人性論 読書メモ(24)

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【2】情念について
(3)意志と直接的な情念について
③影響を及ぼす意志の動機について
◆本節の主題
哲学において、また日常生活においてさえも、情念と理性の戦いについて語り、
そして理性を優先させて人々は、理性の命令に従う限りにおいてのみ有徳
であると主張することほどありふれたことはない。
古代でも現代でも、道徳哲学の大部分はこうした考え方をもとにしている。
理性の永遠性、不変性、神的起原が、この立場にきわめて有利に呈示されてきた。
一方、情念の分別のなさ、不定さ、惑わしがそれに劣らず強く主張されてきた。


しかしながら、こういうすべての哲学の誤りを示すために、私は次のことを
証明するよう努めたいと思う。
第一に、理性だけではけっしてどんな意志の働きにとっても動機となり得ないこと、
第二に、意志を導く際に理性が情念と対立することはけっしてあり得ないこと。


◆第一の証明
知性は二つの異なった仕方で機能を発揮する。
<1>論証をもとに判断する(観念の抽象的な関係を考察する)
<2>蓋然性をもとに判断する(経験のみが知らせる対象の関係を考察する)


・<1>の場合
この場合は、なんらかの行為の原因となるなどと主張されることはほとんど
なかろうと私は信じる。観念の世界と、意志の起こる実在の世界は別であり、
まったくかけ離れているように思われる。
なるほど、数学は機械的操作のすべてにおいて有用であり、算術はほとんど
すべての技能、職業で有用である。と言っても、これらの学問自身がなんらか
の影響を与えるわけではない。機械学は物体の運動をある計画された目的や
意図に合うよう規制する術であり、また、数の割合を定めるのに算術を
用いる理由は、行為に対して数が及ぼす影響と作用の割合を見つけ出すため
にほかならない。
抽象的あるいは論証的な推論がわれわれの行為に影響を与えるのは、
原因と結果に関する判断を正しくする場合だけであって、それ以外には
けっして影響しない。


・<2>の場合
明らかに、なんらかの対象から快あるいは苦を予期すると、われわれはその結果
として嫌悪または愛着の感動が起こるのを感じ、この不快または満足を与えると
思うものを避けよう、あるいは取り込もうという気に駆られる。
また、明らかに、こうした感動はこれだけにとどまらず、あらゆる面に視線を
向けさせて、そのもともとの対象と因果の関係によって結合しているものを
どんなものでも包み込んでしまう。
そこで、この関係を見いだすためにここに推論がなされ、そして、推論が
変わるのに応じてわれわれの行為もそれに伴って変化を受ける。
しかしながら、この場合、明らかに衝動が理性から起こるというのではなく、
衝動が理性によってただ導かれるだけのことである。
ある対象に向かって愛着または嫌悪が生じるのは、快あるいは苦の予期から
である。


◆第二の証明
このように、理性だけではいかなる行為も生み出し得ず、意志作用を生じ
得ないのだから、これから推理して、同じ理性という機能が意志作用を
妨げたり、情念あるいは感動と優先を争ったりもできないはずである。
この帰結は必然的である。こうして、情念と対立する原理は理性と同一のもの
ではあり得ず、ただ不正確な意味でそう呼ばれているだけであるのは確か
である。
理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、
理性は情念に仕え、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっして
できないのである。
しかし、この意見はいくらか意外に見えるかもしれないので、別にいくつかの
考察を加えてこの意見を裏づけることは不適当ではなかろう。


◆第二の裏付け
情念は原初的な存在、存在の原初的な変容である。
つまり、情念は、これをなにかほかの存在、あるいは変容の写しとするような
再現的性質をなにも含んではいない。
この情念が真理や理性と対立するとか、矛盾するとかいうのは不可能なのである。
というのは、こういう矛盾は、なにかの写しと見なされる観念と、この観念が
再現する対象とが一致せぬことにあるからである。


