2009-10-10 06:30:42

<少子化対策は本当に必要なのか-その2->

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少子化とは、合計特殊出生率の低下を指す。この合計特殊出生率とは女性が一生の間に生む平均子供数のことであり、この値が約2.07を下回ることで総人口は減少していく勘定となる。少子化が「続く」と、人口構造における高齢者比率が増大し、若年労働者人口は減少、市場の縮小や経済の停滞を招き、結果的に税収の減少によって社会保障制度の崩壊が生じることが危惧される。よって、少子化をなんとかしなければという話になるわけだ。がしかし、人間の浅知恵で本当になんとかなるものなのだろうか。

依然として男女共同参画社会が確立されれば少子化が止まるなどという妄言が巷を席捲しているが、これは、女性の就業率が高い先進国ほど、出生率が高いという1995年の国際比較を根拠とする言説である。しかし、そこでいわれているのは、OECD加盟国中、わずか13カ国の先進国における合計特殊出生率の話で、しかも、その値が1.1から2.1の間におさまる出生率の低い国どうしの比較でしかないのだ。実際には、1995年のOECD加盟国で出生率が判明している24カ国でデータを集計すると、女性労働力率が高いほど出生率は低いという結果になるという(参考図書・赤川学著「子供が減って何が悪いか!」)。要するに、こうした妄言は男女共同参画社会提唱者による根拠なき提言であった可能性が高い。

では、一体何が少子化の原因なのだろうか。
参考図書より
<引用開始>
子供数を規定しているのは、どういう都市に住んでいるかという生態学的な要因であり、学歴、本人年収、従業形態といった社会経済的要因である。そしてこれらは、すでに人生のキャリアを重ねてきた人たちにとっては、政策的介入によって大きく変えることはできない要因ばかりである。
<引用終了>

上記にあるように、国内における調査では、農村部ほど少子化の傾向は少なく、都市部ほど少子化の傾向が著しいという事実がある。よって、都市化と少子化はセットなのである。この場合、少子化が都市化を促すとは考えにくいので、都市化が少子化をもたらしていると考えるのが妥当だ。どのような理由で都市化が少子化を促すのかといえば、それは都市化による生活の多様性の獲得が挙げられるだろう。要するに、都市化とともに文化的水準が高くなればなるほど、人間の興味の対象は種の存続から多岐にわたるようになり、相対的にみて生活におけるセックスの占有率や子育ての価値が低下し、少子化が生じるというわけである。国際比較でみても、この考え方は間違っていないように思える。実際、貧しい国、生活水準の低い国ほど子供は沢山生まれ、そして悲しいかな飢餓によって大勢死んでいく定めにある。
この他にも、少子化の要因については鋭い考察がある。それは福祉国家であること、即ち飢えない保障が親たちに子供を産む必要を失わせ、少子化を促すという洞察である。
(参考サイト・福祉国家批判http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/daiissyou.htm

これらの考察をふまえ、子供を増やすため、少子化対策として本当に有効な政策を愚考してみると、それは、福祉国家であることを段階的に止め、若年者を無理やり農村に住まわせることであると結論されるが、そうした政策は誰にも歓迎されぬことだろう。

皮肉な話、少子化によって経済が底抜けに低迷し、国民に貧困が蔓延するようなことにでもなれば、先の理由で貧困層を中心に少子化傾向は収まるかもしれない。とすれば、いずれ人口は収束し、最終的に定常化するのではないだろうか。そうでなくとも、効果の不確実な少子化対策に大枚をはたくより、そのお金を直接社会保障費にあてがうことを考えた方が良いはずだ。原因を取り除くことができないのだから、対症療法に徹するわけである。そうして人口比率と若年者負担に見合った社会保障制度を再設計し、分相応な国家つくりを目指せばよいのである。

国家が国民に対し、十分な社会保障を行うにはちょうどよい人口があるはずなのだ。それは食糧問題であると同時にエネルギーの問題であり、個々の国民の能力と勤労の総和とのバランスの問題でもあるだろう。資源を潤沢に使えた時代は右肩上がりの経済発展を描き、それに相応な国つくりを行ってこられたわけだが、資源節約が正義の世の中で、かつてのような国つくりを行うことはできない。むしろ、少子化に適合した社会システムを構築すべきなのである。

