稽古場での発見2

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『ゴドーを待ちながら』は2幕構成。

第1幕において、ディディ(ヴラディーミル)は理想主義者。最後の救済の瞬間を信じて、「悔い改めてみたらどうかな」と真剣に考える。「まだ希望はある」と、聖書の話をたくさんしながら、ゴドーが来たら救われると望みを託す。
対するゴゥゴ(エストラゴン)は現実主義者。その第一声は「どうしようもない」(何をやっても無駄だ/やるべきことは何もない)。彼は目の前の苦痛に対処するので精一杯であり、希望など持てない。

第2幕になると、二人の立場は入れ替わる。第1幕には枯れていた木に緑の葉っぱがつくように、「希望」が形になって現れる。ディディは元気いっぱいに登場する。「考えること」をやめて、今を楽しむというある種の現実主義に転化したのだ。ハムレットの思考と同様、「考えること」ばかりつきつめてしまうと、「青白い思考の色に染まって」憂鬱から抜け出せなくなってしまう。ディディは「考えること」をやめることで、楽しみを見出す。
かつて希望をもっていなかったゴゥゴは、第2幕で「神は私をご覧になっているかな」と言い出し、救済されることを望みだす。明らかにディディの影響を受けて、理想主義的になってきているのだ。そしてその分、以前は感じていなかった不安を感じ始めている。

希望と絶望――そのふたつに引き裂かれて二人は動けなくなる。しかし、二人は動けないことにある種の居心地のよさも感じている。二人一緒にいられるからだ。そこにあるのは人間愛だ。人はひとりでは生きられない。自分とは違う考えを持っている誰かと一緒に生きること――そこに葛藤があるけれど(そこに問題が生じるけれど)、その矛盾を抱えて生きることが人間らしく生きるということなのではないだろうか。

「じゃあ行こうか」「行こう」――二人は動かない。
動かないのではなく、動けないのだ。希望と絶望に引き裂かれているから。
そして、それ以上に、ともに一緒にいることの肌のぬくもりを感じているから。生きるというのは、誰かと一緒にいるということなのかもしれない。

ステージナタリーで紹介して頂きました。
こちらをご覧ください。

今日は第1幕のポッツォの登場シーンを重点的に。
明日は顔合わせ以後初の子役参加日。
日々、上を目指していきます。
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