2008-03-12 12:03:49

<わからぬ人々>

テーマ:宗教

先日、ある人の誘いで、ものみの塔の元信者が集う掲示板におじゃまする機会があった。彼らは自分たちがカルト宗教の洗脳から解かれた目覚めたる人で、洗脳に関してはそれぞれが「わかっている人」であると自負する方々であった。

ところがである。板では二酸化炭素による地球温暖化の話で盛り上がっており、正義感に衰えぬ彼らは地球を守れ、温暖化を阻めと威勢が良かったが、私が「二酸化炭素による地球温暖化など嘘っぱちである」「地球を守れなんてナンセンス」と切り込んだとたん、戸惑いと不快を露にした。
温暖化理論にたてつくとはいかがなものかとばかり、私は反論を受けることになったのだが、もっとも私を驚かせたのは、その中の誰一人として、温暖化理論の是非について、もう一度自ら調べて発言しようと試みる者がいないことであった。提示した資料についても、目を通した者がいたのかすら疑わしい。もっともひどい輩にいたっては、マスコミ情報と己の先入観、直感だけで真っ向から反論、攻撃してくる始末だった。

自らの常識と正義、その信仰を疑うことのできる者だけが、洗脳の罠から解かれるのだと私が言っても、「そんなことは言われなくてもわかっている」「私たちは経験済みだ」とばかり、全く自らを顧みようとしない。そこで、自分たちがどういう経緯、内的理由でカルト宗教に入信したのかを問うてみたが、誰一人としてこたえようとしない。少なくとも、その自覚がありさえすれば、自分と異なる見解を目にしたとき、それを即座に敵にみたてて攻撃するような真似は決してしないはずだし、不用意に人を裁くこともないはずだ。結局、地球温暖化理論に対する私見の表明は、彼らがどれくらい「わかっている人々」であるかを測る試金石となってしまった。

実のところ、温暖化理論が正しいのか、あるいは間違っているのか、そんなことはどうでも良いことだ。問題は、自分とは異なる見解を目にしたとき、それを新たな視点の獲得であると楽しみ、自らの見解を再考することができるか否かである。そのような態度を示すことのできる者だけが、洗脳の罠から逃れることができるのだと私は思う。
わかっているということは、知っているということとは違う。己の陥りやすい傾向を自覚し、知っていることを実生活に役立てることができて初めてわかったといえるのだ。わからぬ限り、再び同じことが繰り返されるだろう。確かに、彼らは皆、もはや今生ではカルト宗教のご厄介になることはないかも知れないが、来世においてはどうだろうか。

本当に己はわかっているのか、己のありようを振り返ることのできる者だけが、洗脳の罠を退けることができるのだ。彼らがなぜ、今生でカルト宗教と縁をもってしまったのか、彼らとの対話からその理由を垣間見た心地がした。やはり、因のあるところに結果があるのだ。
ふりかえって、私自身、わからぬ人であるには違いない。いかに優れた叡智も、実生活に生かされねば知らぬも同然だ。わからぬ人としての私自身の因が、この方々とのご縁を導いたのかもしれない。この世は己を映し出す鏡であり、「人のふりみてわがふり直せ」とは至言である。互いが相手の中に己自身のわからぬ人を見出していただけのことだろう。

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2008-03-09 21:07:13

<権威と宗教>

テーマ:宗教
この人のいうことをきいてついていけば安心だと信じるとき、人はその相手に権威を感じている。権威とは、いうことをきく力であり、安心を与えてくれる存在には、皆、自らいうことをきいてしまうものだ。同じように、宗教は、生ける人間に安心を与えて惹きつける。安心を売るために人を不安にさせる宗教は巧妙だ。こうしなければ地獄に落ちると脅して不安に陥れた後、入信すれば救われると安心を与えるからだ。

