「産経新聞」2006.11.26付けより。

先日から同じ新聞から気になったフレーズを取り上げているが、この新聞を買うのはせいぜい週に一度程度。上記のフレーズは連載中の小説『あじさい日記』(渡辺淳一)の中にあったもの。

連載は読んではいなかったが、たまたま昨日触れた「断」という記事のすぐ下にあったので目に入った次第。上記の“~”の部分には“男”が入っている。さらにその後には「秘密のないような一生では、面白くないだろう」とつづいていた。

話は変わるが、よく何かの製品など見て「これどうやって作るの?」と聞くと、聞かれた方は、得意げに「それは一応企業秘密なもので」などと答えたりする。また、人に歳を聞くと「それはヒ・ミ・ツ」などというセリフなどもありそうだ。

さらに、「ここだけの話しだが」というよなものも、秘密のつもりであろう。しかし、意外にも早くそれは伝わったりするもの。身近なところでは、ヘソクリなども秘密のものだろう。その額が多いか少ないかは別として。

つまり人に言えないことは全てが(恥ずかしいことも含めて)秘密ということになってしまう。さて、取り上げたフレーズだが、文章の中では“男”が入っていたが、これが“女”であっても通用しそうでもあるが。あるいは“人”ではだめなのかな。

所詮、小説のなかのセリフだから真剣に考える必要もないが、やはり意味深でちょっと気になる・・・
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「産経新聞」2006.11.26付けより。

“断”というコーナーで評論家の呉智英氏が語っていたこと。連日のように、ほとんどの新聞ではイジメやそれが原因と思われる自殺について触れられている。テレビでの取材や報道も多い。

呉氏は上記のフレーズにつづいて、「死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら、復讐せよ。・・・」とまで述べている。

先日やや反発を受けたようだが、石原慎太郎氏の行っていたことを思い出した。いじめについて「自分で戦ったらいい。ファイティングスピリットがなければ一生どこへ行ってもいじめられるんじゃないの」と語っている。

彼らしい歯切れのいい発言でもある。そういえば昔『スパルタ教育』という本も書いていたっけ。かつて石原家はかなりのスパルタ教育で有名だった。いまでは「スパルタ教育」も死語になったかな。

小中学校でのイジメは常に自分より弱いものに向かって行われる。時には教師から生徒という立場を利用しているのもあるらしい。決して強いものに向かってはイジメは発生しないはず。

もし、イジメを行ったものがより強いものから必ず報復を受ける(時には倍返し)、というシステムが確立されたらどうだろう・・・。(いずれにしても悲惨な結末だけは避けてほしい)
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「産経新聞」2006.11.26付けより。

コメディアンのすわ親治(54)の言葉だった。彼は舞台にこだわりたいという。それは、スタジオと違ってお客の反応がすぐに感じられるからだった。

“何か言う”とは、演技の全てを指していると思われる。面白ければ笑ってくれる。コメディアンにとって笑いという反応はその場で現金を得ているのと同じだ、という発想もかなり斬新に思える。

これを読むまで、すわについては知らなかったが、ザ・ドリフターズの元付き人で、「全員集合」では舞台で演技をしていたのだ。彼にとって当時のいかりや長介はかなり恐い存在でむしろ嫌いだったという。

彼がドリフを離れたかなりあとで、いかりやが書いた一冊の本が届けられている。その中で“スピード感、リズム、音楽性、動きの勘、タイミングといった点で注目すべき若手がいた。すわしんじ、である。”と3ページにわたって触れられていたのだ。

やはり才能があったのだろう。仕事にしても、勉強にしても、すぐに結果や反応がわからないともどかしさを感じるもの。芸人なら舞台、落語家なら高座、スポーツマンならグラウンド・・・そこが舞台になっている。

関係ないが「人生はひとつの舞台だ。そこでは人は役者に過ぎない」と言ったのはシェークスピアだったかな・・・
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「ゴールデン・ミニッツ」2006.11.26発行より。

これは、筒井康隆のインタビューのなかで目にしたフレーズ。彼自身作家と同時に役者もしている。もう25年ほど前には彼の舞台を観た覚えがある。(内容はすっかり忘れてしまったが。)

「作家は独り、役者は集団、いろんな意味で正反対の作業ですが、両方やるのは脳にも良いらしい。・・・」と語っている。それは彼にとってリフレッシュとなっているようだ。

私などは休日にはしばしばベッドの上で本や雑誌などを読むことが多いが、午後になると急に睡魔が襲ってくる。そしてそのまま横になって眠ってしまい、気がつくと夕方近くになっていることもある。

