ふたりの証 episode2 | ショート・ショート・ストーリィ

ふたりの証 episode2

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※このお話は「となりの、」を元にしたショートショートです。
 未読の方は本編の
episode 1 から読み進められることを推奨します 


 パソコンの電源を落とし、完全にシャットダウンされたことを見届ける前に踵を返した。右手には通勤用のバッグ、左手には空の缶をふたつ。そして眼前には森井。

「うっ!?」
「お疲れさまー」

 森井はやけににこやかな笑みを浮かべつつ近寄り、そして馴れ馴れしく俺の肩に腕を回す。

「飲みに行くだろ? だろだろ?」
「行かねー。つかお前今夜パースが上がってくんだろ? 社を抜けらんねえじゃん」
「まあまあまあまあ」

 森井の仕事っぷりは実にいい加減だ。それでも干されることなく雇われ続けているのは、この調子のよさに尽きる。飲みの接待要因として重宝されているのだ。

「聞かせてよ、広田のオ・ン・ナ」

 森井はやや声を潜めて言ったつもりだろうが、その手の科白は雑音に紛れにくい。そもそも女の耳はそういうワードに敏感になるよう作られているのだ。事、うちの社の女性陣はそれが顕著である。恋愛や美容やリゾート等の関連事項に耳聡く、今回もその例外ではないようで、ドア付近の女の島にハッと動揺が走ったのが目の端で見えた。

「ば、ばか……。そんなんじゃねえよ……」

 ざわめく総務の鎮静化を図ろうと努めるが、時はすでに遅し。全員が全員しっかりとこちらを注視していた。

「えー、彼女できたって、給湯室で自慢したのはお前じゃん!」
「してねーよ! 針小棒大にも程あんぞ、お前はっ」

 森井を押し退けて歩けば、総務の女の瞳は光源を追う猫のように、全員が全員、動きをシンクロさせて俺の足跡を辿っている。ひたすら怖い。
 仕方ないのでこのまま森井と事務所のドアまでもつれ込み、今日のところは事実を有耶無耶にしてフェードアウトしようと思う。

 俺は自身の恋愛をエンタメ化するほど、秋月と軽い付き合いをしているわけではない。でも、ふと思う。あいつは本当に俺とのことを真面目に考えているのだろうか、と。
 なおもしつこい森井の顔を押しやって、無理やりドアを閉める。扉の向こうで「明日覚えてろよー」との声が上がった。

 大体にして俺は秋月の記憶に残らなかった影の薄い存在だ。俺だけがひとり、あいつを覚えていた。
 確かに俺は秋月を気にはしていたけれど、高校に入ってからは思いを引きずることなんてなかったし、ほかに好きな女もできた。学年が上がるに従って恋愛に関する経験も増えたし、それに伴って秋月のこともゆっくり忘れていった。
 でも今時冗談みたいなボロアパートに越してきて、面倒くさいながらも引っ越しの挨拶に行って、いつ購入したか分からない伸びきったジャージと、起き抜けの乱れた髪と、何より酒の混じった呼気を放つ女と出逢って――。
 俺の中で止まっていた時がまた確かに刻み始めた。

 ――秋月杏奈。

 奇跡や運命なんていうチンケなくくりに入れたくないけど、過去の後悔を取り返すチャンスが来たと思った。それは秋月を陥落させて自分のオンナにしてやろうなどという一種の復讐めいたゲームのような感覚ではなく、秋月と対等な立場に……、例えば再び離れ離れになって、いつか偶然どこかで出逢うことになっても、すぐに思い出してもらえるような、そんな存在になりたかった。



 白島のバス停から徒歩5分。そこが俺のねぐらだ。なにも恰好を付けて《ねぐら》などと評したわけではない。あたかも人間に化けた狐狸が住処としているかのような、そんな何か精神的瑕疵があってもおかしくはない殺伐とした雰囲気が漂うアパートなのである。間違ってもこれを《古き良き》などと言えるほど、俺の美的センスは鈍ってはいない。

 饐えた匂いの漂う踊り場を越えて階段へ。今日は秋月に飯を頼んでいない。付き合っているからといって毎日頼むのも気が引けたので、俺の部屋で一緒に食事をするのは依然週に2度だけ。それでもちょくちょく差し入れと称して、あいつは俺の分の食事を運んできてくれる。
 あ、てことはやっぱり俺たちは正式に恋人同士か?

