「発想力」斉藤孝著より。

老化は体力ばかりではなく、記憶力でも痛感することがある。もの覚えが悪くなったり、思い出せないこともしばしばだ。もともと記憶力がいいわけではないのでその傾向は強いのかもしれない。

ところがなんと、子供の頃の記憶は意外に覚えているものだ。時としてそれが条件反射のように思い出される。たとえば、地元のある道にさしかかると40年以上も前の子どもの頃、夏の暑い日に母親とバスに乗ってホコリがまっているデコボコ道を揺られたことを思い出す。どうしてかはわからないが、そのシーンは今でもかなり鮮明に覚えている。

しかし、おかしなことに数日前の昼飯は誰とどこで何を食べたか等は思い出せないのだ。しかも、一昨日の自宅での夕食さえも何を食べたかすっかり忘れている。もしそれが、家族の誰かの誕生日や記念日だったりしたら思い出すかもしれないが。

記憶といえば、受験時代に覚えたことなどは入学したとたんにきれいさっぱり忘れている。また学生時代英語のドラマでかなり長いセリフを苦労して覚えたにもかかわらず、終わったとたんにほとんど忘れてしまったものだ。まあ普段は必要がないからかもしれないが。しかし、その時の楽しかった印象だけは、おぼろげながらも思い出すことはできる。

人の脳はいったいどうなってるんだろう・・・不思議なものだ。(いずれにしても残念ながら、かなりもの覚えが悪くなっているのは間違いない)
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以前電車内で耳にして、その後も時おり思い出す言葉。

50代の女性が母親か父親に言っていた。つまり、人が車内で腰掛けている前にお年寄りが立っていると、席を譲ろうとするからそれを気遣っていたのだ。若い人から席を譲ってもらう(奪ってしまう)のが気の毒だと思っているようだった。

確かに座席に座っている時、お年寄りに前に立たれると困ることがある。もしその席が運よく自分が座ることができたときなら、比較的すんなりと譲れるもの。しかし、始発駅で15分も待ってようやく席を確保できた時にはちょっと迷ってしまう。(よほどの時を除いてきっと譲らないだろう。)

学生や若者だからといって必ずしも、疲れていないわけではない。ようやく座ることができた席をお年寄りにサッと譲れる人は尊敬してしまう。お年寄りに前に立たれると、なんだか自分が悪いことをしているような気になってしまう。(正直にいえば、メイワクだと思えるときがある)

お年寄りに席を譲るのはマナーとしてはいいことだが、自分が疲れているときはなかなかすんなりとはできないときもある。そんなことを考えると、先ほどの「座席の前に立っちゃいけませんよ」と親に言える女性はエライと思ったものだ。

しかし、それ以来そんな言葉は二度と耳にしたことはない・・・だからこそ印象に残っているんだろうな。
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「知的な男はモテる」中谷彰宏著より。

ライフスタイルを磨くってどういうことなんだろうと思ってしまった。

上記の“~の方法”はフレーズというよりむしろ本のサブタイトル。そして目次のページを開いていみると今度は“知性を身につける57の具体例”とあった。ついでながらこの本の表紙には英語で“An Intelligent Man Is Glamorousとある。このGlamorousとは魅力的という意味だろう。

目次からどんなものがあるかいくつか抜粋してみよう。・日々進化しよう。・合コンに行くヒマに本を読もう。・なんでも面白がろう。・本から元気を吸収しよう。・花を探すより土を耕そう。・「当たり前」の凄さに気づこう。・その人だけのためのひと言を添えよう。・いいカッコしない日記をつけよう。・誤解されてもくじけない。・もったいぶらない。・・・・・

これを見ただけでも知的になるってそう簡単そうじゃなさそうに思えてきた。こんなハードルが57もあると思うと走る前からちょっと疲れそうだ。でもチャレンジする人もいるんだろうな。

私の場合、知的の知ではなく幼稚の稚か、白痴の痴に近そうだ。こんなことばかり考えているからいつまでたってもモテるわけないか・・・
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「日経新聞夕刊」2006.7.26付けより。

文化面で小澤昭一さんが民主主義をもじって“貧主主義、落語に学べ”と題して語っていた部分で目についたフレーズ。

日めくりカレンダーにはたいてい、ことわざ、格言、教訓などのようなものが掲載されている。毎日気持ちを新たにしてくれるような言葉があって、ちょっと気持ちよくなったりするもの。ところが、それを365日毎日めくり取っていくにはかなりの根性がいる。かつて私もいただいたことがあるが、ほとんど三日坊主に終わった経験からそう感じている。

