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2009-12-07 00:15:19

<政策>

テーマ:社会問題

企業は経済組織体であり、業績が悪化してくれば何らかの対策を講じねばならない。全ての仕事関係者を身内と考える日本型企業では終身雇用が根付いており、不況時にもこれを守ろうとする力学が働く一方、従業員を敵とみなす米国型の労働観ではすぐに雇用調整が行われる。雇用を守るなら賃金カットだ。雇用を守らないということなら非正規社員の解雇からはじめなければなるまい。それをしなければ正社員を守れないからだ。
つまり、日本において、派遣社員の採用はいわば正社員のための安全弁確保を目的として行われているわけである。

派遣業の拡大は、米国による内政干渉の結果である。つまり、米国型の労働観が移植されようとしたわけだ。そして、これがそれなりに馴染んでしまったのは、わが国の国民に“自分勝手”が蔓延しはじめていたからだろう。
派遣業を狭めることなく一律に労働者の生活を守ろうとするなら最低賃金の引き上げが必要だが、賃金に関わる規制が厳しくなってくれば企業は雇用を守れなくなってしまう恐れがある。
一方、再び派遣業に規制をかけようとすれば、今現在派遣で働く人々の就職口を狭めてしまうことになるので、失業者をさらに増やしてしまうことになりかねない。それは同時に正社員の終身雇用をも脅かすことにつながるだろう。
となれば、当面、政治による介入としては派遣社員から正規雇用へのシフトを積極的に促す政策を施すぐらいしかできまい。

もっとも、その政策の恩恵を受ける資格があるのは、正社員として長く同じ仕事をしたいという強い思いを持続できる人材だけだと私は思う。

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2009-12-07 00:14:22

<教育>

テーマ:社会問題

誤解を招かぬために加えるならば、私のいう安易に職をかえる人々とは、職を変えざるを得なかった人々のことを指すのでは決してない。職を変えざるを得ない場合は仕方のないことだ。けれども、同じことが何度も繰り返されるというのであれば、それは職を選択する側にも問題があるといわねばなるまい。失職は交通事故のようなものかもしれないが、それに何度も遭遇する人々にはそれなりの原因があるものだ。

本当に不運から失職してしまった場合、即座に派遣でしか働けないということにはなりにくいのではないだろうか。前職でのキャリアに価値を見出す会社があれば再就職は難しいことではないからだ。経営者側にしてみれば、そういう人々は新たに投資する必要がない即戦力なのである。しかし、そのようなことを何度も繰り返していれば、やはり派遣でしか働けなくなってしまうことだろう。20代はその若さこそが財産であり、セールスポイントとして就職の可能性があるだろうが、そこで過ごす10年の間にキャリアを積んで己の価値を高めておかねば、30代で新たな仕事を見つけるのは難しくなってくるだろう。40代、50代ともなればなおさらだ。本物のキャリアを積むことは、二年や三年でころころと自分本位に職を変える人々には無理な相談なのだ。自分の価値を高め、これを保っておくには、やはり一つの職場に長く勤めるのが一番である。

自分本位にころころと職を変える労働者、次々と情け容赦なく社員をリストラする経営者、その両方が問題なのだ。ただ、社会全体がジリ貧である以上、それも生き残るためだといわれれば、責めてばかりもいられないのかもしれない。ゆえに、雇用を生み出す産業の創出と新たなエネルギー資源の開発が必要とされるのである。働ける職種が少ないという状況なら、むしろ少子化は望ましいことではないだろうか。就職時の競争率は低下するし、人口減につながれば食糧自給率は向上するのである。

立場上、私には20代、30代の方々の履歴書を拝見する機会が少なからずあるが、そこからみえてくるのが自分本位の若者たちだ。納得できる職歴を持参する若者は実に少なく、二十歳そこそこでありながら、職歴が記入欄の隅から隅まで、実に誇らしく書き込まれてあることもしばしばだ。また、就職に際してほとんど思慮なく、最初から派遣社員を選択した御仁も決して少なくはない。その一方、自分本位に転職を繰り返し、30代を迎え、唯一のセールスポイントである若さを遣い尽くして派遣に入らざるを得なくなった者もいる。彼らの多くは定職を選ぶ勇気がなく、そもそも何かになろうという明確な目標がなく社会人となる日を迎えてしまった人たちである。

