2005-12-06 17:30:02

<ご身内を亡くしたある男性にあてた手紙>

テーマ:手紙
書き込みを拝見し、何をどうコメントすべきか思案するうち、今日にいたりました。
本来ならば沈黙すべきところなのかも知れませんが、若輩が薀蓄をたれるご無礼をお許しください。

私の職業は医師です。私はこの職業柄、一般的な方々に比べ、多くの人の死に立ち会ってまいりました。
若くして交通事故でお亡くなりになる方、全身が腐肉と化してお亡くなりになる方。そして、死をいたんでくれる身寄りを誰一人もたず、ひっそりとお亡くなりになる方。
人の死に立ち会うと、いつも決まって我々は何のためにこの世に生まれ、この苦しい人生を全うせねばならないのかを考えさせられます。
ただ生きて飯を食らい、糞をたれるためだけに生まれてきているのだとすれば、生きている意味などありません。死んでしまった方がはるかに楽というものです。
それなのに、なぜ生きなければならないのか。

私たちは、己が生きるというエゴを主張しながら、他人のエゴを受け入れる、即ち愛し合うという自己のエゴを否定する営みを尊ぶ矛盾した存在であり、この自己矛盾、葛藤は生きている間中つきまとうことになります。
しかしながら、我々は誰もが皆等しく死を迎えることで、この葛藤から開放されます。
「死なば皆仏」というコトバが仏教に伝わる背景には、こうした見解があるからではないでしょうか。
人は死によって愛とエゴとのせめぎあいから開放され、純粋な愛、即ち神に立ち戻るのかもしれません。

私は、人は神のうつせみとして肉身に宿り、その人生で己の神性を煌かせる、即ち無限の愛を意味する神を葛藤のうちに自己表現する霊的存在であると考えています。
このために、その反対性質であるエゴを携えて生きているのだと。
イエスの語った「神の御前における平等」とは、本来は輪廻転生を繰り返して進化、神化する霊的存在としての平等を意味するものです。
この世の全存在は、神の意志の顕れであり、生命は神性の動的自己表現を宿命付けられた存在であるということです。

人は生まれてきた以上、いつか必ず死を迎える運命(さだめ)にあります。致死率は100%です。
けれども、それは喪失ではないと私は思うのです。我々は霊的存在として永遠不滅であり、人生の価値はその寿命で決まるものでは決してない。
人生で何かに執着することもなく、これといった努力もせず、誰も愛さず、誰からも愛されることなく漫然と生きる90年に、お姉様の60年が劣ることなどありはしないはずです。
悲しむべき、恐れるべきは死ではなく、何もしない生です。
お姉様の人生が他の誰よりも輝きに満ちていたことを、皆がご存知のはずです。
そして、お姉様の意志は遺志となって、周囲の方々の裡に生き続けるのだと私は思います。
思いは命です。
お姉様のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
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2005-06-23 13:35:45

<ある有識者にあてた手紙>

テーマ:手紙
我々は、いかなる理想を目の前で説かれても、現実の厳しさやおぞましさを直視したことのある人間であればあるほど、こうした理想を非現実と感じてしまうものです。
つまり、神を信じられなくなってしまうものなのです。
そうして、我々は神を失い、同時に愛を失う。
これこそ、愛の連鎖の対極に位置するもので、まさに、エゴの邪悪な側面がもたらした渇愛の連鎖であるといえます。
私には、私の主張を訝しみ、これを非現実的と指弾して憚らぬ方々が、エゴの連鎖に毒された虜囚に見えてしまうのです。

確かに、私の発言は、客観性を欠いた主観のオンパレードで、宗教的ではあるでしょう。
しかし、宗教のもつ本来の教義の中には、人や世界の存在に関わる極めて深遠な洞察を随所に垣間見ることができ、私は、そこにある種の普遍性や絶対性を見出しています。
一見、多様にみえる概念の多くが、本質的には同一であり、多様にみせている原因を作り出しているものこそ、人のエゴであるという認識です。
ただ、残念ながら、それを理解し、これを実感することは、宗教的希求、即ち、己の無知、不完全を自覚し、これを補おうとする強固な希求がなければ、叶わぬものなのです。