たとえば、目下、日本の食糧自給率は50パーセントを割っているが、人口が半分以下になれば、食料自給量が現在と変わらなくても100パーセントの食糧自給率を達成できる。少子化によって起こるネガティブな現象ばかりに着目するのでなく、別の側面もまた冷静に深慮すべきであろう。
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2006-05-12 08:45:00

<続・美容外科小話>

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<美容外科小話>のオチを読まれた方々の中には、結婚相手が整形美女であっても、一向に差し支えないという奇特な御仁も少なくないことだろう。
実のところ、カツオもそうであった。美しければ、人造美人であれ、天然美人であれ、さしたる違いはない。それは養殖マグロと天然マグロの違いのようなものだと考えたわけである。
かくしてカツオはめでたくこの美人と結婚することとなった。万々歳。

ところがこの美人、美に対する執着は半端でなく、歳を重ねるごとに整形を繰り返すのだった。若返りのためであるとはいえ、お金がかかって仕方がない。
それだけならまだしも、今度はカツオの容姿にまで難癖をつけはじめてきたからたまらない。何でもこの美しい妻にカツオでは釣り合いがとれないのだという。
仕方なくカツオは美容外科手術を受けねばならなくなった。
勿論、この妻と死に別れるまでの間はずっと。

さて、さんざんだったカツオの人生を終え、再び天にめされたもとカツコことカツオだったが、すでに次なる人生の道筋は概ね定まっていた。
彼の次の人生、名前はタツオ。今度は人造美女でなく、天然美女と結婚することになっていたが、その相手は22歳で交通事故にあい、美容外科手術を余儀なくされる定めにあった。
それだけでなく、その後相手は手術に味をしめてこれを繰り返すことと、夫であるタツオにもそれを求めてくることが。。。。
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2006-04-27 11:34:53

<信じるということ、疑うということ>

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西暦2000年、日本では「裸のサイババ」と題する書籍が出版された。これをきっかけにして、それまで醜聞には無縁と思われていたインドの聖者サイババの奇蹟に関する真贋論争が国内で激化した。もともとサイババ自身は宗教団体の運営を行っていたわけではなかったのだが、この結果、帰依者によって営まれていたボランティア団体からは多くの脱退者を生み出した。神の化身としての権威は地に落ちてしまったわけである。
これより、識者の間ではサイババへの帰依をあからさまに表明するのははばかられる土壌が醸成されたといってよいだろう。

私にとってサイババとの出会いは、「裸のサイババ」出版の数年前にさかのぼる。青山圭秀著「理性のゆらぎ」が最初であった。この本は、科学と信仰が調和する価値観を探る名著であると今でも私は思っている。数冊にまたがる氏の著書において、サイババは紛れもなく神の化身としての権威と威厳を読者の前に携えている。
私は、氏の冷静にして精緻な筆致に心酔し、著書を通して氏の体験したサイババとの邂逅を共有した。読了当時より、私は私自身の心の内に、サイババを住まわせるための座をこしらえ、それは月日とともに決して少なくはない領域へと拡大していった。
そうして数年が過ぎるころ、「裸のサイババ」と遭遇することになったわけである。内容に関する所感は下品の一言につきた。けれども、こうした可能性について追究してみる意義はあるとも考えた。
「裸のサイババ」は告発の書であり、「理性のゆらぎ」は啓発の書である。もとより本の性質が全く異なるので、前者が過分に品性下劣であったとしても仕方のないことなのかもしれない。しかし、同じ人物を扱ったにしてはあまりにも違いすぎるその内容は、一体何に起因するのだろうか。

人間が物事を判断する場合、いかにその判断が客観「的」であっても、真に客観視することはできない。なぜなら、判断するという観測者の存在を受け入れる以上、それは観測者の主観を切り離すことができないからである。従って、「裸のサイババ」も、「理性のゆらぎ」も、ともに著者の主観に負う作品であり、文中で語られる様々な直接的、間接的なエピソードは、結局のところ、読者がその真偽を正しく判断することはできない。であるにも関わらず、我々はそれらの情報から何事かを感じ取り、そこに真偽の判断を下すわけである。
つまり、事実認識には著者と読者双方の感性の介在が不可欠であり、書物は著者を、あるいはその読者の心の何かを映し出す鏡のようなものとしての側面を持つと私は思う。
同じことだが、邪悪な教祖に魅せられる信者は、その信者自身、教祖と等質の邪悪を内にもつのではないだろうか。