そんな時は、せっかくの休日が損した気分になってしまう。もっと別のことができたのに、と後悔してしまうのだ。そんな経験があるので、先日は眠くなり始めたときに、寒かったが思い切って外に散歩に出たのだ。

すると、歩きながら居眠りはできないので、目もさえてくる。1時間も散歩したあとでは気分もリフレッシュでき、別なこともやらねばと思ったものだった。その時は逆に時間を有効に使えた気もした・・・な。

昼寝もいいが、たまには別のことをしてリフレッシュするのもいいかな・・・
「産経新聞」2006.11.26付けより。

“産経抄”というコーナーで目に付いたフレーズ。ここでは、まずどんぐりについて述べられていた。どんぐりとは、ブナ科の木の実の総称であった。

「どんぐりの背競べ」という言葉を思い起こさせる。しかし、一見すると似たような木の実ではあるが、よく見るとその種類は多い。

どんぐりとその実を食べる動物たちの「せめぎ合い」があるという。ブナなどの木は5年から7年に1度「大なり年」といって、大量の実を落とすといわれる。

どんぐりが好物の、クマ、リス、野ネズミはこのごちそうに群がるようだ。しかし、翌年にはぴたっと実が少なくなってしまうこともある。

つまり、自然は毎年同じだけの木の実を供給してはくれないということもわかる。それは、同じだけ実を落とせばすべて動物たちに食べられてしまうと木が感じているかのようでもある。

樹木の伐採や自然によって、動物にとって食料としての実が少なくなると、人里に降りてきて農作物や人が被害を受けたりもするのだろう。

そういえば、自宅の庭にあるカリンの実が今年はまったく実らなかった。昨年は50個以上も採れたのに、まるで先ほどのどんぐりの実と同じようにぴたっと止まってしまった。しかし、そのかわり前年は30個ほどしか採れなかったカボスが80個ほども実り驚いた次第。

果樹はいつも人や動物たちの期待を良くも悪くも裏切ったり。つまり気(木)まぐれ・・・?
「R25」2006.11.22号より。

この後には「~違うジャンルの人と一緒になったときに化学変化が起きるんですよ」と続いている。これは、ひところ流行った異業種交流会を思い出させるフレーズでもあった。

“ブレイク・スルー・ポイント”のコーナーで放送作家の小山薫堂が述べていた部分にあったもの。この前提はここにも書いてあるように事前に、本当に“自分がアイデアの種”や専門的知識を持っている場合に限られるかもしれない。

ただ漠然と自分と異なるジャンルの人とコミュニケーションを持ったとしても、お互いに得られるものは少ないだろう。ここでは“種”を“薬品”と言い換えている。それぞれが持っているアイデアをスパークさせれば新しいアイデアが生まれる可能性はある。

昔からよく使われる発想法の基本、ブレーンストーミングとも似ている。個人が持っている脳みそをかき混ぜるところに醍醐味があるのだろう。

と、ここまで書いてきたら先日(22日)触れた、歌手の宇多田ヒカルと作家のダニエル・キイスの対談で、宇多田がキイスの言葉からインスピレーションをつかんだことを思い出した。

いずれにしても、たとえアイデアを持っていなくても自分とは異なるジャンルの人の話は勉強にもなるし、興味深いことは確かだ・・・な。(もちろん、自分がテーマを持っていればそれだけ得られるものは多いだろうが)
「自分のためにもっとお金を使おう」中谷彰宏著より。

たとえ、ある程度のお金があっても使わないでただ貯めておくだけではほとんど変化は起きない。ある意味生きたお金の使い方にはなっていないことになる。

もし手元のお金を使えば、それだけ楽しみや感動を手に入れることもできる。たとえ映画一本でも観れば、それだけ得られるものはあるだろう。

また、場合によっては新しい仕事を得られる可能性もある。直接仕事のために使うのではなく、人との交流や遊びに使えば経験にもなってくる。

もしパソコンが好きでそれで遊んでいるうちに、詳しくなって、人からは「あの人はそれについては詳しい」ということになり、もしかしたら仕事を任せられたり依頼が来たりする。

