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2009-10-26 08:40:14

<誇り高く生きよう、喜びにあふれ>

テーマ:哲学
私の先輩医師が、医師会報に寄稿した提言より引用させていただきます。

<引用開始>
ロック歌手の忌野清志郎さんが、5月2日癌性リンパ管症のため亡くなった。58歳だった。

喉頭癌を摘出すると声が出なくなると宣告されたことから、放射線や抗癌剤での治療を選択。また、がんセンターでの現代医学的な治療計画では胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると言われたことから、入院後2週間で代替医療へと治療を変更したという。声を失って生きるよりも、歌い続けることを選んだのだ。
最後のオリジナルアルバムとなった『夢助』の一曲目。清志郎のヴォーカルが、力強くそして優しく唄う。
「誇り高く生きよう、喜びにあふれ」
<引用終了>

人は誰しも思いなく生きることはできません。生きるために思いを捨てることほど愚かなことはないと私は思う次第です。
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2009-10-12 23:21:14

<希望>

テーマ:社会問題
おおよそ、始まりを迎えたものの中で終わりを迎えなかったものはない。
人の命は勿論、国にしたところで同じこと。
かつて滅びの時を迎えることのなかった国は一つとしてない。
ゆえに今ある国もまた、永続することは決してない。

日本人の存在意義とは何であろうか。
他を排してまで生き残らねばならぬ理由とは何であろうか。
千年の後、果たして日本の呼び名が残っているだろうか。
我々はこの時代にいかなる種子を残せるだろうか。

限りある命なればこそ、人は永遠なるものに恋焦がれる。
目に見える世に永遠などありはしないというのに。
ただ人の生き続ける限り、その思いは受け継がれることだろう。
ならばそこにこそ、私は希望を託したい。
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2009-10-12 23:19:51

<日本の精神文化が世界を救う>

テーマ:社会問題
先ごろの国連の核廃絶を目指す決議など茶番に過ぎまい。核を持っている国々、核に頼る国々がいくら核をなくそうと叫んだところでナンセンスだからだ。核に頼らぬ外交と国防を成し遂げた国の首脳にしか核廃絶を叫ぶ資格はないことだろう。
結局、核廃絶はそれに頼らぬ個人のハートがまずありき、その延長に国が、そして世界があるのでなければ成し遂げることはできない。いかなる理屈を用いようと、核抑止の延長に核廃絶など有り得ない。

今日、世界の趨勢は一部の富める者たちの思惑に牛耳られているといってよい。核抑止論もまた、人口や資源を管理するためには核戦争すら厭わぬという企ての所産なのだ。彼らの目的は支配階級と奴隷階級とを明確化した世界統一国家の樹立にあり、それは刻々と実現に向かっている。そして何ゆえ彼らがそれを成し得ているかといえば、それはひとえに世代を超えた精神のリレーによるのである。
ならば、同じことが我々にもできないはずはない。外側が同じであっても、中身を変えてしまえばそれでよいのだ。陰謀の正体がエゴの連鎖であるなら、愛の連鎖によってそれを昇華してしまえばそれで良いのである。ワン・ワールド、大いに結構ではないだろうか。

理想社会を実現させるにあたって具体的な方法を示すとすれば、それは純度の高い日本の精神文化の産物を海外に輸出することが挙げられよう。文芸作品でも良いし、映画やアニメでも良い。「おくりびと」が海外で高い評価を得たことは記憶に新しいところだが、目下、もっとも見込みがありそうなのは、やはりアニメーション作品や漫画である。理由は子供が観るからだ。
かくいう私は昭和40年代の生まれだが、私の慣れ親しんだアニメには人類愛をテーマにした作品が多かった。私の価値観の根幹もまた、そうした作品によって少なからず影響を受けているが、この感覚を広く世界中の人々と共有できるようになれば、理想社会の実現は必ずしも不可能ではない。そして、その萌芽は既にあるのだ。

