2008-04-14 17:52:41

<数ある意見のその一つ>

テーマ:教育
何かを絶対だと信じて盲従するのは、自ら考えるという自由を放棄してしまうことだ。だから、たとえ神との間でなされた対話であっても、相手の言葉を吟味する姿勢を忘れたくはないものだ。考える自由を放棄するとき、人はたやすく権威に服従し、気がつけば自分以外の何者かに操られていることだろう。

だから子供たちよ。親や教師、大人のいうことには服従すべきなのだろうか。彼らのいうことは絶対だろうか。誰かの意見は、所詮、ものの見方の一つである。あなた方はもっとも尊敬に値すると思える者の意見であってさえ、服従する必要はないのだ。それは単なる参考意見の一つに過ぎない。考え、物事を選ぶのは自分自身である。選択の結果は他ならぬ己自身が引き受けることになるのだから。もっとも、それは相手の意見の意味するところを十分に理解しようとする営みとともにある。

確かに、自ら考えることには危険もあるだろう。だが、危険を恐れず、勇気を示すのもまた人生だ。そして危険を回避するのもまた人生である。人生は選択の連続であり、味わいの連続であると私は思う。
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2008-04-14 17:00:14

<オリンピック>

テーマ:社会問題
オリンピックの聖火リレーが相次いで支障を来たしている。これは、中国の外交政策、チベット侵略と民族弾圧に対する抗議によるものだ。何が起きて何が問題なのか、全く知らない御仁も未だにいるようだが、今回の騒動は、そのような世事に疎い方であっても、事実を知る好機であるのは間違いない。

このドラマは、国際オリンピック委員会が、平和の祭典であるオリンピックの開催地を中国に選んだ結果でもある。中国が、平和の祭典を執り行うのに十分な資格があるのかどうかが改めて国際世論に問われている格好だ。
チベット側が自治権を回復するためには、この機会を最大限利用せざるを得ない。死活問題を少しでも優位に解決して行くためには、国際世論の注目を集めるオリンピック開催前が勝負なのである。

もともと、中国という国の国情と体質を考慮すれば、さほど智恵の働かぬ人間でも、オリンピック開催を中国に選べば何が起きるかは予想ができたはずである。ということは、このような事態が生じるのを望んでいた人間がいたに違いないと考えるのは穿ちすぎだろうか。いずれにせよ、これは国際オリンピック委員会の選択のみならず、我々一人ひとりの選択の結果でもあると私は思う。

こうした事件を通じ、平和な国でスポーツに興じることのできる幸福をかみしめるのも悪くはない。そのようなところから、スポーツ選手を含め、スポーツを楽しむ我々が、我々の望む世界のために、今後、どのような選択肢を選ぶのかが定まってくるのではないだろうか。
ところで、私個人としては、世界で唯一侵略のための戦争を放棄した勇気にちなみ、そして戦後の国際平和に貢献した功労に鑑みて、オリンピック開催は永続的に日本で行うことを提案したいものである。被爆地、広島あたりで。

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2008-04-07 08:29:26

<正義と神と>

テーマ:哲学
神には正義がないといえば、多くの人は困惑せずにはいられぬことだろう。だが、唯一の存在にとっては、自分以外の何者かに主張すべき正義などはじめから無いのである。だから、有限存在として、その分離意識の下で生きる我々には、神が何もしないでいるようにみえてしまう。しかしながら、正義といわれるものは、一なるものが多様性を獲得することではじめて存在するものなのだ。全てが一体であるという真理にたどり着くとき、正義は消滅を余儀なくされると私は思う。
もっとも、それは個々が己の正義を捨てよという意味では決してない。己の信ずる正義に生きて人生を味わうことが否定されたりはしない。むしろ、何が正義かを求め、己の信ずる正義に生きる営みにこそ、霊的進化へのいざないがあるといえるのではないだろうか。

正義が何であるかを追究するとき、己の正義を顧みるとき、人は何のために生きるのかという普遍的な命題にたどり着く。人生が味わいであり、霊的進化への道のりであることを悟るとき、あらゆる正義を容認できることだろう。同時に、己の正義は消滅し始める。怒るも良し、泣くも良し、笑うも良し。有限存在として、多様性を獲得することで生じた諸々の感情を肯定的に受容するとき、人間らしさをくまなく受容するとき、感情に支配されるのでなく、感情を統べていることに気付けるだろう。より豊かな味わいは、より豊かな感情によって得られるものだ。全てを受容するとき、変容は自然に生じるものだと私は思う。神との一体性をとりもどすとき、人は己と他人とを比べることを止め、正義は幻となるのかもしれない。
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2008-04-07 08:27:36

