2008-01-29 16:55:42

<遊戯>

テーマ:宗教
もともと唯一にして無限である存在が、己の何たるかを知るため、存在の意味を知るために、有限にふるまうこの世界を創り出したのだと古の教えはいう。
その世界で人はエゴを携え、無限存在としての愛を有することで葛藤を余儀なくされた。
エゴとは生命の本質であり、他者との分離意識から派生する有限存在の特質である。
あらゆる苦しみ、悲しみは、全て有限なものを失うところから生じるのであり、エゴの産物である。
ならば、人がその本質において無限であるという真理を思い出すところから、それらは幻と消える定めにあるといえるだろう。
生きている限り、生命の本質であるエゴを消滅させることはできない。
これを抑制し得たとしても、閉じ込めた思いは形になろうと必ず現象世界に現れる。
なぜなら、思いは命であるからだ。
ならば、エゴは、それをあるがままに受け容れ、これをよく統べてはじめて幻と化すのではないだろうか。
世界は人の内面を映し出す鏡に過ぎず、全ては遊戯だからだ。
あらゆる相対性を超えたところに神が在るのかもしれない。
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2008-01-16 08:31:19

<霊性>

テーマ:哲学
人は生まれながらにして皆不平等である。視覚障害者には絵画を鑑賞する自由はないし、聴覚障害者には音楽を楽しむ自由がない。つまり、自然が我々に不平等を与え、これをゆるしているのだ。
にもかかわらず、自由、平等、博愛を正義の根幹に据え置く人々は、そうした不平等を無理やり正そうとし、目に見える命の序列を否定して憚らない。

しかしながら、人を霊的存在として見つめる視点を欠いてこれらを押し通そうとすれば、多くの共産圏で生じたような、人が人を虐殺する、政治が人を虐殺してのける残虐性がむき出しになり、その結果生じるのは悪平等でしかない。
共産主義国家が自滅していったのは、唯物論に則って人の霊的価値を無視する一方、人を際限なく利益追求するエゴの権化と仮定する社会科学を実社会に応用したがゆえである。
人は生まれながらにして皆不平等であり、不平等であるがゆえに自由でもなく、また、博愛などといわれても不細工を愛することなどできはしない。現実を無視して神の御前の平等を説くことにこそ、危うさがつきまとうのだ。

一方、悲惨な結末という点では、自由主義国家についても同じことが起こりえる。政治による虐殺がなくとも、自由の名の下、個々が己のエゴを際限なく肥大させて自己の利益を追求すれば、結果として優勝劣敗が生じ、最後は全体として自滅する。国家であれ、個人であれ、単体では生きながらえることができないからだ。つまり、人が個人レベルで抱える自己矛盾を、国家や企業、あるいは政体が演じることになるのである。

私は、この世に悪のごとき幻が存在するのは、人が霊的存在としての視点を欠き、節度を失ったエゴが連鎖しているからだと考えている。そして、この状況を打開するものこそ、人を霊的存在として見つめ直す視点と、エゴとは正反対の性質を有する愛の連鎖であると信じている。
命には、目に見える限りある命と霊的存在としての無限の命があり、後者の命にこそ、神の御前の平等があると。そして、こうした視点を欠いた社会に平安が訪れることはないと私は確信する。

自己存在の過剰な表現は、節度を欠いたエゴの姿そのものであり、その延長にある他者の殺戮は、あるべき姿を見失った人間の所業に過ぎまい。
今ある人の姿の理由として有限存在としての人間があり、あるべき姿の理由として、霊的存在としての人間があると私は思う。ならば、我々があるべき姿をとりもどしさえすれば、あらゆる不幸を退けることができるはずである。