こうした人々に共通しているのが、長期的なビジョンの欠落だ。現在の状況を今後十年続ければどうなるかという認識がうまくできず、よくてせいぜい2、3年先のビジョンしか持ち合わせがない。行き先不明、ゆえに職歴も一貫性がない。根無し草ゆえに最後は派遣会社という名のブラックホールに吸い込まれてしまうのである。
このような若者を増やしている原因はやはり、努力せずして結果の平等が保障されるかのごとき幻想を植え付けるサヨク教育にあるのは間違いない。しかし、もっとも悪い影響を与えているのは、今日の日本プロ野球、そしてメジャーリーグだろう。企業本意に選手のクビを切り、機械部品のごとく選手を交換する一方、選手もまた育ててもらった恩を顧みず、権利の行使とばかり自分本位に他球団にわたって行く。米国型の労働観がそのまま移植された日本プロ野球は、それ自体が、日本企業の退廃ぶりを如実に表しているといってよい。そして、こうしたありようが利己的なる社会を形成して行くのに大役を果たすのだ。


かくのごとき米国型の労働観からの脱却を果たすためにはまず、各自がそれを自覚するとともに、企業自らが襟を正し、社会のあらゆる局面でなされる再教育、啓蒙の成される必要があることだろう。



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2009-12-07 00:13:16

<ビジョン>

テーマ:社会問題

派遣業とは他人の儲けを掠め取る奴隷産業である。これを合法化してしまったことが問題には違いないが、では、何ゆえそれが急速に日本社会を席捲してしまったのかを考えねばなるまい。
転職は労働者にとって当然の権利であると誰もが考えている。しかし、多くの経営者にとって、即戦力にならない新規採用者に支払う賃金は労働の対価ではなく、将来への投資なのだ。ところが、ころころと職を変える労働者はそのような経営者の思惑などまるで意に介すことなく、経営者がやっと投資を回収できるという段になって自分本位に辞めてしまう。にもかかわらず、そういう人々を雇ってしまったために経営者が被る損害を誰も補填してはくれない。

ゆえに、転職を繰り返す人間には徐々に就職のチャンスが狭まり、派遣の罠が待ち受けるというペナルティーがあってもよいと考える人々もいるのである。企業によるリストラばかりが非難されて労働者側の勤続姿勢が問われないのではアンフェアだからだ。結局のところ、経営者、労働者双方の利己的な風潮が高まる中、そこに派遣業の入り込む隙があったといえるのだろう。従って、もっとも戒めるべきは個々の利己主義化なのである。派遣業を悪玉にみたてて潰せばそれで済むという単純な話ではない。

十年単位、二十年単位のビジョンを持って行動する人間にとって、辛抱すべきものが何であるかを見誤ることはまずない。そして、自分の居場所は時間をかけてつくりだすものであって、居場所を変えたからといって即座に自分が特別になるわけではないことを知っているので、安易に職を選んだり、それを変えてしまうこともまずない。変えることがあるとすれば、それは既に10年、20年前から計画されて行われることになるだろう。
しかし、目先の利益ばかり追いかけることに血眼で、将来に確たるビジョンを持たぬ人間は、何に耐えるべきかを知らず、少しでも不満があれば職を変え、居場所を求めて彷徨し続ける。けれども、そのように利己的な人々が、最終的に派遣業に行き着くのは半ば必然なのだ。

一方、目先の利益追求に血眼な会社ほど派遣社員を多く雇うことになるだろう。そこには人を愛し、育て、これを守るという意識などない。だからこそ、切りやすい人材として派遣社員を用いるわけである。結局、利己的な者どうしが磁力で引き合うかのごとく集うことになるのだ。それはまさに類は友を呼ぶであり、その結末は自業自得であるといえるのかも知れない。