確かに、アニメ作品の傾向は時代によって変遷しており、昨今みられるものには精神汚染をうかがわせるものも多いといえる。しかし、初期の意欲作には自己犠牲をテーマにしたものも多かったのだ。正しいものに対して感じる心は万国共通であり、心に残る作品には、必ず何らかのメッセージが込められているものだ。そこに真理を見出すのは支配する側の子供たちもされる側の子供たちも何ら変わりはないことだろう。今日、良質な日本のアニメ、漫画と子供時代に接触した世代が皆、大人になって世界中に散らばっている。世界が一つとなるには幼少時代の文化的な共通基盤が必要だが、我々はその条件の一つを満たしている、あるいは満たしつつあるのではないだろうか。

核を持てる国に持つなといえる資格を持つ国は、核によらぬ外交と国防を成し遂げた国だけである。未だ力に頼る国々に、あるべき道を指し示すことができるのはそういう国をおいて他にはない。日本はいつでもその資格を得ることができるのに、未だ核の傘に守られているというまどろみの中に居て身じろぎしようとしない。
それはやはり、国民の多くに核に頼らぬ覚悟、死ぬ覚悟、生きる覚悟がないからなのだ。世界でもっとも尊い仕事をなし得るのに、それを為そうとしない国とその民に対する苛立ちが私の筆をすすめずにはおかない。
日本の歴史と精神文化の中にこそ、世界が真の平和へ歩を進めるために欠くことのできぬ道しるべが託されているのである。
パンドラの箱が開かれて飛び出したものの一つが核であったとしても、その箱の中で最後に残るもの、それが希望ではないだろうか。
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2009-10-12 23:18:38

<日米安保に思う>

テーマ:社会問題

日本の核武装を唱える理由に、北朝鮮の脅威を掲げる御仁は多い。しかし、目下、それが現実的な脅威であると納得できる根拠にお目にかかったことがない。
かの国のミサイル発射実験にしたところで、ヤクザの恫喝と大差ない瀬戸際外交のなせる業ではないかと思われてしまう。
そもそも、かの国がかろうじて生きながらえているのは、朝鮮総連を通じて日本から巨額の“支援”が行き渡っているからではないだろうか。その日本を核攻撃して彼らに利するものがあるとは到底思えない。ゆえに、どれほど多くのミサイルがわが国に向けて並べられたところで、それが本当に現実的な脅威であるかについては大いに疑問が残る。

にもかかわらず、北朝鮮の脅威があるから、自前の核を持たぬ以上、わが国は日米安保に頼らざるを得ず、対米追従を余儀なくされているという見方をする人々が日本の核武装を唱えて憚ることがないのである。だが、日米安保によって日本が自力で国を守れないという見方をするのか、それとも狡猾に米国を利用していると見るべきか、これはものの見方の問題であるかも知れない。
米ソ冷戦時代、両大国は核軍備増強にしのぎを削ることで国内経済を疲弊させていたが、それを尻目に日本が経済発展を遂げることができたのは、日本国憲法、並びに非核三原則と日米安保を盾にして防衛費を抑えることができたからではないだろうか。
これほど経済危機が叫ばれる昨今、本格的に国防に取り組む、それも核軍備を行うということにでもなれば、いくら財政を圧迫することになるのかわかったものではない。それも、使用を前提としない兵器のためである。
旧ソ連、中国、米国のいずれにおいても、核実験による自国民の被爆の悲惨な実態が明らかにされつつある。それを必要な犠牲であると割り切ってみせる論理が私には未だ理解不能である。

結局、核武装を厭わぬヤクザ国家どもと覇を競い合うには、北朝鮮と同じような政策を必要とし、挙句の果てには、この失敗国家と同じような運命をたどることになるのだ。目的のためには手段を選ばずという国策の延長に拉致事件があるのであって、日本がそのような国を真似ることに何の意義があるのだろうか。日米安保に頼らず、自前の核をもって自衛するなどと宣言すれば、各国からの経済制裁によって早晩、エネルギーは底をつき、国民は餓えの恐怖に直面せざるを得ぬことだろう。日米安保は単なる方便なのだ。それを忘れてこれに頼り、それを目的としたがゆえに、今日のわが国の窮状があるのではないだろうか。