それどころか、毎月ごとや2ヶ月づつのカレンダーでさえ、ちゃんと切り取っていなかった。たいてい数日過ぎたあとで気がついたりすることが多い。まあ、毎日必要があって見ているわけではないからしょうがないか。

小澤さんが言っている、“日めくりカレンダーのような生き方”とは、いい意味で使われていた。すなわち毎日をことわざや教訓があるように、それなりに有意義に過ごすということだったのだ。

たまに、大衆的な飲食店の壁か柱にハガキサイズで分厚い日めくりカレンダーが掛かっているのを目にすることがあるが、それもめくり忘れているものがある。まして、そこに書かれているものを読むなんてことはないだろう・・・な。

「朝日新聞」2006.7.2付けより。

これを目にしたのは今月初めだった。その時にはよく理解できず、心にも留まらなかったことが、後になってから気になりだした。「仕事力」というコーナーで茂木健一郎氏が述べていた。この日のタイトルは「欠点は長所に、大化けする」だった。

欠点や苦手なことを意識すると、脳はそれを変えようと創造性が働きはじめるという。実に不思議なことで、にわかには信じがたい。そこで一つのエピソードがあった。

かつてスピードスケートで金メダルを取ったことのある清水宏保さんは、当然抜群の身体能力を持っている。そして、筋肉の一本一本まで自分でわかるし、制御できるようだ。

どうしてそこまでできるようになったかの大きな要因に、三歳頃から喘息で苦しんだことがあるらしい。いやでも自分の体の状況を気にしなくてはいけなくなる。ある部屋に入ると調子がおかしくなりそうだと感じとることができたのだ。

そして、自然と体の隅々まで神経を行き届かせ、コントロールできる術を身につけていたのだ。これが金メダルにもつながったという。

仕事にしても勉強でも、弱点、欠点がわからないうち、わかろうとしないうちは決して長所に大化けすることもないか。弱点があるからといって、いじけてる場合ではないのだ・・・ってことかな。

(それにしても、弱点や欠点が多すぎてそれを知ろうともしない・・・それが私の最大の弱点に見えてきたな)

前日の日記を振り返って思うこと。

昨夜は“芸術と筋肉の関係”について触れていた。ところが、冊子で読んだときのタイトルは「美しい脳の作り方」というもので、芸術や筋肉はメインのテーマではなかった。ところが、読んでいて私が気になったのは昨日書いたようなことだった。

つまり、本題とは直接関係なかったことかもしれない。そんなところにこそ、面白さを感じたりすることも多い。旅を例にとってみればわかりやすい。海外旅行をしたときなど、表通りよりもむしろガイドブックには載っていない路地を一本入ったところに意外な発見があったりする。それが旅の面白さを増してくれたりもするものだ。

脇道にそれると思いもかけない発見がある。たとえば、ノーベル賞や大発見をした研究者も本来の実験がうまく行かなかったり、その副産物のおかげで新発見や開発ができたということはよく聞く。これも横道にそれた効果だろう。

また、一般的には学校の授業でもそんなことはよく経験したもの。本来の勉強よりもむしろ脱線したときの先生の余談のほうがよく記憶に残っていたりする。仕事の場合でも雑談で盛り上がった時のほうが商談がスムースに進んだりして。

そうそう、いただいたコメントの中には筋肉が衰えている話や筋肉を鍛えねばなんていう内容でけっこう楽しませていただいた次第。本人は真面目なつもりで話しているにもかかわらず、意外な箇所でウケたりすることも。で、オイそこは笑うところじゃない!なんて言ってももう遅かったり・・・ね。

「本が好き!」2006年8月号より。

これは光文社のPR誌だが、かなり読みごたえがある。そのなかで西原克成氏(人工歯根、人工骨髄開発の第一人者)がいっていたこと。スポーツなら筋肉の話しが出ても当然とおもうが、芸術にも筋肉の話しがでたことは意外でもあった。

そういえば、芸術で使う微妙で繊細な動きはしなやかな筋肉なしには表現が不可能なのだろう。舞台の上のバレエや演劇の美しい動きも、支えているのは強靭な筋肉なのだ。

発声にしてもよく通る声を腹のそこから出すには腹筋を鍛えねばならないだろうし。豊かな表情には顔や口の筋肉も必要になってくる。たとえ軽い筆を使う芸術だって微妙な筋肉の動きがなければ。