確かに、派遣社員になった、あるいは、ならざるを得なかった理由は人それぞれだ。しかし、長期的なビジョンを持ち、何に耐えるべきかを知っており、義理人情に厚い人生を歩む人間ほど、そうした罠からもっとも縁遠くなるのではないだろうか。育ててもらった会社に奉公して恩を返すという気持ち、会社のために働いてくれた労働者の恩に報いるという気持ちは、いずれも数十年をまたがなければ形に変えることはできぬことだろう。


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2009-12-07 00:09:24

<天は自ら助くる者を助く>

テーマ:社会問題

確かに、今現在派遣社員をしている者にとって派遣業の問題は死活問題だろうが、派遣業といっても日本社会の体質に馴染まなければいずれは消え行くもの、あるいは自然縮小するものである。ゆえに、日本の伝統文化に則った社会の体質改善こそ急務ではないだろうか。そもそも、派遣で食べているオレ様の結婚を誰かなんとかしてくれというのではお話にならないし、派遣社員は結婚できなくてかわいそうだからなんとかしてあげなければというお話ならそんな偽善につきあう気など小生にはない。

自己責任というコトバを安易に使いたくはないが、自分の人生に対する責任感に乏しい者ほど、何でもヒトのせいにし、そのくせ何でもヒトに頼りたがるものだ。そのことを自覚しない限り、何とかなるものでも何ともならぬことだろう。
天は自ら助くる者を助くである。自らを救うために努力を惜しまぬ人だけが救われる機会を得るのだ。社会制度もそのようでなくてはなるまい。私の知る限り、本当に努力している人間は簡単に“努力の限界”などというコトバは使わない。

だから、「誰か何とかしてくれ」ではお話にならないのだ。正しくは、「何とかしなければ」である。派遣労働者が可愛そうだから何とかしてあげようと思う奇特な御仁は自らが稼いだお金でその人たちを食べさせてあげればよいだけだ。勿論、私はまっぴらごめんである。そんなことをしてもきりがないからだ。ゆえに、派遣労働者が“可愛そう”だから何とかしなければならないのではない。治安の悪化をはじめとする社会不安の増大と最終的な国力低下が問題なのだ。

なぜ派遣で働かねばならなくなったのか。現状に至ったのには理由があるはずだ。原因分析を怠って現状の不満だけを述べ立てるのでは進歩がない。派遣で働かざるを得なくなったのには個々の事例に相応な理由があるはずだ。そしてそこに一切、自己責任の存在しない者などいはしない。何かの理由が必ずある。それを踏まえた後、10年先を見据えて戦略を練り、それを達成するために最低限必要な短期的目標を設定し、これに全力を傾ける。人生とはその繰り返しではないだろうか。

同じ能力を持った人間であっても、そのようにして30年、40年を生きた人間と、行き当たりばったり、出たとこ勝負で暮らしてきた人間の人生が同じであるはずがない。それが同じであったなら、それこそ不平等というものだ。ゆえに、賢い人間なら組合運動に参加してエネルギーを浪費するより、まずは自分自身を変えることにエネルギーを使うだろう。その方が圧倒的に楽というものではないだろうか。

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2009-12-07 00:08:01

<派遣業の本質>

テーマ:社会問題
確かに、今日あるような雇用不安、社会不安の原因の一つとして派遣業の存在をあげることはできるだろう。しかし、それのみに原因を求めることはできない。派遣法改正の前にはフリーターやニートの増大、企業による一方的な人員整理の増加があり、改正派遣法は雇用主と労働者双方のワガママ化、利己主義化、獣化を手助けしただけであるからだ。
そもそも、派遣業とは現代に復活した奴隷産業に他ならず、しかもその本質を知る者たちによって意図的に拡大されてきた感がある。それが日本企業を骨抜きにするために画策された陰謀の結実であるなどといえば、陰謀マニアとのそしりを免れ得ないかもしれないが、年次改革要望書の存在は根拠の一つにはなり得るだろう。