我々が客観と認識しているものは、それを客観と信じる主体がある以上、その主観を超えることはできません。よって、認識力に個体差がある以上、一定の論理や見解を完璧に共有することは不可能です。
従って、客観的事実なるものは、幻想に過ぎず、我々にとって確かな事実とは、今、この瞬間に思考している主体以外にはあり得ません。昨日の自分が自分であるという保障すら存在しないものだからです。

例えば、脳の特定部位、記憶保持の座に障害を負ってしまった方の場合、昨日の自分を認識することができなくなります。その方にとって、確かなものとは、思考する今の自分でしかないわけです。
また、客観的事実なるものが、いかに根拠の希薄な存在であるかは、映画マトリックスをご覧になっていれば、ご理解いただけるかもしれません。主人公は、ある日、己の認識していた現実が、全て虚構であったことに気づかされます。つまり、自分が、客観的事実と認識していたことなど、所詮、何の根拠もないものであると知るわけです。まさに胡蝶之夢。

結局、人は己の意識の及ぶ範囲内でしか物事を認識できず、そこにあるのは、常に主観であるということです。つまりは、人は本当に肝心なことは何もわからないということでもあります。よって我々は無知なのであり、これを悟ることができれば、哲学や宗教に真理を求めずにはおれなくなってまいります。これこそが宗教的希求です。

これまで、この宗教的希求を持つ限られた好事家のみに、こうした真理が独占されてきましたが、私は、この状況をこそ打開し、皆で広くこれを共有すべきだと考えています。
これは、個々の意識という下部構造の変容によって、政治や宗教といった上部構造へと向かう思想や意識の統一を求めるものであり、上部から下部に向かう価値観の統一、つまり、何かの法制化や制度化を求める立場ではありません。
確かに、その道のりは、限りなく困難ではあるのでしょうが、例え非現実とご批判を賜ったとしても、これを机上の空論と指弾されても、私の説く理想や思想に、一人でも、二人でも、共感者を得ることができるならば、愚見の披露を惜しむまいと私は覚悟しています。
ご理解いただきますれば幸いです。
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2005-06-23 13:34:55

<ある母親にあてた手紙>

テーマ:手紙
[ご子息が教師に恵まれず、また、落ち込むことが重なったせいで粗暴であるのだという。だが、原因は、本当に周囲ばかりにあるのだろうか。]

人が一人前になるには、沢山の師を必要とします。そして、数多い師の中でも、最初に出会い、最も長きにわたって教えを請うのが、親でしょう。仮に問題教師がいたとしても、その付き合いの長さは、親の比ではなく、せいぜい一年か数年です。
ならば、問題教師は反面教師として、子供たちにとっては、教材の一つであると教えてやれば良いのではないでしょうか。

実際、問題のある人物というのは、教職に限らず、実社会において、いくらでもいます。
将来、ご子息が就職なさった先の上司にさえ、いるかもしれません。
とすれば、問題のある人物に対し、いかに対応していくのかも立派な教育のテーマだと愚考します。
子供はいつか大人になり、いつまでも親の保護下にはいられないのです。ならば、そうした人種には慣れておくべきです。

結局、親こそ、良きにつけ、悪しきにつけ、子供にとって、最も影響力のある師であるということができます。
そして、この最初の師である親の視点が揺らがないことこそ、子供にとっては、最も大切であり、それだけに、家長として、バランスのとれた視点が重要だと私は思います

また、心が弱ってしまってどうしようもないとき、一番必要なものは自信と勇気です。
けれども、本当に滅入っている時には、この二つがともに失われている時でもあり、回復は容易ではありません。
病的な落ち込みは、うつ状態と呼ばれます。精神医学の観点では、うつ状態の患者を励ましてはならないという鉄則があり、正しい対処の仕方としては、相手の言い分をさえぎることなく聞き入ることであるとされています。
これは、落ち込んでいる人間に対する接し方において、一つのヒントになろうかと存じます。

