「PRESIDENT」2006.8.14付けより。

定石というとすぐに連想するのが、将棋や碁になってしまう。もちろん一般の仕事にもそのようなものはあるだろう。ここで改めてgooの辞書で調べたものをコピーしてみよう。

(1)囲碁・将棋で、ある局面において双方にとって最善とされる一定の打ち方・指し方。長年の研究によって確立されたもので、それに双方が従えばある局面の結果は互角になる場合が多い。〔囲碁では「定石」、将棋では「定跡」と書く〕
(2)物事を行う上で、一般に最善と考えられている方法・手順など。
「―どおりバントで走者を進める」

私がこの雑誌のなかで、注目したのは「自分の経験+他者の経験」という部分だった。自分の経験から学べるものは「1」でも他者から学べることは「N」になるという。つまりその人の数だけ経験がありそこからも学べるという意味だろう。

ビジネスリーダーはよく司馬遼太郎の歴史小説やビジネス書から学んでいることが多いらしい。そこにある他者の成功と失敗を自分の立場やケースに置き換えて学んでいるというわけだ。簡単に言ってしまえば温故知新にもちょっと似ていそうだな。

定石を学んだ上でさらに一歩進めた+αがあって、はじめて新しい発想が生まれるのかもしれない。基礎がしっかりしていなければ応用もきかないか。

そんなヒントは歴史小説、ビジネス書、スポーツなどいろいろなところにあったりする。そういえば、史記や三国志からは多くの故事成語が生まれていたな。(こんな勝手な持論を繰り返してばかりいると四面楚歌になったりして・・・)
AD
「PRESIDENT」2006.8.14付けより。

データというものは、だいたいが過去の実績や記録だろう。それを分析することで今後の対策や方針を立てる参考にしたりする。また、その調査データをもとにアイデアを考え出すこともあるだろう。

しかし、そのデータはすべてを語るわけではない。ここでは次のような指摘があった。「概してデータ分析の専門家は統計処理しづらい特異点や異常値のデータは外してしまうことが多い」

つまり、データには盲点もあったりするのだ。そんなところにも意外なアイデアの元が潜んでいたりする。ここに面白い実例があった。アメリカの話だが、それはゴキブリ殺虫剤についてで、週に一缶まるまる使い切ってしまう老婦人がいたのだ。

この人は、ゴキブリを見つけると1分も2分も殺虫剤をかけ続けたのだ。というのも、死ぬとはわかっていても、動いているのがイヤだったという。(実際は15秒くらいかければ必ず死ぬのだが。)確かに動きが止まらないうちは落ち着かないもの。

そこで、そこに気がついたメーカーは麻痺剤を入れた殺虫剤を開発したのだ。ゴキブリが死ぬまでの時間は変わらないが、5~10秒で動きは完全に止まるものだった。この新製品は爆発的にヒットしたという。

従来は、殺虫剤をかけたら死ぬまで待つしかないと我慢していた消費者の隠れたニーズに気がついたのだ。ユニークなアイデアはほんのちょっとした気づきから生まれるものなだな~。しかもそれは従来のデータには載ってこないことだったりして・・・
AD
「朝日新聞」2006.8.27付けより。

“仕事力”というコーナーで香山リカさんが述べている言葉。この人は何年も前から、新聞、雑誌、テレビ、本などとマスコミへの露出度が高い。本業は精神科医で大学の先生だから、“タレント”教授になるのだろうが、それは本来の“才能”があるからとも思われる。

とは言っても、始めから望んでこの道を目指したわけでもないらしい。しぶしぶ医学部に入ってしまい、いやいやながら精神科医になってしまったという。人生の岐路に立つたびに、本意じゃないが選択して自分の仕事をしてきたらしい。

人によっては自分が望んだ道を真っすぐに突き進んで掴み取る人もいるかもしれないが、彼女の場合は消去法で、今は最も居心地がいい場所にたどりついていると結論づけている。いい人生といえそうだ。また、自分たちだって社会に出て数十年たったら、そうとも考えなければつらいのではないだろうか。