ここまで肥大した派遣業を誰が担っているのかといえば、その多くは暴力団である。彼らは破防法以降、一般企業と見分けがつきにくくなってしまったが、彼らにとって派遣業はもっとも取り付きやすいカタギの仮面であった。ゆえに、派遣業の縮小を声高に叫べば、恐ろしい人たちを呼び寄せてしまうことになるだろうし、政治家もそういう人たちを本気で敵に回そうとは考えない。しかも、一方では教育の荒廃によってまともな仕事で長く就労することの困難な若者たちが量産されているので、その受け入れ先としても派遣業はちょうどよいのである。逆に、派遣業がなければ彼らの受け入れ先を別の形で確保せざるを得まい。結局、派遣の問題は企業が悪いのか労働者の自己責任なのか、ニワトリが先かタマゴが先かという問題に等しくなってしまうのだ。

とすると、目先の解決は見込めそうにない。しかしまず、派遣業の多くがヤクザの隠れ蓑であり、合法化されたヤクザ稼業であるという実態を社会が認知すると同時に、利己的な体質を企業と個人双方で戒めていく風潮をこそ再興する必要があるだろう。勿論、派遣業を政治が規制することは急務だが、この業種自体を兵糧攻めにして廃業に追いやる道もあるはずなのだ。そして、そのためには社会のあらゆる局面で行われる教育と啓蒙によって社会全体が愛を取り戻す必要があると私は思う。

ここで興味深いお話をご紹介申し上げる。あるニートが徐々に社会との結びつきを深めて正社員への道を歩んでいく過程を綴ったお話である。問題解決のヒントが隠されているのではないだろうか。

「うちの母ちゃんすごいぞ」
http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-804.html
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2009-12-05 22:12:04

<ターニング・ポイント>

テーマ:社会問題
無限存在としての視点を以って有限存在のありようを決定していくことは、有限存在にとって危険であるのは間違いない。なぜなら、“あるがまま”の思想を用いれば、警察不要、監獄不要、軍隊不要とあいなってしまうからである。現実世界の危険とはそういうことだ。神がどうしたこうしたと言ってみたところで、所詮人間はそのように上等な代物ではないというニヒリズム。

核抑止が既に半世紀以上、有効に機能してきた実績を持つと考える御仁は多い。しかし、人類の歴史にとって、この半世紀など瞬きをする間よりも短い期間でしかない。来年にでも、否、今年にでもその均衡が破られぬという保障はないのだ。ゆえに、果たしてそれを実績と呼ぶことができるものか私には大いに疑問である。人類が核を抱える以上、カタストロフの危険を払拭することができないのは自明の理だからだ。非武装の延長にある反核がそうであるように、核抑止もまた根拠なき信仰の一つに過ぎまい。そして、その信仰はたった一度の先制核攻撃によって木っ端微塵となる定めにあるのではないだろうか。

人間はそれほど上等な代物ではない-これは今ある現実である。そして、この現実をかかえるがゆえに我々は警察を必要とし、軍隊を必要とし、そして最後に核兵器を必要としてきた。ところが、パンドラの箱を開けてみて我々は気付いたのではないだろうか。核抑止の延長にある平穏は、所詮一時的なものに過ぎず、その先にあるのはカタストロフ、即ち大量絶滅であると。

核に頼る国に住まう人々には必ずや精神の退廃が進むことだろう。そして、その退廃の行き着く先にあるのが、ルール無用の大量殺戮なのだ。先制核攻撃を成功させれば戦争に勝てるのだから、勝利を確信することができさえすれば、獣化した人々がそれを選択することに何のためらいがあるだろうか。人間はそれほど上等な代物ではないという今ある現実、悪しき伝統をそのままに受け継ぐ限り、人類の歴史は同じことの繰り返しである。

核抑止は人々の獣化を促進し、やがては破滅の道をいざなうことになる一方、それに気付いて自らの破滅をかえりみず核と決別する勇気を示すならば、その国に生まれる子供たちの精神性は飛躍的に神へと近づくことだろう。
これにより、神のごとき人々の住まう国が地上に出現する奇跡を生ぜしめ、他国がこれに倣うならば、人類は新しい時代を築くことになるのである。そして、神々の世界に住まうようになった人々は思うことだろう。
核に頼らぬ勇気を示したそのときこそが、ターニング・ポイントであったと。
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2009-12-05 22:10:40

