最後はここへ、宮城 南三陸 | 地球一周 Sambiのたび。

最後はここへ、宮城 南三陸


最後は南三陸へ。





ここもナニモナイ。


これを見てください。





1段目、2段目、3段目は更地・・・そして4段目からは普通に家が残るこの光景。


これが痛々しい。


高台に住んでいる人たちはどんな想い津波に飲まれていく近所の家々を見ていたのだろう。


日常になったこの風景を眺め、毎日何を想うのだろう。









街を歩く。









石巻はがれきの撤去も見た感じ完了していたけれど、南三陸はまだまだ。


もう2年も経つのに、まだこんな状態なんだ。



















人が住んでいた場所とは思えない。


映画か何かのセットのよう。


気温はそれほど下がってないのに、ものすごく寒く感じる。


胸が痛い。


なんだか気分が悪い。













ここにも仮設の商店街。















仮設住宅。











仮設エネオス。














街の若い女性たちが手掛けるというこのアートも、なんだか痛々しく感じてしまう。



































・・・。











「恵みの海を大切に」

このフレーズ。





その海に全てが奪われてしまったわけだけれど、

「海を恨むことはしない」

という被災者のコトバも・・・。


また、港にはたくさんの船が浮かび、海で働く人たちの姿があちこちで見られた。




強いなぁ。生きるためとは言え、すごいよほんと。









最後に。


当時よく報道されていたのでご存じの人も多いと思いますが、こちらは南三陸町の防災庁舎。





津波が襲いかかる直前まで、町民に防災無線で避難を呼びかけた女性が勤めていた場所。

「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」

「6メートルの津波が予想されます」「異常な潮の引き方です」「逃げてください」

「大きい津波がきています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください」

ギリギリまで町民への呼びかけを続け、急いで屋上へと駆け上がる。


しかし津波は、3階建ての庁舎の屋上にも達し、





この写真は庁舎の屋上に避難した町職員が撮影した津波襲来の瞬間。


屋上では30人ほどの職員が無線の鉄塔や階段の手すりに掴まっていたというが、津波が去った後に残ったのはわずか10人。




(中央右が防災庁舎の3階部分と屋上)


そこに例の女性の姿はなく、震災から43日後の4月23日に遺体が見つかったのだそう。








町民たちは語る。

「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた」


「ただ事ではないと思った。一人でも多くの命を助けたいという一心で、呼び掛けてくれたんだろう」



「あの放送がなければ今ごろは自分は生きていなかっただろう」





「生きていてほしかった。本当にご苦労様。ありがとう」