2008-02-23 10:09:10

<臨死体験>

テーマ:霊性の科学
立花隆著「臨死体験」上下巻を読了した。臨死体験には共通した一定のプロセスがあり、この体験を経ると、多くの人は死に対する否定的な感情がなくなり、死を肯定的に受容できるようになるとともに、自身の霊性と信仰心に目覚めるという。立花氏は、これを脳内現象説と、現実体験説の二つの解釈が成り立つことを論じ、肉体から遊離した魂の現実体験であるという後者の説に対し、巻末で疑問点を明示した。これに対し、私的に返答を試みてみる。

第一の問い
体験の具体的内容に個人差と文化による差がありすぎるのはなぜか

そもそも、霊的存在への回帰が、共通過程を経なければならぬ理由自体、定かでない。これは、普遍的な共通過程をたどるものであるはずだという一方的な推論に過ぎず、必要条件ではない。
霊的存在としての経験は、それを現実体験と表現してよいものかどうかすらためらわれるが、意識のエネルギーの流動性がもたらす現象に還元されるものであり、これを言語化して表現する際、個々の脳に記憶されたイメージや言語を用いるため、解釈が多様化するだけのことではないだろうか。
所詮は、生ける人間のなしうる表現であり、経験そのものの直接的な開示ではない。
コア体験を言語的に表現、理解しようとする限り、普遍性を見出すのは困難であろう。

第二の問い
夢の中と同様、突然場面が切り替わり、瞬間的に全く違うところに行くのはなぜか

途中のプロセスがあってしかるべきという主張もまた、一方的な推論に過ぎまい。霊性の次元では、リアルな世界での時間と空間の概念を受け付けないということが既に指摘されており、途中のプロセス自体、はじめから必要とされないのは不思議なことではない。
第一、現実体験説なる呼び方にも問題がある。現実の定義すらなく、霊的次元の現象を現実なることばで表現することに無理があるだろう。
脳内現象なら説明可能とあるが、そうした唯物的視点に立脚せずとも、人の意識は瞬時に星雲を駆け抜ける。意識の広がりには時間と空間の制約がなく、その起源が宇宙に偏在する神の意識であるなら、指摘されるようなプロセスは不要となる。

第三の問い
魂が臨死体験の意識的経験主体であるとすると、魂それ自体に視覚、聴覚ほか、考える力も含めたすべての能力があることになる。魂にもともとそのような能力があるなら、感覚器官や脳はそもそも不要ではないのか

肉体は有限にみせかけた現象世界で神が遊ぶためのツールであり、拘束具のようなものだとすれば、肉身をもつことが、この有限世界で戯れるためのルールである。霊的存在にもともとそのような能力があるなら、感覚器官は必要ないはずという主張は、歩ける足があるなら、自転車や自動車は必要ないだろうといっているようなもので、意味をなさない疑問ではないだろうか。

第四の問い
死後の世界であるはずの臨死体験において、なぜ、未だ生きている人に会うのか

霊的存在としての意識が、その全てを肉身化しているとは限らないという解釈もある。マイケル・ニュートン「死後の世界を知ると人生は深く癒される」によれば、エネルギー存在としての意識は、有限世界に現れる際、それらを部分的に肉身化することを指摘している。つまり、死後の世界で会う人物は、有限世界に身を置かないエネルギー体のイメージ化という解釈も成り立つ。

第五の問い
現実体験では説明のつかない体外離脱があるのはなぜか

生者の体外離脱や自己像幻視と、臨死体験に生じる体外離脱を同一次元で語ることに無理があるのではないだろうか。物質としての肉体は、無限存在としての霊的存在が有限世界で生じる幻を観測するための道具であるとみなすこともできる。この道具との関わりを保った状態では、有限と無限の境で生じる矛盾に遭遇するのは当たり前である。体外離脱での経験と、リアルな世界とのギャップも、もともと客観的現実なるものが存在しないのだとすれば、それほど理不尽なことではない。どちらの世界も、主観に修飾される世界であり、その修飾の受けつけ具合の差が、二つの世界の相違となって現れるだけではないだろうか。そして、修飾の受付具合の差をもたらす原因は、顕在意識と潜在意識の不一致によってもたらされるのだと解釈される。意識そのもの重層性が、リアルな世界と体外離脱後の世界に差異を生ぜしめるのだと。