宗教のマインドコントロールには色々な手法があり、人間を隔離し、被暗示性の高い状態に追いやって行われるものから、繰り返し「貴方は選ばれた人だ」と虚栄心をくすぐるものまで様々である。このあたりは商売にも利用されることがある。そうやって、これをもってさえいれば安心ですと売りつけるわけだ。
ただ、何かを買わされてしまったとしても、買ったものにそれだけの価値がないことに気づけば洗脳は解けてしまう。それには客観的な事実のいくつかで十分だ。
ところが、誤って宗教を買ってしまった場合、なかなかそれを間違いであるとは気づけない。なぜなら、もともと宗教には客観的な証拠立てがないので、その虚偽を明らかにするのが難しいからだ。
場合によっては、虚偽であるという客観的な証拠があっても、なかなか己の判断を手放そうとはしないのが人間である。自分が信じていたものの嘘を知ることで、自尊心がゆらいでしまうからだ。自分の知らないことを他人が知っているという事実に自尊心が傷ついてしまうので、それを避けようとする防衛本能が働くことになる。
ものごとの真実を見つめるということは、自分で考えるということだ。けれども、権威に従う人々は滅多に自分では考えない。この宗教のいうことなら間違いない、この教えに従えば間違いはないだろうと、権威に盲従することで安心を得ているので、考える必要がないからだ。
温暖化理論を盲目的に信じる人々も同類であろう。

さて、そのような人々の意識はどうすれば変わるのだろうか。相手の従う権威を上回るには、それが与えている以上の安心を与える必要があるだろう。けれども、多くの場合、それは難しい相談だ。
では、洗脳から解かれる人々というのは、何をきっかけにして洗脳から解かれるのだろうか。それは他人の勧めによるのでなく、信じているものに不安を覚えたことによるのではないだろうか。けれども、今信じているものに対し、他人がわざわざ不安を与えにいっても、拒絶されるのがオチである。

私は、信じるものに生じた不安を見つめ、真理をつきつめて自ら考える真摯な態度、本当の自分でありたいと望む宗教的希求によってのみ、洗脳は解かれるのだと思う。
我々は、必要なときに必要なものが与えられるようにできているのではないだろうか。
必要としていない人に何かを与えようとしても、受け取る人の準備が整うまでは、受け取ってもらうことはできない。
いつでも受け取る準備のある人だけが、本当の自分に近づくことができるのだと私は思う。
そして、目の前に起こるできごとは全て己自身の等身大であるという真理を悟ることができたとき、己のなすべき選択肢がみえてくる。自分の運命は自分自身が決めているのだ。
したがって、誰かや何かを変えようとする必要はない。すべてはあるがままでよいのではないだろうか。大切なのは、他人がどうあるべきかではなく、自分自身がどのようでありたいかだと私は思う。
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2008-03-09 21:02:19

<ナザレのイエス>

テーマ:宗教
ナザレのイエスは、「私はあなた方を愛する」と最期まで言い続けながら、彼を理解しようとしない人々によって陥れられ、愛し合ったはずの人々に守られることなく、愛する人々によって殺されてしまった人である。
イエスについて、人はそれぞれに勝手な幻想をいだく。
もし、自分がイエスと同時代に生きて、彼と言葉をかわすことができていたらどうであっただろうかと素朴に思いを募らせる。
しかし、多くの人は、自分こそが、その時代、彼を殺していたかも知れぬ可能性については、全く思いが及ばない。
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2008-02-02 10:21:46

<信仰と宗教(再編集版)>

テーマ:宗教

先日、外来患者様のお一人から突然、「私はエホバの者です。エホバはご存知でしょうか?」と切り出され、面食らいながら頷くと、「是非、先生のような方に一度お話をきいていただきたいのですが。」などといわれてしまった。
お相手は初老の紳士で、下肢に障害をかかえる奥様とともにリハビリ通院されている。 “先生のような方”というのがどういう意味なのかわからないが、何やら見込まれてしまった様子。

