少女像杭テロ

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http://hosyusokuhou.jp/archives/47856528.html
【韓国メディア】「少女像杭テロ」日本極右の鈴木信行、参議院選挙に出馬


う~ん…やっぱり選挙区はこの鈴木信行という人にしようかなぁ…
こんな人がいたとは思わなかった…

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参院選

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http://hosyusokuhou.jp/archives/47853545.html
【画像あり】参院選 日本のこころ新人の鈴木麻理子氏が可愛いと話題に
←ついにきたか!!!


そろそろ参院選ですね。
東京は、自民党は中川雅治氏と朝日健太郎氏、
日本のこころを大切にする党は鈴木麻理子氏、
でも鈴木麻理子氏は「私は一番じゃなきゃ駄目なんです」と言っている
みたいですが、「え?何で?」って思ってしまいます。
なので自民党候補のどちらかにしようと思います。


比例代表は、沢山いますが、自民党から出る青山繁晴氏に
しとこうかと思います。他に誰かこれという人が投票日までに
見つかればその人にしようかと思いますが。


今回も良い結果になればいいように思いますね。
でも自民党は応援していますが、ヘイトスピーチ対策法は廃止して
欲しいですね。そういう考えの人達が多く議員になればいいのに
と思います。何とかならないものかと思いますねぇ。

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最高裁判決

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【最高裁】「著しく不快感」韓国名強要で賠償確定 在日男性が社長訴え


最高裁もおかしな判決を出すものですねぇ…
自分の本名が不快ってどういうことなんでしょう…
この桜井龍子という裁判長は次は落とさないと駄目ですねぇ…

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大嫌韓日記

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最近発売された桜井氏の「大嫌韓日記」を読みました。
しばき隊の誕生から壊滅まで、どういう組織でどんな悪事を
働いてきたのか、またその強烈なキャラの面々の紹介などで、
とても面白かったように思います。
あっという間に読むことができました。
また在特会も本当ものすごく頑張っているなとも思いました。
日本のためにここまで頑張れるというのはすごいと思いました。
こういう人達がいるから日本が何とかなっているのだと思いました。
次の都知事選では桜井氏も出馬するみたいだし、何とか都知事に
なって欲しいように思います。
そして東京から在日特権を撲滅させて欲しいように思います。

舛添行方不明

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http://hosyusokuhou.jp/archives/47811808.html
舛添さんが行方不明


辞めたからって、疑惑は追及して逮捕しないといけないように思いますね…
それが法治国家というものだと思います…
もう十分責めたからやめてあげようというのは、法治国家ではないと思います…
逃亡など許してはいけないのだと思います…


特に韓国学校への土地提供にて賄賂を受け取ったかもしれないという件
については、徹底的に調査しなければいけないように思います。
今後のニュースにも注目していきたいと思います。

川崎デモ

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http://hosyusokuhou.jp/archives/47750242.html
【日経新聞】川崎ヘイトデモ「冷静な対応を」「法の精神を理解して」
混乱巡り河野国家公安委員長


ヘイトスピーチ規制法には罰則はないのだから、デモを阻止したり
することも当然できないのだと思います。ましてや座り込みで
デモを中止に追い込むというのは明らかに違法で、
取り締まらなければいけないのに、それを取り締まらないというのは
法治国家でなくなっているのだと思います。


法律を理解していないのは、この人や左翼や警察なのだと思います。
桜井氏が妨害側を訴えているとのことですが、正しい判決が下って
欲しいように思います。

舛添の記者会見

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舛添の会見を見ていたけど、ヤフオクで子供の服を買っていた件は
どうなったんですかねぇ。子供がそれを来ていた写真があったけど。
弁護士が「その他資料を見ておいて下さい」と言ったところに含まれて
いるのかねぇ。

明らかに政治目的でないし、虚偽記載で違法性はあると思うのですが、
不適切であるが違法性はないというのはどういうことなのでしょうかねぇ。


それに第三者の厳しい調査と言っておきながら、木更津のホテルで
出版社社長と会談したと言っておきながら、弁護士はその出版社社長に
確認せずその社長の周囲の人に確認しただけということで、
調査として全く信頼できないし、全く第三者でなく弁護しているだけ
だったように思います。


それに記者も発端となった韓国学校への土地貸与について、
韓国学校は定員割れしていることが分かっているのにこのまま続けるのか、
などもっと鋭い質問をぶつけて欲しいように思いました。