子供に限らず、落ち込んでいる人間には、そばに寄り添って、話をきいてあげられる誰かが必要です。それは親でも良いし、友でも教師でも良いのだと私は思います。
実際、己の悩みを誰かに話すだけで、心が軽くなる経験を、誰しも持っているのではないでしょうか。
そして、少しでも心が軽くなれば、機を逃さず、何でもよいから簡単なことを「始める」必要があります。それは、どんな些細なことでも良いのです。日記でも良いし、お祈りでも良い。また、これまで続けていた何かの習慣があるなら、それを再開するだけでも良い。
三日坊主になってしまっても良いから、とにかく、一歩を踏み出す勇気と気力を振り絞ることです。そうしたささやかな営みを積み重ねた先に、揺ぎ無い自信と志が養われ、それが、新たな挫折を克服するための礎になるのだと私は思います。

人間、挫折という、どん底を知っていてこそ、いざというときに開き直りが効いて、強くなれるものです。底まで落ちれば、あとは上がるしかないのだと、私はいつも自分に言い聞かせています。より高く跳躍するためには、より低くかがまねばならないものです。子供時分の挫折は、それが不適切に過大となってしまわないのなら、学びの好機ではないでしょうか。
試練にさらされた子供に対しては、とやかく口を出すよりも、その傍らにそっと寄り添っていてやるのが、親や教師の務めではなかろうかと存じます。

私は、人との出会いは、縁だと思っています。そして、その縁を導く因となるものは、己自身にあると考えています。つまり、ご子息が師に恵まれないという状況さえ、本質的には当人に責任があるという、少々厳しい視点です。けれども、こうした出会いは、何かの贖罪や罰として存在するのではなく、自分と等しい性質を有する者同士が寄り合うことで、互いの姿に己を見出し、そこに何かの学びを得るため、そうした縁が導かれているのだろうと私は解釈しています。
これは因果応報と呼ばれる仏教思想に通じる考え方ですが、私は、その法則の存在を日常生活で実感しています。

これはまた、見方を変えれば、己自身に何かの良き性質、宗教用語でいうところのカルマを身につければ、必然的に、周囲の状況に好ましい兆しがもたらされるということでもあります。
我々が周囲にみる敵の姿とは、往々にして虚像に過ぎず、案外、己自身の姿を相手に見出しているだけではなかろうかと存じます。
であるなら、ご子息の状況を好転させる術は自ずと明らかです。
親が変容し、エゴによらぬ誠の愛に根ざして行動するなら、必ず子にもそれは伝わるでしょう。それは、ご子息本人の変容のみならず、抱える状況をも好転させ、優れた師との出会いが導かれるはずです。これこそが愛の連鎖です。
まず、ご自身が変容なさることで、ご子息とその周囲に、好ましい変容がもたらされるのではないでしょうか。

若輩が偉そうなことを述べ立てて申し訳ありません。平にご容赦願いたく存じます。
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2005-06-23 13:34:13

<ある高校生にあてた手紙―恋と愛について>

テーマ:手紙
[病床に伏す彼女をもつ一人の高校生が、校則に従って前髪を切った。彼女が長い前髪を好んでいたことを知っていた彼にとっては、苦渋の決断だったに違いない。結局、短く切った前髪を彼女に指摘され、それがきっかけで、別れてしまったという。彼は、その別れに悲嘆し、校則を恨んだが、果たして、別れの原因は、校則や、前髪にあったといえるのだろうか。]

書き込みを拝見して、何をやっても上手くいかなかった高校時代を思い出しました。
確かに、男は「見た目じゃない」とはいえ、高校生の恋愛なんて、大半は見た目が勝負。なぜなら、中身にそれほど差があるわけでもないからです。

