「私の家は山の向こう」有田芳生著より。

今の20代、30代の人たちには美空ひばりにしても、テレサ・テンにしてもほとんどなじみがない歌手だろう。

副題は「テレサ・テン十年目の真実」とあった。この本の単行本が出版されたのは2005年2月だった。今月の初め書店に文庫本が平積みされていたので、さっそく買って読んでみた。

実に多くの取材協力者と参考文献を通じて、10年もの歳月をかけて書かれていた。それだけ有田氏のテレサ・テンに対する思いが深かったともいえよう。

「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」どれも大ヒット曲だった。この3曲は3年連続日本有線大賞、全日本有線放送のグランプリを受賞していた。いまはもうどれも懐メロの演歌になってしまった。

しばしば、歌姫という言葉を耳にする。例えば、美空ひばりは昭和の歌姫とか。テレサ・テンはアジアの歌姫とも言われていた。

そういえば、20年以上前に東南アジアの旅行に行った時に彼女のテープを何本か買ってきた覚えがある。(きっと海賊版だろうが。)それだけアジアでも曲がヒットしていたということかもしれない。
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「日経ビジネスアソシエ」2007.5.01号より。

この号の特集は「対話力を一気に高める“サプライズの技術”」というものだった。内容は各業界で現役の第一線で活躍する20人が、それぞれこんな工夫をして仕事に生かしているということが紹介されていた。

一体どんなサプライズの方法があるのだろう、と期待して興味深く読んだものの残念ながら、とくにこれと言って印象に残るものはなかった。

その中で、上記のフレーズがちょっと気になった次第。“匠の技”・・・これはまるで伝統職人の技術のような大げさな表現だ。それはともかくとして、新宿歌舞伎町のカリスマホストで経営者のTさんは、ボランティアで街のゴミ拾いする意外な一面を持っている。

彼の女心を引き寄せるテクニックの紹介があったので、簡単にまとめてみよう。

1.予想しない行為で印象づける。容姿、体型、年齢など相手がコンプレックスに思っていることや、初対面では言わないことをあえて投げかける。
2.長期的に自分を買い続けてもらうために、時には5分で席を立つ。つまり自分の魅力を小出しにする。
3.効果的なプレゼントで一緒にいない時間を制覇する。2分で買っても、一日かかって見つけたという。
4.女性が求めているものを満たしてあげる。例えばグチを聞く、大騒ぎをしたい・・・など。

とは言っても、そこそこイケメンで話術がうまかったり、というような前提条件があればこそ許されること・・・のような気もするが。
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「日経ビジネスアソシエ」2007.5.01号より。

時としてビジネスシーンでは、単におとなしいだけの人間では、ものごとはうまくは運ばないことがある。たまには、ちょっとした凄味(あいつは怒らせると怖いというような)を見せつけておくことも必要になってくる。

その際、声を荒げて怒鳴るというのも、ちょっとビジネス上まずいだろう。そんな時の方法は意外に簡単だった。普通のセリフを倒置法にすればよかったのだ。すると自然な凄味が出せる。

例えば、上司が部下を叱る場合、「俺の言っていることが分かるな?」→「分かるな?俺の行っていることが」にするだけでいい。「見積りは、来週に間に合いますか?」→「間に合いますか?見積りは、来週に」

と、こんなふうになるわけだ。それにプラスするなら顔の表情も工夫する必要がありそうだ。これは鏡を見て練習するのがいいかも。

考えてみれば、要するにこれは「オイッ!」とか「バカヤロー!」と怒鳴ったあとに、相手がキョトンとしていたら、その理由(中身)を述べるのと似ているか。つまり感情的なコトバを先に持ってきて注意をひき、その中身を後付けするだけで、そこそこ品格を失わずにすむ・・・ってわけかな。
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これも前日と同じ本から、オヤッと思ったフレーズがあったが、ちょっと実感として分からなかったので、勝手なツッコミを入れてみた次第。

1.仕事でいい結果を出そうと思えば、より高性能の武器を揃えるのは当然である。

→たとえば、これはパソコンやケータイだとすれば、いくら素晴らしい機能があったとしても、それを使いこなせなければ意味はないだろう。また、その武器は一年以内にどんどんバージョンアップして古くなってしまうし・・・。高性能な武器ほど金額も張るだろうな。