実をいえば、私は学生時代にも、ある新興宗教の勧誘者に見込まれ、その方に誘われるがまま、宗教者と論戦を交えてやろうと教団の施設に足を踏み入れたことがある。そこでは助教師とやらがでてきて薀蓄を垂れるわけだが、その方はこちらの行う質問のいくつかに対して即座に感情的になってしまい、有意義な意見交換をすることはできなかったのを憶えている。たまたま高校の母校の先輩だったが、品格、見識ともに全く尊敬に値しない人物であるというのが、当時の私の偽らざる感想であった。もっとも、二十歳そこそこの分際で、30過ぎた相手のことをそんなふうに思う私も不遜であったには違いない。何れにせよ、そのままその団体とはご縁が途絶えてしまった。宗教者のお話に興味がないといえば嘘になるが、さりとて決してこの患者様の期待に応えるような結果にはならないということもわかっているだけに、困惑せざるを得ない。

私がいつも宗教者と話をして覚える違和感は、彼らが己の信仰する宗教によってしか救いがないと素朴に信じている点にある。特に、聖書を絶対視して憚らぬ姿勢には偏狭さを感じずにはおれない。もし、この世に普遍存在としての神がおわすなら、神から私たちに伝えられるメッセージもまた、普遍的な手段を通じてなされるはずであり、何々教に入信しなければ救いがないとか、聖書にしか真理がないなどという教えははじめから欺瞞に満ちている。宗教に入信する方には、神に峻別されたいというエゴが根底にあるのではないだろうか。だが、神は人を峻別したりなど決してしない。神のご前の平等を説きながら、峻別されることを望むのは自家撞着であるが、そのことに気づける宗教者は数少ない。
結局、宗教に騙されるわけではないのだ。峻別されたいという自らのエゴが、そのエゴに見合った宗教を手繰り寄せるだけである。
私たち人間は神の現身(うつせみ)であると同時に、世界は私たちの内面を映し出す鏡であると私は思う。

だが、人が心のよりどころとしている宗教に直接疑義をさしはさむことには、それ相応の危険が伴う。宗教に入信している方というのは、多くの場合、信仰と宗教との区別がなくなってしまっているからだ。
人は何のために生きるのかという宗教的希求の延長に信仰があり、信仰者が群れた結果として宗教があるのに、宗教からの脱退を迫られると、信仰まで否定されたように感じてしまうのである。
信仰は人が心の平安を得る術だ。宗教から脱却させたはよいが、その結果信仰までも見失って精神科のご厄介になる羽目に陥ったというのでは本末転倒である。ゆえに、誰かの宗教を部外者が安易に否定するのは憚られる。

人が群れて組織が生まれると、その組織を維持するため、どうしても秩序が必要になってくる。そして、秩序を保つために必要になるのは、圧倒的な権威か、絶大な権力である。権威とは、個々の信者が己の内面で感じ、いうことをきく力であるのに対し、権力とは、権力者が、種々の罰則でもって相手にいうことをきかせる力であると、なだいなだ氏はその著書「権威と権力」において指摘している。
あらゆる宗教組織にいえることだが、教祖が存命の間は、組織の秩序を維持するのに権力は概ね不要であり、教祖の権威によって秩序が維持される。一方、教祖が不在となれば、それに代わる者が何らかの権威と権力を得ようと様々な企てを試みることになり、そこから組織の退廃が始まることになる。
組織の腐敗は宗教に普遍的なのだ。だが、そこで最も問題なのは、個々の信者の間に、どのような実害があるのかということだ。例えば、輸血拒否であるとか、上納金による経済圧迫であるとかの、種々の戒律に伴う生活の窮屈である。ただ、それらがあっても、偽りとはいえ、心の安寧が得られるのであれば、それはそれで許容されてしまうのではないかとも思える。
かつて、日本は天皇を神の子孫と規定し、そこに絶大な権威と権力を付与して国家を統制した。日本には天皇の権威のもとに臣民と統治者との調和があったのだ。そして今尚、天皇の権威を尊ぶ人々にとっては、神の血筋には比類なき権威が宿るとみなされるため、万世一系の男系でなければならないわけである。