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2009-10-12 23:15:20

<伝統精神と核武装>

テーマ:社会問題
確かに、報復に対する恐怖が戦争を抑止するという核抑止論に一定の理はあることだろう。しかし、問題はそのようにしてつくられた均衡が破られないという保障があるのかということだ。それはちょっとしたミステイクの重なりで生じる可能性があり、その場合の被害の大きさは一つの文明圏、あるいは文化圏にとって致命傷になりかねない。
核兵器が安価になれば、不特定多数のカルト集団にまで行きわたってしまうことも考えられるだろう。集団が小規模になればなるほど、核攻撃を受けた場合、報復のチャンスも少なくなってしまうので、逆に核による先制攻撃を考える組織も出現するのではないだろうか。即ち、核による自爆テロの活字を見るのも難しいことではなくなってしまうということだ。そうなれば世界が秩序を維持するのはもはや不可能である。

しかしながら、そこで核を持つ国が持つなといっても何ら説得力を持たない。ゆえに、日本の外交力の真価が問われるのだ。日本が核の傘から離脱し、世界に向けて核廃絶を唱えなければ、世界に真の平和が訪れることは決してない。自国の子供たちでなければ原爆で焼き殺される子供が他にいてもかまわないなどという理屈がまかり通ってよいはずがない。もっといえば、自分の子供でなければ核開発のために被爆する子供たちがいても構わないなどという理屈がまかり通ってよいはずがないのだ。

結局、真の平和を実現させるためには核廃絶が不可欠であると同時に、落命を恐れぬ誇り高き精神がもっとも必要とされるのである。特攻隊に志願し、竹やりで重戦車に挑もうとした我々の祖先が護ろうとしたものとは一体何だったのだろうか。それは、自己犠牲を厭わず、卑怯者になることを忌避した伝統精神に他なるまい。
伝統文化の護持をうったえる一方、その精神に反した核自衛を当然であるかのごとく主張する人々。特攻隊の精神を賛美しながら、核自衛の精神的退廃には全く無頓着な人々。命より大切なものがあるとのたまいながら、その命惜しさゆえ核抑止に平然となびく人々。その自己矛盾に無自覚な御仁が多いのは、過去の大戦に敗北したと思い込んでいる人が多いからであろう。

しかし事実は、日本精神の底力が米国をして禁断の兵器を使わしめただけの話であり、むしろ日本精神が彼ら米英精神の脆弱さをものの見事に粉砕した圧倒的勝利といえるのだ。
八方塞になったどこぞの阿呆ボクサーが試合中に相手をプロレス技で投げ飛ばしたのと、米国が核を使用したこととの間には大差がない。
にもかかわらず、投げ飛ばされたから投げ技を鍛えようなどと拳闘家の発想することが精神的退廃でなくて何だというのだろうか。

もし、大東亜戦争当時、わが国に核兵器があり、報復手段があったとして、果たして誇り高い天皇陛下は報復のために核兵器の使用をお認めになっただろうか。神が万物に愛情を注ぐがごとく臣民を治める神の代理人が、復讐のために核の使用をお許しになっただろうか。そもそも、核兵器のごとき卑劣を極める道具の開発を許可なさっただろうか。私には大いに疑問である。
今日、わが国が無力であるのは、未だ敗戦の自己暗示が解けておらず、軍事力を背景に強権発動を厭わぬヤクザ国家どもと同じ土俵の上に立っているからに他ならない。核がなくとも、国際貢献力を堂々と示して外交の力を示せば済む話なのである。核の圧力は、それを感じない相手には全く無力であるからだ。

核自衛それ自体が、特攻隊の崇高な精神と相容れないことに気づかない人々が多いのには驚かされるばかりである。今日、絶滅がもっとも危惧されるのは伝統的日本精神以外にない。核抑止に便乗すれば、間違いなくそれを加速してしまうことだろう。
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2009-10-12 23:14:19

<武人の心>

テーマ:社会問題
核は、いかなる理屈を用いようとも、誇り高き武人の持つべき道具たりえない。核に頼る精神性の退廃を容認して国を残そうとしたところで、それはもはや形骸に過ぎまい。だが、武器を持つことそれ自体に反対するつもりはない。戦うことを否定したりなぞしない。ゆえに、核の否定は国防の否定では断じてない。護ろうとしているものの違いが手段を選ばせるだけである。