信頼され任せられると、人はまたやる気がでたりもするもの。だから、ただお金を貯めている人より趣味のパソコンで遊んでいる人のほうが仕事のチャンスが来たりもする可能性がある。(べつにパソコンにこだわる必要はないが)

そのためにはやはり、ふだんから身銭を切っておくというのが前提になるだろう・・・な。
たまたま、今日は「勤労感謝の日」だったのでふと思いついたこと。

まだ若いころ、この日だけはふだん仕事をしているから、そのご褒美として一日ゆっくり遊んでいい日だ、などど勝手な理屈をつけて解釈していたものだった。

もちろん、そんなことはないだろう。辞書には次のようにあった。「勤労をたっとび、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日。」しかし、なんだか抽象的で解りにくい。

今になってみると、個人的には感謝という言葉が実に沁みてくる。それには2つの意味合いがあった。1つは現在も(機会として)仕事があるということだった。2つ目は(身体的に)働けるということでもある。

実際、仕事をしたいと思ってもなかなか思うような仕事に就けない人もいる。また、働きたいと願っても、身体の自由が利かない人もいるだろう。そんなことを考えれば、今自分が働けることに感謝せねばならない。

また、勤労によって得られるのは金銭だけではなくさまざまな経験も得られている。仕事を通して得られる知識、経験、人との出会いやコミュニケーション。それは個人の気持ちの持ち方で変わってくるものだろう。

当然、経験の中には失敗や後悔も含まれるかもしれない。しかし、そんなものも全て含めて人生の勉強となっている。仕事があるからこそ実感できる満足感や達成感もある。

昔から言われる言葉に“病は気から”というのがあるが、せめて気苦労や、心労でストレスをためて患者にならないようにしたいものだと思った次第。

(思いついたフレーズは当然、勤労と心労、感謝と患者のことば遊びでもあるが)
「質問力」斉藤孝著より。

まず、すでに解っているはずの言葉、“インスピレーション”をウェブ上の辞書で確認してみた。「直観的なひらめきや、瞬間的に思い浮かんだ着想。霊感。」とあった。

会話をしていて、「そういえば・・・」や「それはいいアイデアかもしれない」などと感じる時がある。お互いに質問と返答を繰り返しているうちに今まで自分でも気がつかなかったことを思い出すことがある。

ここに1つの例があった。歌手の宇多田ヒカルと作家のダニエル・キイスの対談だった。ダニエル・キイスは『アルジャジーノンに花束を』や『24人のビリー・ミリガン』がベストセラーになっている。

このインタビューの当時、宇多田は16歳、キイスは72歳で年齢差56歳違いだった。また二人ともニューヨークの出身だった。宇多田が「何かを創るというのは、孤独なプロセスだと思います?」と質問している。

するとキイスは「もちろん。・・・自分の一部が自分を離れて、すべてを見ているような感覚がある。・・・・」と答えている。すると宇多田は「そういうの、私にもありますよ。これって曲に書けますね。」と述べている。

ここで、宇多田は曲への1つのインスピレーションを得ていたのだ。同じニューヨークで育った表現者同士という共通の前提がよりクリエイティブな会話になったのかもしれない。

いいインスピレーションはクリエイティブな質問や会話から生まれるのだろう。ブログもそんな機会になればいいんだが・・・
「道化の耳」小田島雄志著より。

小田島さんはシェークスピア戯曲の翻訳者で、東大名誉教授、東京芸術劇場館長でもある。これは“孫への手紙”というところにあったもの。筆者が小学2年(7歳)の孫に宛てた内容になっているが、まるで成人した大人にも通じるような言葉でもある。

さらに、すすんでいくと「友達づきあいというのは、待っていても何も得られない。自ら求めなければダメなのだ。・・・友達や先輩らを通じて求めていけば世の中には感動できるものがたくさんあるのだ。」とあった。

ここには実に祖父から孫への愛情たっぷりの文章がならんでした。小学生の子供にはもったいないくらいにも思えた次第。大人が読んでも十分共感できそうなほどだった。

さて、振り返ってみて自分にとって人生での財産といわれるほどの先生、先輩、友達に恵まれただろうか。もしそれが十分でないとすれば、自分が積極的に求めなかったのかもしれない。(その前に自分の価値もないか・・・)

一冊の本の中に書かれた“孫への手紙”(4ページほど)は、何度でも誰でも読み返せるからうまい方法でもあるかもしれない。簡単にどこかにまぎれて無くなることもなさそうだ。さすが小田島氏はすごいことを考える。