ものみの塔はキリスト教系の組織である。キリスト教はイエスと12使徒という圧倒的権威をはるか以前に喪失しており、それ自体、腐敗の歴史は2000年近くをまたいでいるという見方ができる。実際、ニケーア公会議においては、イエスの教えの重要な骨子のいくつかが異端として排斥されてもいる。
ゆえに、聖書は、はじめから神の意志を反映した書物とは言いがたく、紛れもなく歴史の手垢にまみれた産物であると私は考える。
したがって、それを「絶対視」すること自体、私にとっては奇異なことであり、そのような信仰や教団に、興味がわくことはない。そこに真実はないと思ってしまうからだ。

ただ、それは聖書やイエスの教えを全否定するものでもない。現代のような科学的知識もなく、民衆の教育水準も低かったであろう暗黒時代に、イエスのコトバが何を伝えようとしていたのかを、現在の視点で辿るのは楽しい作業だからだ。
それゆえ、イエスの教えを辿る上で、聖書は最も貴重な文献のひとつであると認識している。もともと、イエスの教えはエッセネ派ユダヤ教であるともいわれる通り、キリスト教ではない。あらゆる宗教は母体としての既存宗教を有しており、その意味ではキリスト教でさえ、古代には立派な新興宗教であったといえる。
余談だが、イスラム教のもとを正せば、腐敗したキリスト教を神がお嘆きになって、マホメットを通じ、新たに教えを広めなおしたのが起源ともいわれ、はじめからキリスト教に対するアンチ・テーゼとしての性格を有しているという見方もある。

科学は人の理性の集大成とみなすことができ、宗教はその悟性の集大成という見方ができる。現代の際立った特殊性として、科学の発達があるのはいうまでもないが、その一方、古今東西、あらゆる思想、哲学を容易に参照することができるのも、そのひとつである。私たちは、かつて、玄奘がインドから経典を持ち帰るために命がけの旅をせねばならなかったことを思えば、比べ物にならない程恵まれた環境にあるわけだ。
真理の追究には科学と信仰の調和、すなわち理性と悟性の調和が不可欠であり、その意味で現代は、歴史上、最も多くの人々にとって、最も高い真理の頂に迫るチャンスが与えられた稀有な時代であると私は思う。その一方、両者がこれを排斥しあうような社会は、人間にとって重大な不幸をもたらすことになるとも思っている。現在、日本における公教育は思想や哲学をその現場から遠く退けており、このことが、子供たちの精神を蝕む原因のひとつにもなっているのではないだろうか。

私自身は、現代に必要なのは宗教ではなく、日本の神道や、インドの古い哲学にみられる思想を基盤とした信仰にあると考えている。両者に共通するのは固有の組織や形を必要とせず、唯一でありながら全ての顕れであるとする至高存在を仰ぐ点だ。
信仰に垣根を有する組織は不要である。必要なのは、生き方の連鎖であり、これによってしか今日の世が救われる手立てはないと愚考する。


参考図書 

バート・D.アーマン著「捏造された聖書」

レイモンド・フランズ著「良心の危機」

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2008-01-29 16:55:42

<遊戯>

テーマ:宗教
もともと唯一にして無限である存在が、己の何たるかを知るため、存在の意味を知るために、有限にふるまうこの世界を創り出したのだと古の教えはいう。
その世界で人はエゴを携え、無限存在としての愛を有することで葛藤を余儀なくされた。
エゴとは生命の本質であり、他者との分離意識から派生する有限存在の特質である。
あらゆる苦しみ、悲しみは、全て有限なものを失うところから生じるのであり、エゴの産物である。
ならば、人がその本質において無限であるという真理を思い出すところから、それらは幻と消える定めにあるといえるだろう。
生きている限り、生命の本質であるエゴを消滅させることはできない。
これを抑制し得たとしても、閉じ込めた思いは形になろうと必ず現象世界に現れる。
なぜなら、思いは命であるからだ。
ならば、エゴは、それをあるがままに受け容れ、これをよく統べてはじめて幻と化すのではないだろうか。
世界は人の内面を映し出す鏡に過ぎず、全ては遊戯だからだ。
あらゆる相対性を超えたところに神が在るのかもしれない。
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2008-01-16 08:27:34

