ふたりの証 episode1
※このお話は「となりの、」を元にしたショートショートです。
未読の方は本編の episode 1 から読み進められることを推奨します
プレゼン用の企画書として上がってきた冊子。俺はそれを一読するなり、迷うことなく机に投げ捨てた。と同時に、隣に控えていた縁故採用の新人・佐原の笑顔が凍る。
「広田……さん?」
「てめえこのやろ、ふざけんな。仕事を大学のレポートと勘違いしてんじゃねえぞ」
「や、でも俺これ、一晩寝ずに考えて、」
「うるせえよ。てかほんと、なんだこりゃ。この文章、お前が考えたわけじゃねえだろ」
「まあ、それは……」
「おい、ソースはどこだ? どこのwebサイト丸パクした?」
「……えっと、」
佐原が、アリが咀嚼しているかのような小さな声で答えたそれは、不特定多数の人間が執筆および編集ができるネット上の百科事典の名称。
眩暈がした。
「んなもんを、さも自分が考えた文章のように使うな馬鹿野郎!」
内々の参考資料として使うならまだしも、真偽のほどを確かめることなく丸写しした状態でクライアントに持っていこうとするその精神に苛立つ。
事の重大さがわかっていない佐原は当初ポカンとしていたものの、次第に俺を疎むような眼つきに変わった。
いちからか!? いちから説明せにゃ分からんかこのボンボンは!
「まあまあ、広田。そんなカッカしなさんな」
「ちょ、堺さん。変な横槍入れんでください」
「あ、佐原。無断転載はいかんぞお? せめて引用した旨をちゃんと明記しとけ、な?」
同じ班員で3つ年上の先輩・堺さんが人当たりのいい笑顔で阿呆な坊を嗜めた。仲裁に入られ、なおかつ何やら自分にも非があったらしいと悟った佐原は唇を尖らせながらも「ハイ」と返答する。俺たちふたりはそれを見届け、佐原を自席に帰らせたあと、どちらからともなく自販機のある給湯室へと向かった。
「……何なんすかね、あれは」
「佐原なー。糸島さんもあいつをどうしたいんだろうなあ。何せあのひとの指示は、常に適当だから」
「佐原をどう育てるか云々の問題ですよ。代理店に勤めときながら無断転写って、プライドないんじゃないすかね」
ガコンと遠慮のない粗野な落下音に、腰を屈める堺さん。その肩は少し揺れていたので、おそらく笑っていたのだと思う。
「なんすか。俺、間違ってます?」
「うんにゃ。プライド云々に関しては俺も同じ」
「そですか」
「うん。俺が目を見張ってるのは、最近の広田の仕事への取り組み方について」
しゃがみ込んだまま振り向きざまに差し出されたのは、ホットのブラック。どうやら奢りらしいので、ありがたくいただくことにする。
「俺、向上心なら以前からありましたよ」
「知ってる。でも向上心の質が変わった。がむしゃらさがなくなって、目標がしっかり定まった感じ」
立ち上がった堺さんの手にも、俺に寄越したものと同じ銘柄のブラック。ごちそうになりますという代わりに軽く翳し、プルタブを引き上げる。小気味のいい音が、ふたつ同時に響いた。
「最近合コンにも不参加だって?」
「……え? はあ、まあ」
「こないだ森井がオカシイオカシイって喚いてるのを耳にしたよ」
堺さんの科白をきっかけに、合コン仲間だった森井の言動を思い出す。
少し前までは一にも二にも合コンだった森井に誘われるがまま、女の子たちとの飲み会に足繁く通っていた俺。奴がセッティングするコンパは女の子のレベルが高かったし、断る理由も特になかったから。
でも、あからさまな秋波を受け流して悦に浸ることも、高嶺の花気取りな女の子の両足を開くことも、さして愉しいと思えなくなってしまった。ある時を境に、これまでの夜の享楽は、まるで一晩経って気が抜けてしまった炭酸水のように瑞々しさと刺激を失ってしまったのである。
「いやー……、もうそういうの、卒業っていうかですね」
「そつぎょう」
笑いながら珈琲に口づける堺さんの言葉に、何か意味深なものを感じる。それでも堺さんに心情を吐露することは、さして嫌だと思わない。これもすべて彼の穏やかで面倒見のいい性格に起因しているのだろう。
「あ、おつかれーっす」
「お、噂をすれば影がさす」
珈琲を呷りつつ給湯室の入り口を見遣れば、堺さんの言う通り影を見た。それも大変不穏な影――森井だ。
「なんすかふたりしてこんなところに籠って……。あっ、密談? もしかして合コンの密談すか?」
「お前の頭ん中はそれしかねえのかよ」
呆れながらそう言えば、森井はにやりと下衆な笑みを浮かべて、こちらへとにじり寄ってくる。
「広田ちゃーん、今週末どお? いい子揃ってるよお~」
「お前は安いポン引きか」
俺のつっこみに正面からブハと液体の混じったむせる声がした。堺さんは笑いの沸点が些か低いのだ。
「いやほんと、マジで。写メあるよ。見る?」
「見ない」
「まあまあ、そう言わず。俺とお前が載ってるあの雑誌のお陰で、女の子が釣れやすくなったんだよねえ」
財布に伸ばした手を止め、そのまま携帯を取り出す森井。
ていうか、まだあの雑誌を使ってんのか。
俺が呆れていることにも気付かず、森井は得意顔で合コン相手を披露し始めた。少し垂れ目の黒髪ストレートと、アヒル口が特徴の金髪ボブ。風貌からして社会人ではない。二十歳そこそこの、ノリのよさ気な美形ではあった。