 自宅のドアの前に立ち、施錠を外す。サムターンの降りる音がして、俺はようやく戦闘モードを解除した。
 室内も建物と同様に年季が入っている。土壁ではないのが不思議なくらいだ。
 心中で悪態を吐きながら明かりを点け、コートを脱いでネクタイを緩める。ドドドドと足もとが揺れたのはその時だった。
 なんだなんだと身構えるよりも早く、壁の向こう側からトントントンと3度ノックされた。もうすっかりお馴染みになってしまった秋月との一風変わったコンタクト。
 俺はネクタイをぴっぱり下ろすと、音の出所まで近づく。俺の帰宅直後に接触してくるあたり、どうやら秋月はずっと俺をずっと待っていたらしい。
 犬かよ。

『おかえり』
「おー、ただいま。で、何? なんか用?」
『いやあ、用っていうか、ちょっとね、うん』

 付き合いだして早2ヶ月。普通ならばこの時期は俗にいう蜜月で、用がなくても頻繁に会ったり、連絡を取ったり、密着したり、エロいことしたり、四六時中互いが互いを想い合ってべったりしているはずだ。
 なのに何だこれ。壁越しに会話とか、どうなってんの俺ら。

『ええと、広田はさ、私のこと結構知ってるじゃない? 小中学校の記憶も鮮明でさ。蜂のことなんて、私忘れてたもん』
「はあ……」

 俺の落胆に気付くことなく、秋月は用件を話し始めた。しかもなぜか声が強張っている。

『なんて言うかさー……、私のことを知ってる広田だから、偽らなくていいというか、素のままでいられるというか……』
「……うん?」
『こんなに飾らなくていいの? ってほど地のままだけど、今さら取り繕ったって私は私だしさ……』

 何だ、この会話。俺は今から何を言われるんだ?

「えー……、その話長くなんの? 俺、帰ってきたばっかなんだけど」
『あー、すぐ終わるっ、終わるから!』

 おかしい。いつもなら「なんでそんな言い方するの!」などと怒りを露わにし、すぐに好戦的な態度をとるはずなのに。
 黙り込んだ俺の注意を引くかのように、壁の向こうからコホンと咳払いが聞こえてきた。よくわからないが、どうやらこれから秋月にとって、とても勇気の要る発言がなされるらしい。

『いっ、一緒にねっ……?』
「……あ?」
『きっ、来てもらいたいところがっ、あるの!』

 噛むわ、裏返るわ、イントネーションがおかしいわ。
 突っ込むところが多すぎて、俺は笑うに笑えず、だんまりを決め込む。同時に壁の向こうも沈黙した。
 いや、お前は黙るなよ。今の情報だけじゃ全然分かんねえっての。

「いや秋月、あのな?」
『ああああのっ、一応、あんたに拒否権はあるけどっ、でも……』

 一緒に来てほしい、と小声で付け足された。そして今度こそ完全な沈黙が訪れる。

 たぶん今、秋月は壁に手をついて、こちらの音に耳を傾けている。喧嘩をしたわけでも、悪いことをしているわけでもないのに、こちらの状況を知られてはいけない気になって、物音ひとつ立てるのも憚られた。
 ふたりの間にそびえる、この小汚い壁が憎い。何が何だかわからないままだが、一番気になるのは今の秋月の顔。

 見たい。すげえ見たい。

 それにしても今の科白はすごく意味深だった。それに輪をかけて、壁から伝わる態度も怪しかった。あんなにテンパって、《一緒に来てもらいたい》だなんて大袈裟だ。自分の両親と顔合わせの打診かっつーの。

 ――え?

 そこまで考えて俺は固まった。

 は? マジで?
 もしかして俺、秋月に「両親に会ってくれ」って言われてんの!?

 壁を睨んで秋月の出方を待つ。だが一向に反応はない。
 結局状況に痺れを切らしたのは俺の方だった。えーだの、あーだのと無意味な感動詞を口にしたあと、おそるおそるといった具合で探りを入れることにした。

「秋月……、それってさ、俺にとってかなりハードル高くない?」
『わ、分かってる……。でも、そろそろいい頃合かなあって……』
「マジで? ってか俺でいいの?」
『そんなの広田じゃなきゃ……って、言わせないでよっ、恥ずかしい!』

 ドンと壁を叩かれた。壁に手を添えていたので、その振動が直接伝わってくる。

 マジでか。
 マジでかっ!?

「おおおおいっ」
『な、なによ……』
「…………行くから」

 壁一枚隔てて顔を寄せているだろう秋月に囁く。すると、すぐそこにいる彼女から「ん」と小さな返事が上がった。

「い、いつがいいんだよ……」
『今週の土曜日』

 まごつきながらも興奮が滲み出ている秋月の声色に感染してしまった。酒を一気に呷ったかのように顔が赤くなる。

「お、おう……。じゃあ、時間は?」
『えっと、10時』
「10時な。分かった。なんか注意することってある? NGワードとかさ」
『え? ……このことをひとに言わないならいいよ、それで』

 秋月のご両親はそんなに気難しい性格ではないらしい。そりゃあそうだ。こんな自由気ままな娘を輩出したお宅だ。のんびりしているに違いない。
 こんな具合で俺たちは日時と時間を調整して、この日の会話を終えたのである。
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