晴れ「踏みはずす美術史」森村泰昌著より。ジョリークローバー温度計

森村氏自身の経験から、面白いことを言っていた。それは美術大学の受験の際、氏は幸か不幸か自分にとってはよくない先生に出会ってしまったという。そのためすっかりヘタな絵しか描けなくなってしまったようだ。

そのため自身で「上手な絵を描く方法」の発見ができたという。そのおかげで、これまであまりみんながお目にかかったことのない作品を創造できる芸術家になれたと振り返っている。

もし氏がデッサンが上手な画家になっていたら、たんに上手なだけで魅力に欠けたテクニシャンから脱却できなったかもしれないと自己分析していた。

悪い教育が氏のオリジナルな芸術的創造につながっていたというのは皮肉な結果だ。しっかりと勉強して基礎が出来上がったからといって、そのことで必ずしも人に感動を与えられるとは限らない。

よくタレント活動をしていて、美術学校で専門に学んだわけでもないのに、インパクトのある作品を描いたりしている人もいる。むしろだからこそ、独創的な作品ができるのかもしれないな。時には素人の作品のほうが新鮮にも見えることも多い。

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晴れ「踏みはずす美術史」森村泰昌著より。ノーティークールテレビ

こんな単純な言葉はあまり深く考えたこともなかった。一つは「名作絵画」という意味で、上手な絵ということらしい。デッサンもしっかりしていて、色彩感覚にも秀でた傑作ということだった。

もう一つは「有名絵画」という意味でも使われることもあるという。この場合は上手ではなくても、いいようだ。ヘタでも人に感動を与えることができればいいのだった。

この説明にさらに、一般的に身近な歌を引き合いにだしていた。歌が上手なことやルックスのよさが人気歌手の絶対条件ではないという。場合によっては歌唱力がなくてもヒットしてしまうこともある。

たとえヘタであってもじゅうぶん立派な表現となっていればいいようだ。それもすべて自分ひとりだけで成し遂げられるわけでもないだろうが。多くの人に支えられてこそなりたつものだろう。

よく絵画作品を展示会などで見ると、いったいこの作品のどこがいいのだろう、と思うような絵画に出くわすことがある。しかし専門家の評価ではそれも名画といえるのだろう。時には人にはそれを観る力が要求されるのだろうな。

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晴れ「踏みはずす美術史」森村泰昌著より。チアフル新幹線バス

まずはこの本のタイトルが気になったので手にした次第。サブタイトルとして、“私がモナ・リザになったわけ・・・・”とあった。これは森村氏自身のアート作のことを言っている。

氏は名画の中に自分がメイクや衣装をつけてその絵画の中に入り込んでしまうというセルフポートレイト作品という独自のジャンルを創りだしていたからだ。私も過去2回ほど氏の作品展を美術館で観たことはある。また美術関連の本でもたびたび氏の作品は観ていた。

さて、「モナ・リザ」は実物を見たこともない人も、写真や美術の教科書で見覚えがあるはず。世界の絵画史上の最高に位置していると森村氏は語っている。つまりそれがイコール西洋絵画の魅力にも通じるようだ。

森村氏は次のように面白い表現をしていた。・・・「モナ・リザ」とは、長きにわたって西洋美術(西洋文化)の素晴らしさを宣伝し続けてきたキャンペーン・ガールである。・・・こんな発想は初めてだったので気になった次第。

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曇「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。チアフルクールデジカメ

それにしても、クリエイターとしての岡本太郎の活動範囲は広かった。最も有名なのがモニュメントとして残されている『太陽の塔』だろう。

絵画のほか、陶芸、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、インテリアデザイン、壁画などもあった。テレビCMにも出演していた。

かつて私も手にしたことがあるのが、底に顔が彫られているウィスキーグラスだった。こんなオマケの商品にもデザインを提供していた芸術家は少ないだろう。

どれもこれもインパクトがあった。テレビでも見たことがあるが、ツノの生えた釣鐘もあった。常識破りとも思える。これはあるお寺が制作依頼したものだった。

こんな初めての仕事を真剣な遊びととらえて、新たな表現世界の境地を切り開いていったのだろう。初めてのものも面白がって創ることができるのは、太郎の強みだったのだ

晴れ「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。チアフルクール!?

