「古典と仕事」鈴木治雄著より。

著者は実業界で生きてきた人だが、仕事に傾ける情熱と同じレベルの情熱を読書にも注いできたと述べている。

その読書の内容はほとんどが古典で、それを読むことが氏の生活の一部だったという。一般的にはなかなか古典には親しみにくいものだが、氏にとってはそこから得たものが経営の問題、対人関係など、あらゆる問題に対処するときのバックボーンにもなっていたのだ。

つまり古典は実業人としてどう生きるべきかを教えてくれたらしい。タイトルのフレーズのように古典との対話と言っているところがすごい。鈴木氏は次のように述べている。「私が問いかけると、かならずなにがしかの答えが返ってくる。それは読書というよりは、まさしく対話だった。」

私たちが何かを知ろうとするときに、書店で買い求めたノウハウ本を数冊読んで、分かったつもりになっているのとはまるで違う。すぐれた古典は読む人の成長に合わせて異なる感動を与えてくれるものらしい。

本との対話が出来るようになるためには、自分が事前に問題意識をもちながらじっくりと読み込む必要がありそうだ。ふだんは慌ただしくてそんなことはやってられない、と反論したくなるかも。しかし、鈴木氏はそれを学生時代から現役引退まで継続してきたのだ。やはり凡人とは違うか・・・
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これは、いまふっと頭に浮かんだこと。このホームページという部分はウェブ上の日記やブログとも置き換えてもいい。

たまたま出合って、ちょっと読んだり眺めたりした後で“お気に入り”に登録したサイトは数十件もある。それは当然後日また見たいと思っているからでもある。その後の記事や情報に期待しているからだ。

同時にそれまでのバックナンバーも読んでみたいと思うサイトにも巡り会うこともある。しかし、いったんお気に入りに登録はしたものの、その後約8割程は再三は眺めたりはしていない。一時の気まぐれで登録しただけのものも多いのだろう。

また、それらのサイトに読ませるだけの魅力がないのではなく、自分の知識不足や読解力不足によるものも含まれているだろう。

ときどき、一見派手でテクニック満載のホームページにも出会うが、その努力は認めるものの、どうしても親しみがわかないものも多い。時として内容が薄い場合がある。

それから、読んでいて、内容が深刻すぎるものや、宣伝CMが目に入りやすいものも興味を失わせる。

製作者と共通の価値観を味わえた時だけ、ちょっとした親しみを感じるものだ。つまり、自分がそれだけワガママだということだろう・・・
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雑誌「pen」2005.11.1号より。

この号の特集は「日常の達人になるためにに生活デザイン学」というものだった。

一般にデザインといえば洋服などのデザインを思い浮かべてしまう。この聞きなれない“生活デザイン”とはここでは日常生活で使う道具をさしていた。たとえば、食器、文具類、家具、掃除用具・・・などあらゆるものが含まれる。

日常は掛け時計の振り子のように繰り返されるばかりだ。そして、とかく私たちはイベントやブランド、外出などの非日常を追いかけることに心を奪われやすい。しかし、実際はそんな非日常よりもありふれた日々の繰り返しのほうがはるかに多い。

だからこそ、そんな日常を充実したものにしたい。身近にある“日常生活道具”を通じて日々の暮らしをもっと楽しもう、というのが、どうやら“生活デザイン学”というものらしい。

身近なモノ(生活道具)の使い勝手、素材、形、気持ちよさなどについて改めて思いをめぐらせてみるのもきっと面白い。

誰でも“これに限る”というようなこだわりのモノを持っているかもしれない。そんな仲間(道具類)が増えるともっと楽しい日常を過ごせそうだ。
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神田昌典氏のブログの中のワンフレーズより。

何ごともほどほどにしたほうがいいということだろう。占いも楽しみの一つならいいが、それだけに頼りすぎるとろくなことはないだろう。依存しすぎはどんなことでも自分のためにはならないもの。

日本も資源のほとんどを海外に依存しなけばならない。もともと資源がないのだから仕方がない。その代わり付加価値の高い製品にして輸出もしているから、それはそれでバランスはとれているのかもしれない。