<孤独>

テーマ:宗教
宗教に魅入られる方が入信する動機とは何であろう。大体、なぜ信仰に垣根を有する組織が必要なのだろうか。
個々の信者が入信した動機をたどっていけば、それは人それぞれだ。生きる目的を求めてそこに入信する、あるいは、現世的な何がしかのご利益を求めて入信するというのが、ありふれた理由だろう。現実生活に耐え難い苦痛を味わうことにより、救いを求めて宗教に向かうというのもよくある話だ。
無論、親が信者であることで、信者であるのが当たり前というケースもあるに違いない。古代の宗教には病気癒しを求める人々が殺到したようだ。

自らが欲して宗教に入信する場合、表面的な動機の相違はあっても、それらを奥深くたどっていくと、結局のところ、孤独感を癒すことを目的としているように思う。
耐え難い不幸を、自分だけが味わっているように感じる孤独。善人であるのに、自分だけが報われないと感じる孤独。
孤独を癒すのは教義ではなく、人だ。だから宗教に入信する人は後を絶たない。教えを知りたいなら文献をあさればよいだけなのに。

一方、宗教組織が目的とするのは世直しである。世直しの大義名分の前には、あらゆる試みが正当化される。世直しのためには組織が大きくなければならない。政治を動かすほどに大きくなることは至上命題だ。ところが、組織の維持、拡大にはお金が必要なので、結局のところ宗教組織は既存の営利団体と何ら変わらぬヒエラルキーを携え、腐敗を抱え込むようになる。そのうち、世直しが目的なのか、組織の維持拡大が目的なのかが不明瞭になって、組織のための組織に陥って行く。そして、その大なる目的のかたわらで個々の信者の生活は置き去りにされてしまう。結局、組織の大小を問わず、宗教組織は必ず腐敗する定めにあるのだ。

ただ、そのことに気付いても、組織を離れる決心はなかなかつくものではない。なぜなら、組織から離れることは、再び孤独な世界に舞い戻ることを意味するからだ。それゆえ、相手の孤独を懐深く受け止める心構えを持たず、無責任に組織からの脱退を迫ることはできない。実際、心に孤独を抱えたまま宗教から足抜けしても、またふらふらと別の宗教に足を踏み入れるのがオチだからだ。
そうやって蝶が花から花へとわたり歩くように、宗教から宗教へとわたり歩く人を私は知っている。孤独とは、己がつくりだした幻に過ぎないという事実に気付くまで、その彷徨が続くのだ。

今日のように、百花繚乱、新興宗教が乱れ咲くのは、孤独な人が多いからだろう。個人主義によって社会から寛容の精神が損なわれ、愛が底冷えしてしまっているからこそ、生じる現象だ。
ゆえに、誰かにとって本当の救いとは、今ある愛の存在に気付いてもらうこと、孤独ではないということを知ってもらうことに他ならない。
孤独とは、程度は様々でも、それらは全て「私」と「世の中」、「私」と「あなた」との間にある垣根、分離感に由来する。だが、その分離感は、有限にふるまうこの世界が作り出す幻に過ぎない。
孤独と向き合うところから信仰の長い旅路が始まり、「私」と「世界」との一体性に気付くところから、孤独は消滅しはじめるのではないだろうか。
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2008-01-16 08:25:33

<聖書解釈>

テーマ:宗教
聖書を解釈する際に肝心なのは、自己の内面と深く向き合うという姿勢を忘れぬことだ。その内容を見つめる自分という観測者、主観のありようについての深遠な洞察が不可欠であり、誰かの解釈を鵜呑みにするのは危険である。なぜなら、聖書解釈には、よくも悪くも、解釈した人間の内面が映し出されてしまうからだ。