真理または理性と反対でありうるのは、真理または理性とかかわりを持つもの
だけであるから、そして、知性だけがこういうかかわりを持つのだから、当然、
情念が理性と反することがありうるとすれば、情念になにかある判断とか
意見が伴う限りにおいてのみ起こりうる、ということにならなければならぬ。
なんらかの感情が非理性的と呼ばれるのは、ただ二つの意味においてだけである。
第一に、希望や恐れ、悲しみや喜び、失望や安心といった情念が、実際には
存在しない事象を存在していると想定することに基づく場合。
第二に、情念を行為として現わすときに意図された目的にとって不十分な
手段を選ぶ場合、つまり、原因と結果についての判断において誤る場合である。
要するに、情念が非理性的であるためには、情念になにかある誤った判断が
伴わなければならない。しかも、その場合でも、本来から言って、非理性的
なのは情念ではなくて判断なのである。
理性と情念が対立し合ったり、意志や行為の支配をめぐって争ったりするのは
不可能である。想定の誤り、手段の不十分さに気づいた瞬間に、情念は理性に
譲歩し、なんの抵抗も示さないだろう。


理性は感じ取れるほどの感動を少しも生まずに作用を起こす。
そこから、これと同じように穏やかに、静かに作用する心の働きがどれも、
ものごとを一目見て初めの見かけで判断するすべての人々によって、
理性と混同されるということも起こるのである。
穏やかな情念(欲望、傾向)は、心のうちにほとんど感動を生まず、直接的な
感じとか気持によってよりも、それの結果によって知られるようなものである。
こういう欲望には二種類のものがある。
慈愛や恨み、生命愛、子供への心づかいのような、われわれの本性にもともと
植えつけられているある種の本能か、それとも、ただそのものとして考えられた
場合の、善への一般的な欲望、悪への一般的な嫌悪か、である。
これらはきわめて容易に理性による規定と取り違えられ、真偽を判定する
機能と同じ機能から生じるのだと想定されてしまう。


また激しい情念も、穏やかな情念と同様に、意志を規定する。
穏やかな情念と激しい情念の二つの原理が働いているが、形而上学者たちの
共通の誤りは、これまで意志の導きをことごとくこれらの原理の一方だけの
せいにして、他方の原理はなんの影響力も持たないと想定してきたところにある。
これらの原理は両方とも意志に作用し、そして両者が相反する場合には、
その人の一般的な性格かまたは現在の意向に応じて二つの原理のどちらかが
優勢になるということである。
心の強さと呼ばれているものには、穏やかな情念が激しい情念よりも優勢
であるということが含まれている。
もっとも、すぐに気づくように、たえずこのような徳を持ち続けて、どんな
場合にもけっして情念や欲望の誘惑に屈しないような人は一人としていない。


(④~⑧は私の読んでいる本では省略されているため記載しない)


⑨直接的な情念について
情念は、直接的なものも間接的なものも、快と苦(善と悪)をもとにしている。
快や苦を取り去れば、反省的印象のほとんどが取り去られる。
ところで、善や悪から最も自然に、ほとんどなんの用意もなしに起こる印象は
直接的な情念(欲望や嫌悪、喜びや悲しみ、希望や恐れなど)及び意志作用である。


善が確かか、あるいは確からしいとき→喜びを生む
悪が確かか、あるいは確からしいとき→悲しみ、嘆きを生む
善が不確かなとき→恐れを生む
悪が不確かなとき→希望を生む
ただそれとして考えられた善→欲望を生む
ただそれとして考えられた悪→嫌悪を生む
善か、あるいは悪の不存在かが、心または身体のなんらかの活動によって
達せられうると思われるとき→意志作用を生む


善や悪(快や苦)のほかに、自然な衝動もしくは本能からしばしば直接的な
情念が起こる。この衝動とか本能はまったく説明しがたいものである。
この種の情念として、たとえば敵をこらしめたい欲望、友人の幸福を願う欲望、
飢え、性欲、その他、いくつかの身体的欲求がある。正しく言えば、これらの
情念は、善や悪を生むのであって、ほかの感情のように善や悪から起こるの
ではない。

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人性論 読書メモ(23)

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【2】情念について
(3)意志と直接的な情念について
②同じ主題の続き
自由の説はある点からみると奇妙であり、また別のある点からみると理解
しがたいものであるが、それなのに広く受け容れられているについては、
次の三つの理由を挙げうると私は思う。


第一に、われわれがなにか行為を行なったあとで、特定の意図や動機の影響を
受けたのは認めても、しかし、必然によって支配されたのだ、違った仕方では
行為できなかったのだと、自分に言い聞かせるのは困難である。
必然性の観念にはなにか力とか無理強い、拘束といったものが含まれている
ように思われるのに、それがわれわれには感じ取れないからである。
自発性の自由と無差別の自由を区別できる人はほとんどいない。