結局芸術活動にはその種類によっても必要な部分に筋肉がバランスよくついていることが必要だったのだ。

とくにスポーツや芸術とは縁がない生活をしている私などはふだん筋肉を鍛えることはしていない。でも、ほとんど動かなければ(日常生活だけでは)かなり落ちているはず。

時どき腰が痛くなったりするのは、背筋力が落ちているからだ、とも言われる。それにしても、腹筋をはじめても一人では長くは続かないものだな。しかも最近は足腰も弱ってる、う~む・・・
「発想力」斉藤孝著より。

ひきこもりというとかなり深刻な状態に思える。一見すると何もかも一人ですまして、部屋に閉じこもってしまっているようだが、そんな状態も一人ですべてができるわけではなかった。

たとえば、ごはんを運んでくれたり、洗濯をしてくれるもう一人が必要なのだ。もし、それが自分で食事の材料を買ってきて料理をしていれば、それはひきこもりではなく自活になってしまう。

ひきこもりは世話をする二番目の人間がいてはじめて成立する現象だったのだ。まあそんな状態までいかなくても、人に頼らずなんでも自分でできると勘違いしている人がいたりする。でも、そんなことはまずない。

振り返ってみれば、毎日生活しているということは実に多くの人のお世話になっていることにも気づく。単に金銭を払えばすむという問題でもないだろう・・・な。

「発想力」斉藤孝著より。

昼間何気なく本屋に入って、これといって目に止まったものがなかった。でも、せっかくだから何か一冊ぐらいは買って出ようとも思う。そんなとき、この筆者のものなら当たり外れはないだろう、というのがある。

自分にとって斉藤氏の著書はその候補の一つでもある。で、帰り際にこの本が目に入ったので迷わず購入した次第。と、前置きが長くなってしまった。

世の中には“教え魔”というのがいる。私の知り合いにもいる。もう、20年近く前のことだが、私がゴルフ練習場に行きはじめたと話したらその人から“教えてやるよ”などと言われたことがある。(単なるおせっかいやきだ)

教えてやるといっても、本人だってほんの数年前にはじめたばかりだった。なんでそんな奴から教えてもらう必要があるものかと、心の中で笑っていた。当然ながら、万が一習うとしてもオマエなんかの世話になどなるものかと思ったもの。

このように人に教えたいというのが習性の人がいるようだ。でも、そんな人は本物のプロにはそうそういないのではないか。本当に実力がある人や超一流のプロや職人さんはそうそう簡単には教えたりしないだろう。(シロートさんほど教えたがりかも)

サラリーマンなどは後輩に指導という名目で仕事を注意がらみで教えたりする。それは時間外だとしばしば説教に変わったりする。つまり、指導と説教の境目はちょっと曖昧な気もする。そして指導が説教ととられたらもうおしまいだろうな。

しかし、そんな説教も瀬戸内寂聴さんの話しなら喜んで聞きたい人も多いようだ。法話とも言われる。プロの説教師には癒されたいと思っている人は多いもの・・・だな。
「ヤフーニュース」2006.7.22付けより。

この記事は前日からあったものだが、ちょっと気になったので取り上げてみることにした。内容は次のようなものだった。

「SNS(ソーシャルネットワーキングサイト)「mixi」で頻繁に日記を書き、多くの「マイミク」と交流している人が、コミュニケーションに疲れ切ってmixiを突然辞めてしまう――「mixi疲れ」とでも呼ぶべきこんな“症状”が、一部のmixiユーザーに見られている。」

mixi日記は、ユーザーによっては、一度書き始めると止められなくなってしまって、日記へのコメント機能やアクセス履歴を表示する「あしあと」機能が、ユーザーに「快感」を引き起こさせるため、と専門家は説明する。

ブログも(先日ちょっと触れた)コメント機能ではほとんど似たようなことがいえるかもしれない。でもブログで中毒症状を起こしたらちょっと注意かも。

記事の正確さのためにその部分をコピーしておいた。次のようになっている。・・・・・

つまり「コメント欲しさに日記を書く」→「コメントが付いて嬉しくなる」→「コメントをくれた人の日記にもコメントを返す」→「自分の日記へのコメントが途絶えると、コメント欲しさに新たに日記を書く」──というサイクルが際限なく続くのが“mixi日記中毒”の正体と言える。

いくらコミュニケーションとはいえ、ただコメントが欲しいために日記を書いているというのも本末転倒している。これでは何のための日記か意味がない。ブログ中毒に陥らないように気をつけねば・・・(自分としては、“疲れずとにかく楽しく”をモットーにしたいもの)