「煮ても焼いてもうまい人」立川談四楼著より。

落語の世界では、お茶くみは単に適当にお茶を出すというだけはない要素があるようだ。とくに前座というわれる修行時代にはお茶くみは修行にもなっていた。先輩の落語家の好みを知らなければならない。

熱い、ぬるい、濃い、薄い・・・さらには出すタイミング。また薬を飲むから白湯をくれとも言われる。そればかりか、着物をたためとか、着替えを手伝えといわれる。すると、そのうちこんなことまでやらなきゃならないのか、という疑問まで持つようになってしまう。

しかし、それらはすべてが修行なのだ。効率を考えたらやってられない。要するに、落語の世界では効率の悪さと戦うことが修行になっている。現在真打、名人といわれる人たちもその修行に打ち勝ってきた人たちだったのだ。

一般の会社では、今でもお茶くみということが行われているのだろうか。たとえあったとしても、それは別に修行でもなんでもないだろう。せいぜい自動給茶機か自動販売機が備えられていて、飲みたけりゃ勝手にどうぞ、というスタイルではないだろうか。

落語でいう前座の修行は客商売をしてる場合にも共通していそうだ。常連のお客さんがいれば、それぞれの好みを知って商品やサービスをタイミングよく提供できれなければ、本物のプロとはいえないだろう。そのためにはやはり修行の期間がが必要になる。

とはいっても、落語家でも修行の期間を見事にこなしたとしても、本当にいい(プロの)落語家になれるかどうかはまた別問題のようだ。そこが厄介なところ。

ついでながら、野球でいえばいくら二軍でいい成績を残したとしても、一軍で活躍できなければプロである意味もなさそうだし。(これを書きながら、先日二軍でジャイアンツと決別宣言した桑田投手をふと思い出してしまった・・・)
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「日経新聞夕刊」2006.9.27付けより。

これは二宮清純氏がピッチャーが成功する上での条件について速いボールのことを語っていた部分にあった。一般的にもよく言われるとことだが、投手は速いボールを投げられればそれに越したことはない。しかし、それだけでは十分ではない。コントロールや打者との駆け引き、マウンド度胸、体力、精神力さまざまなものが必要とされてくる。

よく本格派ピッチャーといわれる人はオーバースローが多い。かつてはアンダースローの大投手も存在していた。私の記憶にかすかに残っているのは、杉浦忠(故人)、秋山登(故人)、山田久志、足立光宏くらいだが。最近では下手投げのエース級は千葉ロッテの渡辺俊介程度だろうか。

現役の渡辺が『アンダースロー論』という著書を出した。その本の紹介を二宮氏がしていた。今まで村田兆治、星野信之、川口和久など何人かの投手が“投手論”や自分の経験のようなものを書いてきたのを読んだことがあった。しかし、それらはたいてい現役を退いたあとのことだった。このように現役のうちに“投手論”を書く人も珍しい。

最近では高校生でも時には150キロ級のスピードボールを投げる。西武の松坂も高校時代からの活躍をプロに入ってからも才能を開花させすぐさま本格派投手になっている。また、逆に渡辺のように別にスピードボールを投げられなくても、勝てているピッチャーもいる。

彼はいかに三振をとるかではなく、いかに打たせアウトにするかが計算できるのだろう。結局はバットに当てられれもアウトに出来ればいいのだ。結果的に打者に勝てれば。打たせて取る配球、つまり技巧派ピッチャーもまた見ているほうには楽しいかも。

ところで「必要条件」ではあっても「十分条件」ではないことって、日々の自分たちのまわりにもいろいろありそうだ。生活するにはお金は必要条件だが、幸せになろうと思えばそれだけでは十分条件ではないとか・・・

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ウェブサイト「百式」2006.9.16付けより。

今月中ごろに目にしたものがいまだに印象に残っている。人によっては大したものじゃないと思うかもしれない。それが上記のフレーズだった。

人に何かを説明する時、とくに大きさなどは何か既に一般的に知っているものと比較するとよく分かってもらえる。ピンポン玉くらい大きさとか、直径は十円玉と同じ程度とか、鉛筆くらいの長さ、大学ノートくらいのとか、よく聞くのが名刺大や文庫本のサイズといったもの。

ときどき新聞記事のなかの写真には昆虫や何か小さいものがあるとき、その横に大きさを比較するためタバコが一緒に写っていることがある。それではじめて、こんなに小さいのか、とか大きいのかというオドロキにもつながったりする。

とくに電話などで縦、横、高さのサイズを耳で聞いただけではピンと来ないもの。絵画のサイズもそれだけではわからないが、その横に人が立っているだけでもおおよその判断がつきやすい。

しばしば、国内でビールを飲んだ量を伝えるときに“東京ドーム何杯分の”というような表現があるが、それではサイズが大きすぎてまたピンとこない。また月と地球との距離を○往復も実感がわかない。