自発性の自由:無理強いと対立するもの。
無差別の自由:必然性とか原因の否定を意味するもの。


ところで、自発性の自由が、自由という言葉のまさしく最も普通に用いられて
いる意味である。この種の自由こそ、われわれが保ち続けたいと望んでいる
ものであるから、われわれの思考はもっぱらこれに向けられてきた。
そして、この自発性の自由がほとんど一般に無差別の自由と混同されて
しまっているのである。


第二に、まさに無差別の自由についても、偽りの感覚、偽りの経験があり、
これが無差別の自由が実際にあることの論拠と見なされている。
いったい、物質にせよ心にせよ、その活動の必然性は、本来は活動するものの
なかにある性質ではなくて、その活動を考察することのできる思考する存在、
知的な存在のなかにある性質なのであり、そういう活動の出現を、先行する
ある事象から推理するよう思考を規定することにあるのである。
他方、自由とか偶然はそういう規定の欠如、つまり、一つの観念から他の観念
へ移ったり移らなかったりするときにわれわれが感じる、ある定まりのなさ
にほかならない。
ところで、人間の行為を考えるという場合には、そうした定まりのなさ、
無差別を感じることはほとんどないが、しかし行為そのものを行なうという
ときには、なにかこれに似たものを感じ取ることはよくあることであると
言えよう。そして、関係のある事象、つまり類似する事象はすべて取り違え
られやすいので、こうしたことが人間の自由の論証的証明、ときには
直観的証明としても用いられてきたのである。


われわれは、行為はたいていの場合、意志に従っていると感じる。
そして、意志そのものはなにものにも従わないことを感じると想像している。
なぜなら、意志がなにものにも従わないことがもし否定されて、それでは
はたしてそうなのかためしてみようという気が起こると、意志がどんな方向に
でもたやすく動き、実際には意志が定まらなかった側にでも意志自身の映像を
作るように感じるからである。そして、この映像、このおぼろげな動きは、
実際の意志そのものにまでなりうるはずだと信じ込む。なぜなら、
もしこのことが否定されるなら、さらにためしてみればそうなりうるのが
わかるからというわけである。
しかし、こうした努力はすべて無駄である。
たとえどんな気まぐれな、でまかせの行為を行なおうと、自由を示したい
という欲求がそうした行為の唯一の動機なのだから、われわれは必然性の
束縛からけっして解放され得ないのである。
われわれは自分自身のうちに自由を感じると想像できるかもしれない。
しかし、外から見る人は、われわれの行為を普通は動機や性格から推理できる
のである。ところで、このことこそが、先に述べた説に従えば、必然性の
まさしく本質なのである。


第三の理由は宗教のせいである。宗教がこの問題にまったく不必要なほど
関心を寄せてきたためである。
ところで、論究の方法として、哲学上の論争でなにかある仮説が宗教や道徳に
対して危険な帰結をもたらすという口実によってそれを論破しようと努める
ことほど、ありふれた、しかしとがめられるべき方法はない。
ある意見が不合理に導く場合には、それは確かに誤りである。
しかし、ある意見が危険な帰結を伴うから誤りであるというのは確かではない。
だから、そういう論議は真理の発見にはなんの役にも立たず、まったく
慎むべきである。もっとも、このことを私は一般的に言うのであって、
私としては、必然性の説は、私の解釈によれば、宗教や道徳にとって害がない
だけではなく、好都合でさえあると主張しておきたい。


それどころか私はさらにすすんで次のように主張する。
すなわち、この種の必然性は宗教と道徳にとって本質的なものであり、
これがなければ宗教も道徳も完全にくつがえってしまうに違いないこと、
これ以外のどの想定も神の法と人間の法のすべてをまったく無力にしてしまう
ということである。
実際、すべての人間の法は賞罰をもとにしているのだから、確かにこうした
動機が心に対してに対して影響を及ぼして、よい行為を生み悪い行為を妨げる
ということが基礎的な原則として想定されているのである。