さて、タイトルのフレーズだが、仕事は自己実現ではあってもそれはひとつの大切な仮面でもあると思っているという。本当の自分ではできなくても、仕事となれば可能になるという意味だ。

一例があった。彼女の医者仲間でも、個人的にコミュニケーションすることが苦手ではあっても、白衣を着て患者さんに向き合うと優しく根気よく話しに耳を傾けることができる人がいるという。人見知りでも仕事となればそうとばかりは言ってられないか。

これは白衣という外的なもので心のスイッチをうまく切り替えられた例だろう。そういえば、私の高校や大学時代の先生も教室ではいつもネクタイに背広を着ていたが、それは仕事中であることを自覚するためだといっていたことを思い出した。

考え方は人それぞれだろうが、仕事という意識で望めば個人でするよりより大きなことを成し遂げることもできる可能性もあるだろう。(使える経費だって大きいかも。人脈だって貴重な財産・・・)
AD
「NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」2006.8-9月号より。

先日ぶらっと立ち寄った書店でNHKのテキストコーナーでちょっと変わった一冊を目にして衝動買いをしてしまった。それが上記のものだった。表紙にはジャイアント馬場が正面を向いている写真があった。

この人物にこだわっていたのは香山リカさん(精神科医、大学教授)だった。彼女は子どもの頃からのプロレス観戦が趣味だという。しかも熱烈なジャイアント馬場ファンだったようだ。この一冊のなかには時代背景から現在のプロレスについてまで、自分の経験を通しながら掘り下げている。本当のファンでなければそこまでは書けないだろうな。

私もかつてはプロレスファンだったが、馬場が率いる全日本プロレスより、むしろ猪木の新日本プロレスを好んで観戦していたな。昭和50年代には会場までよく足を運んだもの。地元で全日本プロレスが開催された際には出かけたが、控え室を覗くとそこには馬場が椅子に座って葉巻をくわえていた姿を思い出す。

プロレスに対してしばしば、あれはインチキだ、八百長だ、ショーだなどということを耳にするが、そんなことはどうでもいい。とにかく単純に頭を使わずに楽しめるのがいい。試合展開はあらかじめわかっていても、各選手が持つ得意技をいつ出してくるのかも楽しめる。

エンターテイメントとしてみれば、初心者もマニアも関係なく同様に楽しめる。先の“亀田対ランダエタ”のボクシング世界戦の試合結果が問題になったようなことは、プロレスの判定結果では起こらない。始めから反則が認められているというのも面白い。

あのゴールデンタイムにプロレスが放映されていた頃は、自分にとっての古きよき昭和の一コマでもあったな・・・
“24時間テレビ”はもう毎年の恒例となっている。そこでは必ず涙を誘うコンテンツがいくつも用意されている。ハラハラドキドキの感動のドラマもあったりする。

ところで、今朝の朝日新聞、日曜版には「涙によるストレス解消効果は、うれし泣きでも悔し泣きでも、涙の理由は問わない。」とあった。実際映画を観て感動すると、どうしようもなく涙が流れてしまうことがある。それは理屈では説明のしようもない。

結果的には「泣ける」本や映画はヒットしているのは事実だ。レンタルビデオ店によっては、「泣くって決めて観る映画」のコーナーまで用意されている。泣いてすっきりすることは、体や心にもいいらしい。

話は変わって、今日の午前中、都内杉並区のある街を歩いていたら、先ほどの“24時間テレビ”で今朝見たばかりの1人に出会ったのだ。「あっ!柴田(理恵)さんですよね?」というと彼女は「こんにちは」と笑顔で答えてくれたのだ。(トレードマークのような)白い歯が印象的で目元もしっかりと笑っていたな。

「あれ、朝テレビに出てましたよね」というと「今休憩中なんですよ」との返事。彼女は犬を散歩させていた。“24時間”のなかの貴重な休憩時間にも犬の散歩とは熱心なこと。