太郎はまず、太陽を引き合いに出していた。太陽は見返りを求めない。100パーセントの無償無条件だという。地球上の人間に恩恵を与えるだけの存在だからだ。

つまり芸術もそうあるべきだというのが、太郎の芸術論だった。絵は売らずにすべて持っていたという。太郎展をやれば、代表作品はどこでも観ることができたそうだ。

もしほかの作家のように絵を売っていたら、そういうわけにはいかない。とくに有名になればなるほど、作品は世界のあちこちに散らばってしまう。多くは金持ちやコレクター、企業に買われて一般大衆の前からは姿を消してしまう。ということは初めからなかったのと同じともいえる。

太郎の言葉があった。「銀行預金のようにしまっておく芸術なんて意味がない。金持ちに買ってもらうためにシナをつくる芸術なんて卑しい」と。実際売らないから経済的には苦労したことも多かったようだ。

経済を支えていたのは、原稿依頼、講演依頼、新聞の挿絵、デザインといろいろとあって、絵を売らずになんとか生活はできたそうだ。それにしても、自分の哲学を貫くのはすごい。

曇「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。カインドビール星

これは岡本太郎自身のの言葉だった。つまり作品制作は手段であって目的ではなかったという意味だ。太郎にとって作品は、自らの思想を込めて社会に送り出すためのキャリアー(搬送台車)のようなものだったと、筆者の平野氏は語っている。

これは実に新鮮な考え方だと思った次第。ふつうなら作品自体が芸術だと考えてしまうものだが、岡本太郎については、考え方、生きることそのものが芸術だったという意味だろう。

そういえば、さまざまな表現活動をしていた。絵画、彫刻、デザイン、多くの著作、書、建築・・・さらにテレビへの出演なども多かった。どれもこれもが自分自身を表現する、発言するための機会だったとも思える。

今更ながら岡本太郎自身の存在が作品だったのか、と言われればなんとなく納得できる気もする。太郎は職業を聞かれると困ったらしい。“本職?そんなのありませんよ。バカバカしい。・・・『人間ですね』”という。

曇『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。ストロールクールツリー

筆者は「修業」とは不合理を引き受けることだという。いろいろ見まわしてみれば、不条理、不合理、不公平なことと思えることはいくらでも出てくる。

たとえいくら努力したところで必ずしもそれが報われるとは限らない。むしろムダになることのほうがほとんどではないだろうか。だからといって文句をいってもしょうがない。

そんな時は「これも修業だ」と考えてしまったほうがいいようだ。納得できないことは実に多いものだ。投げやりになっても決して得にはならない。

もし修業感覚を身につけることができれば、強くサバイバルしていくことも可能なようだ。そのような発想が逆境を力に変えられると齋藤氏は考えていた。

曇『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。ストロールツリーケーキ

確かに日々の仕事がすべてやりがいがあるかといわれれば、そうでもないことのほうが多いかもしれない。それでも、仕事はやらなければならない。できるならその仕事を楽しみたいものだ。

はじめから「退屈な仕事」というものがあるのではなく、その人の気持ちの持ちようで、ある程度は面白くできるようだ。一見無駄だと思えるような仕事でも、あまり深く考える必要はないという。とにかく没入して技術を高めると思えばいいのかもしれない。

はじめから面白い仕事はないと思って、あとはそれをどうやって面白くできるか自分で工夫するしかないようだ。それもある程度の経験や余裕がないと無理な面もあるとは思うが。

筆者はどの仕事も「いま」に没入してやることが大切だという。ゾーンに入って楽しんでしまおうと考えればいいようだ。ここをもう少しこんなふうにしたらラクかな、速くできるかなど小さな課題に集中する感覚だった。

晴れ『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。ファニークールチョキ足

齋藤氏自身の経験からのことで、これも面白い考え方だった。氏はへんてこりんな特訓もいろいろしていたようだ。手の指をどれだけ反らせることができるか。かつて指を反らせることでリラックス効果があると知ってから、鍛えれば柔軟になるのではないかと特訓したそうだ。

誰もそんなことは思いつかないだろう。また頭の皮をどう柔らかくできるのかと考えて頭皮マッサージをやりすぎて、頭から血が出てしまったそうだ。また息を溜める訓練をするため、駅から駅の間ずっと呼吸を止め続けたりもしたという。

どれもこれもバカバカしいことと思える。そんなことをして恥をかいたことも、失敗したことも、それなりの特訓を残していまに役立っているそうだ。場合によってはそれが自分の得意ワザにもなるのだろう。

他人にとってはどうでもいいことのようなことも、自分の中では特技につながることも多そうだ。それも好きで特訓した成果だろう。それは芸人ばかりではなく、日常生活でもちょっとした自信につながるかもしれない。

曇『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。コムロケットトロ

誰でもやったことに対しての結果は出したいもので、気になるものだ。とくに試験などはそうだろう。仕事でもスポーツでも健康管理やダイエットでも同じことが言える。

ところが、誰でもがその努力をするのは苦痛と感じることが多い。いつまでその努力を続けなければ結果が出るのだろうかと思うと嫌になってしまう。そのうちに飽きてきてしまったりするものだ。

そこで、ある一定期間に限って集中的にやることで、その結果を出そうと考えるのもいいようだ。つまりそれが特訓ということになる。堪え性のない人も短期間ならできるだろう、というのが齋藤氏の考えだった。

むしろ飽きやすくて長続きしない人にこそ、特訓を勧めている。しかも、やらされ感がないように、自分の意思で目標と期間を設定するというのもちょっとしたポイントだった。どんなことも自ら進んでやれればその気になるものだろうな。