「自己能力バージョンアップ58の方法」より

若いうちにはいろいろ試してみたいもので、それなりに無鉄砲に冒険などしてみるものだ。しかし、年齢が進むにつれて冒険はしなくなってくるもの。だからベンチャーで起業するのは20代、30代の若者が多いのは当然だろう。

確かに変化がないイコール単調な生活ということになってしまう。ルーティーンなライフスタイルは安全かもしれないがマンネリ感がただよって面白みにも欠けるものだ。そこからは新たな発見もない。すると自分の中の新しい自分にも出会えないことになってしまう。

最も身近なことで言えば、食べ物もたまにはそれまで食べたこともなかったようなものを試すことで新しい発見があるかもしれない。私は学生時代まではピザが好きではなかった。というのも味にクセがあって美味しいと思うものに出会わなかったからだった。

ところが社会人になって間もない頃、アメリカ人の友人に米軍基地のレストランに連れて行ってもらい、そこで食べてからそれまでの価値観がガラッと変わってしまったことがある。ピザはこんなに美味しいものだったのかと始めて気がついたのだった。それ以来、あまり不味いピザには出会っていないのはラッキーともいえそう。

さて、今日からこの怠惰なマンネリ生活にちょっとだけ変化をもたらしてくれそうな「小さな冒険」を探してみよう・・・かな。
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「自己能力バージョンアップ58の方法」より

誰にでも多かれ少なかれ悔しい思い、腹が立つこと、許せないと思うことがあるにちがいない。でも、初めは大きかったその怒りが時間とともに風化してしまうことが多い。まあ、しょうがないか、というような気持ちになってきたりする。それを筆者は怒りのマグニチュードが徐々に落ちていくと表現している。

地震の大きさを表す単位を用いているところにちょっと新鮮さを感じる。初めは気持ちを激しく揺さぶったものもいつしか風化してしまうのだろう。

しかし、その怒りをエネルギーとして昇華させることができればいい仕事にもつながるのだ。諦めるまえにそれをエネルギーに転換してみよう。

場合によっては素晴らしい詩や小説になるかもしれない。芸術作品が生まれるかもしれないのだから。

私が若い頃むさぼり読んでいた、推理作家の森村誠一氏は怨念の小説家とも言われていた。彼は大学卒業後、本来自分には向いていないと思ったホテルマンという仕事に就いて貴重な一時期を過ごしてしまったと言っている。そのことに対して怨念を抱いていたのだ。

できれば、会社という組織の歯車でなくほかの人には代行できないような自分だけの独自の仕事をしたいと願っていたという。その思いの強さが人気作家としての地位を築いたとも言えそうだ。

まあ、怒りなんてなければないで、それなりに幸せかもしれませんがね・・・
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「自己能力バージョンアップ58の方法」宮崎信治著より

ふだん聞きなれない「限界質量」とは、もともと物理学の用語だった。これは「ある結果を得るために必要な量」を意味してる。一般的な用語として比喩的にも用いられている。

筆者はプロの翻訳家をしている。その例でいえば、「翻訳家として生活が成り立つようになるまで翻訳した英文の量」ということになる。つまりこれが「翻訳家になるための限界質量」なのだ。

彼はよく翻訳家志望者から「どういう勉強をすれば、早く翻訳の仕事がもらえるようになるのか」という質問をうけるという。それに対しては、たとえどんな勉強をしたところで、1年やそこらでは仕事がもらえるレベルには到達できないという。まあ、当然でしょうね。その理由は絶対量が不足しているからなのだ。

藤本義一氏は作家になるまで一万枚以上の日の目を見ない原稿を書いたという。その枚数が彼には限界質量だったといえる。もちろん人によってかなりの差はあるだろう。一流の歌手として通用するには「どうしても歌わねばならない量」がある。

限界質量をこえてはじめて成功への条件が整ったといえる、と宮崎氏は自らの体験をとおして語っている。

結局は才能うんぬんよりもコツコツと勉強し続けることが出来るかどうかのほうが重要になってくるんですね。短期間で身につけたものはそれなりのものでしかないか・・・・やはり何事も一朝一夕にはいかないか。
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PRESIDENT2005.7.18号より

実はこの前に“斉藤流!”というのがついている。つまりこれは斉藤孝先生の提案なのだ。
一見ネガティブなイメージをもつような四字熟語でも「力」をつけることで、プラスのイメージに転じてしまうから不思議だ。

例えば「自画自賛力がある」といえば、単なる自慢ではなく、もっとポジティブな評価をうけそうだ。
四面楚歌力といえば、新しいプロジェクトを進めるときに、周囲から理解を得られなくてもそれを跳ね返し、孤独でも頑張れる、というふうに考えられる。

朝令暮改力なら、臨機応変に対応できるタイプにも思える。ここまで書いてきたら、別の人も似たようなこと言っていたことを思い出しました。それは本のタイトルに「老人力」や「優柔不断力」で有名になった赤瀬川原平氏でした。
つまり「力」をつけてその事実を認めた上で前向きに生きるということのようです。