人間の行為に原因と結果の必然的結合がなければ、正義や道徳的公正と適合
するように罰を科するのが不可能であるばかりではなく、さらに罰を科する
ことが、どの理性的存在の考えに浮かぶこともけっしてあり得ないだろう、
と私は主張する。
たとえ一般の意見が反対のほうの説に傾きやすいとしても、必然性の原理を
もとにしてのみ、人はその行為から賞罰を受ける資格を獲得するのである。

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ルル

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今日は何だかだるいのでルルを飲みました。
ルルを飲むと次の日1日は眠くなります。
当分はずっと寝ていようと思います。
今週で治ればいいのですが…

風邪

テーマ:
何だかまた風邪を引いたような気がします…
先週も風邪を引いていましたが…
何だか寒気がします…
掛け布団をあまり掛けずに寝ていたからか、薄着で
外に出てしまったからか…
この時期はどうも風邪を引きやすいように思います…
安静にしていようと思います…

ヘイトスピーチ対策法

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http://hosyusokuhou.jp/archives/47535100.html
ヘイトスピーチ対策法、12日成立へ 「外国出身者であることを理由に
地域社会から排除することを扇動する差別的言動」と定義


排除しないと日本がヤバいってのに、何でこんな法律を作るのかねぇ…
まぁ罰則はないから気にすることはないけど…


今後の動向を注視していきたいと思います…

人性論 読書メモ(22)

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【2】情念について
(3)意志と直接的な情念について
①自由と必然について
意志の本性と特性の十分な理解が、情念の解明にとって必要であるため、
ここで意志を研究の題材とすることにしよう。
意志とは、われわれがなにか新たに身体の運動または心の知覚をそうと
知って生じさせるときにわれわれが感じ、意識する内的な印象、である。
そして、意志を取り扱う際に、きわめて自然に現われてくる問題である、
自由と必然についての問題を吟味しよう。


外的物体の作用は必然的であることは、広く一般に認められている。
物質の活動は必然的な活動の実例と見なされるべきものであり、
この点において物質と同じ間がらにあるものは、どんなものでも必然的である
と認められなければならない。
そこで、心の活動も物質の活動と同じ間がらにあるものであり、必然的
であると言えるものであることを示したい。
そのため、まず物質を吟味して、その作用の必然性の観念がなにをもとに
しているのか、なぜわれわれが必然的であると断定するのかを考えてみよう。


すでに述べたように、必然性とは、恒常的に相伴っている、一方の対象から
他方の対象を推理するようにする心の規定にほかならない。
つまり、必然性にとって本質的なものと考えるべき二つの事がら、
恒常的な連結と心の推理、が見いだされる場合にはどんな場合にも、
われわれは必然性を承認しなければならない。
ところで、心の推理を生み出すのは連結の観察である。
そのため、恒常的な連結があることを証明できれば、心の推理、および
必然性が確かなものであるとするのには十分であると考えられよう。
しかし、私の論究になるべく強い力を与えるために、恒常的な連結と心の推理
について別々に吟味しよう。
まず、われわれの行為が動機、気質、環境と恒常的に連結していることを
経験をもとにして証明しよう。


この目的のためには、人間に関する事がらの普通のあり方をほんの少し概観
するだけで十分だろう。われわれに可能などんな見方からそれらをとらえても、
この原理を裏づけないものはないのである。性、年齢、政体、身分、教育方法
など、これらのどの相違に従って人類を調べてみても、自然界の原理と同じ
一様さ、規則的な作用が見分けられうるのである。やはり似かよった原因は
似かよった結果を生む。それは、自然の要素や力が相互に働き合うときと
同じ仕方なのである。


さて次に、恒常的連結が知性に与える影響も、一方の存在から他方の存在を
推理するように思考を規定する点で、自然界の場合とやはり同じであることを
示さなければならない。


どんな哲学者でも、心的証拠の効力を認めず、思索においても実践においても
この心的証拠を理性にかなった基礎として事を運ばないような、そういう者は
一人としていない。ところで、心的証拠は、人々の行為について動機、気質、
立場から導き出される断定にほかならない。
たとえば、紙に書かれたある文字とか数字を見て、それを記した人は
シーザーの死、アウグストゥスの成功、ネロの凶暴といった事実を確言しよう
としたのだ、とわれわれは推理する(注 ローマ帝国の最初の皇帝となった
オクタヴィアヌスのこと)。そして、これと一致するほかの多くの証拠を
思い出して、そういう事実がかつて実際にあったのだ、こんなに多くの人々が
なんの利害関係もないのに共謀してわれわれを欺くなどけっしてしなかった
はずだ、特にこれらの事実がまだ記録に新しく、広く知れわたっていると
言われている時点では、そんな企てをすれば同時代人の笑に身をさらさねば
ならぬはずだからなおさらのことだ、そうわれわれは断定する。
ところで、このような仕方で推論する人はだれもが事実上、意志の働きが
必然性から起こると信じているのであり、それを否定する場合には自分の
言っていることの意味がわかっていないのである、と私は断言する。


