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2009-12-10 09:19:00

<真理の行方>

テーマ:哲学
旧約、新約ともに、開祖の教えを正確に伝えることには失敗しているといえるだろう。コーランにしても同じことである。その時々の世情により、教えは伝える者によって歪められてきたからだ。
しかし、ハートで神をとらえる者にとって、新約の神にせよ、旧約の神にせよ、あるいはイスラムの神にせよ、そこに普遍的な慈愛の神を見出すのは難しいことではない。聖賢たちの教えが混乱しているように見えるのは、彼らが混乱しているからではなく、その教えを受け止める側の混乱によるのではないだろうか。
聖者の教えは、もとを正せばいずれも口伝であり、伝える者たちの意識をくぐる段階で変容を余儀なくされてしまうのである。ゆえに、頭でこれを理解しようとすれば、衆生の混迷を見出すことになるだけだ。

因果応報も同じ事で、理性の営み、知力の働きで因果律を解き明かすことは単純にいって不可能なのである。それは知性に限界があるからだ。
しかしながら、人には知性のみならず感性があり、この働きに負う高次の認識を悟性と呼ぶなら、悟性によってのみ、因果律をたどることが可能となる。さすればそれを観察者の錯覚であるだとか思い込みであるだとかいう結論には達し得ない。ただ、理性に限界があるのと同じように、悟性にもまた限界がある。当然、過ちもあり得るだろう。ゆえに、真理を追究する者には何より謙虚であることが必要とされるのではないだろうか。

神が無限の愛、慈愛そのものであるというなら、何ゆえ衆生には悪徳と暴力がはびこり、善男善女がもだえ苦しまねばならないのかと人は問う。何もせぬ神は無慈悲ではないかと。しかし、己が苦しみを奥深くたどれば、そこにあるものこそ、錯覚に過ぎないのではないだろうか。諸々の苦しみ、悲しみは、我々が有限の存在であることに由来する。有限なものを失うことで苦しみや悲しみが生まれるからだ。しかし、他ならぬ我々自身が神の化身であり、無限存在たる己の素性を忘れてこの有限の世界に戯れる神であると悟るならば、その苦しみ、悲しみを退けることができるだろう。

無限にして唯一の神が“存在する”ためには、それを認識する客体として神を想う有限存在が不可欠なのだ。苦しみ、悲しみはこの有限なものを失うという感覚の延長にある幻に過ぎない。不安もまた同じである。ゆえに、目に見える肉体を失う死によって無限存在に回帰することが救いとなるのだ。不生不滅、死なば皆仏とはそういうことではないだろうか。
かつてイエスが自ら十字架を背負い、目に見える命を犠牲にしてまで人々に示してみせたものの本質がそこにある。彼の教えの骨子は、人の本質がその霊性にあり、無限の存在であるということに他なるまい。
神がどこにあるかと問われるなら、私は各々のハートを指すのみだ。そこにある慈悲の心、慈愛の心が神であると。
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2009-12-09 09:28:33

<神の恩寵と因果応報>

テーマ:哲学
多くの善男善女が、これほど多くの苦しむ人々、非業の死を遂げる無念の人々を前にしながら、どうして神は何もしてくれないのかと無邪気に尋ねる。

しかしながら、現実の世に起こるあらゆる出来事に偶然はないと私は思う。全てに原因があり、そしてその原因にふさわしい結果が待ち受けるのではないだろうか。それが因果応報である。因果応報の存在もまた神の存在と同じく、それを感じるしか認識の手立てがない。しかし、あると実感する者にとってはまぎれもない真実なのである。

因果応報は、この世界の壮大なドラマを創り出すのに欠かせぬ法則であり、これを安易にくつがえすならば、世界はその存在意義を失ってしまうことになりはしないだろうか。神が何もしないようにみえるのはその故である。
我々の目の前で起こるあらゆる事象は、常に原因を伴う。そして、その結果もまた、それを受け取るにふさわしい人が、完璧なタイミングで受け取ることになるのだと私は思う。

しかし、そうした因果応報の法則を覆すことができるのも、やはり神をおいて他にはないことだろう。それは神に帰依する者の純粋な祈りによって行われる奇蹟である。人の手によって最善が尽くされた上で聖なる祈りが捧げられたならば、神の恩寵により、願いは聞き届けられることだろう。そして、その成就は我々の霊的進化に深く関わってくるに違いないのである。
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2009-12-09 09:27:52