初対面でも、仕事柄か自然と身についた笑顔がそこにはあった・・・な。(さすがプロ!この庶民的な役者は、その後会場にもどってまた“24時間テレビ”に出演していた。)
「朝日新聞、土曜版」2006.8.26付けより。

前日たまたま笑顔について触れていたら、今朝の新聞の“フジマキに聞け”のコーナーで藤巻幸夫氏が21歳の女性の質問に答えていた。その中のワンフレーズ。

質問は「就職活動を控えているが容姿に自信がないので、整形しようかと悩んでいる」というものだった。それに対して、藤巻氏は整形よりまず笑顔が大事だという。

逆のことを考えるとわかりやすい。いくら容姿が良くても、暗くどんよりとした表情では決して好感を持たれないからだ。就職活動をするということは、自分を売り込むということでもあるだろう。

やはり第一印象が大事であることは言うまでもない。いくら中身に自信があろうとも、ブスッとしている人間は損をするに違いない。しかし、自然な笑顔がこぼれるような人は受け入れられやすいだろう。同じ仕事をするにしてもスムーズにいくはず。

そのためには普段からの心がけも大切になってくる。仕事となれば、笑顔の訓練も必要なのだろう。そうそう、口だけでなく、目元もちゃんと笑顔になっているかな・・・。

何ごともほんのちょっとした努力だったりして。笑う門には福来るならいいですがね。そういえば、最近腹の底から笑ったのはいつだったろうか?
「ゴールデンミニッツ」2006.8月号より。

東京メトロのフリーペーパーのなかで、こう語っているのは藤巻幸夫氏だった。彼は“人とコミュニケーションしていく中での笑顔っていうのは、作るものじゃない。からだ全体で笑わなくちゃ”という。

確かに口では笑っているようでも目がそうでもない人がいるもの。やはり目は口ほどにものを言うは本当のようだ。つまらないことでも声を出して大げさに笑えるかもしれないが、本当に面白いかどうかはちょっと疑問の時もある。

困っている時に出会う笑顔ほどありがたいものはない。真剣な表情の相手から笑顔がこぼれるとこちらの気持ちがほっとゆるむ瞬間がある。そうそう、メールやブログのコメントの最後に“(笑)”がついているだけで、気持ちがほっとすることもあるな~。

時には笑顔は武器でもあるようだ。店などで笑顔で対応されるとつい衝動買いしてしまったりすることもある。しかし実際はその逆で愛想がイマイチでせっかくの買う気持ちも失せることのほうが多いかもしれないが・・・

ついでながら・・・

別のコーナーでこの藤巻氏はコミュニケーションで大事なキーワードというのを挙げている。そのなかに5つの「S」というのがあった。それらは、「スピード」、「シンプル」、「センス」、「スマイル」それと「しつこさ」だった。この中にもやはりスマイル(笑顔)は入っていたな。
「月刊現代」2006.8月号より。

未熟な大人、そして純粋でない子どもが増えている中でも、きっちりと自分の才能を信じて伸ばそうと努力している子どもたちもいるもの。(別にリアルタイムではないが)たとえば、次にあげたことなどはその一例かもしれないと思った次第。

乙武洋匡氏の“教育レポート”という記事の中にあったフレーズ。これは彼が華道家の假屋崎省吾さんと対談したときのものだった。假屋崎さんは子供のころ、同世代の友人たちが野外で野球を楽しんでいてもそれには加わらず、自宅の庭で草花の世話をしているほうが好きだったようだ。

自分でも変わり者と気がついたが、母親はそれを認めてくれたという。その喜びで「男性が華道」という周囲の目も気にせず、突き進むことができたのだ。そして、自ら信じた道で世間に認められる仕事ができている。

もしこれが、「庭で土ばかりいじってないで、みんなと野球でもしてきなさい」と強く忠告されたらどうだろう。一般的だといわれる価値観を子どもたちに押し付けると、才能や得意分野をつぶしてしまう可能性も強い。つまり、個性を伸ばすには親の勇気も必要なのかな。