実際、自然の証拠と心的証拠とがいかにぴったりと接着して、両者の間に
ただひとつながりの論拠の連鎖を形作るかを調べれば、両者が同じ性質の
もので、同じ原理に起因することを認めるのを少しもためらわないであろう。
たとえば、金も縁故もない囚人は、自分を取り巻く壁や鉄枠からと同じように、
牢番の頑固さからも脱走が不可能なことを悟る。
また、同じ囚人が断頭台へ連れてゆかれるとき、斧とか処刑車の作用からと
同じように、看守の心の堅さ、忠実さから自分の死を間違いなく予見する。
この場合、彼の心は観念のある一つの連鎖にそって動いている。自分の脱走を
承諾することに対する兵士たちの拒否。執行人の行動。頭と胴の切断。出血。
けいれんの動き。そして死。ここでは自然の原因と意志的行為とが一つの鎖
として結び合っている。しかし、心はその一つの輪から別の輪へ移るのに
それらの間の相違を少しも感じない。
経験される連結が同じならば、連結される対象が動機や意志作用や行為で
あろうと、形や運動であろうと、心に及ぼす結果は同じなのである。

人性論 読書メモ(21)

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【2】情念について
(2)愛と憎しみについて
②-2 この体系を裏づけるための諸実験
第一の実験:二つの関係どちらも欠いている場合
この状態で、これらの情念のどれとも印象の関係も観念の関係も持たない
ような物が示されたと仮定しよう。たとえば、普通の石とか、あるいは
われわれのどちらのものでもなく、またそれ自身ではなんらの感動も
ひき起こさないような、つまり情念とは独立に快や苦をひき起こすのでは
ないような、そういうほかのありふれた物をいっしょに眺めていると
仮定しよう。明らかにそのような物は四つの情念のうちのどれも生み出さない
であろう。


誇り―愛
|・☆・|
卑下―憎しみ


第二の実験:対象に対する観念の関係だけがある場合
私か私の相手かどちらかのもので、情念の対象に対する観念の関係をこのために
持っているような石か、なにかありきたりの物を私が見ていると仮定しよう。
事がらをア・プリオリに考えてみると、いかなる種類の感動も正当に期待
することができないのは明らかである。なぜなら、観念の関係はひそやかに、
穏やかに心に作用するということに加えて、この関係は、物が私自身のものか
他人のものかに応じて、誇りと卑下、あるいは愛と憎しみという相反する
情念のどちらにも等しい衝動を与えるのであり、このような情念の対立は
両方の情念を消し去り、心をいかなる感情、感動からもすっかり解き放した
ままにしておくに違いないからである。
このア・プリオリな推論は経験によっても裏づけられる。


誇り―愛
☆・・・☆
卑下―憎しみ


第三の実験:印象の関係だけがある場合
今度は、快または不快を与えるが、しかし自分自身にも相手にもなんの関係
もない、そういう物を示し、その帰結を観察してみよう。
まず事がらをア・プリオリに考えてみると、物はこれらの情念といくらかは
結合しているが、しかしその結合は不確かである、と結論できよう。
というのは、まず、この関係は冷ややかな、感知しがたい関係ではない、
また観念の関係のような不都合さ、二つの反対の情念へ等しい力でわれわれを
向かわせて情念が対立のゆえに相殺し合う、というようなことはない。
しかしその一方、(快いまたは不快な)気持から感情へのこの移行は、
観念の移行を生じさせるような、いかなる原理によっても促進されず、
反対に、一つの印象が他の印象へたやすく移されるにしても、
情念の対象のほうは、この種の観念の移行をひき起こすあらゆる原理に反する
ように変わると仮定されている。もしこう考えれば、そうすると、
これからして、ただ印象の関係だけで情念と結びついているものは、いかなる
情念にせよその安定した、持続する原因とはけっしてならないと推理できよう。