銃器は、その精神性において明らかに刀に劣り、砲は同じく銃器に劣る。発達した武器の使用は精神性の退廃と無縁ではいられない。そして、核を用いた我々の精神性は、もはや落ちるべきところに落ちたのである。
核が登場する以前、戦争にはわずかばかりの聖戦が残されていた。しかし、目的のためには手段を選ばずという精神的退廃の権化として核が登場したのだ。核に頼る以上、そこに聖戦の誉れなどあるはずもなく、生きながらえることに執着する下卑た獣のあさましき諍いがあるのみだ。
核に頼ってわずかばかりの平穏を得たとして、それが果たして長続きなどするだろうか。人類には核兵器使用の前科があるのだ。相手による報復不能を意図した核による先制攻撃を一国が成功させれば、核抑止など笑い話にすらならなくなってしまうだろう。今ある精神的退廃の行き着く先にそれがないとどうしていえるだろうか。

誤解を恐れずにいえば、核を持たぬことで国が滅びたとしても、私はそれでよいと思う。なぜなら、日本精神の滅びぬ限り、それは必ず世界に平和の種子を残すからだ。世界のいたるところに日本精神が芽吹くとき、我々は真の平和を手にするだろう。
未来を生きる子供たちのために残すべき世界が、互いに核の矛先を向けて脅しあう世界であってよいはずがないのだ。
核の脅威は、それを感じる相手にしか威力を持ちえない。ゆえに、我々が外交交渉の切り札に核を持っていないから煮え湯を飲まされてきたと考えるのは間違いである。それは全て核を恐れる、否、死を恐れる精神的退廃のゆえなのだ。命ということだけについていえば、核武装を選択したところで国民の命を危険にさらすことに何ら変わりはないのである。

そもそも、核に頼って残されるものとは一体何だろうか。それに頼って一体何が護られるというのだろうか。命だろうか。目に見える命など、放っておいても数十年で失われるというのに、そのために日本人としての誇りを捨てろというのだろうか。日本人としての誇りを捨てて生きる人々の群れが住まう国を指して日本と呼べるのだろうか。

確かに、非武装の延長にある安直な反核は武人の誇りを汚すものだ。武人が戦うのはその誇りのためであり、戦うことから逃げてその誇りを示すことなどできはしない。勝てない戦だからといって誇り高き武人が逃げ出したりはしない。勝てぬとわかっていても戦うのが武人なのだ。

とすれば、核がなければ戦争が不利になるだとか外交が不利になるだとかいうこともまた、臆病者のいいわけに過ぎず、武人の誇りを汚す言説に他なるまい。
勝つためだからといって武人がその誇りを捨てることがあるだろうか。誇りを捨てた武人の戦いにいかなる意味があるだろうか。そもそも、誇りを捨てた武人を武人と呼べるだろうか。
武人の誇りを汚すという点において、安直な核武装論もまた、安直な反核と大差はないのである。
核を持ってさえいなければ核攻撃を受けないと信じる安直な反核論者、核を持ってさえいれば核抑止が働いて核攻撃を受けないと信じる安直な核武装論者、どちらの言い分も浅はかであることこの上もない。
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2009-10-12 23:13:05

<核をもつデメリット>

テーマ:社会問題
<温暖化理論の虚妄>でも述べたが、わが国の原子力発電所はエネルギーを効率的に得ることを目的としたものではなく、将来の核武装を企図した技術の保管庫、いうなれば核開発施設であったと考えられる。しかし、それらの原発は建設当初から耐用年数が40年といわれていたが、今日、1970年代に造られたそれらの多くが、そこに達しようとしている。今後、それらを廃炉とするか、核武装のために稼動させ続けるのかについて、我々は決断の時を迎えているのではないだろうか。

実のところ、核戦争それ自体は核兵器を持つことなく行うことが可能である。つまり、こうした核開発施設、原子力発電所を標的として通常兵器による攻撃を行えば、人口の密集する国土の狭い国に致命傷を与えるのは造作もないことなのだ。
ひるがえって、日本は国土が狭い上に地質学的に不安定な土壌を抱えており、他からの攻撃を待つまでもなく、地震によって活断層の近傍に位置する原発が破壊されれば自滅してしまう可能性を潜在的に有している。浜岡原発の危険は言うまでもないことだろう。
即ち、日本は地質的、地理的に、核武装に向いていないという特性があることを指摘することができるのだ。