<無限存在と輪廻転生>

テーマ:哲学
10カラットのダイヤも100カラットのダイヤも、炭素の塊であることに変わりがないのと同じように、苦しみ、悲しみにどれほど高値を付けてみたところで、それらが有限なものを失うところから派生した幻であることに変わりはない。なぜ幻であるかといえば、それは我々の本質が輪廻転生を繰り返す無限存在であるからだ。

我々は苦しみ、悲しみ、憎しみ、喜び、その他諸々、感情の全てを味わいつくすために幾度と無く生まれ出でていることだろう。それが輪廻転生の思想である。ならば、既にその味を十分に知りえた人生は選択されることがないに違いあるまい。多くの人が本能的に殺人を忌避するのはその故である。殺しの味、そしてその結果としての殺される味を既に知り尽くしているからだ。また、こうした思想は何も仏教に限った話ではなく、ニケーア公会議以前に伝わるイエスの教えには、因果応報、輪廻転生を肯定する思想が含まれていた可能性を示唆する報告もあり、広く普遍性を有すると私は思う。

我われが本質的に無限であるというならば、人類にどれほど冷酷で残虐な歴史があったとしても、それは神の栄光を汚すものではあり得ない。なぜならそれは押しなべて人の獣性がもたらした帰結に過ぎないからだ。ゆえに、それをもって神の慈愛を否定することなどできはしない。神の御心が我儘なのではなく、それは人の気まぐれ、身勝手の表出に過ぎないからだ。この世界のあらゆるドラマには、神の恩寵が奇蹟となって煌く瞬間を除き、ただ原因と結果があるのみだ。

そもそも、人とは、“獣性と神性とを併せ持ち、神にいたる途上にある何者か”なのだから、慈悲の心を著しく欠いた獣のごとき輩が存在しても何ら不思議なことではないのである。我々自身が獣の言説に惑わされることなく、ただ神への道を粛々と歩めばそれで良いのではないだろうか。
殺戮の歴史は、人の獣性がつむぎだした結果に過ぎない。しかしながら、何もしてくれぬ神に呪詛のコトバをはき捨てる人々は後を絶たない。けれども、そうした発想は単純に神と己を分かつ分離感に由来しているに過ぎず、己がハートの外側に神を見出そうとすればこそ、神の不在を確認せざるを得なくなるというだけの話なのだ。

したがって、人類の歴史において、神には何の責任もありはしないことだろう。同じように、霊的存在としての我々にもまた、何の責任もありはしない。有限の世界における諸々のドラマは神が己の何たるかを知るための遊戯に過ぎないからだ。霊的無限存在として、我々は完璧に平等であり、自由である。我々は己の何たるかを知る途上にある神そのものであるという意味だ。さすれば霊的存在として、我々はあるがままで良いといえるだろう。慈愛の神など信じぬ、輪廻も因果も信じぬというのであれば、それはそれで良いのである。

何を信じて生きるかは、己がどのように人生を納得させるのかという単純な問題に還元されることだろう。その獣性をむき出しにせざるを得なかったキリスト教徒たちもそうだが、己が信じるところに従って生きればそれで良いのだ。そして、そのような人々がつむぐ歴史を見て、後世の人々は何が間違っていたのかを悟るだけの話ではないだろうか。人は誰しも己の信じたものにふさわしい幻をこの有限の世界で味わう定めにあることだろう。

制限がないとき、人は怠惰とならざるを得ない生き物である。ゆえに、我々は限りある時間の中で生きるのではないだろうか。過去世の記憶がないのはそのゆえである。あるのはただ漠然とした生きる傾向、いわば魂の習慣で、それをカルマと呼ぶ人もいる。実人生においてはこのカルマと向き合い、粛々とその一つひとつを清算、克服して行く営みこそが人生であると私は納得している。人生とは味わいに他ならぬと。

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2009-12-09 09:25:25

<神はハートにあり>

テーマ:哲学
神という呼び名を目にすると、これを「理解」するために多くの人はあれこれと既存の知識をたどろうとする。つまり、己の外側に神を見出そうとするわけだ。けれども、ハートのスイッチを切った学者や思想家、あるいはその真似をする者たちがいかに頭をひねってみたところで神にたどり着けるはずもなく、往々にして“神は人間が方便としてつくり出した概念に過ぎないもの”という結論に達してしまう。こうなると、ほとんどの探究者は伝えられる概念の相違点ばかりが気になって、神の普遍性に思いが及ばなくなってしまうようだ。

