2009-10-10 22:13:30

<「国家の品格」批評に思う>

テーマ:読書
藤原正彦著「国家の品格」は評価がわかれていてなかなか面白い。特に、有識者を自認する方々からの批判にはかなり辛辣なものも含まれる。いわく、「わかっていない」のだそうだ。

物事が「わかる」ためにはそれ相応の知性と感性が必要とされる。知性の働きは即ち理性をつかさどり、感性の働きは即ち悟性をつかさどる。
知性を測る尺度は比較的明瞭であるのに対し、感性を測る尺度は曖昧模糊として疎かにされることがしばしばだ。ゆえに、後者に欠ける人々は自分たちの抱える危うさに自覚のないことが多い。理知に長けていても、悟性に欠ける人々には、自分たちの抱える危うさが「わからない」のだ。だから、情緒が大事などといわれても、その意味するところがわからず、頓珍漢な批判を行ってはばかることがない。
無論、感性ばかりが先んじて理知に磨きをかけることを怠る人々もまた「わからぬ人」であることは間違いがない。しかし、「わからぬ人」とはそればかりではないと説いたのが本書であろう。

ゆえに、藤原氏がまさにそうした危うき人々から的外れな批判を浴びるのは至極当然であるといえる。なぜなら相手の無知を攻撃するのはたやすいからだ。
けれども、知性と感性の双方において、氏を超える見識の持ち主からの妥当な批判を見出すことは極めて稀であるように私は思う。
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2008-07-25 08:48:25

<心と痛み>

テーマ:読書
外来をやっていて感じることは、医者ならば誰もがそうなのかも知れないが、人の心と体は実によく相関しているということである。心の状態一つで、病は良くもなれば悪くもなる。特に、痛みについては本人の性格や、抱える心的ストレスが大きく影響しているのは間違いない。痛みは脳が感知する電気的信号であるため、脳のコンディションがその痛みを増幅もすれば軽減もする。それには間脳とよばれる部分が深く関わっており、心的ストレスが増大すれば痛みを感じやすくなることが明らかにされている。その上、長期間痛みが持続すると、障害部位が物理的に治癒していても、ささいなきっかけで痛みが再現されてしまうという。たとえば、障害部位に物があたる映像を見せられただけで痛みを感じるようになるのだそうだ。つまり、脳が痛みを作り出すようになるのである。

交通事故後の頚部痛、いわゆるムチウチの場合、日常の疲労で生じる肩こりまで含めて、何でもかんでも事故に関連づけて考える性癖は、症状を増幅してしまうことが多い。これは、先の脳のメカニズムによって説明可能であり、本人の感じる痛みに嘘はなくても、その痛みの大部分を自らの脳が作り出してしまう場合があるといえるのだ。そのような場合、早期治癒のためにいえることは、まさに「気にしないこと」であるのだが、このニュアンスを誤解なく患者に伝えるのは難しい。なぜなら、痛みについて「気持ちのせい」などと言おうものなら、たちまち患者の怒りを買うことになるからだ。
「だって私の痛みは本物です!」
「いえ、痛みは本物ですが、その痛みを作り出す原因が心にもあるのです」
説明を理解してもらえるか否かは患者側の理解力に左右されるが、「わたしをうそつき扱いした憎い先生」「わたしの痛みをわかってくれない先生」の烙印を押されて終わってしまうことがなきにしもあらずだ。
実際、被害者意識の強い人ほどこうした傾向は強く、また、説明に十分な理解が得られることも少なく、怪我の程度に比べて痛みは長引くことを実感する。
そこで、経験を積んだ医者ともなれば、いちいちまわりくどい説明をする手間を省き、精神安定剤(筋弛緩作用もあり、整形外科でも筋肉の緊張をほぐす薬として使われる)を処方して様子をみることも多い。その方が時間と労力を節約できるし、患者との間で無用なトラブルを抱えることもなくなるからだ。患者が医者をつくり、医者が患者をつくりだす悪循環がそこにあるのだが、この安定剤が奏功すれば、結果としては悪くないといえる。

痛みは、容易に人をうつ状態へと導いてしまう。抱える痛みそのものより、結果として生じた抑うつの方が重症である場合は少なくない。抑うつは痛みをさらに増大させる悪循環を生ぜしめる。従って、整形外科医といえども、心療内科的なアプローチが必要になることもしばしばだ。しかし、心の病の解決には、つきつめていけばいくほど、人は何のために生きるのかという哲学的命題を避けて通ることができない。この哲学的命題には確たる解答があるわけでもなく、何を信じて人生を納得するかという信仰の問題になってしまう。外来の限られた時間で人生観の仔細に立ち入ることができるはずもなく、結局、医者にできることは、患者の話をきいて、今ある自分を受け容れることを提案するにとどまらざるを得ない。そのような対応に感じる、満たされぬ思いのはけ口として、私はこのブログを綴ってきた。外来では決して言うことはできないが、それでも言ってしまいたいこと。それが私のブログである。
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2006-08-28 08:33:51

<ダ・ビンチ・コード >

テーマ:読書
ダ・ビンチ・コード上中下巻(角川文庫)を読んだ。とても面白い作品だった。宗教に関連した数々の薀蓄もさることながら、その読ませ方、ストーリーの運び方が冒頭から読者を捉えて離さない。読み進むのに意図的な努力を必要としないので、長編にもかかわらずあっという間に読み終えた感がある。

さて、この作品は映画化されているが、国によっては上映が禁止されているという。イエスの扱い方が不当にゆがめられており、宗教上の冒涜にあたるからというのが、その主な理由なのだそうだ。
だが、イエスの真の姿を不当にゆがめてきたのは、むしろ、こうした映画の上映を禁じようとする側のイデオロギーにあるのではないだろうか。
イエスに関する資料は、宗教改革の名のもと、その多くが失われてしまっている。このため、今日残るイエス像は、その人間としての側面が不当に剥奪され、信者の望む信者のための都合の良い姿が伝えられているに過ぎない。

果たしてイエスがマリアの処女受胎によって生まれ、生涯独身でなかったのなら、その教えの数々は本当に価値を失ってしまうのだろうか。
イエスは、時の権力者たちの牙城を揺るがす政治家としての側面と、ユダヤ教の改革者としての側面をあわせもった哲人であったと私はとらえている。
イエスが神の御子で、人知を超えた特別な存在であるという見方は、後の世の人間がつくりだした偏った視点に過ぎまい。

私は、イエスには男女両方の親がいたと思うし、結婚して子もなしていたと直感する。
そして、そうした事実があったからといって、イエスという人物の神性がゆらぐこともないと思う。人はもともと皆神の化身であり、生命を宿す手段としてある男女の営みが否定されるべきいかなる理由もみあたらないからだ。
人に備わった神性をもっとも優れた形で表現しえた稀有な人物こそが、当時イエスであったというだけのことだと私は思う。

己が信ずる形に固執するのは愚人の行いであり、実際、イエス自身はそうした愚人たちの手によって陥れられたのだ。自分たちの信ずるメシアの形にそぐわないという理由で、一部の偏ったユダヤ教徒たちに葬り去られたのである。
それゆえ、当のイエスがもし現代に復活したならば、自分に関連した迷妄の類をかたくなに信じ続ける愚人の存在に当惑せざるを得ないのではないだろうか。
本質的に、キリスト教原理主義者とイエス自身を陥れた人たちは同じである。
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