<神性と獣性>

テーマ:社会問題
死にいたる老人が自宅で息を引き取ることがほとんどなくなってしまった昨今、現代日本人の多くが死を身近に目撃することがなくなってしまった。このため、半ば盲目的に死を恐れる人々が巷にはあふれかえっているように見える。
しかし、死よりも恐ろしい、むごたらしい生などいくらでもあるというのに、死ばかりを恐れるのはナンセンスだ。
死は神の与え給うた救済の一つだと私は思う。目に見える命の営みにばかりとらわれていると、命より大切なものの存在を見失ってしまうのではないだろうか。命より大切なもの、それは人としての誇りである。

では人の誇りとは何であろうか。それを慈悲の心を持つことだと考える人もいる。しかしながら、その誇りを捨ててしまった人間も少なからず存在する一方、興味深いことに慈悲の心を持つ獣も存在する。西洋では悪役が定番の狼だが、その生態に詳しい学者の観察によると、この慈悲心ゆえに、狼は自らの餓死をかえりみず捕らえた獲物をあえて逃がしてしまうケースがあるという。そのことを昔の日本人が知っていたかどうかは定かでないが、日本における狼の名の由来は大神なのだそうだ。実際、狼には異種族である人間の子供を育てた記録まである。

慈悲の心とは人の心ではなく、神の御心だと私は思う。そして、人はその神性と獣性とを併せ持つ矛盾した存在であり、あらゆる生き物の中で、もっとも神に近いというだけではないだろうか。インドの古い哲学によれば、人は輪廻転生を繰り返して神にいたる途上にある何者かであり、神と一体となったとき、その営みを終える、つまりは、生まれてくることがなくなるという。今生を日本人として生きる私の来世がアメリカ人になるか、はたまた中国人になるかは神のみぞ知るだが、今後日本が核武装を選択すれば、次は北欧かカナダあたりに生まれることだろう。

とはいえ、こうした慈悲の心は組織対組織、種族対種族には働きにくいのかもしれない。しかし、神の御意志が我々に何を求めているかは明白ではないだろうか。
人間界、自然界の営みに目をやると、利己的に過ぎた組織や種族には早くに滅亡が待ち受ける一方、利己と利他を統べる組織なり種族なりには長きにわたって繁栄があるように見える。つまり、神は我々に神に近づくことをこそ、求めているということだ。

ゆえに、もし、このまま人間社会がその獣性のままに利己的であり続けるならば、早晩、核兵器によって自滅を余儀なくされるのではないだろうか。
反対に、その獣性を統べ、慈悲心に基づいて核を持たぬ勇気を示すならば、人類は新しい歴史を築くことができるだろう。それが神の計画であり、御意志であると私には強く感じられる次第である。
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2009-12-05 12:12:18

<ヤクザ国家の末路>

テーマ:社会問題
既存の核保有国はヤクザ国家に相違ない。核に依存する韓国もまた弱小ヤクザ国家である。日本もまた米国の核の傘に依存した段階から退廃への道を歩み始めたヤクザ国家の出来損ないだ。ただ、憲法9条ゆえにヤクザにもなりきれず、かといって堅気にもなりきれぬ半端者といえるだろう。同じヤクザの土俵に立っているから、どれほど国際貢献に尽力しても存在感を誇示できず、ゆえに自前の核を希求せずにはおれないのである。米国による核の傘を離れ、それでもなお核を持たぬ信念を貫くなら、日本は世界で最も誇り高く、気高い仕事をなしうることだろう。そのような国はいかなる恫喝にも屈することなく、いかなる精神汚染にも毒されず、いかなる強国からもその支配を受け付けぬに違いない。日米安保を方便として復興につとめてきたはずが、目的となってしまったがゆえに日本精神の見えざる退廃が広がったのである。