ただ、恋とは、相手にみる虚像への執着、錯覚、熱病みたいなもので、いつかは冷めるもの。
一方、愛とは、相手を大切に思う心。相手の存在で己が幸せになろうと欲すれば、それはエゴに過ぎず、愛とは、無償であってこそ、永遠に存在できるものだと私は思います。
けれども、十代で経験する恋愛の多くが、恋心多くして、愛の少ないものかも知れません。見た目に大きく左右されるのは、互いが虚像を見ている証拠だからです。であるなら、遠からず終わりを迎えるのは、避けられなかったことでしょう。学校のせいにばかりはできないように思われます。

しかしながら、本当にその恋愛は、終わってしまったのでしょうか。貴方様のお気持ちが、誠の愛に根ざしたものであるなら、簡単に終わることなど、ありはしないはずです。
人間、病を抱えていれば、誰かに理不尽な我儘をいいたくなるもの。恋人だからこそ、甘えたくなるものなのです。そういう意味で、病める彼女と諍った挙句、別れてしまったという貴方様の主張に同情することはできません。彼女が望んでいたのは、本当に貴方様の前髪だったのでしょうか。私には、とてもそうは思われません。

自分の価値や人生は、自分が決めるものです。己の目線をどこに置くかで決まるもので、周囲の要素、学校や教師などに責任を転嫁する類のものでは決してないと私は思います。

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2005-06-12 17:17:58

<自信と希望を無くしたある男性にあてた手紙>

テーマ:手紙
希望とは何でしょうか。
あるとかないとかではなく、持つか持たないかの問題ではないでしょうか。
自分の価値は自分自身が決めるもの。
誰かや何かの評価で決まるものでは決してない。
確かなことは、今の自分をつくったものは過去の自分であり、未来の自分をつくるのは、今の自分であるということです。
自分で自分の価値をおとしめず、ただ、その真価を自覚することが大事なのではないでしょうか。
そうした自覚の上に地道な努力を積み上げることが、明日の自分を変容させることにつながるはずだと私は信じています。

それゆえ、なぜ最初から何でも無理だとお考えになるのか私には理解できかねます。
意思(WILL)のあるところに未来があり、希望があるのではないでしょうか。
希望があり、そこに努力が傾けられるならば、何かの結果は得られるはずです。
たとえ、望んでいた通りの成果を得ることができなかったとしても、そこでなされた思いと努力は、必ず何かの気付きを人生にもたらしてくれるのではないでしょうか。

何事につけ、最初から希望をいだかない姿勢、努力を怠る姿勢には共感することができません。
それは、希望が叶わなかったとき、努力が報われなかったときに傷つくからでしょうか。
傷つくことから逃げているだけでは、己自身の可能性を狭めてしまい、せっかくの気づきのチャンスを台無しにしてしまうことになりはしないでしょうか。

いま、私が思い描く理想は、多くの人にとって夢物語でしかないでしょう。
けれども、努力を費やさず、最初から諦めてしまうことなど私にはできません。
確かに、努力を怠る人間にとって、夢はいつまでも夢でしかないものです。
しかしながら、己の手の届く範囲で、できることを着実に積み上げていくなら、必ず何かを掴み取れるはずだと私は信じています。
また、苦労して掴み取るからこそ、そこに価値があるのではないでしょうか。
我々のあらゆる努力は霊的進化に対してなされるものであり、その前にあっては、無駄に終わる努力も無価値な人生も存在しないと私は思います。
偉そうなことばかり申しましたが、ご一考を賜ることができますれば幸いです。
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2005-06-12 17:17:15

<父親の不徳を嘆くある女性にあてた手紙>

テーマ:手紙
確かに、我々は決して平等には生まれてきません。
尊敬できる親から愛されて育つ子供がいる一方、虐待されて殺されてしまう子供もいます。
もし、人が見た目で把握されるだけの存在なら、つまり、唯物論という宗教が正しい教えならば、己のしたいように生き、誰を不幸にしても憚らぬ利己的な人生を送った方が得というものです。