なぜ、この飽食の時代に、差し出された食物に感謝せねばならないのか。それは神が姿を変えて神に供した尊い犠牲であり、供物であるからだ。
なぜ、人の命、他の動植物の命が尊いのか。それは、それらが皆、有限な命としての序列を携えてはいても、神の化身した姿としての尊さを有するからだ。
古来、皆殺しが原則だった大陸の戦とは対照的に、日本人はなぜ、敵に情けをかける民族だったのか。それは日本人の奉ずる神が、寛容の神、一切を包含して森羅万象全ての顕われと認識される至高神であったからだと私は思う。
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2008-01-16 08:29:57

<有限な命、無限の命>

テーマ:哲学
私が命について考えるようになったのは、幼き日のある夕べの食卓における出来事がきっかけだった。その日、私の目の前に出された皿の上には焼きたらこが乗っていたが、母は、それを「お魚の卵よ。粒のひとつひとつがお魚一匹一匹になるはずだったの。」などと、こともなげに言い放ったのだ。
私は強い衝撃を受けた。私の、たった一度の食事のために犠牲にされた命の数々。その罪の大きさを感じ、ただでさえ食べるのが苦手だった私は、さらに食べるのが厭になり、やせ細ってはホネカワスジエモンなどと祖父に揶揄される始末だった。
小学校に入り、命は平等だとか、大切だとか聞くたびに、いいようのない憤りを感じたが、私はその理由をうまく表現することができずにいた。

そうして長い間、私には葛藤があったのだが、小学6年生になったとき、担任の先生がホームルームの時間に輪廻思想のお話をされたのがきっかけとなり、ようやくその苦しみは終焉を迎えることになった。
曰く、日は沈み、また昇る。人もまた命を失い、再び生まれ変わると。勿論、これはインドの古い思想として、それを紹介するという形でお話されたもので、洗脳でもなければ宗教教育でもない。
しかし、私はこのときようやく救われたのだった。なぜ救いを感じたのか、小学生の私にはわからなかったが、今ならそれを表現することができる。
命には、目に見える有限な命と、生命の営みを繰り返す無限の命があり、有限の命には明らかな序列があり、全く平等を欠くものではあっても、この無限な命こそ、神の前に平等であり、自由であると悟ったのだ。そして、だからこそ、生きとし生けるもの、森羅万象全てに、相対性を超えた絶対的な価値が宿ると。
我々が表象世界として認識するこの世は有限にみえる世界だ。命は死ねばそれで失われる。あらゆる苦しみ、悲しみ、不幸と感じる諸々は、有限なものを失うことに起因するのではないだろうか。しかし、本当は、それらは錯覚に過ぎず、失うものなど何もないということに気づいたのだ。

余談だが、死を迎えるにあたっても、我々は肉体的な苦痛から救われていることに気づかされる。我々がもっとも忌み嫌う死については、とかく断末魔の苦しみばかりがイメージされるが、事実は異なる。臨死体験者の報告が裏付けるように、人は死の間際、脳内麻薬物質の大量分泌によって死の苦痛から逃れるようにできているのだ。
もし、生き物が偶然誕生して飯を食らい、糞をして死ぬだけの存在であるなら、そのような生理機能の発達は必要ないはずである。ところが、肉体はそのようにして、そこに宿る意識を守ろうとするのである。
有限な命を失った意識は無限存在として、あらゆるエゴから解き放たれたのち、再び神との合一を目指してこの世に生まれ出でる。インドの古い思想はこれを神の遊戯(リーラ)というのだそうだ。全ては私たち神の遊びであるという。

今ある世界の悲惨さを嘆き、人間の邪悪さに絶望し、己が身の上のいわれなき不運を呪うなら、人は神の存在に気づくことができない。神と己の存在を分断して意識する限り、神を認知することなどできはしない。神が私たちを弄んでいるのではなく、私たち自身が、神としての素性を忘れた神である。
確かに、博愛といわれても同胞意識のないところでは困難だ。しかし、我々一人ひとりを全て神の化身としてみるならば話は別である。その意識はあらゆる人種、生命種族の別を超えた同胞意識となることだろう。
よって、神は私であって、貴方であり、森羅万象の全てであると考える。神の所在を探すのは、かけた眼鏡の所在を探す愚挙に等しく、ハートの深奥にあって、顕在意識を見つめる至高の存在、それが神であると私は信じる。
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2008-01-16 08:27:34