巷では失うことを恐れ、迫りくる死におののく人々であふれかえっている。目に見えるものはいずれ全てが失われてしまうというのに。平均寿命は世界一であるにもかかわらず、幸せに生きることが困難になってしまった人々の何と多いことか。政治がわるいから幸せになれないと人はいう。しかしながら真実は違う。我々一人ひとりが見えざる精神汚染を抱えているから、政治家や官僚もそのような次元でしか物事を判断できずにいるだけだ。
確かに、現状で日本はヤクザ国家への道を着々と歩んでいる。しかし、それは本来、日本のあるべき姿では決してない。伝統的な日本精神に目覚め、核と決別する真の勇気を取り戻すなら、日本は世界の歴史上、類をみない理想社会を実現しうるのだ。

理想を掲げぬ現実主義者など、ただの横着者である。真の現実主義者は、現状認識と将来の展望とを混同することはない。そして明確なビジョンを持つからこそ、その実現を信じて努力を惜しまないのである。国家のあるべき姿は2年や3年で形にすることなどできはしない。10年、20年、あるいは50年先のビジョンを描いて努力しなければ実現不能だ。世界規模のビジョンともなれば100年、200年を要するだろう。100年単位のビジョンを実現するには世代を超えた精神のリレーが不可欠なのだ。ゆえに、真の平和を実現するためには核と決別できる精神性の獲得が重要な懸案になるのである。

核兵器を生きる手段とする国に生まれる子供たちは思うだろう。核をもつのは、死なないためには仕方のないことだ。死ぬのは一番わるいことだ。人間、死んだらおしまいだ。自分が死んでしまうくらいなら、どんな卑怯も許されるのだと。死は敗北であり、敗北は死に値すると。それが伝統的日本精神の崩壊でなくて何だというのだろうか。私のいう伝統的日本精神とは、どれほど己が苦境に立たされたとしても、卑劣、卑怯な手段にうったえない精神のことだ。非道に身を落とすよりは死を選ぶ誇り高い精神のことだ。核兵器は、本質的に市民虐殺の道具であり、誇り高い武人の持つべき道具ではない。持たねば死ぬということを理由に持つことそれ自体、重大なる精神の退廃である。

精神の退廃した子供たちは、たった20年で成人し、精神汚染を周囲に撒き散らすことだろう。30年もあれば子供をつくり、さらにその子供たちが成人する50年先の精神汚染は取り返しがつかないレベルに達しているだろう。そのような人々の群れがいかなる国をつくれるというのだろうか。そのように退廃した国は、核攻撃を待たずして跡形を残さず消滅してしまうことだろう。わが国においても、既にその徴候がではじめているのは間違いない。
オリンピックにおいて、核を保有する国々の選手や指導者、審判にみられる信じがたい違反行為、スポーツマンシップに背く卑劣な行為の数々の根がどこにあるか、鋭敏な者ならば悟れるはずだ。わが国の国民が、あのような国の人々と同じようになってしまうことは断じて避けねばならない。

精神性の退廃が核自衛を国是とするのであり、同時に核自衛が精神性の退廃をもたらすのだ。日本がそのようなヤクザ国家にならぬために、核自衛などすべきではない。核をもちたがる精神性、あるいは核に頼ろうとする精神性に、その退廃が潜んでいるのではないだろうか。
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2009-12-05 12:11:22

<現実的な選択>

テーマ:社会問題
核抑止は核武装によって敵に対し核による報復を恐れさせ、その使用を躊躇させることを目的とし、ゆえにその使用は“絶対ない”ということを前提とした単なる理屈に過ぎないものである。しかし、核による先制攻撃がないという信仰の担保はどこにもない。むしろ、歴史的には使用の前科があるくらいだ。つまり、核抑止もまた、何の根拠もないただの信仰、それも極めて悪質なカルト教の教義に過ぎないのである。
それがカルト教である証拠に、信者の多くは核による先制攻撃の可能性を一顧だにできずにいる。それは思考停止以外の何ものでもなく、教祖のいかがわしさを露ほども疑わぬ狂信者のスタンスと大して変わることがないといってよいだろう。