あえてマイナスイメージを連想させるの熟語に「力」をつけて自らの技としてみよう。思いつきだが、三日坊主力・・・それを数百回、数千回繰り返せたら本物に近づきそうにも思えてくる。日記やラジオ体操ならいいが禁煙の場合はどうかな・・・

暗中模索力・・・真っ暗のなかで手探りしているうちに、最後に貴重なものを探し当てる力がある、と考えたらどうでしょう。

ついでに蛇足ながら、一攫千金力などがついたらかなりウレシイんですがね~
PRESIDENT2005.7.18号より

神田昌典氏がマインドマップ(発想とひらめきを生むためには役立つツール)ということについて書いている部分からのフレーズ。

「マインドマップ」とはもともとトニー・ブザン氏という脳研究の第一人者によって書かれたものだった。

神田氏はコンピュータにたとえれば、左脳は限られた文字数を整然と並べるワープロソフトだという。それに対して、右脳は圧倒的な情報量を高速で処理するCPUということになる。

まず、発想を視覚的なビジュアルでイメージでしてみる。イメージは論理とは対極にある。こんなイメージ、あんな感じというようなもの。このイメージを拾って書き留めることで、創造的思考が生かせるという。何かを考えた瞬間に、脳の中では大量に言語化されていない大量の情報が流れ猛スピードで処理している。左脳が論理だとすれば、右脳は芸術脳ともいえる。

個人的には論理的にものごとを考えるのが得意ではない。どちらかと言えば、感覚で決めてしまうことが多い。でも、これを知ると嘆くことはなさそうな気にもなってくる。(ちょっとウレシイかも。)

筆者はまた、こんなことも言っている。“今や会社の利益は創造的な仕事によってしか得られない。創造的な商品やサービスを通じていかに需要を創造するか・・・・。”

業績はそんなところにかかっているらしい。よし、これからは右脳をもっと活用してみようという気にさせる。

PRESIDENT2005.7.18号より

特集は“「脳力」革命”となっていた。


そのなかで、くらたまなぶ氏は面白い表現を使っていた。・・・・本来ワクワクするはずの企画も、会社で命令されると名案が浮かばなかったりする。つまりこれは、「新しいアイデアを出さ“ねば”ならない」「上司に認めてもらわ“ねば”ならない」と、“ねばねば菌”におかされた状態だという。


結局その菌を取り除く必要があると説く。そのためには脳をストレッチして「やわらか脳」にしなくちゃならないのだ。


「やわらか脳」にするための方法・・・・その場からちょっとリラックスできる別の場所に移動する。アイデアがわいてきそうな空間に自分を置いて脳をシャッフルしてみる。つまり非日常のなかに自分を置いてみることがスタートだ。


そして、難しい言葉を「自分流」に翻訳してみるのだ。例えば、「社内活性化」→「元気いい」→「ワイワイガヤガヤ」というように、ふだん自分がつかっている言葉にしてみる。このときはもうアイデアの脳みそは動き始めている・・・らしい。


私なんか根が単純だから、ちょっと真似してみたくなってしまう。なんせ複雑なこと考えるのが苦手なもんで・・・ね。でも、複雑なものを単純に考えるっていうのにも脳力が必要かも。これがキッチリ出来る人は脳力があるのかもしれないな。
脳のストレッチのまえに体のストレッチをしなければ・・・


「目利きのヒミツ」より

あらかじめわかったような気にはなっているが、念のため辞書を引いてみると次のように説明されている。

たいぎ-めいぶん 【大義名分】
(1)人として、また臣民として守るべきことがら。
「―にかなう」「―を通す」
(2)何か事をするにあたっての根拠。やましくない口実。
「―が立つ」

実際、私たちが使う場合(2)のほうが多いだろう。つまり言い訳、理由づけみたいなものだ。
ちゃんとした根拠さえあれば、いろんなことはすすめやすい。場合によってはヘリクツと思われるようなこともあるかもしれない。

しかし、そんな形式的なヘリクツでもあればこそ動ける力にもなる。つまり言葉を変えれば、やる気、エネルギーともなるのだ。

たとえば、私自身は意外にも野次馬的なところがあって、子供の頃に地元のどこかで火事あると関係ないのに自転車で駆けつけたりしていたものだった。ただの興味本位だった。被災の現場に行くには本来そういう気持ちではいけないに違いない。自衛消防隊とか消防活動支援などの大義名分があればべつだが、そんなものはない。

自他共に納得できる大義名分があればスピードアップにもなる。それは何かをする際の推進力でもありえる。ちょっとパソコンで遊んでみたい、というのが本音だとすれば、ウェブ日記なんかをつけてその交流によって見聞を広めるというのもひとつの大義名分・・・かな。