そもそも、霊や魂の世界とリアルな世界という二元論的解釈自体、唯物的世界観の延長にあるといえるだろう。
唯一の至高存在、無限意識のエネルギーが、意識と物質双方に現れているだけであると一元的に解釈するなら、つまり、物質もまた、意識の産物であると解釈するなら、この世に真に不思議といえることは何一つとして存在しなくなる。
科学は、現状の客観的手法なるものに固執する限り、ウィリアム・ジェームズの法則から逃れることができず、霊性を証明することはできないし、否定してしまうこともまたできない。
唯物論的に脳内現象説を受け入れることができたとしても、それで説明できるのは所詮HOWに過ぎない。なぜ、そのような現象を引き起こすシステムを、人間はその脳に構築したのかについては決してこたえることができない。人間が、ただ生きて飯を食らい、子孫を残して死ぬだけの存在なら、そのようなシステムを脳に持つ必要があるのだろうか。脳内現象説は、決してWHYに応えることはできないのだ。
結局、臨死体験は、どのように分析をすすめても、最終的に個人の信仰を切り離して解釈することができない、極めて主観的な意味しか持ち得ない現象であるのかもしれない。
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2008-02-08 18:32:20

<失言>

テーマ:社会問題
「倖田來未、テレビに緊急出演&謝罪」という記事を目にした。何でも、この若い芸能人がラジオ番組で「35歳を過ぎた女性の羊水は腐る」と発言したものに対して非難が殺到し、この失言に対して、本人がテレビで涙ながらに詫びたのだという。彼女に限らず、最近では女子プロゴルファーの上田桃子の失言をめぐってブログが炎上したなどという記事も目にした。

日本人の特質である寛容の精神も、随分とすたれたものだ。若者が失言に及ぶのは当たり前の話であるし、こうした失言を責め立てる輩もまた、ふだんからどれだけ自身の発言に気を配っているものなのか大いに疑問である。失言のない者などいはしない。この程度の失言を気にしていたら、気安く他人と話しをすることなどできはしない。

ラジオのトークというのは、気安さが売りであり、リスナーの側にも、発言者の失言を楽しむくらいの余裕があってよさそうなものだ。公人と一般人とでは、発言の重みが違うという主張はわからなくもないが、この程度の失言で、わざわざ己の味わった不愉快を宣言して相手を攻撃せねば気が済まぬ人間は、まず、自らの狭量と向き合うべきだと私は思う。その攻撃性は、いつか己自身をも追い詰める原動力となることだろう。
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2008-02-02 10:21:46

<信仰と宗教(再編集版)>

テーマ:宗教

先日、外来患者様のお一人から突然、「私はエホバの者です。エホバはご存知でしょうか?」と切り出され、面食らいながら頷くと、「是非、先生のような方に一度お話をきいていただきたいのですが。」などといわれてしまった。
お相手は初老の紳士で、下肢に障害をかかえる奥様とともにリハビリ通院されている。 “先生のような方”というのがどういう意味なのかわからないが、何やら見込まれてしまった様子。

実をいえば、私は学生時代にも、ある新興宗教の勧誘者に見込まれ、その方に誘われるがまま、宗教者と論戦を交えてやろうと教団の施設に足を踏み入れたことがある。そこでは助教師とやらがでてきて薀蓄を垂れるわけだが、その方はこちらの行う質問のいくつかに対して即座に感情的になってしまい、有意義な意見交換をすることはできなかったのを憶えている。たまたま高校の母校の先輩だったが、品格、見識ともに全く尊敬に値しない人物であるというのが、当時の私の偽らざる感想であった。もっとも、二十歳そこそこの分際で、30過ぎた相手のことをそんなふうに思う私も不遜であったには違いない。何れにせよ、そのままその団体とはご縁が途絶えてしまった。宗教者のお話に興味がないといえば嘘になるが、さりとて決してこの患者様の期待に応えるような結果にはならないということもわかっているだけに、困惑せざるを得ない。

私がいつも宗教者と話をして覚える違和感は、彼らが己の信仰する宗教によってしか救いがないと素朴に信じている点にある。特に、聖書を絶対視して憚らぬ姿勢には偏狭さを感じずにはおれない。もし、この世に普遍存在としての神がおわすなら、神から私たちに伝えられるメッセージもまた、普遍的な手段を通じてなされるはずであり、何々教に入信しなければ救いがないとか、聖書にしか真理がないなどという教えははじめから欺瞞に満ちている。宗教に入信する方には、神に峻別されたいというエゴが根底にあるのではないだろうか。だが、神は人を峻別したりなど決してしない。神のご前の平等を説きながら、峻別されることを望むのは自家撞着であるが、そのことに気づける宗教者は数少ない。
結局、宗教に騙されるわけではないのだ。峻別されたいという自らのエゴが、そのエゴに見合った宗教を手繰り寄せるだけである。
私たち人間は神の現身(うつせみ)であると同時に、世界は私たちの内面を映し出す鏡であると私は思う。

