2008-07-25 08:51:52

<秋葉原の事件に思うこと>

テーマ:社会問題
秋葉原の事件を通し、絶望的な境遇に追いやられた孤独な若者たちの実態が暴かれることとなった。事件の犯人が抱えていた苦悩に共感する若者が多いという事実は、同種の事件が同じような若者によって今後も引き起こされる可能性を示唆しており、社会に多大な不安を与えている。
彼らの多くは、自分の置かれた境遇の責任を、その全てではないにせよ、社会という漠然とした対象になすりつけて憚ることがない。しかし、彼らがどういった経緯でそうした状況に追い込まれたかを詳細に知れば知るほど、いささか厳しいようだが、私には自業自得というコトバが想起されてしまう。同情すべき点はなきにしもあらずだが、己のおかれた境遇について、己以外の何者かに責任があるかのように考える性癖を根本的に改めない限り、彼らが立ち直って希望のある将来を手にすることはできないように思われる。実のところ、自分自身の選択によって現在があることを納得する者にとっては、いかなる境遇にも満足と感謝しか残ることがなく、また、いつでもその境遇を変えてしまうことができるものだ。

人生における今ある現実は、その前の十年をどう生きたかに大きく左右されるのではないだろうか。そして、10年前の現実は、さらにその前の10年をどう生きたかに左右されると私は思う。10代の10年を目標も無く、戦略もなく、耐えてまじめに勉強することもなければ、20代で就職に困ってしまうのは必然だ。仮に20代で就職できたとしても、ろくな人生設計もないまま2年や3年でフリーターよろしく職を転々とすれば、やがては30代で職にあぶれてしまうのもまた必然である。同じようなことは健康についてもいえることで、40代の健康は30代の10年にどういう生活を送っていたかによって左右され、50代の健康は、40代の10年にどういう生活を送っていたかによって左右されることだろう。逆に、10年先にどうありたいかを考えた場合、今から過ごす10年は実に意義深い。漫然と、ただいきあたりばったりに歩む10年と、戦略を持ち、目標に向かって努力して過ごす10年は、その密度が全く異なってくる。現在とは、過去に積み上げられた選択の結実であり、未来とは、今この瞬間の積み重ねである。よって、現在だけが過去や未来と切り離されて存在するわけでは決してない。

彼らの足跡を詳細に辿ると、必ず現状にたどり着いた因が見えてくる。そこに横たわった自己責任を自覚できぬから、現状を打破できぬだけのことだと気付かされる。実際、どういう仕事をしたいかをいうだけなら子供でもできるが、有限存在としての幸福を得たいなら、好きなことの延長で家族を養っていけるのかを考えなけらばならないし、したい仕事に就くにも、そしてそれで食べていくにも、相応な努力が要るものだ。目標もなく、戦略もなく、また努力するでもなく、ただいきあたりばったりに居場所を変えるだけで納得できる仕事を見つけようとするのは愚の骨頂である。夢を追うのは結構なことだが、その夢に敗れたために抱え込んだ現実を社会のせいにするのは卑怯者のすることだ。閉塞感に打ちひしがれた彼らの多くは、できない理由をあげつらうばかりで、できる方法を探そうとしない。そして、10年という時間を、目的と戦略をもって活用しようとしない。それゆえ、彼らの感じる閉塞感は、自ら作り出した幻に過ぎないと私は思う。社会といわれるものが悪いのだとしても、その社会と自分自身とを別物だと思っているなら大きな勘違いだ。社会とは己自身の姿を映し出す鏡に過ぎないものだからだ。己が境遇は、己が選択によって招かれたものであるという真実から目を背けていたのでは、いつまで経っても現状を打開することはかなうまい。

確かに、目に見える人生は不平等だ。生まれ出でた環境の違いからしてチャンスの平等すらあり得ない。しかし、それは人生にとって必ずしも決定的なハンデではない。ハンデというものは、それを乗り越えることに人生の味わいがあると私は思う。人は、乗り越えたハンデの大きさが、そのまま自信となって以後の人生を支えるのではないだろうか。だから、ハンデを呪う必要はどこにもない。ハンデを克服したときに得られる充実感の中にこそ、無限存在としての幸福があると私は思う。この無限存在としての幸福は、ニートだろうが、派遣だろうが関係なく手に入れることができ、しかも決して失われることがない。そして、しばしばそれは、ほんの少しものの見方を変えるだけで事足りてしまうのだ。だが、それでもなお、本当に万策つきてどうしようもないと思うなら、最後に残された手段はただ一つ、祈ることではないだろうか。絶望の縁にあって、人間に残された選択肢はこれ以外になく、自分自身を含め、誰かや何かを傷つけることでは決してないと私は信じる。
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2008-07-25 08:49:53

<あるべき姿とあるがまま>

テーマ:哲学
利己心というエゴは、生命の本質的な衝動であり、これを完全に排除してしまおうとするなら、死ぬしかない。食欲ですら、別の命の犠牲を強いることなしにそれを満たすことはできない。生きるということそれ自体がエゴの主張に他ならず、エゴの否定は生命性の否定につながるのだ。従って、エゴは排除するものでなく、これを統べるものであると私は思う。調和とは、何かを排除、排他してしまうことでは決して生まれ得ぬものではないだろうか。