<孤独>

テーマ:宗教
宗教に魅入られる方が入信する動機とは何であろう。大体、なぜ信仰に垣根を有する組織が必要なのだろうか。
個々の信者が入信した動機をたどっていけば、それは人それぞれだ。生きる目的を求めてそこに入信する、あるいは、現世的な何がしかのご利益を求めて入信するというのが、ありふれた理由だろう。現実生活に耐え難い苦痛を味わうことにより、救いを求めて宗教に向かうというのもよくある話だ。
無論、親が信者であることで、信者であるのが当たり前というケースもあるに違いない。古代の宗教には病気癒しを求める人々が殺到したようだ。

自らが欲して宗教に入信する場合、表面的な動機の相違はあっても、それらを奥深くたどっていくと、結局のところ、孤独感を癒すことを目的としているように思う。
耐え難い不幸を、自分だけが味わっているように感じる孤独。善人であるのに、自分だけが報われないと感じる孤独。
孤独を癒すのは教義ではなく、人だ。だから宗教に入信する人は後を絶たない。教えを知りたいなら文献をあさればよいだけなのに。

一方、宗教組織が目的とするのは世直しである。世直しの大義名分の前には、あらゆる試みが正当化される。世直しのためには組織が大きくなければならない。政治を動かすほどに大きくなることは至上命題だ。ところが、組織の維持、拡大にはお金が必要なので、結局のところ宗教組織は既存の営利団体と何ら変わらぬヒエラルキーを携え、腐敗を抱え込むようになる。そのうち、世直しが目的なのか、組織の維持拡大が目的なのかが不明瞭になって、組織のための組織に陥って行く。そして、その大なる目的のかたわらで個々の信者の生活は置き去りにされてしまう。結局、組織の大小を問わず、宗教組織は必ず腐敗する定めにあるのだ。

ただ、そのことに気付いても、組織を離れる決心はなかなかつくものではない。なぜなら、組織から離れることは、再び孤独な世界に舞い戻ることを意味するからだ。それゆえ、相手の孤独を懐深く受け止める心構えを持たず、無責任に組織からの脱退を迫ることはできない。実際、心に孤独を抱えたまま宗教から足抜けしても、またふらふらと別の宗教に足を踏み入れるのがオチだからだ。
そうやって蝶が花から花へとわたり歩くように、宗教から宗教へとわたり歩く人を私は知っている。孤独とは、己がつくりだした幻に過ぎないという事実に気付くまで、その彷徨が続くのだ。

今日のように、百花繚乱、新興宗教が乱れ咲くのは、孤独な人が多いからだろう。個人主義によって社会から寛容の精神が損なわれ、愛が底冷えしてしまっているからこそ、生じる現象だ。
ゆえに、誰かにとって本当の救いとは、今ある愛の存在に気付いてもらうこと、孤独ではないということを知ってもらうことに他ならない。
孤独とは、程度は様々でも、それらは全て「私」と「世の中」、「私」と「あなた」との間にある垣根、分離感に由来する。だが、その分離感は、有限にふるまうこの世界が作り出す幻に過ぎない。
孤独と向き合うところから信仰の長い旅路が始まり、「私」と「世界」との一体性に気付くところから、孤独は消滅しはじめるのではないだろうか。
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2008-01-16 08:25:33

<聖書解釈>

テーマ:宗教
聖書を解釈する際に肝心なのは、自己の内面と深く向き合うという姿勢を忘れぬことだ。その内容を見つめる自分という観測者、主観のありようについての深遠な洞察が不可欠であり、誰かの解釈を鵜呑みにするのは危険である。なぜなら、聖書解釈には、よくも悪くも、解釈した人間の内面が映し出されてしまうからだ。