もし、将来の核武装を企図するのなら、敵の攻撃に対しても安全性を確保するための堅牢な構造が原発に必要になることはいうまでもない。しかし、それを保障するためにどれだけの予算が必要になるだろうか。また、自前の核で応戦するとなれば、核による先制攻撃の後も反撃し得る軍事力、核弾頭の絶対数が必要とされるので、そこには膨大な防衛費の投入が必要とされるだろう。つまりは、軍事大国化するために国内経済を疲弊させた身近な失敗国家と同じ轍を踏むことになるわけだ。しかも、わが国においては、不用意な核実験は自国民の被爆者をつくり出すにとどまらず、人工大地震を引き起こしてしまう可能性も示唆される。

これらの事実を直視することなく、核武装に固執することにどれだけ意義があるだろう。確かに、国の存続を目的とするなら、現状、核武装はやむを得ぬ選択であるという意見はわからぬでもない。しかし、そのために払われる犠牲の大きさに目が届かぬ核武装論は現実的というにはあまりにお粗末だ。
そもそも、我々日本人が生き残らねばならぬ理由とは何だろうか。私はそれを日本人の精神性にあると考えるが、しかしそのために核に頼るというのでは重大なる自己矛盾である。

いかなる理屈を用いようとも、核を持つことによって核廃絶が達成されることなどありはしない。虎を飼うには堅牢な檻とえさが必要なのであり、えさ代も決して馬鹿にはならない上、いつ何時喉元を食いちぎられるかわかったものではないということだ。虎は飼わないのが一番である。
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2009-10-12 23:12:15

<核に頼るということ>

テーマ:社会問題
過去、二度の世界大戦を通じ、世界は総力戦の恐ろしさ、悲惨さを体験した。総力戦になれば、ルール無用、民間人を標的にすることも全く躊躇されない。
そもそも、ルール無用の喧嘩には勝ち方がある。それはつまり、金的蹴り、目潰し、頚椎への攻撃、関節破壊を躊躇なく行い、相手を不具不能にすることだ。あるいは、拳銃や刃物など、相手が所持していない武器を用いるのもよい。要は卑劣な手段を用いた方が優勢となるのだ。
だが、伝統的な日本人はそのような手段にうったえる相手を指して卑怯者と呼ぶ。
ルール無用の戦いにおいては、より卑怯である方が優勢となるのだが、それによって本当に勝利と呼べる誉れを得ることができるだろうか。
過去の大戦では、民間人を標的にした爆撃が行われ、さらには核爆弾がその頭上に投下された。これはまさに残虐非道、卑劣の極致である。

核兵器に頼るとは自らその卑怯者に成り下がることを意味する。報復に用いたところで、犠牲になるのは一般市民なのだ。にもかかわらず、核抑止の理屈に騙されてこれに頼ろうとするのは、それこそ米国的精神腐敗のなせる業ではないだろうか。
核を用いた米国は先の大戦でわが国に勝利したのでは断じてない。彼らは、日本人の誇り高い不撓不屈の精神を前にして、核を使わずにはおれなかった卑怯者に過ぎない。しかるに、その卑怯者たちの真似をして国を守ろうなどと発想する輩が後をたたないのは実に嘆かわしいことだ。

卑怯者は問う。相手が核を切り札に攻撃してきたらどうするのかと。簡単なことだ。核によって殲滅されることを覚悟の上、至高の精神とともに通常兵器で戦えばよいのである。核を恐れるあまり核に頼るというのでは生命至上主義を奉じるサヨク主義と何ら変わることがない。米国のごとく、魂を売ってまで生き残る必要はないのだ。核に頼る非道に身を落すくらいなら、皆で死ねばよいのである。死を恐れるより、魂を売ることをこそ、真に恐れるべきだ。核抑止によって平穏を得ようなどという発想そのものが重大なる日本精神の退廃である。そのようなもので保たれた平穏が長続きするはずがないのだ。使わぬ兵器のために払われる犠牲の大きさに思いが及ばないのは、そこに見えざる精神の退廃があるからではないだろうか。