物心ついたばかりの子供はわがまま、利己心の塊のようなもので、自分の欲求を通すことに迷いがない。だから、親は子のわがままを戒めて欲求を抑制する術を教えようとし、あるべき姿に躾る。その後、子供たちは自我の目覚めとともに、反抗期を迎えて再び欲望を追求しはじめ、親のいうことをきかなくなってしまう。そうして、自分で物事を選択し、その結果を受け取ることで、欲求の抑圧と開放のバランスを習得するのだ。これがエゴの統御のもっともプリミティブな形だと考えられる。
躾られていない子供はエゴを抑制することができず、エゴを統べることができない。一方、自我を主張してエゴを開放する術を知らない子供もまた、エゴを抑えつけるばかりでエゴを統べることができない。どちらも大人になってから己のエゴに振り回されて困ってしまうことだろう。

人の霊的進化の過程は千差万別で、各々がどういう段階にあるかを、外側から誰かが客観的に評価する(裁く)ことなどできはしない。ただ、人が皆、神への道のりを粛々と歩み続けている無限存在であるという見解の前にあっては、自分自身を含め、誰かを裁く必要はないというのが「あるがまま」の思想である。
けれども、それは裁判所や警察署が必要ないということではない。人が皆、神の化身であるという信仰が真理として一般認知されていない社会にあっては、我と人、それとあれは全てが有限存在として別のものであり、誰かが誰かを裁かねば、社会に秩序という名の安心を得ることができない。我々は有限存在として、それらを必要としているのである。

誰かに迷惑をかけたくないという思いは、人に迷惑をかける存在は厄介者、厄介者とは関わりたくない、人に迷惑をかけられたくないという思いの別の姿に過ぎない。けれども、人とは誰のことであろう。全てが一なる存在のかりそめの姿であるという卓見の前にあっては、厄介、迷惑という価値判断は消滅してしまう。
わがままであってはいけないという思いは、わがままな人間はわずらわしいという思いの別の姿に過ぎない。あるべき姿を求めれば、その姿をしていないものを否定せずにはおれなくなるのだ。けれども、そうした否定は有限存在であるがゆえの発想に過ぎないのである。

しかしながら、あるべき姿を求めずして有限世界を調和せしめることもまたできない。無限存在としての霊性の自覚なしに、あるべき姿を語ることはできないのだ。ゆえに、あるべき姿を求めた先に霊性の悟りがあり、最後に残るのが「あるがまま」=「一切の受容」=「無償の愛」であると私は思う。
あるべき姿を求めることなく「あるがまま」に達することはできない。
あるべき姿を求め、「あるがまま」に達してはじめて、あるべき姿を求めることがなくなってしまうのではないだろうか。
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2008-07-25 08:48:25

<心と痛み>

テーマ:読書
外来をやっていて感じることは、医者ならば誰もがそうなのかも知れないが、人の心と体は実によく相関しているということである。心の状態一つで、病は良くもなれば悪くもなる。特に、痛みについては本人の性格や、抱える心的ストレスが大きく影響しているのは間違いない。痛みは脳が感知する電気的信号であるため、脳のコンディションがその痛みを増幅もすれば軽減もする。それには間脳とよばれる部分が深く関わっており、心的ストレスが増大すれば痛みを感じやすくなることが明らかにされている。その上、長期間痛みが持続すると、障害部位が物理的に治癒していても、ささいなきっかけで痛みが再現されてしまうという。たとえば、障害部位に物があたる映像を見せられただけで痛みを感じるようになるのだそうだ。つまり、脳が痛みを作り出すようになるのである。

交通事故後の頚部痛、いわゆるムチウチの場合、日常の疲労で生じる肩こりまで含めて、何でもかんでも事故に関連づけて考える性癖は、症状を増幅してしまうことが多い。これは、先の脳のメカニズムによって説明可能であり、本人の感じる痛みに嘘はなくても、その痛みの大部分を自らの脳が作り出してしまう場合があるといえるのだ。そのような場合、早期治癒のためにいえることは、まさに「気にしないこと」であるのだが、このニュアンスを誤解なく患者に伝えるのは難しい。なぜなら、痛みについて「気持ちのせい」などと言おうものなら、たちまち患者の怒りを買うことになるからだ。
「だって私の痛みは本物です!」
「いえ、痛みは本物ですが、その痛みを作り出す原因が心にもあるのです」
説明を理解してもらえるか否かは患者側の理解力に左右されるが、「わたしをうそつき扱いした憎い先生」「わたしの痛みをわかってくれない先生」の烙印を押されて終わってしまうことがなきにしもあらずだ。
実際、被害者意識の強い人ほどこうした傾向は強く、また、説明に十分な理解が得られることも少なく、怪我の程度に比べて痛みは長引くことを実感する。
そこで、経験を積んだ医者ともなれば、いちいちまわりくどい説明をする手間を省き、精神安定剤(筋弛緩作用もあり、整形外科でも筋肉の緊張をほぐす薬として使われる)を処方して様子をみることも多い。その方が時間と労力を節約できるし、患者との間で無用なトラブルを抱えることもなくなるからだ。患者が医者をつくり、医者が患者をつくりだす悪循環がそこにあるのだが、この安定剤が奏功すれば、結果としては悪くないといえる。

