2006-08-28 08:36:26

<アポロ11号の記録テープ紛失?>

テーマ:社会問題
ロイター通信によると、人類初の月着陸を成し遂げた米宇宙船アポロ11号の記録テープの原本が行方不明になっているという。この中には、アームストロング船長が月に降り立ったとき、「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った歴史的映像も含まれているのだそうだ。
http://www.asahi.com/international/update/0815/009.html?ref=rss
このNASAの大失態、本当に「紛失」なのだろうか。

アポロ宇宙飛行士の月着陸に関しては、かねてからその事実を疑問視する意見があった。
メアリー・ベネット&S.パーシー共著「アポロは月に行ったのか」雷韻出版、芳賀正光著「アポロって本当に月に行ったの?」朝日新聞社、コンノケンイチ著「NASAアポロ計画の巨大真相」徳間書店などが参考資料に挙げられる。
それらによれば、アポロの月面着陸に関連した映像は、どこかのスタジオで撮影された巧妙な捏造である可能性があるという。

月には地球との距離を計測するために置かれたレーザーの反射鏡があるため、人類が月面にたどり着いたのは間違いないといえるのだが、テレビで一般公開された映像には、参考資料が指摘するように不審な点が多いのも事実だ。
そこから、何かの真相を覆い隠すための陰謀があるという見方が成り立つのだが、今回の紛失劇は、そういう視点でみれば極めて興味深い。
なぜなら、それは証拠隠滅としての側面を持つからだ。

コンノケンイチ氏は、一連の疑惑をUFO、地球外文明圏に関連した情報の隠蔽であると結んでいるが、目下のところ、それを明確に否定しうる資料に、私はお目にかかっていない。
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2006-08-28 08:35:54

<日本沈没>

テーマ:映画
エドガー・ケーシーが日本沈没を予言して半世紀が過ぎる今日、映画の世界では二度目の日本沈没をむかえることになった。
小松左京原作、リメイク版日本沈没の公開である。
本作品はカタストロフを描いた作品として、映像はきわめて秀逸であった。このジャンルで、邦画は米国映画に比して稚拙に仕上がりがちなイメージがあったが、それを払拭する大作だといえる。
テーマは、自己犠牲。
刹那的、場当たり的に生き、今が楽しければよいという自己中心的な風潮に対し、アンチテーゼとしての熱いメッセージがこめられていた。

もっとも、大惨事で交通機関も麻痺しているはずなのに、主人公が遠く離れている場所に次々と難なく出没しているなど、設定に対する細かい突っ込みどころは多々あったが、それらは作り話として概ね許容範囲内であった。

残念だったのは、主人公小野寺と玲子との恋愛に違和感があったことだ。
出演者の演技のせいだけでなく、脚本にも無理があったように思う。
玲子が小野寺に惹かれた理由が不明で二人の恋愛が空々しいため、物語としての白々しさが最後までつきまとうことになった。
主人公の自己犠牲的精神発露にいたる原動力の一つが玲子に対する愛情なので、ここはもう少し丁寧に作りこんで欲しいところであった。

映像90点、ドラマ性60点といったところか。惜しい作品だと思う。
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2006-08-28 08:33:51

<ダ・ビンチ・コード >

テーマ:読書
ダ・ビンチ・コード上中下巻(角川文庫)を読んだ。とても面白い作品だった。宗教に関連した数々の薀蓄もさることながら、その読ませ方、ストーリーの運び方が冒頭から読者を捉えて離さない。読み進むのに意図的な努力を必要としないので、長編にもかかわらずあっという間に読み終えた感がある。

さて、この作品は映画化されているが、国によっては上映が禁止されているという。イエスの扱い方が不当にゆがめられており、宗教上の冒涜にあたるからというのが、その主な理由なのだそうだ。
だが、イエスの真の姿を不当にゆがめてきたのは、むしろ、こうした映画の上映を禁じようとする側のイデオロギーにあるのではないだろうか。
イエスに関する資料は、宗教改革の名のもと、その多くが失われてしまっている。このため、今日残るイエス像は、その人間としての側面が不当に剥奪され、信者の望む信者のための都合の良い姿が伝えられているに過ぎない。

果たしてイエスがマリアの処女受胎によって生まれ、生涯独身でなかったのなら、その教えの数々は本当に価値を失ってしまうのだろうか。
イエスは、時の権力者たちの牙城を揺るがす政治家としての側面と、ユダヤ教の改革者としての側面をあわせもった哲人であったと私はとらえている。
イエスが神の御子で、人知を超えた特別な存在であるという見方は、後の世の人間がつくりだした偏った視点に過ぎまい。