2.情報の「動体視力」を鍛える。

→野球の世界では、一流打者は動体視力が非常に優れているのは確かだろう。テレビ、ネット、雑誌などの静の情報だけでは不十分だという。たしかにマスコミの情報が正しいとは限らない。でも、実際どうしても自分が生の情報に接しなければならないほどの価値のある情報ってどれほどあるのだろうか。

たまにビーチコーミングという言葉を聞くことがある。つまり海岸に打ち寄せられた漂着物をコレクションしてみることだが、この結果意外と面白いものが見つかったりするようだ。それが、場合によっては貴重な資料ともなったりする。しかし、連日のように目についたつまらないフレーズを拾い集めたところで何の価値もないか・・・
数週間前に読んだ、「通勤電車で寝てはいけない」(久恒啓一著)の中で、一瞬オヤッとは思ったが、イマイチ意味が分からなかったものがあったので、ネタとしては取り上げなかった。(つまりボツネタ)

それらにツッコミを入れればまたそれも日記のネタになるかもと思った次第。で、取り上げたのが下記のもの。これは、よくテレビでドラマなどのNG集などで一つの番組をつくってしまうのと似たようなものかもしれない。

1.「ライフ」には「生命」「人生」「生活」という3つの意味がある。

→べつにそんなことは前から知ってはいたが、改めて3つを並べてみて考えたことはなかった。やはりまず生活が成り立たないと人生も考えられませんね。少子高齢化を考えると、生きていくだけでも厳しい時代か・・・。

2.手帳とは「手に入る小さな帳面」ではない。

→では、一体なにかといえば、人生を有意義に送るための大切な道具である、という。かなり大げさにも思えるが。今までただスケジュールをメモするだけのノートだとばかり思っていた。

実際仕事でケータイを2つも持っていると、手帳を持つのが面倒になっている。もっぱら数枚の情報カードばかり使っている次第。

「産経新聞」2007.4.16付けより。

「蛙の遠めがね」(石井英夫氏)というコラムの中にあったフレーズ。つまりその条件とは、何もない空き地であるということだった。原っぱというひと言で子供のころ遊んだいくつかの場所を思い出してしまう。今ではそんな土地を遊ばせておくようなことはめったにないだろう。

むしろ広場というより、ブランコ、滑り台、鉄棒、花壇、ベンチなどでキッチリと整備された公園に似たようなものはあるかもしれない。しかし、そこでは自由な遊びはできない。

私が子供の頃はまだ雑草が生えただけの空き地はあり、自由に遊べたものだった。何もない空間だからこそ遊びも創造できたともいえる。また、べつに広場はなくても敷地が広い友達の家の庭でもさまざまな遊びができた。しかも、まとまったお金を使った覚えもない。

今ではお金さえ出せば、さまざまな電子ゲームの玩具やソフトがいくらでも手に入る時代になった。お手軽に時間つぶしはできる。友達がいなくても何時間でも遊べる。しかし、新緑の季節の晴れた日に部屋に閉じこもってゲームばかりするのは、ちょっともったいない気もするが。

話しがそれてしまった。筆者は原っぱには無用の用があるという。ただの広場でなにもないところこそが有益なのだということだった。今ではそんな何もない空間は贅沢なんだろうな。
「産経新聞」2007.4.16付けより。

これは「透明な歳月の光」というコラムのなかで、曽野綾子氏が述べていた部分にあったフレーズ。なるほど、作家らしい指摘であると思った次第。曽野さんと石原氏は(同じ作家として)旧知で遠い仲であるという。

先の都知事選では圧倒的な知名度の石原氏がまたもや二位以下を大差で破って三選を果たしたことは誰もが知っている。石原氏は常に批判の材料を提供していたにもかかわらず、結果的に互角で戦える候補者は一人もいなかったことになる。

曽野さんは石原氏に対して「自分をさらせる人は大悪をなしえない」とも述べている。やはり大都市東京を引っ張っていくリーダーには表現力(アピール力)が大事だったということだろうか。

あの目をしばたたかせながらの石原氏独特の喋りは存在感がありますね。あの人と1対1の対話で勝てる人はいるのだろうか。作家と政治家の二足のわらじ、やはりカリスマ性があるか。

抜群の知名度+実績+表現力(アピール力)、こんなことを考えたら、はじめから勝ち目のある候補者はいなかったかな。石原氏がどんなに嫌いな人がいたとしても、それ以上に支持する人が多かったということか。(でも慎ちゃん今期限りだからね)
「R25」2007.4.12号より。

