続編No.58<パラダイスのいざない> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

続編No.58<パラダイスのいざない>

人はパンのみにて生きるものではないが、パンがなければ、また生きることはできまい。世界の混迷は、石油資源をはじめ、有限なものを大勢で分かち合わねばならないことに起因しているといえるだろう。

エゴと向き合うという生き方は、新しいパラダイムに支えられた理想社会を誘うための必要条件だが、十分条件ではない。
そこには、無限なものを生み出す新しいテクノロジーの存在が必要不可欠だ。なぜなら、価値観の転換のみでは、現代社会という特殊な状況での実生活は成り立ち難いものだからだ。高度な科学文明や巨大集団を形成するずっと以前ならば、有限な資源であっても、これを争うことなく共有できたのかもしれないが、高度に機械化された現代文明ではそういうわけには行かない。

誰しも健康で文化的な生活を営みたいと願うものだが、その思いを悪と決め付けてしまうことは決してできない。人類の絶対数に比し、相対的にあらゆる資源が急速に目減りしている現状で、エゴの主張を怠れば、衰退と滅亡を余儀なくされる。このために争いを避けることが困難になっているといえるだろう。
よって、思想の転換のみで無邪気に平和を説くならば、それは偽善であるとのそしりを免れることはできまい。なぜなら、そうした考えを貫くためには、リセットによる集団の少数化が絶対条件になってくるからだ。
マジョリティーをいかに救済するかが問題なのであり、そのためには、現実的な課題を避けて通ることはできない。

しかしながら、個々の価値観における変容は、新しいパラダイムを導く触媒としての重要な役目を担うものだ。
無限のエネルギーは、人類の霊的進化における最終段階で、神より授かる極上のギフト、神の存在証明なのかもしれない。ならば、これを手にするのには、我々に相応な資格が必要になってこよう。その資格となるものこそ、個々の存在が示す誠の愛だと私は信じる。
誠の愛こそ、無限のエネルギーを意味する神そのものなのだから。無限のエネルギーを授かるには、差し出すその手に無限の愛が宿っていなければ、それを受け止めることは叶うまい。

パラダイスの到来を阻むものの正体を、何かのイデオロギーや秘密結社だけに位置づけるのは間違いだ。それらは個々の意識の反映に過ぎず、場合によっては、過剰な自衛行為の結果であるという見方もできるからだ。集団としてのエゴが、互いにせめぎあった結果、節度を失っただけであると。そこには、過去から受け継がれたエゴとしての怨念も含まれているのかもしれない。
逆に、こうした存在のベクトルを変えることができれば、トランプの大貧民ゲームにおける大逆転のごとく、一気に好ましい方向へと状況を転換できるはずだ。そのためには、個々の意識を変容させることが必須だ。
その弊害ばかりが取沙汰されることの多いインターネットにしたところで、個に対しダイレクトに複雑なメッセージを伝えることのできる優れた特質がある。ハートにメッセージを届けることができるのだ。実際、著しく教育の効果をあげるツールとしての側面も持っている。結局、ネットそのものが悪なのではなく、使う側のモラルに負うところが大きいということだ。
物事には常に二面性があり、好ましい側面が働くように人が導く必要がある。そのためには、個々の存在が己のエゴと向き合い、愛されねばならない。けれども、愛されるためには、まず、愛さねばならない。
つまり、愛し合うには意図的な努力も必要であるということだ。それこそが、渇愛と愛とのせめぎあいであり、神の自己表現であると私は思う。