私は、もともとサイババの帰依者でありながら、最終的に「裸のサイババ」の語るサイババ像を受け入れたある人物の思考を、ネット上の告発をもとに追体験してみた。
この方はきわめて理性的にサイババ信仰を捨て去るにいたった経緯を説明しており、自身の信仰を覆すにあたっては、相応の苦悩と葛藤があったようだ。
しかしながら、この方が事実関係を検証していく過程においては、ある重大な視点が欠落しているように見受けられた。
それは陰謀論である。
サイババの語る思想や、サイババが行っている事業を快く思わない邪悪な勢力の実在を仮定した場合、サイババに関する醜聞の多くが、そうした勢力の企む陰謀の結実である可能性がある。実際、それらは陰謀にはつきものの情報操作における、ある一定の法則にほぼ過不足なく収まっているからだ。

以前書き込んだ<陰謀の手口>http://ameblo.jp/sho2005universe/archive6-200505.html より、サイババ関連の醜聞については、これらの手法がくまなく踏襲された可能性があると気づかされる。この方法に従えば、個人の名誉や権威を失墜させることなど、たやすいものである。
こうした視点を導入することで、サイババに関連した醜聞のうち、信頼度の低い、不確かな情報をふるい落としていくと、状況から推測して最も信憑性が高いと考えられるのは、コニー・ラッソンという名の元帰依者による告発に限定されてくる。
従って、氏の告発が支持されるのはやむを得ないことであるとしても、このたった一つの証言によって、それ以前に報告された無数の奇蹟と言動が価値を失うのだとすれば、それはそれで奇妙な話である。情報に関する質的量的評価が不当に偏っているといわねばなるまい。

また、国連機関であるユネスコがサイババの醜聞を肯定している事実に関しても、やはり陰謀論をもってこれを懐疑的に捉えることができる。
世界規模の陰謀を追究する過程で、私は国連の抱える腐敗と汚職に関する情報を得、一般的に思われているような権威が、すでにこの機関にはないことを知っている。ユネスコ自体、邪悪な陰謀に加担する腐敗組織と成り果てている可能性が高いのだ。
そもそも、「裸のサイババ」という書籍そのものに対する不信感をあらわにする方は、サイババ肯定論者はもとより、否定論者においても少なくない。それは、書籍の内容もさることながら、巻頭で用いられたサイババのトリックを告発する証拠写真が、合成写真としてのいかがわしさを具備していることに由来する。
私自身、当初からそれらが作為的な写真であることに気づいていたのだが、現在はサイババ支援サイトhttp://www.sathyasai.or.jp/ で詳細にその偽造のしるしが告発されている。

一体、人は何によって信仰を得、何によってこれを捨て去るのだろう。サイババの醜聞が多数にのぼるとしても、サイババが行ったとされる奇蹟の類と思慮深い言動はそれこそ無数に存在し、証人、証言の数においても後者は前者を圧倒しており、両者における信頼度の質的量的評価は、明らかに帰依者にとって分があるようにみえる。前者には、時間的優位、即ち、より最近の情報であるというアドバンテージがあるだけではないだろうか。
しかし、こうした醜聞に遭遇しても、全くその信仰が揺らがないというのであれば、それはそれで狂信に陥る危険がつきまとうと私は思う。

なだいなだ氏は、その著書「神、この人間的なもの」で、我々が何かを信じるのは、そう信じることで安心感を得、不安から逃れるためだと結んでいるのだが、私はそれは少し違うのではないかと思う。確かに、人は己の不安を解消するために神を信じる、あるいは科学を信じるという側面はあるかもしれない。だが、それはそもそも、人間はその心が神に向かわなければ失うことへの恐怖を拭い去ることができぬようプログラムされた存在であるということの証でもあるのではないだろうか。つまり、人間は最後には神を想うようにできている生き物、即ち神をその心の裡に育み、これを表現するよう宿命付けられている生き物であるということだ。どんな唯物論者であっても、今はの際で己の魂の行く末と神を想わぬ者などいないのではないだろうか。
それゆえ、何かの信仰を捨てるということは、大変な不安を抱え込むということでもあり、理性の要求に従って己の信仰を疑うのは勇気のいることだ。これが、邪な新興宗教から多くの人々が脱却できぬ理由でもあるだろう。

