「スラムダンクな友情論」斉藤孝著より。

イチロー選手のエピソードはしばしば用いられるが、ここにも一つあった。彼は道具を大切にすることはよく知られている。しかし、かつて一度だけ三振をしてバットを叩きつけたことがあったのだ。それはまともに勝負してこないピッチャーに自分のバッティングができず悔しかったからからだった。

その後イチローはこのことをくやんでいるという。その理由は意外なことに「バットを作ってくれた職人さんに申し訳なかったから」だという。プロのバット職人は一人ひとりの選手に合わせたバットを手作りしている。ミリ単位、グラム単位の技で仕上げている。彼はその高度な技術を知っていたからくやんだのだろう。

同じメジャーの松井選手は毎年のようにバットの重さや太さを調整しながら新しいシーズンを迎えている。一方、イチロー選手はほとんど同じバットを使用しているという。しかし、それもオンリーワンのものだ。

ヒットやホームランを量産できる技が生きるのも、その選手にぴったりのバットがあるからこそだろう。バットをはじめ道具類のことを考えれば、多くの人に支えられて好きな野球ができているという自覚がパワーを生んでいたのだ。またどんなに素晴らしいプレーも自分ひとりでは成し遂げられないということも常に念頭にあるに違いない。

う~む、自分が仕事ができるもの、家族をはじめ周囲の協力があってこそか・・・自分もバット、いやバッグを放り投げたりしないようにしよう。
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「短編小説を読もう」阿刀田高著より。

筆者の二十代は松本清張が登場し盛んに力作を発表していたという。そして、それらを次々に読みあさるのが阿刀田氏のかけがえのない喜びだったのだ。

そういえば、自分の二十代から三十代にかけてもそんな一時期があったことを、このワンセンテンスは思い出させてくれた。私の場合も推理小説でそれは森村誠一だった。当時購読していた月刊「小説現代」にはしばしば森村作品の短編や長編が連載されていた。月刊の連載ものは次の月の号が出るまでが待ち遠しい。

ある長編の場合3回で終了予定が作者の構想がふくらんだため4回に延びたこともあった。きっと小説の中の登場人物が一人歩きしていたのだろう。そして作者は執筆が乗っていたに違いない。だからこそ読者はもっと待ち遠しくなる。そんなときはまさに、リアルタイムで作品の世界に入っていくようでもあった。

森村氏は当時長者番付の上位に数年連続で登場していた。いまも現役人気推理作家の一人ではあるが、その頃はきっと全盛期であったろう。私は新しく発表される作品を、この阿刀田氏が清張作品を待っていたようにむさぼり読んでいた。100冊以上は読んでいた。

その作家の全盛期の読者になれることって、ある意味貴重なことだったかもしれない。人はそれぞれそんな自分だけのお気に入りの作家の想い出があるだろう。それはちょっと味わい深いことでもありそうだ。
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「スラムダンクな友情論」斉藤孝著より。

つまりそれは何かといえば、筆者は「自分にとっての古典」だという。今ある「古典」は長い年月に耐えて新しい意味や感動を生み出してきたものだ。

そこで、偶然にも先日読んだ「名画読本」の中で赤瀬川原平氏も似たようなことを述べていたことを思い出した。彼は「名画というのはいつまで見ても飽きない絵のことだ。」と言っていた。

自分にとって気に入った本は何度でも読み返したくなる。そしてそのたびに新しい発見もある。同じ本も学生時代と社会人になってからとでは、異なる箇所が気になったりもする。

斉藤氏は同じマンガを何回もくりかえして読むことがあるという。しかも、読んでいる間にセリフまで覚えてしまい、ときどき頭の中に浮かんでくるという。ここまで、読み返すというのもすごいことだ。

また、たまたま今日読んでいた「牛乳の作法」(宮沢章夫著・劇作家)というエッセイのなかに“私の古典”というトピックがあった。その中で宮沢氏は「まっさきにに浮かんだ“私の古典”といえばマルクスの『資本論』を措いてない。」と述べている。

新しい新鮮な出会いは確かに大切なことだろうが、一方で繰り返しても飽きない自分の古典を持ていることも人間の深みと言う点では大切なことなのだ。はたして自分にとっての古典といえるものがあるだろうか・・・。

同じ作家の本を何冊も読んでいると似たような表現に出会う。そういえばこの斉藤氏の本は既に10冊以上は読んでいるが、“技化”という言葉がよく出てきてたな。同じ作家の本を読み続けることでも何か身につくことはありそうだ・・・な。
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これはきわめて個人的な意見でもある。
前日「名画」について触れてみたら、たまたま今朝の日経朝刊(2006.1.28)の別刷“NIKKEIプラス1”にあった「一度は見たい名画」というタイトルが目に入った。いろんなことについてちょこっとだけでも触れていると意外なものが目につくものだな。

かつて学生時代に美術の教科書に載っていた名画を見たいと思うことはあるもの。しかし、その本物を目にすることはそう簡単ではない。また、簡単に見られるようであれば、な~んだこんなものか、と思ってしまうかもしれない。