「おー、確かに可愛い」
「でしょう!? 今週末まで漕ぎ着けるのに2ヶ月要しましたもん」
しきりに息巻く森井と、素で感心している風な堺さんを見つめ、再び壁に背を預けた。
森井の並々ならぬ熱意に脱帽はするけれど、その高揚は感染しない。軽薄だと馬鹿にするつもりもないけれど、俺と森井との間に大きな隔たりが出来てしまったことは確かで、それはもう容易に取り払えるものではないのだ。
「てなわけで、行くっしょ?」
「いかねー」
「え? お前俺の話聞いてた?」
「それ、こっちの科白だから」
本当にきょとんとしている森井に溜息をついてみせれば、奴はようやく神妙な面持ちになり、そして黙り込んだ。これで俺はノリの悪い男というレッテルを貼られただろう。きっと森井に誘われることは、もうない。
しかしずいぶん遠いところまできてしまったなと、思う。合コンに熱を上げる同僚が遠い昔に描かれた絵画のようで、ひどく現実味がない。
薄く笑う俺を見て、森井が怪訝そうな顔をした。
そんな顔をするなよ、森井。いつかお前もこちら側の人間になるさ。
「んだよー、広田あ。調子狂うし」
「んー、わりいな」
「最近やけにおとなしくなっちゃってさ。なーんか、彼女でもできたみたいじゃん」
「うーん、まあね?」
否定をするのも他人行儀すぎるし、だからと言って吹聴して回るようなことでもないので控えめに肯定する。それに秋月とは思うように距離を縮めることができずにいるので、付き合っているという事実のみが社内に蔓延してしまうのも何だか座りが悪い気がした。
恋愛と呼ぶには些か色艶の希薄な関係。秋月は現状で満足しているのだろうか。それとも俺たちがカテゴライズされているのは恋人などではなく、円満なお隣さんだったりする?
俺はそんなことを考えつつ、入り口付近で呆然と佇んでいる森井を見つめていた。そしてその瞳が刮目される瞬間まで見届けてしまう。
「ちょ、待て待て待て待て、広田よ、待て!」
「え? 俺、1ミリたりとも動いてねえよ」
「阿呆。そういうこっちゃねえよ! どういうことだよ、え!? かっかっかっ、彼女だとおっ!?」
「わっ、うるせえっ」
森井の背後はそれなりに往来のあるフロアの廊下。今もたまたまそばを通りかかった人間が、森井の声に驚いてこちらを注視しながら去って行った。
「え、ギャグ? もしかして彼女がいるとかいうギャグ? それは笑えないわー……」
「なんで女がいるかの有無を笑いに変えにゃならねえんだよっ」
目を見張っていたそのわけは、俺の恋愛観が意外だとそう言いたかっただなんて。森井のその態度こそが俺に対する世間一般の総評だとは信じたくない。
引きつった笑みを浮かべて怒りをやり過ごしていたところ、森井がその辺にいた女子社員を捉まえ、たった今、俺から得たばかりの情報を口角に泡を飛ばしながら熱演し始める。俺は顔に笑みを形状記憶させ、森井の首根っこを掴んで女子社員から引っぺがした。
自惚れているわけではないが、女子社員からの俺に対する評判は上々だ。それとはっきり分かる好意を向けられたことも一度や二度のことではない。今後も社内外で助平心を覗かせるつもりもないけれど、これまで無償で送られていた秋波がぱたりと消えてしまうのは矜持に関わる。
馬鹿馬鹿しいと言うなかれ。
男のプライドの大半は、下らない見栄で出来ているのだ。
女子の目がなくなり、頃合を見計らって缶珈琲を片手に森井にヘッドロックをかましていたところ、愛用しているティーカップを片手にした遠野が姿を見せた。いつもの食後の一杯を淹れに来たのだろう。
「いでっ、ででででぇっ! 遠野さんっ、こいつ女がデキてっ、調子に乗ってますっ」
「森井っ、まだ言うかあっ!」
油断していると森井がまた減らず口を叩く。俺に女が出来きたことで、森井はここぞとばかりに女子社員の関心の移ろいを誘っている。そのおこぼれに与ろうとしていることは必至だ。
さもしいな、森井! 男の哀しい本音がスケルトンしてしまってるぞ!
「悪いな、遠野。邪魔だったろ?」
「いいえ。失礼しますね」
遠野はほんのりと笑みを浮かべて、俺たちのそばを通り過ぎる。そしてセルフサービスのウォーターサーバーの受け皿にカップを乗せた。
ついこの間まで俺に恋心を抱いていた遠野。少しでも俺に女の気配が漂うものなら、まるで悔い改めを強要するかのように批難の眼差しを向けてきたというのに、いまや口もとに笑みを湛えて余裕の表情。あまつさえ、ティーパックによって茶葉を抽出しつつ、こちらに視線をやり、そうと分かるくらいはっきりと笑顔を浮かべる始末。それはまるで「大変ですね」と労うかのように。
ああ、と思う。糸島リーダーと上手くいっているんだろうな、と。
遠野に向かって軽く頷くと、彼女は満足したかのように手もとの紅茶へと視線を落とした。
遠野を祝福する気持ちにコバンザメした僅かな嫉妬。かつて自分に熱を上げていた女がほかの男のモノになるというのは、案外複雑な気持ちである。
――まったく勝手な生き物だな。男ってのは。
→ next
→ となりの、index へ
→ main index へ