一方、今ある秩序、全宇宙の存在原因として、あってあるもの、我々一人ひとりの意識の奥深くに内在し、理性の営みの外にある普遍の無限存在として神をとらえれば、神とは、ハートで感じ、味わうものであるということになる。
もし、そうであるならば、宗教を掘り下げる行為もそうだが、文献に神をたどるのは不毛であるということになるだろう。探す場所を誤っていたのでは神にたどり着けるわけがないからだ。

実のところ、ヨーガや密教に伝わる特殊なテクニックを用いて瞑想し、意識の深い領域に達すると、一時的にせよ人は神の意識との一体化を経験できるようだ。そのような経験を持つ人間にとって、神は人間のつくりだした概念であるだとか方便であるだとかの理屈はまるで意味をなさなくなってしまう。神は我々一人ひとりの内側にあるのであって、それを己の外側に見出そうとするのは、己にかけた眼鏡を探す愚挙に等しいというわけだ。

往々にして、人間は困るまでは神を必要としない生き物である。ゆえに、神はその子らを己に近づけさせるために困らせるのではないだろうか。あるいは、人が神に近づくために困った状況を自ら演出するともいえるだろう。人が己の存在意義について深く省察するのは困ったときをおいて他にはないからだ。それは、人が神にいたるためのきっかけに過ぎまい。我々の人生は、我々自身の手によって遠い過去にグランドデザインを終えているという意味である。

人間はいつも矛盾を抱えて苦しむ生き物ではないだろうか。だから、“獣と神との間にある何者か”なのである。あるべき姿と今ある現実との間にある矛盾を忘れぬ限り、その矛盾に苦悩する限り、人は獣に落ちることから免れ得ることだろう。
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2009-12-09 09:22:52

<エゴの統御とあるべき姿>

テーマ:哲学
利己心というエゴは、生命の本質的な衝動であり、これを完全に排除してしまおうとするなら、死ぬしかない。食欲ですら、別の命の犠牲を強いることなしにそれを満たすことはできない。生きるということそれ自体がエゴの主張に他ならず、エゴの否定は生命性の否定につながるのだ。従って、エゴは排除するものでなく、これを統べるものであると私は思う。

乳飲み子は自身の欲求を通すだけが仕事である。それは生きるために必要なエゴの主張であり、そうした原始的な欲求を抑え付ける必要は全くない。したがって、親はひたすら子の欲求に応えるだけであり、子はエゴの解放によってもたらされる快の感覚を体験する。
しかしながら、乳児から幼児になるに従い、徐々に親は子のわがままを戒めて欲求を抑制する術を教え、あるべき姿に躾ようとする。ここで初めて、子供たちは自己の欲求を抑制する術を学ぶのだ。
その後、子供たちは自我の目覚めとともに、反抗期を迎えて再び欲望を追求しはじめ、親のいうことをきかなくなってしまう。そうして自分で物事を選択し、その結果を受け取ることで、欲求の抑圧と解放のバランスを習得するのである。これが、エゴの統御のもっともプリミティブな形である。

躾られていない子供はエゴを抑制することができず、エゴを統べることができない。一方、乳児期に不自然な形でエゴの抑制を強要されたり、思春期に自我を主張してエゴを解放する術を知らない子供もまた、エゴを抑えつけるばかりでエゴを統べることができない。どちらも大人になってから己のエゴに振り回されて困ってしまうことだろう。
人は、エゴの解放と抑制を交互に学びつつ、エゴの統御を会得するのである。

核は、人のもつ獣性の権化、究極のエゴの物質化である。ゆえに、人として生きるならば、これを統べて生きねばならぬことだろう。核との共存を謳う人々がいるのもこのゆえであるのは間違いない。
だが、我々の目指すあるべき姿はやはり神にあるのではないだろうか。そして核との決別、核に頼らぬ選択こそが我々を人から神へと導くことになるのだと私は思う。
神々の世代をいざなうため、その捨石になる勇気が我々に求められているのだと。
人類全体の進化、神化はすぐそこにあるのだ。
古より預言された神の御国、神々の時代の到来は近い。
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2009-10-26 08:40:14

<誇り高く生きよう、喜びにあふれ>

テーマ:哲学
私の先輩医師が、医師会報に寄稿した提言より引用させていただきます。

<引用開始>
ロック歌手の忌野清志郎さんが、5月2日癌性リンパ管症のため亡くなった。58歳だった。

喉頭癌を摘出すると声が出なくなると宣告されたことから、放射線や抗癌剤での治療を選択。また、がんセンターでの現代医学的な治療計画では胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると言われたことから、入院後2週間で代替医療へと治療を変更したという。声を失って生きるよりも、歌い続けることを選んだのだ。
最後のオリジナルアルバムとなった『夢助』の一曲目。清志郎のヴォーカルが、力強くそして優しく唄う。
「誇り高く生きよう、喜びにあふれ」
<引用終了>