そうそう、私はかつて約350キロの距離をプールで泳いだことがある。(もちろんそれは10年間での合計距離だが、最近はすっかり陸にあがったカッパ)とはいっても数字だけだと、それがいったいどのくらいの長さなのかさっぱりわかない。

そこで、東海道新幹線の距離を持ち出すと比較的わかりやすい。つまり東京から名古屋あたりまでの距離になる。そう思うと自分でもちょっとビックリ。でも、大したことはない。単純に月に4キロ泳しか泳がなくても、年間だと48キロになる。それを10年続ければ・・・(話しがそれたかな)

蛇足

この1週間で2回ほどプールで泳いだが、合計でも1.5キロも泳いでいない・・・。スタミナ不足を痛感!
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「ゴールデンミニッツ」2006.9月号より。

このフレーズを目にして思わず部屋の中を見回してしまった。部屋と言ってもおもに自分が使う部屋を指しているのだろう。

自分にとっては寝室かもしれない。約18年前に家を建てたときには、ここを自分のアトリエか書斎として使おうなどと思っていた部屋がある。しかしそれはその後子供部屋になってしまった。

というわけで、自分の部屋として使っているのは寝室がメインになってしまった。その片隅には書棚や机が置いてある。机の上にはパソコン。そこが自分の書斎のようなもの。そして、自宅で本を読んだりメモったりするのはほとんどがベッドの上だ。

ベッドの背もたれに寄りかかりながら読んだり書いたりしている。そこが一番リラックスできる場所になっている。しかもその横にはさまざまなものが積み重ねられている。不精な私は、寝ていても筆記具やノートや雑誌を手が届く範囲に置いてある。

かなり雑然とした部屋だ。確かに自分の個性を表している。もし、書斎ということを考えれば、電車の中や喫茶店も気持ちが集中している間はそうとも言えるかもしれない。まあ、人によってはケータイがあればドコデモ書斎だ、という人がいるかもしれないが・・・。
「苦情・クレーム博覧会」のメルマガ(2006.9.26付け)より。

“本日9月26日、公開された苦情・クレームが事業開始4年目にして3万件を突破しました。”とあった。それだけ多くの人が訴えたいことがあるということになる。しかも、それらはかなり具体的なものに違いない。

以前、私自身も2件ほど応募した覚えがある。さて、このメルマガには「見つけた!!苦情・クレーム解決品!!」というコーナーがあった。ある主婦からのものだった。それはこんなものあったらイイナというようなものだった。主な内容は次のようなものだった。

「写真たてに写真を飾るのが好きだけど、ずっと同じ写真だと飽きてくる。また写真を変えるのがめんどう。最近はデジカメで写真を撮って、パソコンに保存しているので、写真たてに写真をかざるために印刷するのも大変・・・。 だからデジタルでスライドショーのような写真たてがあればいいのに」

そしたら、実際にそんなものは存在していたのだ。つまり「デジタル写真たて」。それを作っているのは茨城県つくば市にあるドリームメーカー株式会社 だった。最新機種は、動画や音楽データも再生でき、タイマーで電源オン・オフも可能だという。

つまり、調べてみれば意外に欲しい物が見つかったりするもの・・・だな。

(蛇足)

「あなたの日頃の苦情・不満・提案を買います」というサイトはhttp://www.kujou906.com/
906はクレームって言う意味ですね。
(以上の2つのリンクサイトは宣伝のつもりではありませんので念のため。)
「煮ても焼いてもうまい人」立川談四楼著より。

古今亭志ん駒はヨイショの名人らしい。その彼のモットーが上記のフレーズだった。これはそのまま川柳なのだろうか。実にエッセンスだけが凝縮されているようにも思える。

志ん駒によれば、何でもかんでもただ褒め上げるのは具の骨頂で、相手を研究し、喜びそうなツボをそっと押さえるのがコツらしい。まずは観察力が必要だ。一例として次のようなものがあった。

志ん朝夫人がゴルフで絶好調のとき、彼女に聞こえるか聞こえないかの声でボソッと言った。「チェッ、器量がいい上にゴルフも上手いンだからやンなっちゃうな」その結果、ステーキをご馳走になったという。

ところで、「よいしょ」についてはおぼろげながら分かってはいるが改めて似た言葉とあわせて辞書を引いてみた。すると次のようにあった。

「よいしょ」・・・ごまをすったり、おべっかを使ったりすることをいう語。「上役に―する」。
「おせじ」・・・相手の機嫌をとろうとしていう、口先だけのほめ言葉。「―を言う」「―にもよい出来とはいえない」「―笑い」。
「ごますり」・・・他人に気に入られるように振る舞って、自分の利益を得ようとすること。また、その人。

「おせじ」や「ごますり」に比べると「よいしょ」は実際にはややほほえましいニュアンスがこもっているようにも思える。(気のせいかもしれないが)

志ん駒が名人なら三遊亭歌奴はヨイショの達人であるという。どちらもその道ではすごいということだろう。「ヨイショ道」は誰にでも練習次第ではそこそこ上達するのかな。(そんなもの上達してどうする!と自分にツッコミを入れてみたり・・・)
「煮ても焼いてもうまい人」立川談四楼著より。