歴史を振り返ると、古代ローマ時代、イエスの死後に興隆した原初のキリスト教には、既に一神教ゆえの明白な排他性が宿っていた可能性が高いと考えられる。しかし、それをそのままイエスの教えとみなすことはできない。なぜなら、イエスの教えはあくまで口伝であり、キリスト教といわれるものは弟子たちの主観に負う解釈でしかないからだ。つまり、私は原初のキリスト教でさえ、イエスの教えと完全に一致するものではないと考えていることになる。
一方、イエスの教えのいくつかを旧約の教えの中に求めることにも疑問がある。なぜなら、イエスは当時のユダヤ教改革者としての側面も有していたからだ。その上、旧約聖書そのものが、歴史上、幾度となく増補改定を繰り返しており、その原初の姿をとらえるのは困難だ。死海文書ですら、ユダヤ教の歴史的変遷を綴った古文書に過ぎない。

このように、イエスの教えをたどるためにはイエスの時代背景だけでなく、聖書のたどってきた歴史をも深く追究する必要があり、2000年という時の壁を前にして、その実態を正確につかむことは、もはや不可能といわざるを得ない。であるなら、我々は歴史に学びつつ、今日の世の現実に鑑みた真理をこそ、深く追究する姿勢を貫くべきであろう。なぜなら、信仰は、神によって与えられたものではなく、人の意識が、苦しみの中からつむぎだしてきたものと考えられるからだ。
従って、私が聖書の記述を道しるべとする際、もっとも重要視するのは、そこに排他性を含むか否かである。そのようなものが匂うときには、私は安易な解釈を避けるか、これを真理とは異なるものとして取り合わない。人の世の混乱は、潜在的な排他性に起因すると洞察するからだ。

一説によれば、イエスの足跡には空白の十数年があり、その期間をインドで過ごしたのではないかともいわれている。そこから、イエスの教えにはインドや日本にみられる汎神論思想や輪廻思想を内在していた可能性もでてくるのだが、イエスの教えが真理だとすれば、そのようであったに違いないと私は信じる。ニケーア公会議で異端とされた教えのいくつかに、それらが含まれていたかもしれない。
もっとも、こうした認識は私個人の主観、ご都合主義に基づいており、異端中の異端には違いない。

一方、聖書中の預言については、それがあまりに多くの比喩を用いて記されることで解釈を困難にしているため、何者かによって書き換えられることもなく、古来より原型を保ってきたと考える向きもある。
私自身、終末預言には凝った方で、聖母預言、とりわけファティマの預言と呼ばれるものについては、今でも興味がある。信じる、信じないは別にして、聖母の出現は現在も続く奇蹟であり、謎のひとつだ。

しかし、不確定な未来についてあれこれ思いをめぐらせるのではなく、招き入れるべき未来のため、今の我々に何ができるかを懸命に考え、それを実践することこそ、個々の人間にとって最も重要な課題であると私は思う。過去の因によって現在があり、過去と現在の因によって未来があるからだ。預言は所詮予言であり、起こりうる可能性のひとつでしかない。
実際、人の不安を煽っておいて安心を売るのはよくある商売の手法に過ぎない。そのようなものに深く関わるよりも、今ある自分を見据えることの方がはるかに大切だ。自分以外の誰かや何かを変えようとしても容易に変わるものではない。
ゆえに、世の中を変えようなどと思い上がるのは愚かなことだ。本当は、己が変わるだけで周囲の人間が変わり、ひいては世の中といわれるものが変わってしまうからだ。

虹は空気中の水滴に太陽光が屈折、反射して見られる光の現象だが、太陽を背にする観測者の反対側に生じる現象であるため、大勢の人間が一度に同じ虹を目撃しているようでも、実際は個々の視点の相違から、皆別々の虹を見ていることになる。観測者と観測対象との関係は切り離すことができないのだ。私たちの見る世の中とは虹のようなものかもしれない。
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