とにかくあくまで続投しようとするし、本当腹の立つ会見でしたね。

人性論 読書メモ(24)

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【2】情念について
(3)意志と直接的な情念について
③影響を及ぼす意志の動機について
◆本節の主題
哲学において、また日常生活においてさえも、情念と理性の戦いについて語り、
そして理性を優先させて人々は、理性の命令に従う限りにおいてのみ有徳
であると主張することほどありふれたことはない。
古代でも現代でも、道徳哲学の大部分はこうした考え方をもとにしている。
理性の永遠性、不変性、神的起原が、この立場にきわめて有利に呈示されてきた。
一方、情念の分別のなさ、不定さ、惑わしがそれに劣らず強く主張されてきた。


しかしながら、こういうすべての哲学の誤りを示すために、私は次のことを
証明するよう努めたいと思う。
第一に、理性だけではけっしてどんな意志の働きにとっても動機となり得ないこと、
第二に、意志を導く際に理性が情念と対立することはけっしてあり得ないこと。


◆第一の証明
知性は二つの異なった仕方で機能を発揮する。
<1>論証をもとに判断する(観念の抽象的な関係を考察する)
<2>蓋然性をもとに判断する(経験のみが知らせる対象の関係を考察する)


・<1>の場合
この場合は、なんらかの行為の原因となるなどと主張されることはほとんど
なかろうと私は信じる。観念の世界と、意志の起こる実在の世界は別であり、
まったくかけ離れているように思われる。
なるほど、数学は機械的操作のすべてにおいて有用であり、算術はほとんど
すべての技能、職業で有用である。と言っても、これらの学問自身がなんらか
の影響を与えるわけではない。機械学は物体の運動をある計画された目的や
意図に合うよう規制する術であり、また、数の割合を定めるのに算術を
用いる理由は、行為に対して数が及ぼす影響と作用の割合を見つけ出すため
にほかならない。
抽象的あるいは論証的な推論がわれわれの行為に影響を与えるのは、
原因と結果に関する判断を正しくする場合だけであって、それ以外には
けっして影響しない。


・<2>の場合
明らかに、なんらかの対象から快あるいは苦を予期すると、われわれはその結果
として嫌悪または愛着の感動が起こるのを感じ、この不快または満足を与えると
思うものを避けよう、あるいは取り込もうという気に駆られる。
また、明らかに、こうした感動はこれだけにとどまらず、あらゆる面に視線を
向けさせて、そのもともとの対象と因果の関係によって結合しているものを
どんなものでも包み込んでしまう。
そこで、この関係を見いだすためにここに推論がなされ、そして、推論が
変わるのに応じてわれわれの行為もそれに伴って変化を受ける。
しかしながら、この場合、明らかに衝動が理性から起こるというのではなく、
衝動が理性によってただ導かれるだけのことである。
ある対象に向かって愛着または嫌悪が生じるのは、快あるいは苦の予期から
である。


◆第二の証明
このように、理性だけではいかなる行為も生み出し得ず、意志作用を生じ
得ないのだから、これから推理して、同じ理性という機能が意志作用を
妨げたり、情念あるいは感動と優先を争ったりもできないはずである。
この帰結は必然的である。こうして、情念と対立する原理は理性と同一のもの
ではあり得ず、ただ不正確な意味でそう呼ばれているだけであるのは確か
である。
理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、
理性は情念に仕え、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっして
できないのである。
しかし、この意見はいくらか意外に見えるかもしれないので、別にいくつかの
考察を加えてこの意見を裏づけることは不適当ではなかろう。


◆第二の裏付け
情念は原初的な存在、存在の原初的な変容である。
つまり、情念は、これをなにかほかの存在、あるいは変容の写しとするような
再現的性質をなにも含んではいない。
この情念が真理や理性と対立するとか、矛盾するとかいうのは不可能なのである。
というのは、こういう矛盾は、なにかの写しと見なされる観念と、この観念が
再現する対象とが一致せぬことにあるからである。