けれども、私は、それは違うと思っています。
人は、どのような環境に生まれてきたとしても、その内面の成長をこそ、生きる目的としているように私は感じています。
目には見えずとも、人の裡には至上至高の価値を求めて思い悩む意識があります。
私は、こうした人の意識は、脳細胞の生化学的反応の結果として存在するのではなく、原因として存在しているものだと考えています。
つまり、人の本質とは、見た目の肉体を超えた、科学の及ばぬ意識にあると。
また、こうした考え方の延長に、因果応報や輪廻転生の存在を実感してもいます。

とすれば、人が抱える幾多の不平等は、こうした人の意識、即ち人の本質が進化していく上で、必要不可欠な環境要因であると考えられるのではないでしょうか。
そうした意味で、貴方様にとって、ご尊父の存在は貴重な反面教師であるといえます。
我々の本質は霊的存在であるという自覚があってはじめて、互いに平等であり、自由であり、相手を敬い、尊敬できるのかも知れません。

勿論、こうした考え方は、客観的に証明できるものでもなければ、誰かに押し付けることのできる類のものでもありません。
ただ、一つの視点をご提案させていただいたまでのことです。
お説教を垂れるつもりは毛頭ありませんが、互いを尊敬する、特に親を尊敬するという意味を考える上で、何かのきっかけにしていただければ幸いです。
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2005-06-12 17:16:28

<ある東大生にあてた手紙>

テーマ:手紙
[<悟性と共時性>について、自分にはそうした経験がないとの率直な否定意見が、ある東大生によってなされた]
貴兄のような反応を示される方は、決して少なくはないでしょう。
経験は、存在の数だけ多様である上、その解釈も多様であり、故に、そこに基づく悟性は絶対視できないとも申し上げているわけです。
けれども、私は一つ、貴兄に考えていただきたいことがございます。
人が、何かを「経験する」とはどういうことでしょうか。
例えば、私が一歳になる息子と同じ映画を観たとして、そこでなされる二人の経験は、果たして等価、等質であるといえるのでしょうか。
我々が漫然とした日常に潜む複雑な因果律を見出すためには、相応の知性と感性が要求されるのです。
貴兄には、客観的に証明された優れた知性があることは間違いないかもしれません。
けれども、その感性については、これまで、何ら数値化された客観的評価を受けては来られなかったはずです。
無論、貴兄の感性が劣っていると申し上げているわけではありません。しかしながら、優れているかと問われれば、自信を持って頷ける御仁は少ないことでしょう。それは私も同じです。
けれども、シンクロニシティーと呼ばれる現象は実在するものでありながら、それを認知できる感性が養われていなければ、漫然と見過ごしてしまう類のものです。
貴兄が、ご自身に何かの不足を感じることのできる謙虚さがなければ、その存在を見出すことは決して叶わないでしょう。
その謙虚さこそ、宗教的希求に反映されるのです。
ゆえに、この希求をお持ちでない方には、私の発言を把握することは永久に不可能であるということもできます。
謙虚さに欠けた硬質なハートに私の声は届かないのです。
随分失礼な発言をしているという自覚はあります。けれども、聡明な貴兄には、私のメッセージをご理解いただけるのではないかと期待しているがゆえの無礼であるとご容赦下さい。
もっとも、私の愚見に賛同する必要もありません。ただ、知っておいていただきたいというだけです。知ってさえいれば、遠くない将来、貴兄は真理と出会うことができるはずです。私は、貴兄にとって、とても大切になるかも知れない存在を見誤ることのないよう、その印を説いているに過ぎません。目の前の宝も、価値を理解できぬ者にとっては価値を持たず、ただ通り過ぎてしまうものだからです。
これからの人生で起こる様々な体験の深奥に潜む意味に目をこらしてみて下さい。
謙虚さを失っていなければ、必ず見えてくるはずだと私は信じています。
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2005-06-12 17:15:23

<運動部の後輩にあてた手紙>

テーマ:手紙
競技の能力を決定する因子はどこにあるのだろう。
確かに、身体的な素因は大きく影響するだろう。しかし、高々医学部の大会ごときで、そこに大きな差が生じるとは思えない。
五輪選手を相手にするわけではないからだ。