けれども、理性の危うさを心得たものならば、ことの真贋を見極めるためには、己の感性を研ぎ澄ませておかねばならないことに気づくだろう。
いかに理性によって判断しているようにみえても、個々の事実認識なるものは己の信じたい事情、疑いたい事情によって都合よく情報を取捨選択した結果に過ぎない。とすれば、真実がどうであれ、何かを信じるということと、疑うということは、情報それ自体の絶対的な真偽に負うのでないということが、個々に自覚されるべきである。
つまり、理性のみによってものごとを判断できているわけではないということである。

それはまた、人は理性的だとか論理的だとかいうコトバに欺かれてしまう存在でもあるということだ。
個々の事実認識が何かを感じることで行われる信仰の産物である以上、最終的になされる判断は、個々の理性と感性双方のはたらき、即ち智性に負っているのだ。

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2006-04-12 14:47:47

<富の格差>

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人口に関係した調べ物をしている最中、噂にきく書き込みを発見した。

<引用開始>
もしも世界の人口が100人だったら・・・
あるアメリカ人の友人からのメッセージ
もしも今日がついていない一日だと感じたあなたも
               これを読んだら現実が違って見えるかも・・・
 
もし現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を人口100人の村に縮小するとしたらどうなるでしょう。

その村には・・・
57人のアジア人
21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人
8人のアフリカ人がいます。

52人が女性で
48人が男性です。
70人が有色人種で
30人が白人

70人がキリスト教徒以外の人たちで
30人がキリスト教徒
89人が異性愛者で
11人が同性愛者

6人が全世界の富の59パーセントを所有し、
その6人ともがアメリカ国籍

80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
50人は栄養失調で苦しみ
     ひとりが瀕死の状態にあり、
     ひとりは今、生まれようとしています

ひとり(そう、たったひとり)は大学の教育を受け
ひとりだけがコンピューターを所有しています

もしこのように縮小された全体図から私たちの世界をみるなら、相手をあるがままに受け容れること、自分と違う人を理解すること、そしてそういう事実を知るための教育がいかに必要かは火を見るより明らかです。

次のような視点からもじっくり考えてみましょう。

もしあなたが今朝、病気というよりは健康だなと思って目覚めたなら・・・
あなたは今週生き残ることのできないだろう100万人の人たちよりめぐまれています。

もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や、獄門の苦悩、あるいは餓えの悲痛を一度も経験したことがないのなら・・・世界の5億人の人たちより恵まれています。

もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサにあずかることができるなら・・・
世界の30億の人たちより恵まれています。

もし冷蔵庫には食料があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、寝る場所があるならば・・・
あなたはこの世界の75パーセントの人々よりお金持ちで

もし銀行に預金があり、お財布にもお金があり、家のどこかに小銭の入った入れ物があるならば・・・
あなたはこの世界の中で最も裕福なものの上位8パーセントのうちの一人

もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・
それはとても稀なこと

もしこのメッセージをよむことができるなら、あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう。 あなたのことを思ってこれを伝えている誰かがいて、そのうえ、あなたは全く文字の読めない 世界中の20億の人々よりもずっと恵まれているのですから

昔の人がこういいました。 わが身から出るものはいずれわが身に戻り来る、と。

お金に執着することなくよろこんで働きましょう
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく人を愛しましょう
誰も見ていないかのごとくに自由に踊りましょう
誰も聞いていないかのごとくのびやかにうたいましょう
あたかもここが地上の天国であるかのように生きましょう