歴史を振り返ると、古代ローマ時代、イエスの死後に興隆した原初のキリスト教には、既に一神教ゆえの明白な排他性が宿っていた可能性が高いと考えられる。しかし、それをそのままイエスの教えとみなすことはできない。なぜなら、イエスの教えはあくまで口伝であり、キリスト教といわれるものは弟子たちの主観に負う解釈でしかないからだ。つまり、私は原初のキリスト教でさえ、イエスの教えと完全に一致するものではないと考えていることになる。
一方、イエスの教えのいくつかを旧約の教えの中に求めることにも疑問がある。なぜなら、イエスは当時のユダヤ教改革者としての側面も有していたからだ。その上、旧約聖書そのものが、歴史上、幾度となく増補改定を繰り返しており、その原初の姿をとらえるのは困難だ。死海文書ですら、ユダヤ教の歴史的変遷を綴った古文書に過ぎない。

このように、イエスの教えをたどるためにはイエスの時代背景だけでなく、聖書のたどってきた歴史をも深く追究する必要があり、2000年という時の壁を前にして、その実態を正確につかむことは、もはや不可能といわざるを得ない。であるなら、我々は歴史に学びつつ、今日の世の現実に鑑みた真理をこそ、深く追究する姿勢を貫くべきであろう。なぜなら、信仰は、神によって与えられたものではなく、人の意識が、苦しみの中からつむぎだしてきたものと考えられるからだ。
従って、私が聖書の記述を道しるべとする際、もっとも重要視するのは、そこに排他性を含むか否かである。そのようなものが匂うときには、私は安易な解釈を避けるか、これを真理とは異なるものとして取り合わない。人の世の混乱は、潜在的な排他性に起因すると洞察するからだ。

一説によれば、イエスの足跡には空白の十数年があり、その期間をインドで過ごしたのではないかともいわれている。そこから、イエスの教えにはインドや日本にみられる汎神論思想や輪廻思想を内在していた可能性もでてくるのだが、イエスの教えが真理だとすれば、そのようであったに違いないと私は信じる。ニケーア公会議で異端とされた教えのいくつかに、それらが含まれていたかもしれない。
もっとも、こうした認識は私個人の主観、ご都合主義に基づいており、異端中の異端には違いない。

一方、聖書中の預言については、それがあまりに多くの比喩を用いて記されることで解釈を困難にしているため、何者かによって書き換えられることもなく、古来より原型を保ってきたと考える向きもある。
私自身、終末預言には凝った方で、聖母預言、とりわけファティマの預言と呼ばれるものについては、今でも興味がある。信じる、信じないは別にして、聖母の出現は現在も続く奇蹟であり、謎のひとつだ。

しかし、不確定な未来についてあれこれ思いをめぐらせるのではなく、招き入れるべき未来のため、今の我々に何ができるかを懸命に考え、それを実践することこそ、個々の人間にとって最も重要な課題であると私は思う。過去の因によって現在があり、過去と現在の因によって未来があるからだ。預言は所詮予言であり、起こりうる可能性のひとつでしかない。
実際、人の不安を煽っておいて安心を売るのはよくある商売の手法に過ぎない。そのようなものに深く関わるよりも、今ある自分を見据えることの方がはるかに大切だ。自分以外の誰かや何かを変えようとしても容易に変わるものではない。
ゆえに、世の中を変えようなどと思い上がるのは愚かなことだ。本当は、己が変わるだけで周囲の人間が変わり、ひいては世の中といわれるものが変わってしまうからだ。

虹は空気中の水滴に太陽光が屈折、反射して見られる光の現象だが、太陽を背にする観測者の反対側に生じる現象であるため、大勢の人間が一度に同じ虹を目撃しているようでも、実際は個々の視点の相違から、皆別々の虹を見ていることになる。観測者と観測対象との関係は切り離すことができないのだ。私たちの見る世の中とは虹のようなものかもしれない。
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