私は、イエスには男女両方の親がいたと思うし、結婚して子もなしていたと直感する。
そして、そうした事実があったからといって、イエスという人物の神性がゆらぐこともないと思う。人はもともと皆神の化身であり、生命を宿す手段としてある男女の営みが否定されるべきいかなる理由もみあたらないからだ。
人に備わった神性をもっとも優れた形で表現しえた稀有な人物こそが、当時イエスであったというだけのことだと私は思う。

己が信ずる形に固執するのは愚人の行いであり、実際、イエス自身はそうした愚人たちの手によって陥れられたのだ。自分たちの信ずるメシアの形にそぐわないという理由で、一部の偏ったユダヤ教徒たちに葬り去られたのである。
それゆえ、当のイエスがもし現代に復活したならば、自分に関連した迷妄の類をかたくなに信じ続ける愚人の存在に当惑せざるを得ないのではないだろうか。
本質的に、キリスト教原理主義者とイエス自身を陥れた人たちは同じである。
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2006-08-28 08:32:27

<妄想>

テーマ:哲学
私たちは同一の世界を共有しているのではない。
存在を認知する客体の持つ主観を超えて認識される世界などありえず、個々の存在がそれぞれ固有にして別々の宇宙に住んでいるといってよい。
一見、それぞれが同じ世界にいるようでも、同じ世界であるという保証はどこにもない。日常の出来事については個体間の記憶にあいまいさが生じ、住む国が異なれば歴史認識に相違が生じる。
万人が共有する真実などありえず、真実のようにみえるもの、ふるまうものも無数の可能性のひとつにすぎない。

ひょっとすると、世界のありようを定めるのは、その世界を認知する「わたし」が過去に行った無数の思いと行いであるかもしれない。そして、未来の世界を定めるのは、現在における「わたし」の思いと行いであるのかもしれない。
もしそうなら、「わたし」が思い、行うその刹那、宇宙は分岐し、新しい宇宙が生じることになる。「わたし」が思わず、行わなかった世界と決別するためだ。
過去に分岐した別世界での「わたし」が今何を思い、何をしているのかは決してわからない。
だがここで、私が生まれてこなかったかもしれぬ宇宙について思う必要はない。
「わたし」のいない宇宙は「わたし」に認知されぬ以上、存在しないのと同じであるからだ。

結局、宇宙は「わたし」の心象世界に過ぎないのかもしれない。「わたし」の意識でしか宇宙を認知できない以上、「わたし」の意識を鏡として映し出された世界は「わたし」そのものであり、「わたし」の意識が宇宙を創るともいえる。
意識の歪みが世界の歪みを映し出すのであり、世界を変えるのはどこかにいる誰かのことではなく、「わたし」そのものであるのではないだろうか。
世界は無数にあって同時にひとつ、「わたし」のすむ世界があるだけだ。
「わたし」とは「あなた」のことであり、唯一無二の神そのものであるということなのか。。。
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2006-08-24 10:36:34

<世界にひとつだけの花症候群>

テーマ:社会問題
オープンして間もないお気に入りの焼肉店の店員にはハンサムで愛想がよく、しかもよく気がきくお兄ちゃんがいて、妻にも私にも好評だった。けれども、もうすぐやめるのだという。やめる理由はといえば、通っている専門学校を終えるので、しばらくゆっくりしたいからということのようだった。この専門学校というのが板前さんになるための学校なのだそうだが、よくよく聞いてみると、板前も向いてないから、これにもなるつもりはないのだそうだ。では今後どうするのかといえば、どうするあてもないという。
同じ世代のある若い女の子は、働いて一年とたたぬうちに、満足な仕事ができるようになったわけでもなく仕事を辞めてしまった。最終的にやめる理由は自分に向いていない、やりがいを感じないからということだった。もっと向いている仕事を探すのだという。もっとも、彼女には何かの資格があるわけでもないし、キャリアとよべるような仕事をした経験もないので、どんな職種であれ、正社員となれるような仕事がすぐ見つかるとは思われない。
知人に聞いた話では、最近の新入社員はいつどんな理由でやめるかわからないという。働いて一年やそこらで辞めてしまうような仕事なら、最初から選ぶ理由がどこにあるのだろう。仕事を選ぶ、職場を選ぶという半ば人生の選択ともいえる局面に対し、安易に過ぎてあきれてしまう。思慮不足もはなはだしいのだ。