このメッセージを人に伝えてください、そしてその人の一日を照らしてください。

アメリカの友人よりのメッセージ  2001.3.
作者は不明  訳 なかのひろみ
<引用終了>
よりめぐまれぬ方々に思い及ぶことで、己自身の幸福に感謝せよということなのだろうが、私はそれ以上に、こうした格差を生んでいる搾取の社会構造こそ是正されるべきであると考える。
だが、それは格差そのものを排除せよということではない。
互いが霊的自覚のもとに、与え、与えられる社会を築くべきという意味である。
今日の世相は、唯物論に依拠し、相対的な価値観に支配された、奪い、奪われる社会であり、そこを正す必要があるのだ。
結果として生じる格差のみを問題にするのは偽善者の仕事である。

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2005-12-05 13:33:09

続編No.62<ある酒好きな男の話>

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あるところに、酒好きの家系に生まれた無類の酒好きの男がいた。
男は、それはもう一日に浴びる程の酒を飲まずにはいられない。それが血だからだ。
けれども、あまりの酒好きのために、お酒にかかる費用が家計を圧迫しはじめていた。
しかも、病院の検査では、肝臓に問題がではじめているとのことだった。
彼は思った。このままでは家族も不幸にしてしまうし、自分の健康も危うい。なんとかせねば。しかし、酒好きはやめられない。
愛する妻と息子の顔が脳裏に浮かんだ。
妻は飲んだくれて帰ってくる夫のために、いつも暖かいお茶を用意して出迎えてくれるのだった。息子にはそろそろ幼稚園に通うためのお金が要る。
彼は、家族のために、まず、増え始めていた借金を何とかしようと考えた。

ところが、一生懸命はたらきはしてみたのだが、夜になると、仕事の反動からか大酒を食らってしまい、借金は増え、体の具合もますます悪くなる一方なのだった。
やはり、お酒を控えなければならないと彼は思った。けれども、酒好きをやめることなど、できようはずがない。そこで、量を少なくする代わり、普段飲んでいなかった高級酒を、少しだけたしなむことに決めたのだった。高いお酒をたしなむ一方で、家族の暮らしを楽にするためには、お金が要る。それだけでなく、その味を堪能するには、彼本人が健康でなければならない。

彼はがんばってはたらき、お酒の量を控えた。
また、お酒が減ったおかげで、仕事にも俄然集中できるようになっていた。
一生懸命働いた後でたしなむ高級酒の味はまた格別で、明日への気力がみなぎるのだった。
そうこうするうち、もともとまじめな性格であったことも手伝って、職場での評価もうなぎのぼり、いつの間にか出世して、彼の収入は、以前とは比べ物にならないほどに増えていた。おかげで借金もなくなり、マイホームを建てるための頭金までできあがっていた。

そんな彼の楽しみは、いまや、自宅で妻とたしなむ数杯の高級酒だ。彼は家族を守り、自分の健康をとりもどすことができた。また、高級酒の味に通じたことで、趣味の幅も広がった。彼の酒好きは、自覚と決意、そして家族への愛によって、彼の人生を豊かにできたのだった。


<解説>
この物語の主題こそ、愛の連鎖であり、エゴとどう向き合うのかを語ったものである。
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2005-12-01 08:48:00

続編No.59<ある板前の男の話>

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あるところに、半人前の板前がいた。半人前といっても、男の料理の腕は相当なもので、その味は師匠のそれに勝るとも劣らないものであった。
けれども、男の師は未だ彼を半人前扱いするのだった。
男は思った。「師は、きっと私を手元から離したくないに違いない。私の料理の腕前は、もはや一人前で、どこへだしても恥ずかしくないもののはずだ」

ある日、閉店間際の店先で、一人の乞食が倒れていた。男がそばによると、乞食はいった。
「どうぞ、私をお助け下さい。もう何日も、何も食べていないのです。空腹のあまり、起き上がる気力もありません」
仕方なく、男はその日の残り物で乞食に料理をつくることにした。
何日も空腹なわけだから、刺激の強い食べ物は受け付けまい。そこで、男は雑炊をこしらえた。それならば、刺激も少なく、食すことができるだろう。
男の料理を食べて乞食はいった。
「こんなおいしい雑炊は食べたことがありません。このお礼に、貴方様にはどんな料理も、たちどころにおいしくなる秘密の調味料をさしあげましょう」
乞食は小さな壷を男に渡すと、礼をいって去っていった。