はなはだ幸いなことに、この推論はすべて経験と、つまり諸情念の現象と正確に
合致することが認められる。私が連れの相手といっしょに、二人ともまったくの
よそ者であるような地方を旅していたと仮定しよう。もし眺めが美しく、
道は快適で、宿は居心地がよければ、明らかにこのことは私自身についても
道づれについても、私を機嫌よくするだろう。しかし、この地方は私自身にも
友人にもなんの関係もないと仮定されているので、けっして誇りまたは愛の
直接の原因となり得ないのである。


誇り☆愛
|・・・|
卑下☆憎しみ


第四の実験:観念と印象の二重の関係がある場合
二重の関係を持つものはなんであれ、必然的にこれらの情念を呼び起こす。
徳のように情念とは別個な満足を引き起こす事象を考える。
徳が私に属すると仮定すると、誇りの情念が生じる。
(徳の観念は対象である私の観念と関係し、それが引き起こす気持は情念の
気持と類似しているのである。)
徳が私の相手に属すると仮定すると、愛の情念が生じる。
悪徳が私の相手に属すると仮定すると、憎しみの情念が生じる。
悪徳が私自身に属すると仮定すると、卑下の情念が生じる。


誇り☆―愛☆
|・・・・・|
卑下☆―憎しみ☆


第五の実験:相手が私と親密に結びついている人+相手に対して観念と印象の
二重の関係がある場合
次に、相手が血縁によってか友人関係によってか、私と親密に結びついている
人で、情念の原因がこの人物に対して印象と観念の二重の関係を得ていると
仮定しよう。
この場合、まず、明らかに、二重の関係により、愛または憎しみの情念が生じる。
そして、仮定によって、この人物は私自身に対して観念の関係を持っている。
また、愛または憎しみは、快または不快であることによって、誇りまたは卑下
に対して印象の関係を持っている。そこで、誇りまたは卑下が、愛または
憎しみから起こる。
そして、実際に試してみると、やはり、息子や兄弟の徳もしくは悪徳は、
ただ愛や憎しみを呼び起こすだけではなく、新たな移行によって、
同じ原因から誇りまたは卑下を生じさせる。


誇り―愛☆
|・・・|
卑下―憎しみ☆


第六の実験:相手が私と親密に結びついている人+私に対して観念と印象の
二重の関係がある場合
今度は、相手が私と親密に結びついている人で、情念の原因が私に対して
印象と観念の二重の関係を得ていると仮定しよう。
経験は、前のときのようには心は一つの情念から他の情念へ運ばれないこと
を示している。自分自身のうちに認められる徳あるいは悪徳のために、
息子や兄弟を愛したり憎んだりはけっしてしない。
このことは、一見すると私の仮説に反するように思われるかもしれない。
印象と観念の関係はいずれの場合もまさしく同じだからである。
しかし、この難点は次のような反省によって簡単に解消されるだろう。


われわれはいつでも自分自身を親しく意識し、自分の心情、情念を意識
しているのだから、明らかに、これらについての観念は、どんな他人の心情や
情念の観念よりも強い活気でわれわれを打つに違いない。
ところが、活気でわれわれを打ち、十分な強い明るさで現われるものは、
いずれもわれわれがそれを考慮するようにいわば強要し、ほんの小さな
きっかけ、ほんの些細な関係さえあれば心に現われるようになる。
また、いったんそうしたものが現われると、注意をひきつけてしまって、
ほかに最初の対象とどれほど強い関係を持つ対象があっても、そういう
他の対象へ注意がそれないようにする。想像はおぼろげな観念から生き生きと
した観念へはたやすく移るが、逆に生き生きとした観念からおぼろげな観念へ
はなかなか移りにくいのである。


ところで、すでに述べたように、想像と情念という心の二つの機能は、
それらの傾向が相似しているときには、つまり同じ対象に働くときには、
互いにその作用を助け合う。ところが、もし観念の関係は同じままであっても、
想像の移行をひき起こす点でのその影響がもはや起こらないということに
なれば、情念に対する想像の影響も、これはことごとく想像の移行によって
いるのだから、明らかになくなってしまうに違いない。
これが、なぜ誇りや卑下が愛や憎しみへと、後者の情念が前者の情念へ
変わるのと同じ容易さで移らないのか、ということの理由である。