ニートを扱った本を読んだところ、その中にも似たような若者たちがえがかれていた。彼らは口をそろえていう。自分で納得できる仕事をしたい。自分が熱くなれる仕事をしたいと。それがみつからないからニートをしているだけだというのだ。
ニートやフリーターが多くなる原因を一元的に論じることはできないが、こうした状況に陥りやすい若者の傾向については共通点がある。
彼らの多くは真の謙虚さが欠落しており、己には何か特別な才能が隠されていると信じていたい幼児性を備えている。普通でいる自分にがまんできないのだ。
もっとも、自分は誰かより優れた人間であるなどと自意識を肥大させているわけではない。ナンバーワンだと思っているわけではないのだ。ただ、どこかに自分の個性を発揮できる理想の環境があり、そこでは自分が特別でいられる、オンリーワンでいられると信じていたいだけである。
自分の置かれた環境で頑張って、努力して己の地位を築こうとするのでなく、居場所を変えれば己が評価されるという幻想を抱いているわけである。
いうなれば「世界にひとつだけの花症候群」であろう。ナンバーワンになりたいわけではないが特別ではいたいのだ。
彼らもうすうすわかってはいるのだ。ナンバーワンになるには才能のあるものどうしがしのぎを削って努力せねばならぬことを。だから、オンリーワンを目指すだけの話である。

こうした価値観に支配された若者を生んだのは、個性尊重と称して没個性を強制し、競争否定を通じて努力の価値を否定してきたゆとり教育の偉業によるものであると私は思う。
未だ運動会では順位をつけない学校も多く、選抜リレー(はじめからクラスの俊足だけを集めて競わせるもの)などもってのほかのようである。
人間は平等に生まれてこないのに、平等でなければならぬという現実無視の歪な思想の下、競う行為に付随した努力を否定する教育がまかり通っている。
努力する、何かに執着して頑張るという行為を否定してしまったため、真の挫折を知らない子供、若者が増えているのだ。
挫折とは渾身の努力が報いられなかったときにはじめて味わうことの可能な感覚であり、また、その経験を通じてはじめて、人は誰かを本当に尊敬できるようになり、真の謙虚さを学ぶことができるのである。己の凡庸を悟るとき、人はそこから抜け出そうと努力せざるを得なくなるのだ。
真の謙虚さを学ばぬ輩が学歴の高低に関わらずニートになってしまうのではないだろうか。
また、真の謙虚さを知らぬから、周囲には不遜にみえてしまうのである。

彼らは、努力だなんだといえば、たちまち努力が報われるのかと反論する。「今の社会、汗水たらして努力しても、会社は倒産するし、リストラもある。努力したって報われるとは限らないのだから努力に意味などないではないか」と。
しかし、報われぬ努力があってこそ、人は謙虚を学び、その内面に決して失われぬ財を築くことができるのだ。納得のいく仕事などそうそうあるものではない。趣味と実益を兼ねた仕事など皆が就けるものでもない。また、そういう仕事には高いリスクがつきものだ。どんな仕事であれ、そこで努力した者は己の価値を高めることだろう。仮にその職場を失ったとしても、そこでホンモノのキャリアが築かれていれば、社会のどこかで再び必要とされるだろう。誰かに必要とされる仕事ができて一人前の社会人なのだ。己の価値を高めるのは、己の努力以外にはないのである。どんな環境であれ、そこで辛抱してキャリアを積まねば、何もしてこなかったに等しい。

結局、今のゆとり教育、競争を否定したサヨク教育が、子供たちをスポイルしてしまったのだ。そうして育てられたゆとり教育失敗世代が社会に数多く送り込まれることで、多くの社会問題が引き起こされているのではないだろうか。
私自身はゆとり教育の試行期間を体験してきた。受験戦争という競争主義全盛の時代におかれつつ、そのアンチテーゼとして始まったゆとり教育とも接するという矛盾に遭遇したわけである。それゆえ、競争主義に陥る弊害も、努力の価値もともに理解できる一方、ゆとり教育がどのような悪影響を与えてきたのかも理解できる。
今後、少なくとも十年、日本社会はゆとり教育失敗世代に悩まされ続けることだろう。その間に日本が滅びることのないよう祈るばかりである。
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