さて、この調味料、男が試しに使ってみると、確かにどんな料理もいっそうおいしさを増すのであった。男の料理を食べた師匠はいった。
「とうとうお前も一人前だ。いつ独立してもやっていけるだろう」
だが、男はかえって出て行けなくなってしまった。
「どうやら師匠は私を手元から離したくないわけではなかったようだ。ということは、私の料理は十分ではなかったのだ。この調味料のおかげで一人前のお墨付きをもらったにすぎない。いつかはこれもなくなってしまう。そうなれば半人前の料理しかつくれまい。まだまだ独立は出来ないぞ」
ちなみに、この調味料、なめても何の味もしない。甘くもなく、辛くもない。どうしてこんなものが料理の味を左右するのか、男にはさっぱりわからなかった。
ただ、それを加えれば、確かに味がかわる。理屈はわからなかったが、そのことだけは紛れもない事実なのであった。

あるとき、男はこの調味料が、いくら使っても決して減らないことに気がついた。不思議な調味料に、男は少し不安になった。これはどうして減らないのだろう。考えてみても男にはやはりわからなかった。けれども、その調味料が決して減らないとわかったので、男は独立を決心し、新たに店を設けて商売に励んだ。
調味料のおかげで店は繁盛し、男は満たされた人生を送ることが出来た。
やがて男は年老い、店をたたむ決心をした。けれども、どうしても調味料の謎だけが気になるのであった。
店をたたむ最後の日、いつかの乞食が男のもとをたずねてやってきた。
「もう店をおやめになるのですね。おやめになる前に、また、あの雑炊をこしらえていただけませんか」
男はその店で最後の料理を乞食にふるまった。
「ああ、おいしい。もう、あの調味料は必要ありませんね」
男は、かねてからの疑問を乞食に尋ねてみた。
「あの調味料はいったい何だったのですか」
乞食はにっこり微笑んでこういった。
「あれは、貴方様のハートです。もともと貴方様がお持ちだったものを目に見えるようにしてさしあげたに過ぎません」
乞食は礼をいうと再び去っていった。

実のところ、乞食の言葉は、男にとってそれほど驚きではなかった。彼もうすうす感づいてはいたからだ。乞食の去ったあと、壷は消えてなくなっていたが、本当はなくなっていないことも、男にはわかっていたのだった。


<解説>
愛は無限にして我々を幸福に導く鍵であるというのが、この物語の主題である。また、心のこもった料理とそうでない料理との間には、見た目の化学組成を超えた違いが生じるという意味でもある。
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2005-11-28 12:50:19

続編No.56<物質と意識>

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<超能力とは>の章では、物質と意識の間に相関関係があるかもしれぬ可能性について言及してみた。
これは、意識と物質との間に、その相互作用を営むための、極めて微細なプロセスが存在していることを示唆するものである。

実のところ、量子論的な世界観においては、将来的に、意識と物質との間にみられるミクロな相関関係の謎を解き明かす可能性があるかもしれない。
というのも、量子力学はその論理的な枠組みの中で、日常的な感覚から逸脱した質量をもたない粒子の存在を仮想しはじめているからだ。そして、こうした粒子によって空間が構成されていると説明する。
しかも、重力や物質そのものが、実はこうした空間の歪みや相転移によって派生したものではないかと推論している。

質量を持たないにも関わらず、この世に存在するものとは、「意識」しか私には想起できない。我々の意識は、確かに存在を感じ取れるものである一方、明確な質量を持った存在であるとはいい難い。
ひょっとすると、我々が知覚しているはずの空間や物質とは、神の意識から派生したものであり、実体の存在しないものなのかもしれない。
つまり、空間も物質も、結局は「意識」の相転移現象として顕れたものに過ぎないという認識だ。
相転移現象をわかりやすくいえば、同じ水分子が、外的条件によって、氷になったり、水になったり、あるいは蒸気となったりする現象のことである。
こうした考えをつきつめてみれば、意識こそ、エネルギーの本質であるという見解を導くことができるかもしれない。