核武装を支持する人々はそれが現実的な選択であると皆いう。にもかかわらず、それに伴って生じるデメリットを克服する満足な考察にはお目にかかったことがない。また、実際にわが国が受けるかも知れぬ核攻撃の可能性についても、どこの国がわが国の何を目当てに攻めてくるのか説得力のある政治的根拠にお目にかかったこともない。つまりは、現実的とはいいながら、自分たちの理屈、信仰にとって都合のよい事実しか目に入っていないということである。あるのは持たねばやられるかも知れぬという根拠なき不安のみなのだ。
そのような人々に、民主党の受け狙い政策を批判する資格などあるはずもない。政治判断は現実的でなければならぬことだろう。あちらを立てればこちらが立たなくなってしまうのが政治であり、立たない側に対する配慮が不可欠なのである。核武装も同じことだ。その配慮がなくて、現実的とは聞いて呆れる。

現実は否応なく我々に難題をつきつけ、選択を要求する。多くは理知的には解決不能な矛盾を抱えているものだ。そのとき、何を基準に物事を選べばよいというのだろうか。その基準となるものこそ伝統精神に他ならないのではないだろうか。選択の結果がどうなるかなど、人の浅智恵でおいそれとわかるものではない。ゆえに、何に依拠して選択したかが重要になるのだ。日本の伝統精神の延長に核武装はない。それゆえ私は決して核に頼ろうとは思わない。選択の結果は思いの結実である。思いが現実をつくり出すのだ。核によって立つ者は核によって滅びるのが必定である。核武装の選択の先には、悲劇を超えた悲劇、悲惨を超えた悲惨の姿があるのみだ。

今ある日本は過去の思いの結実である。非核の決意、不戦の決意は伝統的な武人の誇りがそうさせたものだ。総力戦を経験するまで、世界は国家間のいざこざの多くを戦争で片付けていた。つまり、戦争は一定のルールをわきまえた外交手段であったわけである。しかし、非戦闘員を標的にする時代の到来とともに、武人の戦、聖戦は跡形もなく姿を消し去ったのではないだろうか。核の使用はそれを決定付けたのだ。だからこそ、誇り高い日本人は戦争や核兵器を外交の切り札とするヤクザな世界から身を引いたのである。そして、その決断は伝統精神の権化にしてその具現者たる天皇陛下の御意志に基づいて行われたものだと私は信じる。国土を焦土と化した経験を持たぬ米国だけが、破廉恥にも未だ戦争を外交の切り札に用い続けているだけの話だ。目的のためには手段を選ばずという精神の退廃に無頓着であることは、祖先に対する重大な裏切りではないだろうか。

確かに、己とその周囲の限られた命に対してのみ敏感な誇り無き愚民が核を持ちたがるのは止むを得ないことだ。しかし、そのような愚民たちによって、わが国の伝統と誇りが汚されるのを承服することなど私には到底できない。
人間にとって、もっとも大切なことは思うことだ。次に大事なのはその思いを行動にうつすことである。思いと行いが一致せねば矛盾が生じ、その矛盾は結局、めぐりめぐって己自身を苦しめることになるだろう。理想と現実との隔たりをつくりだすものは思いと行いとの隔たりなのだ。思いは命である。思いは時を越え、世代を超えて生き続ける。核に頼らぬ世界をつくりだすためには、核に頼らぬ国、核に頼らぬ己を思わねば、それが実現することは決してないことだろう。

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2009-10-12 23:21:14

<希望>

テーマ:社会問題
おおよそ、始まりを迎えたものの中で終わりを迎えなかったものはない。
人の命は勿論、国にしたところで同じこと。
かつて滅びの時を迎えることのなかった国は一つとしてない。
ゆえに今ある国もまた、永続することは決してない。

日本人の存在意義とは何であろうか。
他を排してまで生き残らねばならぬ理由とは何であろうか。
千年の後、果たして日本の呼び名が残っているだろうか。
我々はこの時代にいかなる種子を残せるだろうか。

限りある命なればこそ、人は永遠なるものに恋焦がれる。
目に見える世に永遠などありはしないというのに。
ただ人の生き続ける限り、その思いは受け継がれることだろう。
ならばそこにこそ、私は希望を託したい。
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