人は誰しも思いなく生きることはできません。生きるために思いを捨てることほど愚かなことはないと私は思う次第です。
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2008-07-25 08:49:53

<あるべき姿とあるがまま>

テーマ:哲学
利己心というエゴは、生命の本質的な衝動であり、これを完全に排除してしまおうとするなら、死ぬしかない。食欲ですら、別の命の犠牲を強いることなしにそれを満たすことはできない。生きるということそれ自体がエゴの主張に他ならず、エゴの否定は生命性の否定につながるのだ。従って、エゴは排除するものでなく、これを統べるものであると私は思う。調和とは、何かを排除、排他してしまうことでは決して生まれ得ぬものではないだろうか。

物心ついたばかりの子供はわがまま、利己心の塊のようなもので、自分の欲求を通すことに迷いがない。だから、親は子のわがままを戒めて欲求を抑制する術を教えようとし、あるべき姿に躾る。その後、子供たちは自我の目覚めとともに、反抗期を迎えて再び欲望を追求しはじめ、親のいうことをきかなくなってしまう。そうして、自分で物事を選択し、その結果を受け取ることで、欲求の抑圧と開放のバランスを習得するのだ。これがエゴの統御のもっともプリミティブな形だと考えられる。
躾られていない子供はエゴを抑制することができず、エゴを統べることができない。一方、自我を主張してエゴを開放する術を知らない子供もまた、エゴを抑えつけるばかりでエゴを統べることができない。どちらも大人になってから己のエゴに振り回されて困ってしまうことだろう。

人の霊的進化の過程は千差万別で、各々がどういう段階にあるかを、外側から誰かが客観的に評価する(裁く)ことなどできはしない。ただ、人が皆、神への道のりを粛々と歩み続けている無限存在であるという見解の前にあっては、自分自身を含め、誰かを裁く必要はないというのが「あるがまま」の思想である。
けれども、それは裁判所や警察署が必要ないということではない。人が皆、神の化身であるという信仰が真理として一般認知されていない社会にあっては、我と人、それとあれは全てが有限存在として別のものであり、誰かが誰かを裁かねば、社会に秩序という名の安心を得ることができない。我々は有限存在として、それらを必要としているのである。

誰かに迷惑をかけたくないという思いは、人に迷惑をかける存在は厄介者、厄介者とは関わりたくない、人に迷惑をかけられたくないという思いの別の姿に過ぎない。けれども、人とは誰のことであろう。全てが一なる存在のかりそめの姿であるという卓見の前にあっては、厄介、迷惑という価値判断は消滅してしまう。
わがままであってはいけないという思いは、わがままな人間はわずらわしいという思いの別の姿に過ぎない。あるべき姿を求めれば、その姿をしていないものを否定せずにはおれなくなるのだ。けれども、そうした否定は有限存在であるがゆえの発想に過ぎないのである。

しかしながら、あるべき姿を求めずして有限世界を調和せしめることもまたできない。無限存在としての霊性の自覚なしに、あるべき姿を語ることはできないのだ。ゆえに、あるべき姿を求めた先に霊性の悟りがあり、最後に残るのが「あるがまま」=「一切の受容」=「無償の愛」であると私は思う。
あるべき姿を求めることなく「あるがまま」に達することはできない。
あるべき姿を求め、「あるがまま」に達してはじめて、あるべき姿を求めることがなくなってしまうのではないだろうか。
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2008-07-25 08:47:12

<「あるがまま」と開き直り>

テーマ:哲学
有限存在として生きる人間は、その根底に、生命の本質である利己心=エゴを抱えている。一方、無限存在である神、愛そのものである神が、己の何たるかを知るための客体として、有限存在に化身したのが人であるならば、我々の霊的本質は愛に他なるまい。利己心と愛とは、性質上、全く相反するため、人はもともとエゴと愛との葛藤を抱える矛盾した存在であるということができるだろう。

「あるがまま」の思想は、人がこの一なる神の化身であり、全てが一体であるという思想に根ざす。それは、人が抱える矛盾を受け容れるという思想であり、エゴを排する思想ではない。ゆえに、人の正義を裁くことがなく、あるべき姿を求めることもない。有害、無害の価値判断でさえ、守るべきものがあって初めて成り立つ相対性を有する。守るべきものが何もないということに気づけば、そのような判断そのものが消滅してしまうのだ。ものの価値を定める基準こそは正義であり、「あるがまま」において、そのようなものは霧散してしまうのである。