真理または理性と反対でありうるのは、真理または理性とかかわりを持つもの
だけであるから、そして、知性だけがこういうかかわりを持つのだから、当然、
情念が理性と反することがありうるとすれば、情念になにかある判断とか
意見が伴う限りにおいてのみ起こりうる、ということにならなければならぬ。
なんらかの感情が非理性的と呼ばれるのは、ただ二つの意味においてだけである。
第一に、希望や恐れ、悲しみや喜び、失望や安心といった情念が、実際には
存在しない事象を存在していると想定することに基づく場合。
第二に、情念を行為として現わすときに意図された目的にとって不十分な
手段を選ぶ場合、つまり、原因と結果についての判断において誤る場合である。
要するに、情念が非理性的であるためには、情念になにかある誤った判断が
伴わなければならない。しかも、その場合でも、本来から言って、非理性的
なのは情念ではなくて判断なのである。
理性と情念が対立し合ったり、意志や行為の支配をめぐって争ったりするのは
不可能である。想定の誤り、手段の不十分さに気づいた瞬間に、情念は理性に
譲歩し、なんの抵抗も示さないだろう。


理性は感じ取れるほどの感動を少しも生まずに作用を起こす。
そこから、これと同じように穏やかに、静かに作用する心の働きがどれも、
ものごとを一目見て初めの見かけで判断するすべての人々によって、
理性と混同されるということも起こるのである。
穏やかな情念(欲望、傾向)は、心のうちにほとんど感動を生まず、直接的な
感じとか気持によってよりも、それの結果によって知られるようなものである。
こういう欲望には二種類のものがある。
慈愛や恨み、生命愛、子供への心づかいのような、われわれの本性にもともと
植えつけられているある種の本能か、それとも、ただそのものとして考えられた
場合の、善への一般的な欲望、悪への一般的な嫌悪か、である。
これらはきわめて容易に理性による規定と取り違えられ、真偽を判定する
機能と同じ機能から生じるのだと想定されてしまう。


また激しい情念も、穏やかな情念と同様に、意志を規定する。
穏やかな情念と激しい情念の二つの原理が働いているが、形而上学者たちの
共通の誤りは、これまで意志の導きをことごとくこれらの原理の一方だけの
せいにして、他方の原理はなんの影響力も持たないと想定してきたところにある。
これらの原理は両方とも意志に作用し、そして両者が相反する場合には、
その人の一般的な性格かまたは現在の意向に応じて二つの原理のどちらかが
優勢になるということである。
心の強さと呼ばれているものには、穏やかな情念が激しい情念よりも優勢
であるということが含まれている。
もっとも、すぐに気づくように、たえずこのような徳を持ち続けて、どんな
場合にもけっして情念や欲望の誘惑に屈しないような人は一人としていない。


(④~⑧は私の読んでいる本では省略されているため記載しない)


⑨直接的な情念について
情念は、直接的なものも間接的なものも、快と苦(善と悪)をもとにしている。
快や苦を取り去れば、反省的印象のほとんどが取り去られる。
ところで、善や悪から最も自然に、ほとんどなんの用意もなしに起こる印象は
直接的な情念(欲望や嫌悪、喜びや悲しみ、希望や恐れなど)及び意志作用である。


善が確かか、あるいは確からしいとき→喜びを生む
悪が確かか、あるいは確からしいとき→悲しみ、嘆きを生む
善が不確かなとき→恐れを生む
悪が不確かなとき→希望を生む
ただそれとして考えられた善→欲望を生む
ただそれとして考えられた悪→嫌悪を生む
善か、あるいは悪の不存在かが、心または身体のなんらかの活動によって
達せられうると思われるとき→意志作用を生む


善や悪(快や苦)のほかに、自然な衝動もしくは本能からしばしば直接的な
情念が起こる。この衝動とか本能はまったく説明しがたいものである。
この種の情念として、たとえば敵をこらしめたい欲望、友人の幸福を願う欲望、
飢え、性欲、その他、いくつかの身体的欲求がある。正しく言えば、これらの
情念は、善や悪を生むのであって、ほかの感情のように善や悪から起こるの
ではない。

人性論 読書メモ(23)

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【2】情念について
(3)意志と直接的な情念について
②同じ主題の続き
自由の説はある点からみると奇妙であり、また別のある点からみると理解
しがたいものであるが、それなのに広く受け容れられているについては、
次の三つの理由を挙げうると私は思う。


第一に、われわれがなにか行為を行なったあとで、特定の意図や動機の影響を
受けたのは認めても、しかし、必然によって支配されたのだ、違った仕方では
行為できなかったのだと、自分に言い聞かせるのは困難である。
必然性の観念にはなにか力とか無理強い、拘束といったものが含まれている
ように思われるのに、それがわれわれには感じ取れないからである。
自発性の自由と無差別の自由を区別できる人はほとんどいない。