核に頼らねば滅びてしまう国は、いずれその核そのものによって滅びてしまうのが必定である。
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2009-10-10 22:15:35

<ある友人の話-追記ー>

テーマ:日記
民族や文化が異なっても、人類共通の伝統的な正義というものがどこかにあるのかもしれない。ただ、日本の中だけにいれば、その正義と出会う機会は極めて少ないことだろう。私の友人の得た満足感は、そうした稀有な機会に恵まれたことに由来するのではないだろうか。そして、人類共通の正義があるからこそ、核兵器を民間人の頭上に投じた米国の所業の邪悪さをあらゆる国の人々が認識したのだ。ゆえに、覇権国家の民でありながら、米国人の多くが、海外渡航の際、身の安全のために度々国籍を偽る必要があるのではないだろうか。

今日、非核を訴えるわが国でも、米国のように核兵器を持たなければ国際社会での発言力が軽んじられるという考え方が数多く見受けられるようになったが、私は必ずしもそうは思わない。国際貢献力を堂々と誇示することによって国威を示せば済む話だと思っているからだ。もっとも、そのためには日本に巣食う反日勢力を教化、または駆逐し、国民全体が自虐史観から脱却する必要がある。日本人による国際貢献は、贖罪のために行われているのではなく、愛に根ざした高貴なる行動であることを内外に示すためだ。

人類共通の正義に立脚した理想国家を構築し、核をもつことなく国威を示すことがかなうなら、世界は日本を仰ぎ見てこれに倣うことだろう。さすれば核抑止などという悪魔の理屈を前時代の遺物とすることができると私は信じる。
持つべきは国徳であって、核ではない。徳高い高僧に刃物を向けるのは勇気の要る話ではないだろうか。
核の恐怖を元手に互いをけん制し合って平穏を得たところで、それが長続きするはずのないことは自明の理であり、その平穏の終結は人類にとって破滅的大惨事を意味する。
核に頼らなければ滅びてしまう国は、その核によって遠からず滅びてしまうことだろう。
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2009-10-10 22:14:22

<ある友人の話>

テーマ:日記
英国人女性と結婚した私の友人は、中学英語教師としてのキャリアを捨て、細君の希望するまま英国で暮らすようになって早6年になる。
現地で彼は半導体製造業に従事し、スーパーバイザーとしての仕事をこなしているが、昨年、彼にとっては困難な時期があった。

職場の都合で、彼は自分の上司の仕事をもこなさねばならなくなり、多忙となってしまったのだが、悪いことに、そのとき彼とその家族は新居への引越しという大イベントを抱えていた。細君は定刻に仕事を終わらせて帰宅し、引越しの手伝いをするよう彼に催促するのだが、彼にしてみれば公の仕事をなおざりにして私の仕事を優先するわけにもいかず、定刻を過ぎても帰らぬ日が続くこととなった。
家族と仕事の板ばさみに苦しみながらも、彼は黙々と仕事をこなした。なぜなら彼は日本人だからだ。

だが、結果的に彼は格下げとなってしまう。それは、会社の評価項目のいくつかを達成できていないことによってであった。勿論、彼は最善を尽くしていたのだが、部下を叱咤して無理やりできないことをさせるような真似をしなかっただけのことであった。
何の予告もなく格下げを食らった彼に対し、彼の部下たちは自主的に彼のために嘆願書をまとめ、皆で署名して会社に提出した。会社の理不尽に対し、団結して彼を救おうとしたわけだ。がしかし、それは会社にとっては前代未聞の事件であった。

英国にあって、製造業に従事する労働者は様々な国と異なる民族で構成されており、文化も価値観も皆異なる。けれども、そんな彼らが一様に一人の日本人を救おうと奮起したのだった。それは彼らにとって決して得になる話ではないにもかかわらずである。彼は自分の上司から、それが会社にとって全く前例のないことであると伝えられた。
結局、部下たちの願いもむなしく、彼の格下げがくつがえることはなかったが、人間、文化や価値観が違えども、心の奥底では必ず通じるものがあると確信できて、彼はどこか満足だった。
一時帰国して私にそう話してくれた彼の顔には、紛れもなく日本人の誇りと気概が覗いていた。
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