占いのことを考えれば、姓名判断、星座占い、トランプ、タロット、手相、血液型・・・もう数え上げたらキリがない。もし一つの占いで満足な結果が出なけば、他のものも試してみれば新たな希望が持てるかもしれない。

だから、たまたま出会った一つの占いだけを絶対だと信じてしまうことほどバカらしいことはない。占いに対して真剣な人がいる限り占いビジネスは継続していくに違いない。

もし、ある人が血液型で相性が相応しくないと言われたら、せっかくの出会いの機会も失ってしまうかもしれない。知ってソンするか、知らないでトクするか・・・

まあ、いずれにしても占いによって思考を止めてしまうことが問題なのだ・・・な。
「キャッチフレーズの戦後史」深川英雄著より。

これを見たら何故かすぐに“尾頭付きの魚(鯛)”を思い出してしまった。つまり一見して“~らしい”というものだろう。

エビをもっともエビらしく思えるのはシッポの部分だ。これがついてないとなんだか間が抜けているようにも思える。

食べる際にはそこだけは残す不要な部分でもあるが、シッポがないとサマにならない。画竜点睛を欠くという言葉もやや似ていそうな感じがするな。まあ、ちょっとしたことで実体がつかみやすくなるものだ。

先ほどのエビのシッポの話しは、筆者が新潮文庫のコピー(約30年前のもの)から連想したものだった。その広告には桃井かおりの写真があり、何冊かの文庫本のタイトルが出ていた。

そのコピー(広告文)は「知性の差が顔に出るらしいよ・・・・・困ったね。」となっている。本来なら「知性の差が顔に出る。」だけで意味はストレートに通じる。つまりこれがエビなら食べる部分だろう。

そして「~~らしいよ・・・・困ったね。」がエビのシッポの部分となっている。これでより完成したコピーとなってイキイキした雰囲気が伝わってきそうだ。

たとえば、「“ちょっと気になるフレーズ”もあまり人気ないらしいよ・・・・困ったね。」という感じでも使えるかな・・・
「ウェルチ リーダーシップ31の秘訣」ロバート・レスター著より。

こういう行動をする人は管理職と呼んでいる。ウェルチは組織はスリムにして、管理職の層を少なくすると会社はよくなっていったという。ウェルチの経営理念では「管理はしなければしないほどいい」というものだ。

こんなことを聞くと、今年のプロ野球で日本一になったロッテのバレンタイン監督を思い出してしまう。とにかく野球を楽しもうということで、選手ものびのびとプレーしていたように思える。とくに3戦目まではそう感じた。それが3戦連続2桁得点につながったのだろう。投手も打者も持ち味を十分出し切ってた。

しばしば、管理職と呼ばれる人は「ものごとを単純にしないで、複雑にしようとする。アクセルを踏まずに、ブレーキをかけようとする。」とまでウェルチは言っている。

どうでもいい細かいことに時間を費やすべきではないのだ。大切なのは、どうすれば事態は改善するのか、その明確なビジョンを示すのが管理職の仕事なのだ。人は誰でも管理を連想させるものは嫌いなもの。コントロールされるというイメージもある。

あーだ、こーだと理屈をこねる前に、なにごとも情熱を示すことが大事なんだな・・・
「テリー伊藤 のってけラジオ」(10/19ニッポン放送)より。

これはむしろフレーズと言うより、意外だったことだ。先週たまたま車の中で聴いていたラジオのなかでこう語っていたのはナベツネ(渡辺恒雄読売グループ本社会長)だった。

番組のゲストとしてよばれていたこの日、普段マスコミで取り上げられるのとは全く違った一面が出ていた。いつもの球界への問題発言を繰り返す氏のイメージとはかけ離れていた。

犬などの小動物を可愛がっている。ブルドックやシェパードかと思いきや、なんとチワワが好きだと言う。(ちょっとずっこける。)