だが、人が心のよりどころとしている宗教に直接疑義をさしはさむことには、それ相応の危険が伴う。宗教に入信している方というのは、多くの場合、信仰と宗教との区別がなくなってしまっているからだ。
人は何のために生きるのかという宗教的希求の延長に信仰があり、信仰者が群れた結果として宗教があるのに、宗教からの脱退を迫られると、信仰まで否定されたように感じてしまうのである。
信仰は人が心の平安を得る術だ。宗教から脱却させたはよいが、その結果信仰までも見失って精神科のご厄介になる羽目に陥ったというのでは本末転倒である。ゆえに、誰かの宗教を部外者が安易に否定するのは憚られる。

人が群れて組織が生まれると、その組織を維持するため、どうしても秩序が必要になってくる。そして、秩序を保つために必要になるのは、圧倒的な権威か、絶大な権力である。権威とは、個々の信者が己の内面で感じ、いうことをきく力であるのに対し、権力とは、権力者が、種々の罰則でもって相手にいうことをきかせる力であると、なだいなだ氏はその著書「権威と権力」において指摘している。
あらゆる宗教組織にいえることだが、教祖が存命の間は、組織の秩序を維持するのに権力は概ね不要であり、教祖の権威によって秩序が維持される。一方、教祖が不在となれば、それに代わる者が何らかの権威と権力を得ようと様々な企てを試みることになり、そこから組織の退廃が始まることになる。
組織の腐敗は宗教に普遍的なのだ。だが、そこで最も問題なのは、個々の信者の間に、どのような実害があるのかということだ。例えば、輸血拒否であるとか、上納金による経済圧迫であるとかの、種々の戒律に伴う生活の窮屈である。ただ、それらがあっても、偽りとはいえ、心の安寧が得られるのであれば、それはそれで許容されてしまうのではないかとも思える。
かつて、日本は天皇を神の子孫と規定し、そこに絶大な権威と権力を付与して国家を統制した。日本には天皇の権威のもとに臣民と統治者との調和があったのだ。そして今尚、天皇の権威を尊ぶ人々にとっては、神の血筋には比類なき権威が宿るとみなされるため、万世一系の男系でなければならないわけである。

ものみの塔はキリスト教系の組織である。キリスト教はイエスと12使徒という圧倒的権威をはるか以前に喪失しており、それ自体、腐敗の歴史は2000年近くをまたいでいるという見方ができる。実際、ニケーア公会議においては、イエスの教えの重要な骨子のいくつかが異端として排斥されてもいる。
ゆえに、聖書は、はじめから神の意志を反映した書物とは言いがたく、紛れもなく歴史の手垢にまみれた産物であると私は考える。
したがって、それを「絶対視」すること自体、私にとっては奇異なことであり、そのような信仰や教団に、興味がわくことはない。そこに真実はないと思ってしまうからだ。

ただ、それは聖書やイエスの教えを全否定するものでもない。現代のような科学的知識もなく、民衆の教育水準も低かったであろう暗黒時代に、イエスのコトバが何を伝えようとしていたのかを、現在の視点で辿るのは楽しい作業だからだ。
それゆえ、イエスの教えを辿る上で、聖書は最も貴重な文献のひとつであると認識している。もともと、イエスの教えはエッセネ派ユダヤ教であるともいわれる通り、キリスト教ではない。あらゆる宗教は母体としての既存宗教を有しており、その意味ではキリスト教でさえ、古代には立派な新興宗教であったといえる。
余談だが、イスラム教のもとを正せば、腐敗したキリスト教を神がお嘆きになって、マホメットを通じ、新たに教えを広めなおしたのが起源ともいわれ、はじめからキリスト教に対するアンチ・テーゼとしての性格を有しているという見方もある。