誇り☆―愛
|・・・・・|
卑下☆―憎しみ

人性論 読書メモ(20)

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【2】情念について
(2)愛と憎しみについて
①愛と憎しみの対象および原因について
誇りと卑下の対象は自己であるが、愛と憎しみの対象はだれかある他人、
われわれにとって外的な、感受力を持った存在である。
われわれが自己愛について語るときには、それは本来の意味においてではない。
自己愛が生み出す気持には、友人とか愛人によって呼び起こされるような、
いとおしい感動と共通するものはなにもない。
憎しみについても事情は同じである。


愛と憎しみの原因はきわめて多様で、共通するものをあまり持たない。
以下のようなものは愛と尊敬を生み、またその反対は憎しみと軽侮を生む。
・徳、知識、機知、分別、よい気立て
・美や、力、迅速さ、器用さなどのような身体的な洗練、
・家族、所有、衣服、国民、風土といったことの優越


これらの原因を考察してみると、作用する性質とその性質が属する主体とを、
あらためて区別することができよう。
豪壮な王宮を持つ統治者はそのために当然人民から尊敬を受ける。
それは、第一に王宮の美しさによって、第二に王宮を統治者と結びつける
所有の関係によって、である。


性質が属する主体は対象である他人、思考する存在と常に関係を持ち、
作用する性質は別個に快/不快を生む。


性質が属する主体が対象である他人、思考する存在と関係を持たねばならぬ
ということは、議論の余地がないほど明らかである。
作用する性質が別個に快または苦を生むことは、一見明らかではないが、
誇りと卑下の場合に示せたように、同じ方法に従って愛と憎しみの原因の
いくつかを詳しく調べれば、おそらく同じようにうまくゆくであろう。


しかし、私は早くこれらの体系の十分な、決定的な証明を与えたいので、
誇りと卑下についての私の論究のすべてを、疑問の余地のない経験に基づく
議論によってここでの目的に転換するよう努めることにしよう。


誇りや卑下と愛や憎しみの原因は同じものとなる。
何故なら、世間に自分自身を示して人々から愛と是認を得たいと望むとき、
自分自身について最も得意になる事がら(=誇りや自尊、自慢や名声欲の
原因となるもの)をいつも人目につくようにするものであるから。
これらの原因となる性質が自分自身と関係することで誇りや卑下となり、
他人と関係することで愛や憎しみとなる。
そうすると、誇りや卑下と愛や憎しみの原因は同じであるから、
誇りや卑下の原因が、これらの情念と別個に快または苦を生むことを
証明するのに用いられたすべての議論は、愛や憎しみの原因に対しても
等しい明証性で適用されうる。


②-1 この体系を裏づけるための諸実験
愛と憎しみ、誇りと卑下の両方について、この体系を疑う余地のないものと
するために、これらの情念すべてに対して新たにいくつかの実験を行なう。


これらの実験を行なうために、私がある人といっしょにいて、
これまで私は彼に対して友情にせよ敵意にせよなんの心情もいだいて
いなかったと仮定しよう。
この場合、四つの情念すべての対象が私の前に置かれているわけである。
つまり、私自身は誇りまたは卑下の対象であり、別の人は愛または憎しみ
の対象である。


さて、これらの情念の本性と相互に占めている位置とを注意深く見つめよう。
明らかに、ここに四つの感情はいわば正方形の形に、つまり等しい結びつき、
等しい間隔に置かれている。
誇りの情念と卑下の情念、および愛の情念と憎しみの情念はそれぞれ対象が
同一であることによって結び合わされている。
誇りと愛は快い情念、憎しみと卑下は不快な情念という気持の相似があり、
この気持の相似がもう一つの結合を作る。


誇り―愛
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卑下―憎しみ


要するに、対象ないしは観念によって誇りは卑下と、愛は憎しみと結合し、
気持ないしは印象によって誇りは愛と、卑下は憎しみと結合するのである。


そこで、いかなるものも情念と二重の関係を持つのでなければ、すなわち、
情念の対象に対する観念の関係と情念そのものに対する気持の関係とを持つ
のでなければ、これらの情念のどれも生み出し得ない、と私は言うわけ
である。このことをいくつかの実験によって示さなければならない。