まさに、森羅万象は神の意識であり、空そのものであるという認識。
「色即是空、空即是色」、「一切は空也」。
ここに、全ては神の意識の顕れであり、空であるという宗教上の卓見と、科学との調和を見出すことができるのではないだろうか。他方、こうした考え方は、フリーエネルギーの研究もまた、最終的には意思の顕すエネルギーの研究へとつながる、つまり、PKの原理を追究する科学とリンクしてくる可能性を示唆してもいる。

結局、命もまた、意識の一部が具現化したものではないだろうか。つまり、神の思いが世界に顕れ、その化身である我々の思いが命となって顕れているのだ。これらは、もとをただせば一つであり、永遠不滅のエネルギーである唯一の神から出でた幻に過ぎない。
命とは思いであり、思いとは命であるということだ。

また一方、この宇宙にはダークマターと呼ばれる不可視の質量体のあることが天体物理学的に証明されつつある。この事実は、もし、我々の住む世界とそれが交わったとしても、五感にたよって生きている我々には、それらを認識できないことを端的に表しているといえるだろう。「目に見えるものしか信じない」を公言してはばからない方々は、もはや時代の変化について行くことができなくなろうとしているのかもしれない。

現在、我々の科学は、宇宙という人知の及ばぬ巨大なものに対して、量子論という、より微細な領域を探求する科学を用いてこれを捉えようとしている。
マクロを追いかける科学と、ミクロを追いかける科学の出会うその先に、神の摂理とその意識を垣間見ることができるとすれば、それを成し遂げるには意識の領域を追いかける精妙な科学の果たす役割が不可欠であると私は思う。

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2005-11-18 08:41:43

続編No.51<ある勉強嫌いの男の話>

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その昔、あるところに勉強嫌いの男がいた。
男は勉強が嫌いだったが、芸術のセンスに恵まれていて、歌を歌えば聴く者全てに涙を誘い、絵を描けば見る者全てを魅了した。
けれども、男の師は、彼にいつもこう忠告するのだった。
「お前は確かに芸術の才能は並外れているが、学ぶことを怠ってはならない。学問をなおざりにすれば、独善を招き、お前の視野を狭めるばかりか、大切なものを見過ごしてしまうことになるであろう」と。
けれども、男は師の忠告に耳を傾けることはないのであった。
男は思っていた。
「芸術家の私にとって、学問が何の役に立つというのだ。学問なぞ、するだけ時間の無駄だ」
男は心のどこかで、才能に劣る師を見下していたのだった。

そんなある日、男のもとに、一通の手紙が舞い込んだ。それは、男の歌声に魅了された女性の一人からのもので、まがうことなき恋文であった。
実は、男には前々から、密かに思いを寄せる女性がいた。
彼の歌会に幾度となく姿を現し、その歌声にじっと耳を傾けてくれる、知的で美しい女性のことが気になっていたのだった。
彼女はいつも薔薇の花をあしらった独特の髪飾りをその美しい黒髪につけていた。
そして、その恋文こそ、まさに彼女からのものであったのだ。
手紙にはこう書いてあった。
「いつも貴方様の歌声にわが胸をときめかせております。貴方様の熱い視線に気づく今日この頃。私の気づきが思い過ごしでないのなら、次の歌会には、どうぞ真紅の薔薇をその胸に付けて歌ってくださいましね。そのときは私も薔薇の花束を手渡しにまいります。薔薇の髪飾りの娘より」

そして次の歌会の日。
男の胸に真紅の薔薇はなかった。その女性は、涙とともに歌会の場を去り、二度と男の前に現れることはなかった。薔薇の花束だけを後に残して。

なぜ男が真紅のバラを身につけなかったのか。
疑問に思われる御仁も多々おられることだろう。
ファンを口説くのはご法度だからか。
それとも他に気になる娘ができたからか。
問題はそれほど難しいことではない。
勉強嫌いの男は、単に字が読めなかっただけの話だ。


<解説>
これは、私なりの「学ぶことの意義」に対する答えである。
男が学ぶことを厭わずにいたなら、この不運に見舞われることはなかったであろう。
学びを厭えば、知らぬうちにチャンスを逃してしまうということだ。
<学問の意義>では、それを、人生の大航海における帆の役割にたとえてみた。
風というチャンスがいかに与えられても、それを受ける帆がなければ、船は前へは進めない。学びを厭えば、それだけ自分自身の可能性を狭めてしまうというのが、このお話の主題である。