石田衣良氏のエッセイのなかにあったフレーズ。新入社員ももうすぐ初任給がでるころになった。何に使うかという楽しみがあるだろう。彼はそれで記念になるようなものを購入するのもいいとアドバイスする。

4月の半ばごろ、新宿西口を歩いていると、まだぎこちないスーツ姿の若者の集団姿をよく目にする。一見してどこかの新入社員だとわかる。大型バスから降りてくる若者たちは大きなバッグを手に提げている。研修から帰ってきたばかりで、ほっとした様子もうかがえる。

慣れない社会人生活は疲れるものだろう。当然、研修も給料のうちに入ってる。その初月給で自分は何に使ったかは思い出せない。石田氏は20年前に御茶ノ水の文房具屋でパーカーの万年筆を買ったことを覚えていた。万年筆はなくなっても、それで書いた日記のノートはクローゼットの奥に積んであるという。

人によっては、世話になった親にプレゼントする人もいるだろう。それはすごくいいことだが、男の私にはちょっと恥ずかしくてそれはできなかったな。社会人になってから20代の記憶のために書き残した日記のようなものはあった。その書きなぐりだったものを30歳頃にワープロで清書してファイルに綴じたりもしていた。

給料とは関係ないが、それはちょっとした自分への記念品かもかもしれないな。(タイトルは「記憶の中の自画像」としていたっけ。)記念品とはまったく関係ないが、たまたま今日は自分のギックリでアンハッピーなバースデーだったり・・・
「月刊現代」2007.4月号より。

「世界屠畜紀行」内沢 旬子 (著) という本の紹介部分にあったフレーズ。ふだん私たちがスーパーや肉屋の店先で目にする肉は、すでに製品としてきれいに盛られ、パックされたものばかりだ。それらは、数時間前、数日前までは生きた動物だったとう意識がない。

食肉や皮革等を得るために、家畜等の動物を殺すことは屠畜、屠殺といわれるが、一般的にはその現場は目にしたくないものだろう。魚ぐらいなら一般の家庭でさばいて料理するだろうが、動物はそう簡単には殺せないもの。商売にするなら当然それなりの許可が必要に違いない。

かつて、仕事の同僚で鶏の肉が食べられない男がいた。とくにから揚げなどはダメだった。その理由をきくと、彼の実家の父親が自宅で家畜として飼っていたニワトリを刃物でさばいた情景が目に焼きついて残っているからだった。

肉屋に並んでいるどんな上等な肉であろうと、それまで生きていた家畜を殺し、皮を剥ぎ、解体し骨を分け、いい部分だけを切り分ける。つまりそれを専門の職業としている人がいることも忘れている。

しかし、家庭では生きたままの魚さえ料理することは稀かもしれない。また肉を食べるたびにその殺される現場の姿を想像したら、せっかく美味しい料理の味が不味くなってしまうかも。

それはともかくとして、私たちが生きるために犠牲になってくれる動物にも感謝せねばな。(コレステロールが気にかかる、でも今日の昼間、焼肉を食べてしまった・・・)

「月刊現代」2007.4月号より。

このフレーズを「言葉の探検」というコラムで目にした時、約20年以上前に、耳にしたことを思いだした。それはあるセミナーで講師が口にしていたからだった。その時は耳で聞いただけだったので、日本語かと思っていた。

確かその時の話の中では焼肉か何かを引き合いに出していた。しかし、まさかこれが英語の単語であるとは気がつかなかった。ひらがなで「しずる」と書いても何の違和感もなかったからだ。シズル・・・それはsizzleというスペルだった。

さっそく辞書を引いてみた。シズル【sizzle】 「(1)(ステーキなどの肉や揚げたての食べ物が)ジュージューと音をたてていること。(2)転じて,食欲や購買意欲を刺激するものをさしていう。」

これでかなり判明したが、このミニ雑学コーナーによれば、次のようにもあった。「広告やデザインの世界で、人間の五感を刺激する感覚という意味で使われだし・・・」そこで、「シズル感のある写真」とか「シズル感のあるパッケージにする」という表現が使われているようだ。

そして人間の感情や臨場感を表すときにも使うようになったらしい。ならば、例えば「シズル感のある日記・ブログ」なんていう使い方も間違いではなさそうだが。意訳すれば、ワクワクする気持ちにさせる、次を期待させる、といったようなものか・・・な。