(蛇足)

ここまで書いてきたら、先日(8/13) 触れたモーガン・フリーマン のことも思い出してしまった。彼自身の言葉をそのまま引用してみよう。

~~小学生の時の先生、ラブ先生が私の母に私をこの劇に出演させてもいいかと聞いてくれまして、母は「もちろんですとも、喜んでやると思います」と答えたのです。母はいつだって私に「あなたをハリウッドに連れて行ってあげるわよ」と言ってたんです。~~
「芸術力の磨きかた」林望著より。

この本のサブタイトルには“鑑賞、そして自己表現へ”とある。芸術は単に鑑賞するばかりではなく、もっとお気楽にその世界を楽しもう、というのがこの筆者の言いたいことのようだ。

しかしながら、全体的にはちょっと辛口の部分も目立つが、考えてみればそれはまた現実の姿かもしれないと思った次第。そう考えると、上記のフレーズもある意味納得できそうだ。

よく、子どもには枠をはめずに、子どもが持っている感性を伸び伸びと発揮させてやればいいなどとも言われる。しかし、必ずしもそれがいいともいえない。なんの基礎も知らなければ、ちゃんとした絵も描けないだろうし、まともに歌だって歌えるはずはない。

筆者は、子どもの感性のほうが大人より豊かだとか純粋だというのは錯覚だとも述べている。子どもたちがあるものに感動したりするのは、そのもの自体を知らないことからであることが多い。大人のように、既に知っているものなら別に感動もしないだろう。とはいえ、大人が先入観でものを見てしまうのもマイナスでもあるだろう。(ここが難しいところだ。)

筆者は自らの経験から面白いことを例に出していた。それは、メディアを通じて発表される子どもの作品はほんとうに「子どもの作品」かどうか疑わしいということだ。出版された子どもの詩集などはたいがい先生か編集者の手直ししたものだと思ったほうがいいらしい。

また子ども達が作曲したとされるコンサート番組のものでも同様なことがいえるらしい。子どもが作ったものはたいてい箸にも棒にもかからないという。確かに鑑賞に耐える作品などそう簡単にできるはずもないだろう。(プロだって苦労してるんだから)稀には、モーツアルトやメンデルスゾーンのような早熟の天才もいるだろうが。

今は夏休みなので、子ども達の宿題なども時には親の宿題だったりするかも・・・・・な~んて思ったりして。
「朝日新聞朝刊」2006.8.22付けより。

今朝の新聞はどれも昨日引き分け再試合が行われ、初優勝を飾った早実の記事を一面ほかで取り上げていた。その経過や内容についてはいまさらここで述べるまでもないだろう。

今朝目にしたこの高校野球関連の記事のなかでは、二人の元有名監督が対談していたのが興味深かった。箕島高校(和歌山)の監督だった尾藤公(ただし)氏と星陵(石川)の山下智茂元監督だった。

そのなかにあった色紙のような手書き文字による上記の「一期一会一球」という言葉が妙に気になっていた。なぜだろう・・・この語呂のよさか、リズム感かもしれない。これは尾藤氏が書いたものだった。

それに対して、山下氏は「最高の敵は最高の友、宝です」と書いている。これもまたなるほど戦ったもの同士だけが実感できることだろう。ヤンキースの松井選手はこの監督に育てられたことは有名。

実際、この2人の監督も1979年、第61回大会の3回戦で対戦していた。延長18回で箕島がサヨナラ勝ちをしている。その勢いで全国制覇を成し遂げていた。これは史上3校目の春夏連覇でもあった。

さて、話はもどって、タイトルのフレーズだが、最後に付け加えた一球はやはり野球人でなければ思いつかないことに違いない。もし今の自分なら・・・一日一日記(ブログ)一コメントくらいかな・・・・(まあ、それさえも難しいかもしれないが)