痛みは、容易に人をうつ状態へと導いてしまう。抱える痛みそのものより、結果として生じた抑うつの方が重症である場合は少なくない。抑うつは痛みをさらに増大させる悪循環を生ぜしめる。従って、整形外科医といえども、心療内科的なアプローチが必要になることもしばしばだ。しかし、心の病の解決には、つきつめていけばいくほど、人は何のために生きるのかという哲学的命題を避けて通ることができない。この哲学的命題には確たる解答があるわけでもなく、何を信じて人生を納得するかという信仰の問題になってしまう。外来の限られた時間で人生観の仔細に立ち入ることができるはずもなく、結局、医者にできることは、患者の話をきいて、今ある自分を受け容れることを提案するにとどまらざるを得ない。そのような対応に感じる、満たされぬ思いのはけ口として、私はこのブログを綴ってきた。外来では決して言うことはできないが、それでも言ってしまいたいこと。それが私のブログである。
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2008-07-25 08:47:12

<「あるがまま」と開き直り>

テーマ:哲学
有限存在として生きる人間は、その根底に、生命の本質である利己心=エゴを抱えている。一方、無限存在である神、愛そのものである神が、己の何たるかを知るための客体として、有限存在に化身したのが人であるならば、我々の霊的本質は愛に他なるまい。利己心と愛とは、性質上、全く相反するため、人はもともとエゴと愛との葛藤を抱える矛盾した存在であるということができるだろう。

「あるがまま」の思想は、人がこの一なる神の化身であり、全てが一体であるという思想に根ざす。それは、人が抱える矛盾を受け容れるという思想であり、エゴを排する思想ではない。ゆえに、人の正義を裁くことがなく、あるべき姿を求めることもない。有害、無害の価値判断でさえ、守るべきものがあって初めて成り立つ相対性を有する。守るべきものが何もないということに気づけば、そのような判断そのものが消滅してしまうのだ。ものの価値を定める基準こそは正義であり、「あるがまま」において、そのようなものは霧散してしまうのである。

何かを変えようともがけばもがくほど、反作用が生じて変わることがない。それは人がダイエットに取り組んでは失敗する様によく顕れている。かといって、諦めてしまっても変わることはない。太っている自分を愛せぬ限り、変わることがないのである。食べてはいけないという抑圧が、さらなる過食を生ぜしめる。食べて良し、太って良しの気持ちがあって始めて食欲を統御せしめ、痩せる選択を可能にするのだ。

勝負に生きる競技者は、劣勢を強いられた局面で、諦めとも異なる受容の感覚が湧き起こるとともに、形勢の逆転を経験することがある。これを人は開き直りと称するが、「あるがまま」とは、人生の開き直りに近いといえるかも知れない。勝ちたいという気持ちが強すぎればミスがでる。己のミスを咎めたり、仲間のミスを咎めたりする気持ちが、さらなるミスを誘う。諦めとも異なる、負けてもよいという気持ち、ミスしてもよいという気持ち、全てを受容し、今この一瞬に全力を尽くすという気持ちが開き直りを生ぜしめるのだ。それが勝利の選択を可能にする。
同じように、人は心から死を受容するとき、生きる力を手に入れるのかも知れない。
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2008-07-25 08:44:55

<愛と正義>

テーマ:哲学

怒りの裏側には正義がある。正義は、それに背くものを決して赦そうとはしないものだ。人は正義を背負い続ける限り、その正義によって自らも裁かれ、苦しまねばならぬことだろう。

この世には人の数だけ正義があり、互いが互いを裁き続けている。人を裁けば裁かれる。
ならば正義は捨て去るべきものなのだろうか。否、人が己の正義によって生きることが否定されたりはしない。正義のあるところにこそ有限存在として生きる味わいがあるからだ。誰かに正義を捨てることを求めるとき、それは正義を捨て去るべきだという正義を相手に押し付けていることになるだろう。

この世には成すべきことなど何もないのかもしれない。ただ、愛さえあれば、赦しがありさえすればそれでよいのだと私は思う。正義で人を裁かずにはおれない自分をこそ、まず愛してみることだ。そのとき、誰かを裁く他人の中に、己自身を見出すことができるだろう。自分を愛することができぬ者が、誰かを真に愛することなどできはしない。

正義に生きて人生を味わい、それに疲れたとき、別の選択肢があるということに気づけばよい。全てが一体であるという真理に気づくとき、自他を区別する分離意識の産物は受容され、ただ、愛のみが残るのかも知れない。全ては、あるがままで良いのだと。そして、あるがままでいよいと思うところから、変化が始まることに気づけるだろう。

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