結局、競技レベルを決定するのは、ハートの熱さだろう。
しかしながら、近年、こうした熱さは、どういうわけだか煙たがられたり、嘲笑の対象となったりすることが多いようだ。
何かに打ち込む姿は、他人の目から見ると、こっけいに映るらしい。
いわゆる、「オタク」っぽいのだそうだ。

けれども、斜に構えて熱さを嘲笑する生き方にこそ、私は疑問を感じる。
何かに執着して、真に自分を追い込むことを知らぬ人間は、真の挫折も真の喜びも味わうことはできまい。
おおよそ、医学部に入ってくる人間には、ひ弱な手合いが多い。
学問においては、それほど甚大な敗北感を感じることなくやってこられたはずだ。
他方、自分が苦手な領域で七転八倒してみることがなければ、人間としては、はなはだバランスが悪いように思われる。
最近の傾向として、馬鹿になれない手合いが多いのは、失敗に臆病な人間が増えていることと無関係ではあるまい。
これといった執着なしに、ひらひら生きていくのがカッコイイからなのだそうだ。

しかし、ひらひら生きようとすればするほど、いわれのない苦境に立たされて身動きがとれなくなってくることだろう。
問題をかわし続ける生き方は、誰にもできないからだ。ただ、先送りになっているというだけのこと。
競技で強くなれなくても、人生で困ることはないと思っている輩も多いことだろう。
けれども、そういうスタンスで人生に挑み続けるなら、せっかくのチャンスが台無しになってしまうのではなかろうか。
執着は悪ではない。巨大なる執着を制する営みこそが、人を成長させるのだ。
志を高く持てる選手の台頭を期待したい。
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2005-06-03 15:43:04

<ある青年にあてた手紙>

テーマ:手紙

[とある青年から、以下のごときお手紙をいただいた。

「生命と言うのは分子生物学のように原理的には化学の言葉で説明できるし、化学というのは物理の言葉で説明できる。だから究極的には生きている意味なんてない」と。

果たして、そういいきってしまうことができるのだろうか。

本文は、彼に対する返事である]

貴兄のような考え方をなさる英才は少なくないと存じます。
そして、そういう考え方が間違っているとしても、今のところ、科学的にそれを立証するのは困難です。
しかしながら、やはり、そうした生命観、人間観に対して私は懐疑的です。

「利己的な遺伝子」は存じていますが、こうした視点には、決定的な欠陥があります。
それは、生命に物理化学現象を引き起こしている根本原因についてまで、科学が解き明かしたわけではないということです。
例えば人の意識。
これは唯物論者によれば、貴兄と同じように、脳内の物理化学現象の結果であると断定されます。ところが、この視点についていえば、何ら証明はなされていません。
証明されていない以上、これを支持するのは信仰であって、科学的、客観的視点ではありません。
同じように、医学は、未だ生命の根本原因を解き明かしていません。
人の生死を分かつ根本原因については何もわかっていないのです。
わかっていないことを、さもわかったように結論づけることで成り立っているのが、唯物論です。
これは貴兄の還元主義にもいえることでしょう。

もし、生命が、観測可能な物理生化学上の諸現象を超えた原因によって営まれているとすれば、そこから全く別の視点が開けるのではないでしょうか。
それらは、唯物論の対極にあって、唯心論や観念論などと呼ばれていますが、こうした観点に立つと、人の本質がエゴなのではなく、生命の本質がエゴなだけであって、人の本質は、このエゴに打ち勝って愛を顕現すべき存在であるという結論に達することができます。

興味を持っていただくことができるのであれば、当方ブログ、5月の書き込みをご高覧いただければ幸いです。
拙著「眠れぬ夜に思うこと」とその続編がその内容です。
聡明な貴兄には必ずご理解していただけると期待しますし、同意が得られないまでも、これまでにない視点をご提案できるかと存じます。

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