学問は、「何の役に立つのか」ではなく、「どう役立てていくか」が問題だ。
今は将来に具体的なビジョンをえがくことができなくても、将来何かを志したときに、自身の可能性を広げる武器となるものだ。
確かに、学問は将来の保険にはならないかもしれない。
けれども、いくら使っても決して減ることのない貯金のようなものであろう。
ならば、若い時分にはせっせと貯めこんでおいたほうが良いはずだ。
ただ、そのためには、魅力ある教科書作り、学校づくりが必要である。
内容を削減したり、競争を否定したりすることが魅力ある教科書づくり、学校づくりではないはずだ。
そこを、親も教師も、そして社会も、自覚していく必要があるのだと私は思う。

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2005-09-22 08:27:16

続編No.3<ラフスケッチ>

テーマ:ブログ
風景画を描く場合、才能がなくても、まずまずの作品を仕上げるためのコツがある。
近景、中景、遠景に対象物を配置した構図を決め、全体のバランスをとりながら、それぞれのラフスケッチを行うことだ。
この際、複雑な形状を呈する対象の細部に、目をやってはならない。
あくまで、全体図の中で、個々のバランスをとることが重要だ。

子供の写生にありがちな失敗は、細部の描写に気をとられるあまり、構図のバランスが損なわれ、つじつまを合わせるために対象の形が歪みきってしまうことにある。
個々の対象物の位置関係を明瞭にし、バランスをとってから、ディテールを描き込むのが、失敗しないコツである。

巷にありがちな議論における過ちの多くは、子供が写生に失敗する様とよく似ている。
ディテールの考察は鋭利にして、よく調査が行き届いているようには見えても、全体のバランスという点で歪であることが多い。個々の論考では筋が通っていても、全体を一つに束ねると、論理が破綻している様を目撃することしばしばだ。
その理由は、多くが、真理という名の構図の基点を持たず、細部の相互関係にのみ、目線が囚われてしまっているからだ。

絵の描き方を知らない子供は、樹木一本判然としない大人の描くラフスケッチを見て、あざ笑うことだろう。しかし、そのラフスケッチの有無こそが、後の仕上がりを大きく左右する事実を知らないだけの話なのだ。

私にとって「眠れぬ夜に思うこと」は、まさにラフスケッチであった。しかし、ラフスケッチのままで終わらせてしまうつもりはない。全体に配した個々の対象を描き込む作業は残されたままだ。本ブログでは、そこに挑んでみたいと思う。
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2005-08-14 09:50:29

<心の強さ>

テーマ:ブログ

何をもって心の強さとするのか、いや、そもそも心とは何なのか。
考えると奥が深い。

心のあらわす様々な現象の中には、医学的常識をはるかに超えた病の快癒のように、奇跡と呼ばれるものが含まれている。
そうした症例の多くで、ポジティブなビジョンを維持し続けることのできる心の特性が指摘されてもいる。
ネガティブなビジョンに打ち勝つ心の力。
それを信念と呼ぶ人もいるだろう。


強固な信念は科学の常識さえ容易く超えてしまうという事実を目の当たりにすると、世を支配するのは理知のみではないという真理に思い至る。

心という論理を超えた存在が宿す信念こそ、未来の趨勢を決定する鍵であるのかもしれない。


では、心を磨くとはどういうことをいうのだろう。

心の鍛錬によって強固な信念をい持つことは心を硬化させることを意味するものではなく、心の柔軟さを放棄することでは決してない。


五重塔にみられる木造建築がなぜ強靭なのかといえば、それは「しなり」に負うという。
硬すぎればポキリと折れてしまうものでも、柳のようにしなることで強度を増す。
五重塔は構造上、そうしたしなりによって地震や強風から守られており、これは現代建築物にも応用され、高層ビルでさえそのように造られているのだそうだ。

柔らかさと硬さとの協調が本物の強さを生み出す。

これは心も同じではないだろうか。

心の強さとは、強固な信念と、臨機応変、状況に即応できる柔軟さとの、ほどよき調和にあるのかもしれない。

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