何かを変えようともがけばもがくほど、反作用が生じて変わることがない。それは人がダイエットに取り組んでは失敗する様によく顕れている。かといって、諦めてしまっても変わることはない。太っている自分を愛せぬ限り、変わることがないのである。食べてはいけないという抑圧が、さらなる過食を生ぜしめる。食べて良し、太って良しの気持ちがあって始めて食欲を統御せしめ、痩せる選択を可能にするのだ。

勝負に生きる競技者は、劣勢を強いられた局面で、諦めとも異なる受容の感覚が湧き起こるとともに、形勢の逆転を経験することがある。これを人は開き直りと称するが、「あるがまま」とは、人生の開き直りに近いといえるかも知れない。勝ちたいという気持ちが強すぎればミスがでる。己のミスを咎めたり、仲間のミスを咎めたりする気持ちが、さらなるミスを誘う。諦めとも異なる、負けてもよいという気持ち、ミスしてもよいという気持ち、全てを受容し、今この一瞬に全力を尽くすという気持ちが開き直りを生ぜしめるのだ。それが勝利の選択を可能にする。
同じように、人は心から死を受容するとき、生きる力を手に入れるのかも知れない。
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2008-07-25 08:44:55

<愛と正義>

テーマ:哲学

怒りの裏側には正義がある。正義は、それに背くものを決して赦そうとはしないものだ。人は正義を背負い続ける限り、その正義によって自らも裁かれ、苦しまねばならぬことだろう。

この世には人の数だけ正義があり、互いが互いを裁き続けている。人を裁けば裁かれる。
ならば正義は捨て去るべきものなのだろうか。否、人が己の正義によって生きることが否定されたりはしない。正義のあるところにこそ有限存在として生きる味わいがあるからだ。誰かに正義を捨てることを求めるとき、それは正義を捨て去るべきだという正義を相手に押し付けていることになるだろう。

この世には成すべきことなど何もないのかもしれない。ただ、愛さえあれば、赦しがありさえすればそれでよいのだと私は思う。正義で人を裁かずにはおれない自分をこそ、まず愛してみることだ。そのとき、誰かを裁く他人の中に、己自身を見出すことができるだろう。自分を愛することができぬ者が、誰かを真に愛することなどできはしない。

正義に生きて人生を味わい、それに疲れたとき、別の選択肢があるということに気づけばよい。全てが一体であるという真理に気づくとき、自他を区別する分離意識の産物は受容され、ただ、愛のみが残るのかも知れない。全ては、あるがままで良いのだと。そして、あるがままでいよいと思うところから、変化が始まることに気づけるだろう。

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2008-04-07 08:29:26

<正義と神と>

テーマ:哲学
神には正義がないといえば、多くの人は困惑せずにはいられぬことだろう。だが、唯一の存在にとっては、自分以外の何者かに主張すべき正義などはじめから無いのである。だから、有限存在として、その分離意識の下で生きる我々には、神が何もしないでいるようにみえてしまう。しかしながら、正義といわれるものは、一なるものが多様性を獲得することではじめて存在するものなのだ。全てが一体であるという真理にたどり着くとき、正義は消滅を余儀なくされると私は思う。
もっとも、それは個々が己の正義を捨てよという意味では決してない。己の信ずる正義に生きて人生を味わうことが否定されたりはしない。むしろ、何が正義かを求め、己の信ずる正義に生きる営みにこそ、霊的進化へのいざないがあるといえるのではないだろうか。

正義が何であるかを追究するとき、己の正義を顧みるとき、人は何のために生きるのかという普遍的な命題にたどり着く。人生が味わいであり、霊的進化への道のりであることを悟るとき、あらゆる正義を容認できることだろう。同時に、己の正義は消滅し始める。怒るも良し、泣くも良し、笑うも良し。有限存在として、多様性を獲得することで生じた諸々の感情を肯定的に受容するとき、人間らしさをくまなく受容するとき、感情に支配されるのでなく、感情を統べていることに気付けるだろう。より豊かな味わいは、より豊かな感情によって得られるものだ。全てを受容するとき、変容は自然に生じるものだと私は思う。神との一体性をとりもどすとき、人は己と他人とを比べることを止め、正義は幻となるのかもしれない。
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