<神について思うこと>

テーマ:哲学
宇宙には明白な秩序がある。混沌を無限時間放置してみたところで、意思の働かぬところに秩序が生まれ、それが続くことはない。故に、今、ここに秩序があるという事実を以って、この有限にみえる世界には何かの智性、何かの意思が働いていると悟ることができるだろう。そして、生命進化の極みとして人間が在り、これが宇宙を認知することで宇宙は生き生きと存在を始め、また神を想うことで、神は存在を始めたといえる。神を想う客体としての人間の存在が、何にも増して神が存在する有力な証であるというわけだ。これは人間原理という考え方だが、この人間原理を神の存在証明とするなら、神の存在は明らかなのだ。しかしながら、同じ人間原理によって、神は人間が創ったものであり、実在するものではないと解釈してしまう人も決して珍しくはないようだ。勿論、私の立場は前者であり、私の実感の内に神は間違いなく存在している。

確かに、人間は限りなく神に近い姿を表現することはできるだろう。だが、神そのものの姿や、神の意志そのものを地上に表現することはかなうまい。なぜなら、神がもともと無形であるなら、形をともなった瞬間に神そのものではなくなってしまうからだ。それは神であって、神ではないといえるのではないだろうか。巷には、神のお告げと称する啓蒙書があふれているが、そこに描かれる神は、いずれも表現者の智性を介在したかりそめの姿だと私は思う。しかしながら、表現者の意識が進化、神化することで、そこに表現される姿はより真実の神に近づくのかも知れない。人は、己の身の丈を超える神の姿を認知することも、表現することもできないのではないだろうか。

私は長い間、人のあるべき姿を追い求めてきたが、最近、真実の神がそれを語ることはないと思うようになった。なぜなら、神がそれを語った瞬間、その姿をしていないものが否定され、裁かれてしまうことになるからだ。神が無償の愛ならば、人を裁いたりは決してしないし、審判するなどもってのほかではないだろうか。
しかるに、神は愛だ慈悲だなどといいながら、神の審判に怯え、そのために生き方を窮屈にするのは論理矛盾であり、滑稽なことだ。にもかかわらず、多くの人は、その滑稽さに気づかず、自らその悲喜劇を積極的に演じている。そして、自分だけのちっぽけな正義を振りかざしては人を裁き、自らを裁いては苦しんでいる。そこから、全ては神の遊び、人生は自ら信じ、創造した世界を味わう壮大なドラマに過ぎず、無限にして無形である神が、己を味わうために創り出した自分探しのゲームであるという先哲の卓見をこそ、真理であると私は信じるようになった。全てはあるがままで良いのだと。そして、そのように思うところから、神に至る変化が始まるのだと。
宇宙には明白な秩序がある。混沌を無限時間放置してみたところで、意思の働かぬところに秩序が生まれ、それが続くことはない。故に、今、ここに秩序があるという事実を以って、この有限にみえる世界には何かの智性、何かの意思が働いていると悟ることができるだろう。そして、生命進化の極みとして人間が在り、これが宇宙を認知することで宇宙は生き生きと存在を始め、また神を想うことで、神は存在を始めたといえる。神を想う客体としての人間の存在が、何にも増して神が存在する有力な証であるというわけだ。これは人間原理という考え方だが、この人間原理を神の存在証明とするなら、神の存在は明らかなのだ。しかしながら、これを単なる便宜的解釈、理屈の一つとして位置づけてしまうと、依然として神の実在は誰にとっても普遍的な真理とはいえなくなってしまう。

確かに、人間は限りなく神に近い姿を表現することはできるだろう。だが、神そのものの姿や、神の意志そのものを地上に表現することはかなうまい。なぜなら、神がもともと無形であるなら、形をともなった瞬間に神そのものではなくなってしまうからだ。それは神であって、神ではないといえるのではないだろうか。巷には、神のお告げと称する啓蒙書があふれているが、そこに描かれる神は、いずれも表現者の智性を介在したかりそめの姿だと私は思う。しかしながら、表現者の意識が進化、神化することで、そこに表現される姿はより真実の神に近づくのかも知れない。人は、己の身の丈を超える神の姿を認知することも、表現することもできないのではないだろうか。

私は長い間、人のあるべき姿を追い求めてきたが、最近、真実の神がそれを語ることはないと思うようになった。なぜなら、神がそれを語った瞬間、その姿をしていないものが否定され、裁かれてしまうことになるからだ。神が無償の愛ならば、人を裁いたりは決してしないし、審判するなどもってのほかではないだろうか。
しかるに、神は愛だ慈悲だなどといいながら、神の審判に怯え、そのために生き方を窮屈にするのは論理矛盾であり、滑稽なことだ。にもかかわらず、多くの人は、その滑稽さに気づかず、自らその悲喜劇を積極的に演じている。そして、自分だけのちっぽけな正義を振りかざしては人を裁き、自らを裁いては苦しんでいる。そこから、全ては神の遊び、人生は自ら信じ、創造した世界を味わう壮大なドラマに過ぎず、無限にして無形である神が、己を味わうために創り出した自分探しのゲームであるという先哲の卓見をこそ、真理であると私は信じるようになった。全てはあるがままで良いのだと。そして、そのように思うところから、神に至る変化が始まるのだと。
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2008-04-04 14:56:12