指定された時間に楽屋入りするなんてことは芸人にとって、当たり前なことだろう。それだけでなぜ大喜びなんだろう、と思ってしまう。その人は立川談志のことだった。

談志は遅れてくるのは当たり前、こないことだってよくあるという評判があるらしい。その理由について弟子の談四楼が尋ねると次のように答えている。「急いだり、イヤイヤ行って結果のよかったためしがねえ」

そんな談志だからこそ、定刻に到着すれば主催者は喜んでしまうのだ。もちろん、談志は自分に自信があり人気者だからこそ、そんなことができるのだろう。実力者の特権か、とさえ思えてくる。形だけ真似しても、始めから世間に認められなければすぐに仕事から干されてしまうに違いない。

つまり、談志は主催者にとってリスクを負ってでも呼びたい落語家なのだ。ただ落語を聞きたいのではなく、談志が演じるのを聞きたいということになっている。「ぜひ、あの人を」「あの人でなければ」と指名されるのは一般の仕事でもありがたいこと。仕事のやりがいはそんなところにもある。

「談志を聞きたい」というリクエストは多く、しかもどの会場も満員になるという。こういうのをカリスマといってもいいのかもしれない・・・な。
「メトロミニッツ」2006.9.20付けより。

雑誌はまさにアナログの世界。そしてホームページでその雑誌を大量に紹介しているというのもちょっとユニーク。これはmagabon というサイトの宣伝そのものだった。とはいってもいつでも無料で覗くことはできるから別に問題ないだろう。

“雑誌の表紙や目次には「時代の空気」や「今」を読み解くキーワードが詰まっている。”というコピーも目についた。今日は引用ばかりになってしまうが、「出版科学研究所のよれば、’05年に店頭に並んだ雑誌は3556点、’06年1~7月に新たに創刊された雑誌は89点あるという。しかし5年後にはいったいどれだけ残っているだろう。

書店でその全てに出会えるわけでもない。雑誌類は時どき書店や図書館でいきあたりばったりで、手に取ったりするがたまたまその時目にしたものばかりなので偏りがある。また、どんなものがあるかを眺めるだけでも時間がかかりそうだ。

さっそくこのサイトにアクセスしてみた。やはりかなりの量の雑誌(月刊誌)が一覧できる。このマガボンというサイトでは最新号の表紙、目次、一部中身がチョイ読みできたりする。いっぺんに数十冊の最新号の表紙が眺められるのは意外に面白い。

でも、だらだらと目次やチョイ読みをしているとかなりの時間がかかってしまう。でも立ち読みじゃないから疲れないかも。(小さい文字もかなり拡大して読める。)
「PRESIDENT」2006.9.18号より。

こう語っているのは田原総一郎氏だった。常識は基本的に誰もが身につけたり知っているという前提にたっている。(しかし、なにが常識かも判断に迷ったりするのも事実だろう。)

まあ、それはともかくとして常識や一般的なことを知ったうえで、そこから飛び出すというのもかなりのエネルギーが必要そうだ。常識をひっくり返しても、それが誰にも相手にされなければ全く意味はない。

少なくとも常識にとらわれているうちは、画期的な新しいアイデアは絶対に生まれてこない。ベンチャーといわれるような事業を起業して成功した人はきっとそんな才と実行力があったのだろう。

田原氏は企画してつくったものが、「新しい常識」になるほどのものでなければならない、しかもその新しいアイデアは正しいことではなくトンチンカンなところから出てくるとも言う。

結局トンチンカンなことを面白がるという風土も大事になってくる。しばしば、耳にするのは「それは前例がない」「それで儲かるのか」「予算はこれだけだから」・・・など。

はじめからこんなことに縛られていたら、絶対に独創的な企画は生まれないだろう・・・な。
「知性の磨きかた」林望著より。

筆者の学生時代には、何も教えないで教えてくださった先生が3人いたという。教えてはくれないが、自分で勉強したことにたいして励ましてくれたようだ。それでなおさら学ぼうという推進力になったのだろう。教わるは受動でも学ぶは能動でなければありえない。

しっかりと評価されることで、勉強する側には自信がわき、勇気づけられ動機づけられる。林さんは勉強によって身につけた方法は、その後も役に立っていると述べている。つまり、単なる知識を身につけるのではなく方法を学んだことこそが財産になっているようだ。

ときには指導者のたったワンセンテンスが、教え子の生き方に大きな影響をおよぼすことさえありうるのだな。とかく親切すぎる先生はすぐに知識を植えつけようとするが、それだけで生徒が育つわけではないのだ。

繰り返しになるが、「片々たる知識はどうでもいいんだ。方法を身につけなさい」と教えられたという。私の学生時代にはそんなこと言ってくれる先生はいなかった・・・な。まあ、たとえいたとしてもその意味さえ理解できなかったに違いない。