科学は人の理性の集大成とみなすことができ、宗教はその悟性の集大成という見方ができる。現代の際立った特殊性として、科学の発達があるのはいうまでもないが、その一方、古今東西、あらゆる思想、哲学を容易に参照することができるのも、そのひとつである。私たちは、かつて、玄奘がインドから経典を持ち帰るために命がけの旅をせねばならなかったことを思えば、比べ物にならない程恵まれた環境にあるわけだ。
真理の追究には科学と信仰の調和、すなわち理性と悟性の調和が不可欠であり、その意味で現代は、歴史上、最も多くの人々にとって、最も高い真理の頂に迫るチャンスが与えられた稀有な時代であると私は思う。その一方、両者がこれを排斥しあうような社会は、人間にとって重大な不幸をもたらすことになるとも思っている。現在、日本における公教育は思想や哲学をその現場から遠く退けており、このことが、子供たちの精神を蝕む原因のひとつにもなっているのではないだろうか。

私自身は、現代に必要なのは宗教ではなく、日本の神道や、インドの古い哲学にみられる思想を基盤とした信仰にあると考えている。両者に共通するのは固有の組織や形を必要とせず、唯一でありながら全ての顕れであるとする至高存在を仰ぐ点だ。
信仰に垣根を有する組織は不要である。必要なのは、生き方の連鎖であり、これによってしか今日の世が救われる手立てはないと愚考する。


参考図書 

バート・D.アーマン著「捏造された聖書」

レイモンド・フランズ著「良心の危機」

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2008-02-01 15:06:14

<ゴルフの気づき ヒール打ち>

テーマ:ゴルフ
半年以上前から、何をやってもヒール打ちから逃れることができない。ドライバーもアイアンも同じである。アイアンではラウンド中にシャンクが生じ始めた。これは重症なので、レッスンプロに教えを請うことにした。
最初に訊いたレッスンプロからは、スイングが横振りで、ダウンスイングで右肩が突っ込んでいるのが原因とのことで、アップライトなスイングへの変更を処方された。
その後、さすがにラウンド中のシャンクはなくなったが、ヒール打ちは相変わらずである。そこで、別のレッスンプロに現在のスイングについて尋ねてみた。以下、現状と改善方法を記す。

ダウンスイングからインパクトにかけて、前傾姿勢の伸び上がりがあり、加えてリストコックが強すぎることで、これをふりほどくのに時間がかかり、インパクトまでにカラダが開いてしまって上腕がカラダから離れてしまう癖があるとのこと。
ビデオのスロー再生で、上腕がカラダから離れてしまう現象と、フォローでは伸び上がりの結果、クラブシャフトが左肩よりも低く上がっている現象とを確認できた。
対策としてリストコックをゆるくする必要があるとのことで、アドレス時のハンドダウンをいくばくか軽減させるよう指導を受けた。
さらに、ダウンスイングで右膝が前方に突っ込んでしまい、フィニッシュで後ろから見て右足の踵が右に倒れこんでしまっているとのこと。要するに、これはダウンスイング時に前傾姿勢が損なわれた結果であり、そのために左側の壁もなくなってしまっている。ダウンスイング時にお尻の位置を保って右膝を左下肢に寄せ、フィニッシュで右足裏が左へ傾くか、まっすぐ立てるよう指導された。
お尻の位置を保つイメージは、お尻を壁に押し付けているイメージなのだそうだ。
テイクバックでは、ヘッドを飛球線に沿って平行に引こうとするあまり、脇が開いてアウトサイドに引いてしまっているとのこと。グリップを平行移動する意識を持つよう指導された。これはグリップエンドが臍のあたりを指すように肩回転でテイクバックするよう指示されたものと解釈される。
また、アプローチについても手で打っていこうとする傾向が強いので、ノーコックで肩の回転で球をとらえ、球の前の芝を長く刈り込むイメージで打つよう指導を受けた。
コックが強いとインパクトゾーンが短くなってしまい、ミート率が下がってしまうのだそうだ。昔のゴルフとは変わってきているという。
このほか、トップで止まってしまう癖があるので、体の伸展反射を利用してスイングするよう指導を受けた。このためのドリルとして、クラブを振り子のように繰り返し振って余分な力の入らないスイング軌道を覚えるよう指導を受けた。

さて、指導の通りにやってみると、最初はダフリがでていたが、徐々にヒール打ちの確率が減ってきた。
ドライバーでは、テイクバックでこれまでより右肘を早めにたたみ、左前腕及び上腕の内旋が生じないように左肘を突っ張ることなくゆったりとクラブを引き挙げた位置から上体の前傾維持に注意を払って打ち込むと、思わぬ飛距離を得ることができた。上肢の動きに極力頼らず、肩で回転しているのが奏功していると考えられる。スイング自体、コンパクトで軽くなった感もある。
しばらくこれでやってみることにしよう。
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