むしろ、本物を見るためにはそれなりの心構えも必要なのだろう。実物を見るのだという気持ちの準備があって、はじめてそれなりに大きな感動も得られるのではないだろうか。

さて、そこに掲載されていた名画の順位は次のようになっていた。(一生に1度はこの目で見てみたい名画をインターネットインターネットで調査した結果)

1レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ」 373
2 ゴッホ「ひまわり」 340
3 ムンク「叫び」 287
4 レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」 275
5 ピカソ「ゲルニカ」 170
6 ミレー「落穂ひろい」 168
7 ミケランジェロ「最後の審判」 166
8 モネ「睡蓮」 93
9 ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」 85
9 フェルメール「真珠の耳飾りの少女」 85

意外にも日本で人気のありそうな印象派の代表ルノワールは入っていない。ちょっと気になったのは日本語にした場合のタイトルのなかに4つの音が入っているものがいくつも入っていたことだ。モナリザ、ひまわり、ゲルニカ、睡蓮(すいれん)など。どれも短くて覚えやすく声にも出しやすい、つまり作品の特徴と同時に印象にも残りやすい。・・・なんてつまらないことを考えてしまったな。

いずれにしても、自分が見たことのある本物は上記10点のうち4つだった。でも、もっとちゃんと心の準備をしてから見るべきだったかも。
「名画読本」赤瀬川原平著より。

この場合の肩書きとは「名画」のことだ。筆者は「名画」だからというだけで、作品をみているなら、それは肩書だけ見て感心しているようなものだ、と指摘している。この名画は映画ととっても差し支えないだろう。

ここでのポイントは肩書きだ。一般的にも人につけられた肩書きだって、その人の内容とは一致してないことも多い。仕事上の付き合いの場合は会社や組織での肩書きに目がいってしまうもの。

また、資格で仕事をしている人も単純にそれで判断してしまうこともある。(最近では社長、税理士、一級建築士なども絡んだ事件も思い出してしまう。)

肩書きがいくら立派でもその人間性が優れているかどうかはまた別問題だ。たまたま仕事で係わり合いがあるから通用しているだけかもしれない。係わり合いがなければただの知らないよそのオヤジにすぎない。結局裸の付き合いをしてみなければ、どんな人かは伝わってこないもの。

絵を見る場合も、あまり肩書きという先入観にとらわれず、長い年月を生き抜いてきた作品をたくさん眺めるのがいいのかもしれない。赤瀬川氏はどんな絵の見方がいいか、一つのヒントを与えてくれた。

それは、「自分の身銭を切って買うつもりで見るのがいちばん」ということのようだ。身銭を切るならきっと真剣に見るだろう・・・な。
「R25」2006.1.26(No78)より。

こう述べているのは作家の石田衣良だった。何かを調べようとするとき、パソコンの検索画面にキーワードを入れてエンターを押せば、関連情報がずらっと出てくる。そのなかに欲しい正解を見つけることもできる。

確かに便利だが、それと同時に失っているものもある。私は自分で読んだ本のなかに、パソコンで検索した結果以外のことを見つけたときには、ちょっと嬉しくもなる。つまり、それは寄り道をしたことで、新たな発見をしたようなものだ。

自分の日常生活でのことを振り返ってみよう。何でも簡単に正解が得られることは気持ちがいいかもしれないが、ちょっともの足りなさも感じられる。

それに引き換え、とくにこれといった目的(あて)もなく、書店や図書館に入ると、どれを手に取ったらいいか迷ってしまうが、そんな無駄とも思える時間は贅沢で楽しい。

そして何気なく手に取った本や衝動買いした本が、後になってみると結構自分に有意義だったりしたものだ。目的の本をさっと、見つけるのもいいが、たまには無目的な本探しも悪くない。

似たようなことは人の話を聞く場合もそうだ。さまざまな人生経験を積んだ人はたいてい、寄り道、回り道をして、わき道に入ったり道草を食ったりしている。そういう人たちの話は聞いていても楽しい。

時には、あれこれ迷って無駄とも思える時間の中にも、楽しみを見つけたいもの。誰にでも、お手軽に得られる正解は、意外にもありきたりで退屈なものかも・・・
「スラムダンクな友情論」斉藤孝著より。

ここには福沢諭吉の例が取り上げられていた。彼はせっかっく苦労して蘭学を学んだにもかかわらず、大阪から江戸に来てみると英語がまったくわからすショックを受けたのだ。

もし、「蘭学者」として生きるならオランダ語だけでもよかった。しかし、洋学者として生きるなら英語を知らなければないことを痛感したのだ。そこで、福沢はまず自分は「洋学者」だと言って自らにプレッシャーをかけている。

それが勉強するための張りとなって活力源になったらしい。どうしてもやらねば、という理屈を自ら考えたからこそ頑張れたのだ。

しかも、1人で学ぶより友と一緒にやろうと、志(将来に対する夢、目的)を同じくする友を求めている。仲間がいることで継続することができると考えたのだろう。また、誘った手前途中でくじけるわけにはいかなかったとも言えそうだ。