自発性の自由:無理強いと対立するもの。
無差別の自由:必然性とか原因の否定を意味するもの。


ところで、自発性の自由が、自由という言葉のまさしく最も普通に用いられて
いる意味である。この種の自由こそ、われわれが保ち続けたいと望んでいる
ものであるから、われわれの思考はもっぱらこれに向けられてきた。
そして、この自発性の自由がほとんど一般に無差別の自由と混同されて
しまっているのである。


第二に、まさに無差別の自由についても、偽りの感覚、偽りの経験があり、
これが無差別の自由が実際にあることの論拠と見なされている。
いったい、物質にせよ心にせよ、その活動の必然性は、本来は活動するものの
なかにある性質ではなくて、その活動を考察することのできる思考する存在、
知的な存在のなかにある性質なのであり、そういう活動の出現を、先行する
ある事象から推理するよう思考を規定することにあるのである。
他方、自由とか偶然はそういう規定の欠如、つまり、一つの観念から他の観念
へ移ったり移らなかったりするときにわれわれが感じる、ある定まりのなさ
にほかならない。
ところで、人間の行為を考えるという場合には、そうした定まりのなさ、
無差別を感じることはほとんどないが、しかし行為そのものを行なうという
ときには、なにかこれに似たものを感じ取ることはよくあることであると
言えよう。そして、関係のある事象、つまり類似する事象はすべて取り違え
られやすいので、こうしたことが人間の自由の論証的証明、ときには
直観的証明としても用いられてきたのである。


われわれは、行為はたいていの場合、意志に従っていると感じる。
そして、意志そのものはなにものにも従わないことを感じると想像している。
なぜなら、意志がなにものにも従わないことがもし否定されて、それでは
はたしてそうなのかためしてみようという気が起こると、意志がどんな方向に
でもたやすく動き、実際には意志が定まらなかった側にでも意志自身の映像を
作るように感じるからである。そして、この映像、このおぼろげな動きは、
実際の意志そのものにまでなりうるはずだと信じ込む。なぜなら、
もしこのことが否定されるなら、さらにためしてみればそうなりうるのが
わかるからというわけである。
しかし、こうした努力はすべて無駄である。
たとえどんな気まぐれな、でまかせの行為を行なおうと、自由を示したい
という欲求がそうした行為の唯一の動機なのだから、われわれは必然性の
束縛からけっして解放され得ないのである。
われわれは自分自身のうちに自由を感じると想像できるかもしれない。
しかし、外から見る人は、われわれの行為を普通は動機や性格から推理できる
のである。ところで、このことこそが、先に述べた説に従えば、必然性の
まさしく本質なのである。


第三の理由は宗教のせいである。宗教がこの問題にまったく不必要なほど
関心を寄せてきたためである。
ところで、論究の方法として、哲学上の論争でなにかある仮説が宗教や道徳に
対して危険な帰結をもたらすという口実によってそれを論破しようと努める
ことほど、ありふれた、しかしとがめられるべき方法はない。
ある意見が不合理に導く場合には、それは確かに誤りである。
しかし、ある意見が危険な帰結を伴うから誤りであるというのは確かではない。
だから、そういう論議は真理の発見にはなんの役にも立たず、まったく
慎むべきである。もっとも、このことを私は一般的に言うのであって、
私としては、必然性の説は、私の解釈によれば、宗教や道徳にとって害がない
だけではなく、好都合でさえあると主張しておきたい。


それどころか私はさらにすすんで次のように主張する。
すなわち、この種の必然性は宗教と道徳にとって本質的なものであり、
これがなければ宗教も道徳も完全にくつがえってしまうに違いないこと、
これ以外のどの想定も神の法と人間の法のすべてをまったく無力にしてしまう
ということである。
実際、すべての人間の法は賞罰をもとにしているのだから、確かにこうした
動機が心に対してに対して影響を及ぼして、よい行為を生み悪い行為を妨げる
ということが基礎的な原則として想定されているのである。


人間の行為に原因と結果の必然的結合がなければ、正義や道徳的公正と適合
するように罰を科するのが不可能であるばかりではなく、さらに罰を科する
ことが、どの理性的存在の考えに浮かぶこともけっしてあり得ないだろう、
と私は主張する。
たとえ一般の意見が反対のほうの説に傾きやすいとしても、必然性の原理を
もとにしてのみ、人はその行為から賞罰を受ける資格を獲得するのである。