さらに意外だったのはスズムシが趣味らしい。本格的で毎年1000匹くらい育てて自分で楽しむほかプレゼントしているのだ。エサはキュウリ、ナスはもちろんだが熱帯魚のエサをよく食べて成長が早いという。(そのエサの名前は忘れたが)スズムシも高級なエサが好みらしい。やはり好きだからそこいろいろ研究しているんだろうな・・・

こんな話をまるで少年のように一生懸命話している時のこのオヤジは、どこにでもいる好々爺にしか思えなかったな。
「なぜあの人はタフなのか」中谷彰宏著より。

筆者はタフとはイキイキしていることだといっている。たしかに、ただ何となく生きているだけではタフという感じはしない。

ただ長生きしたからといって、それだけでは充実感はないだろう。本当に生きてると言えるかどうか疑問でもある。大切なのは好きなことをして長生きすることなのだ。

だから健康であることは必要だが、それ自体は最終目的ではなくなってくる。なにかしたいことがあって、そのために健康でなくてはならないのだ。

いったい何歳まで好きなことができるだろうか。それが長くできた人ほどぜいたくな生き方をしたといえそうだ。

好きなことが出来るのは、単に欲しいものを買い求めるよりぜいたくなことかもしれない。たとえば、旅行、読書、ギャンブル、グルメ、芸術、演劇鑑賞、都会(田舎)生活、スポーツ・・・無数にある。

好きなことがある→健康である必要がある→タフでなければならない。まず、自分が好きなことを探すことからはじめてみるかな。
「なぜあの人はタフなのか」中谷彰宏著より。

振り返ってみれば、今までいくつもの趣味を楽しんできた。しかし、それらは本当に趣味と言えるかどうかあやしい。何もかもが中途半端だったような気もしてくる。

飽きてしまうまで徹底的にやったものなどなかった。“飽きた”というよりむしろ途中で放り出してしまったかもしれない。その時だけ楽しんで身についた趣味などほとんどなかった。

中谷氏は飽きるまでやったなら、そのあとは好きになるか嫌いになるか分かれるという。考えてみれば自分は飽きっぽかったので、短期間で飽きる前に“諦めて”いたようだ。

結局早い段階で飽きたものは本当に関心や興味がなかったことに違いない。“飽きる”と“諦める”は似ていそうでまったく違った言葉だ。

勉強でも仕事でも趣味でも飽きるまでやり続けられる人は幸せな人だろう。私の場合はたいてい短期間で挫折してしまっている。何事も長くは続かない。熱しやすく冷めやすい性格でもあるし・・・。

そう考えると飽きるまでやれるということは、タフでエネルギーが必要なことでもありそうだ・・・な。
「なぜあの人はタフなのか」中谷彰宏著より。

タフという言葉で思い出すのはあのSBI代表取締役CEOの北尾吉孝氏ですね。自分から「私はそうとうタフですよ。敵にまわしたら手ごわいですよ」とマスコミを通じてライブドアの堀江氏(フジ・ニッポン放送株をめぐる争いの際)を威嚇してましたね。(今年3月ごろ)
かなり印象的な発言だったので、いまだに思い出します。

実はこれは北尾氏が意識的にタフであるというイメージを演出していたようです。そして事実上、彼の出現と行動(白馬の騎士として)で一時は長期戦と思われていた事態は一気に解決へと向かっていったようでした。

もちろん、北尾氏自身、タフであるからこそ現在の地位をつかめたに違いない。そして、マスコミ向けの発言でさらに強面感をアピールできたのでしょう。

筆者の中谷氏は「タフな人は敵を倒す人ではありません。自分が生きる人です。ヤクザでトップに立てる人は、相手をやっつけた人ではありません。生き延びた人です。」と述べている。

タフな人の反対はモロい人です。そんな人は強力な武器を持っている。しかし、タフな人はむしろ迷彩服のようなものでカモフラージュするのがうまいという。一見強そうに見えるからといってタフであるとは限らないんですね。

今、思い出したのはマラソンランナーです。トップランナーたちは意外にも小柄で痩せていたりしますが、誰よりもタフであることに驚かされますね。タフさ=執念、粘る力・・・かも。