プルシェンコさん、ヤナさんインタビュー1 | フィギュアスケート研究本

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こちらの雑誌に、プルシェンコさんとヤナさんのインタビューが載りました。

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http://evgeni-plushenko.com/forum/viewtopic.php?f=3&t=63&start=130


↑プルシェンコ氏の公式ホームページの掲示板で、その掲載されているページの写真と、文章が紹介されました。

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ロシア語から、英語に翻訳してくれた方がいましたので、そちらを日本語訳にいたしました。長いので分割して送りします。↓


http://evgeni-plushenko.com/forum/viewtopic.php?f=3&t=6&p=38923#p38923


Evgeni Plushenko: "I am ready to move with my family to Japan"


Evgeni Plushenko:「私は、日本に家族と共に、移住する準備ができています」


 エフゲニー・プルシェンコは、日本で信じられないほど人気があります。試合とアイスショーの彼のパフォーマンスは、膨大な数の見物人を集めます。

 誇大広告が非常に大きかったケースなので、追加ショーが手配されなければなりませんでした。さもなければ、何千もの失望した視聴者がいたでしょう。プルシェンコのパフォーマンスの後、氷が人形と花のカーペットに変わるという事実は言うまでもない。

 9月に、我々はエフゲニーと彼の妻ヤナ・ルドコフスカヤが、もう一度日本に行くということを知りました。最近このカップルの回りに起こることがどれらいなのか考えれば、まったく、旅行は彼らの結婚記念日にあたります。そして、我々が出来事に追いつくために、すぐに彼らに尋ねました。

 ヤナはちょうどしばらく考えて、そして言いました:「我々は、それを解決しましょう!私は、あなたにレポートを渡しましょう。」と、彼女の典型的な決心とビジネスセンスで、彼女は日本で写真会を計画しました。

 1週後に、我々はすでに写真を見て、このカップルの人生で起こったことについて話しました。



-エフゲニー、ヤナは、日本へのあなたの最初の訪問がいつだったかについて、我々に話してくれますか?そして、この時、何が、あなたをそこに導きましたか?



エフゲニー:私が15歳だった時、私は初めて日本に来ました。それは、試合でした。たまたま、日本人はすぐに私を愛してくれて、私をサニーボーイと呼びました。

 それ以来、私はほとんど毎年、日本に行きます:試合かエキシビションのために。そして、今年の3ヵ月間、私は世界チャンピオン浅田真央とオリンピックチャンピオン荒川静香を含む、いろいろなアスリートと共に、40以上のショーに参加しました。

 最後の3つは、ディマ・ピランとエドウィン・マートンと一緒のショーでした。それらは「ファンタジーオンアイス」と呼ばれていました。そして、メインナンバーは、2008年に「ユーロビジョン」で披露された歌ビリーブです。


ヤナ:ごく少数の日本の人々がユーロビジョンを観ました。それで、歌ビリーブは、観衆の違いによって解釈されるのです。日本人は、このナンバーが自叙伝的であると思いました。それがジャーニャの主張の方法です:「私は、ソチでスケートをします!私は、それを信じます!」

 我々のガイ達が、最後に、調和と共に氷の上にひざまついて、観衆に彼らの手を伸ばした時、、見物人の目に涙がありました!

 我々は小さな束のピランのCDを持ってきました、そして、それは10分未満で売り切れました。私のツイッターでは、日本にこの歌とDVDを持って来てほしいという、要請であふれてます。