1人でこれといったあてもなく、ただもくもくと日記を書いていても三日坊主になりやすい。しかし、ウェブ日記ではあれこれと書き込みやコメントを通じて交流できることで意外に長続きするもの。

あるところまで頑張れたら自分に“ごほうび”、というのも活力の元かもしれないな。でも、こんな日記ならとくに活力が出るような理屈もいらないか・・・(いや、一年続いたら記念になにかごほうびを考えよう)
「人間は脳で食べている」伏木亨著より。

まさにこれは健康診断のたびに不安を覚える自分にあてはまっている。自覚症状がまったく無ければ、自分の身体が不健康だとは思いたくないもの。たまに、多少の違和感があったところで、歳だからしょうがないかと半ばあきらめている。

しかし、健康診断の結果が他人の平均値や標準より、多かったり少なかったりで不安になる。そして、生活改善をしなければと思ったりしている。数値によっては具体的な生活改善が病気の予防になっているのだろう。

残念だが、数値情報によって大病を未然に防ぐためにはその不健康感を味わうしかないのだろうか。気にすればきりがない。そこで、手っ取り早いものとして、身近にあるのが薬品ではなく健康食品だ。

もう随分前からこのブームは続いている。さらにそれをあおるように、似たような健康関連雑誌も発行されている。また、昼のテレビ番組、例えばみのもんんたの「おもいッきりテレビ」で○○が身体にいいとなれば、スーパーの棚や八百屋からそれは一気に売れはじめて品薄になる。

一方、食品メーカーは販促の一つとしてトクホ(特定保健用食品)の認定を受けようと競っているのが現状だ。“トクホ”はよく効くキャッチコピーでもある。

いずれにしても、多くの人が健康への近道をしようとしている。(自分もそうだが。)いつも頭の片隅ではおいしくて、しかも健康にいいものは何かと探しているようだ。何も気にせず好きなものを好きなだけ食べられることは最高の幸せだろう・・・と思うのはやはり歳のせいかな。
「へそまがり人生設計メモ」藤本義一著より。

一般的に金持ちがハングリー精神を持つのは難しい。また、ハングリーであることとプアーはちょっと混同しやすい。

藤本氏は次のように言っている。「金がないために気持ちまで貧しくなったらそれはハングリーじゃなく、プアーだ」と。なぜか水前寺清子の、“ぼろは着てても心は錦♪”って言う昔の唄を思い出してしまった。(おやじだからしょうがないか)

さらに彼は父親から聞いて一番印象に残っているのは「頭に詰め込んだものは、死ぬまで失われない」という言葉だそうだ。財産や書画骨董を収集しても盗難や災害にあって失う可能性はある。しかし、頭の中にあるものは誰にも盗めない。自ら身につけた技術もそうだろう。

問題は頭に何を詰め込むかなのだ。そんなときハングリーなら、きっちりと価値のあるものを詰め込める機会かもしれない。知恵を働かせねばならないのはそんなときだろう。それがタイトルにある「一番貧しい時、大変な時に最もいいものを発見できる」となるのだろう。

同じことを繰り返すようだが、もしいま何かで大変だったらそれまで目の前に現れなかった“価値ある何か”をつかむチャンスかもしれないな。その何かは人それぞれの環境や境遇で異なっているだろう。

健康も失ってはじめてそのありがたみを痛感する。ときには気持ちを引き締めねばな。
「スラムダンクな友情論」斉藤孝著より。

この“クリエイティブな友情”という部分がとくに新鮮な感じがする。それはいったいどんなものだろうか。筆者によれば、友達と話しているときなど自分ひとりでは思いつかなかったようなヒントを得られるようなことを指しているようだ。

要するにそれは異なる物質が化学変化を起こしてまったく新しいもが生まれるような感覚ではないだろうか。1+1→2+αとなるようなことでもありそうだ。その+αの部分がクリエイティブな部分ではないだろうか。付加価値とも考えられるが。

スポーツのチームだったら1人ではできない動作が可能になったり、バンド仲間ならいままで考えもしなかった音やメロディーに出会える瞬間があるはず。そんなときにはクリエイティブな感覚を感じるのではないだろうか。

もし、お互いがすでに持っている情報だけをやりとりするだけなら「ギブ・アンド・テイク」の付き合いにすぎないと筆者はいう。そこからは“新しい何か”は生まれてはこないもの。したがって、たんに和気あいあいの仲良し友達だけであれば、それはクリエイティブな友情とは言えないだろう。

もし、新しい技を身につけようとするなら、どうしても張りのある関係を持たねばならないのだ。筆者は、たとえ会っているときに何も新しい何かが生まれなくても、会って別れたあとに、不思議にやる気が湧いていることもあるならそれもクリエイティブな友情だとも述べている。

この本は本来は若者向けに書かれたものだが、私のようなおじさんが読んでも結構得るところは多そうだなと思った次第。