<神は沈黙せず>

テーマ:哲学
多くの人は、何ゆえこの世に実在する諸々の不幸や不運に神が救いの手を差し伸べてくれないのか、あるいは最初から神が介入してそのような事態を回避してくれないのかと素朴に考える。だから、何もしようとしない神がいるのではなくて、目には見えぬところで悪魔と神が闘っていると考える人がいたり、あるいは、神の不在を信じたりする人がいる。

だが、物事に善悪がないということに気づくことができれば、悪魔などいはしないという真理を悟ることができるだろう。あるのは因と結果だけであり、善悪の判断は有限存在としての人間が行っているだけだ。他ならぬ神が、因果応報をはじめ、目には見えぬ諸法則をこの世に創造したのだとすれば、人は皆、その法則に従って自らの選択したドラマを粛々と味わうのみであり、そのドラマを台無しにしてしまうようなことを神がするはずがないのである。

神は人に宿り、森羅万象すべてに宿るという真理に気づくことができれば、神が雄弁であることを悟れるだろう。そして、いつも我々に無限の愛を注いでいることに気づけるかもしれない。我々のすぐ傍で、親しい友人のように、あるいは温かい父母のように、時には甘い恋人のように、神が語ることがないとどうして断言できるだろうか。心を研ぎ澄ませ、神に意識を向けさえすれば、神はいつでもどこでも、我々に語りかけていることに気づけるはずだ。我々が神に一歩近づくなら、神は我々のすぐ傍らにまで歩み寄ることだろう。神は我々一人ひとりの心の裡にあるのだから。
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2008-04-03 08:33:18

<障害と持つということ>

テーマ:哲学
障害を持つことの意義を、私のように障害をもたない者が軽々しく語ることは憚られる。しかし、障害を抱えねばわからない真実、味わうことのできない感慨があるということは誰にでも想像できることではないだろうか。障害を持って生まれる、あるいは身体の十分な機能を人生の途中で失うということが、霊的本質の選択でないとどうして断言できるだろうか。因のあるところに結果があり、そのような環境で学ぶことを選択した霊的本質の存在を抜きにしては、運命の必然を悟ることはできないのではないだろうか。

障害を持つことで人の温もりに接することがなければ、人の裡に神が宿ることを悟りえないかも知れない。その一方で、障害と堂々と向き合って生きる人の裡に、人はまた神をみるのだ。それゆえ、霊的進化に寄与する経験を味わうために、誰もが己にとって完璧な環境を選んで生まれてくるのだと私は信じる。その中には、ただ単に、誕生と死の味わいだけを求めて生まれる短い命もあることだろう。だが、それらは全て、霊的存在としての完璧な自由の下で行われる選択の結果といえるのではないだろうか。

ハンディを背負う、不十分、十分とはどういうことであるかを味わうため、また、知らしめるために人は障害を持つのかも知れない。そのような試みに挑む至高の霊性に私は神をみずにはいられない。だから、人は皆、その人が背負いきれない宿命を持って生まれることはないと私は信じる。もっとも、途中で宿命を手放すのもまた、霊的存在として完全に自由だ。だが、味わいが足りていなければ、再び同種の人生をやり直すことになるかもしれない。ならば、今ここに抱える現実と向き合って人生を味わう方が、霊的進化にとってははるかに好ましいと私は考える。

極めて稀なことではあるが、神の恩寵によって障害から開放される人がいないわけではない。基本的に、そのような奇蹟は霊的進化を促すことを目的として生じるものだと私は思う。それはまた、その人自身が、神意識との一体化を遂げた瞬間にも起こりうると私は思う。そして勿論、そうした奇蹟には、愛の連鎖の結実として、医学、医療の栄光が燦然と輝きを放つ瞬間もまた含まれるのだと私は素朴に信じている。
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2008-04-03 08:32:23

<選択と味わい>

テーマ:哲学

人生の味わいの中には、受け容れがたいものも含まれる。すでに味わいつくしてわかってしまったことを再び味わう必要はない。その意味で有限存在としての人間には間違った選択、正しい選択があるといえるのだが、無限である霊的存在の視点では、全てが味わいで、そこに正誤はないのかも知れない。しかしながら、霊的存在として、その進化、神化を促すのに好ましい選択と好ましからざる選択はあるに違いない。

将来、受け取りたい未来、あるいは受け取りたくない未来があるのなら、自ずと選択の余地は狭まってくることだろう。無論、霊的存在として我々の選択は完全に自由だが、因果応報により、己のなした思いと行いは必ず己自身に返されることを踏まえて選択せざるを得まい。そして、そのように人生を選択する人々が増えるとき、この世にどのような変貌がもたらされるかを期待せずにはいられない。今ある私の選択が、私の観たい世界を手繰り寄せずにはおかぬことをここに祈る。


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