては「不可逆的」という約束をして、これでもう終わりと
したいということなのだと思いますが、既に日韓基本条約で完全かつ
最終的に解決しているのに蒸し返してきていることを考えると、
またそれでも蒸し返してきそうな気がしますね。


一応強制連行は認めず、賠償金ではないということにしていますが、
諸外国には誤ったメッセージを送ることになるし、必要のないことは
すべきでないと思いますね。
日本という国は、捏造でもなんでも大きな問題にしてしまえば、
認めて謝罪してしまう国だということを世界に示してしまっている
のだと思います。


これからますます韓国は増長すると思うし、今回のことは反省して、
日本政府は事実にのみ基づいて毅然と対応するよう、方針を変更
しなければいけないように思います。


そのためには安倍首相の今回の判断を、自民党支持者も批判して
いかなければいけないのだと思います。

日本のこれから

テーマ:

http://hosyusokuhou.jp/archives/48262854.html
【速報】日本政府、史上最大の国防予算を計上へ


軍備を増強するのはいいけど、核を持たないと意味がないと思いますね。
結局最後は核になるのだと思いますし。
中国が強気なのは、通常兵器で負けても、核を持ってるからなのだと
思いますし。
アメリカの核の傘に下にあるといっても、日本が核攻撃された後、
本当にアメリカが報復してくれるかは分からないですね。
日本が攻撃されたらアメリカは助けるけど、アメリカが攻撃されても
日本は別に助けないという今の不公平な同盟に納得していないアメリカ人も
多いですし、トランプが大統領になったら、米軍撤退や安保解消となる
可能性もありますし。
核武装に向けて本気で考えていかないといけないのだと思いますね。


またアメリカに助けて欲しいなら、一緒にイスラムなどと戦わないと
いけないのだと思います。都合のいいことを言っていたら助けてくれない
と思いますね。
そう考えると、軍備を増強するだけでなく核武装をして、また戦争できる
ように国民の意識を変えていかないといけないのだと思います。
ISISに国民を殺されて反撃できないような国は日本だけではないかと
思いますね。
中国は一国で対応できるような国ではないですし、アメリカとしっかり
連携していかなければいけないのだと思います。
今のやり方のままだと日本は滅亡してしまうのではないかと思いますね。