それから、家庭平和維持活動のため、という大義名分があればお父さんもディズニーリゾートやUSJにも行きやすい?でも、本来はもっと大きなことをいうのかもしれない。
「目利きのヒミツ」より

どちらかといえば、バッターに比べればピッチャーはある程度計算が出来るという。ピッチャーの出来さえよければ、強打者もそう簡単には打てるものではないからだろう。

先攻、後攻ということでいえば、打っている側が攻めていることになっている。それによって得点が入れば勝ちにつながる。しかし、実際にその場面で攻めているのはピッチャーのほうなのだ。

ピッチャーは頭で計算をして打者を牛耳ろうとする。しかも、すぐには投げずにじらしたりもできる。どんな球を投げようが主導権は打者より投手にある。ピッチャーはじぶんのタイミングで投げ込んでくる。打者は来たボールを打つだけだから受身だ。投げてもらわなければ、試合ははじまらないし、打つこともできない。

3割打てば強打者といわれるものの、7割は失敗していることになる。いくら3割といっても、いいところで打たなくては意味がない。ヒットを打ってもその後が続かなければ得点には結びつかない。また、ほとんど大差で試合が決まった後で打っても意味がないことになる。

打者はピッチャーが投げた球を勘を働かせてう打ちにいく。その勘は直感、動物的な勘で、それが強かったのが長嶋さんの現役時代なのだろう。

そこで、筆者の赤瀬川氏は「ピッチャーは経済界の人で、バッターというのは歌舞音曲的な芸術家なのかもしれない。」といっている。

しかし、ピッチャー、バッターを計算ができる、できないなどから経済界、芸術家まで持ち出すとはかなりスゴイたとえでもあるな。こんな発想ができること自体、筆者が芸術家でもある証拠かも・・・

「目利きのヒミツ」赤瀬川原平著より

まず、目利きというとすぐに思い出してしまうのが、TV「開運!何でも鑑定団」だ。そこに出てくる先生方は書画骨董から最近の雑貨までお宝といわれるものをなんでも鑑定してくれる。つまり目利きのプロである。

別に高価なものでなければ、私たちは日常的にいろいろなものをいいのか、悪いのか、価値のあるなしなどのを判断している。あの人とは気が合いそうだとか、相性が合わないなど。また、多くの人との交流をもつことで人を見る目も養われるともいえそうだ。

まあ、それはともかくとして、物を見る(判断する)場合、それなりに経験は必要だが、そのためにはそこそこの授業料も必要なのだ。

私の知り合いに絵画を見る目を持っている人がいる。彼の評価はプロ並みでもある。それは彼自身が30年以上にわたって身銭を切って絵画をコレクションしてきたらに違いない。美術館や画廊で鑑賞するだけでなく、買うことで学ぶことができるものも多い。

だから、その対象に対して10万円費やした人と、1000万円費やした人ではモノの見え方が違ってくるだろう。もっとも、ただお金をムダに費やしても意味がないが。

しょせん、タダでお気軽に学んだものはそれなりのものだ。時間と費用を費やした人には真剣さでかなわない。

関連したことがらで、筆者は「勘というものはタダで身につくものではない」ともいっている。やはり勘というものも、身銭を切ってはじめて鋭くなるものだろう。

身銭をきるからこそ真剣になれるとも言えるかな。ムダに年をとってもいけなし、ムダにお金をつかってもいけないか・・・でも、それがなかなか・・・
JAF Mate 2005.8.9月合併号より

この号の特集は「鳴き砂の浜を訪ねる」だった。ちょっと動かせば音が出る砂のこと。この条件は海水が汚れていないこと、大気が汚れていないことだ。

つまり美しい砂浜でなければ、鳴き砂に出会えない。当然海水浴シーズンには聞くことはできないらしい。
秋冬を越して春になると鳴き始めるという。これは偉大なる自然の治癒力といえる。

この言葉だけ聞くと、大自然の中にいると、人間の体が癒されて治っていくように思えるが、この場合は人間が主役ではない。あくまで自然そのものだ。変な表現だが、自然が自然のなかで本来の生命力(?)をとりもどしていくというようなものだ。自然が破壊されている箇所を目にするとそんなことを考えてしまう。

ほとんどの砂浜は汚れているのでな鳴くことはない。鳴き砂の主成分は石英で、きれいな水や空気の中で砂粒の表面がピカピカに磨かれて鳴くようになるという。結局、鳴き砂は美しい海岸のバロメーターだといえる。現在日本には、そんな海岸が50ヵ所あるという。

いくつかの例・・・琴引浜(京都)、小清水海岸(北海道)、青谷浜(鳥取)、十八鳴浜(くぐなりはま・宮城)、琴ケ浜(石川・島根)、豊間海岸(福島)、清ケ浜(山口)、姉子の浜(福岡)・・・

こんな海辺の近くにお住まいの方は何度も聞くことが出来るんですね。空気も澄んでいて、海の幸も楽しめそう。疲れた人の心身だってきっと癒されますね。この夏は自然に親しみたいもの。