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2005-12-17 05:27:14

<洗脳教育に思う>

テーマ:社会問題
日教組の活動が活発な地域と、いじめの多い地域との間には相関があるという。
いじめの原因を日教組の活動のみに限定してしまうことはできないにしても、ありうる話だ。
日教組の掲げる思想や理念は共産主義思想に立脚している。共産主義思想は唯物論に依拠しており、人をモノとして捉えるため潜在的に残虐性を有し、しかも平等=均質でなければならないと主張するがゆえに異質に対して極めて排他的だ。これらの事実は共産主義革命の歴史が証明している。
いわゆる日教組先生の偏向教育が子供たちの価値観をゆがめ、いじめの温床を作り出すからくりがあるわけだ。

もっとも、共産主義国家が次々と倒れることで、サヨク思想の欠陥が明らかになったわけだが、今もなおこの思想は民主主義の中で生き続け、私たちを欺き続けている。
民主主義は自由、平等、博愛を掲げ、教育の現場で我々はこれを絶対不可侵の正義のごとく刷り込まれてきた。
けれども、考えてみれば平等に生まれてこない我々に真の自由はない。盲人には映画を観賞する自由はないし、聾唖者には音楽を聴く自由はない。また、博愛などといわれても、銃をつきつけてくる狼藉者を愛することなどできはしない。
つまり、サヨク思想はもともとありえない現実に、みための現実を無理やり押し込めようとしているわけである。
我々が正義と信じて疑わぬ民主社会において、現実には逆差別が横行し、他人の基本的人権を奪った犯罪者の人権が擁護されるという矛盾、様々な歪(いびつ)が生じている原因は、このサヨク思想にあったといえるだろう。
今日ではそうした歪を男女平等、男女共同参画社会を唱えるフェミニズムやジェンダーフリーの思想に見出すことができる。
結局、民主主義もまた自由、平等、博愛の美名のもと、人々の快楽志向や拝金主義を促し、人心の獣化を促しているのだ。
こうした戦後民主主義、戦後教育の偉業により、権利は国が保障してくれているという事実を忘れて愛国心をないがしろにし、国に果たすべき義務をかえりみず、ただ権利だけを主張する自分勝手で無責任な輩が激増しているのが現状である。

一方、唯物主義は科学万能主義とともに、輪廻転生の思想や人に備わった霊性をかえりみること、人は何のために生きるのかという宗教的希求を教育の現場から退けてきた。
おかげで、私たちの多くは死ねば終わりという唯物論的価値観に束縛されるようになってしまい、人の絶対的価値が損なわれ、死にたい人が増えている。
学校では○×式の評価法でデジタル思考を促し、選択肢の中からしか答えを選ばせぬ試験問題で子供たちの健全な創造性と考える力を奪っている。
そのうえ、虚偽の歴史が教え込まれることで母国の誇りは徹底的に傷つけられ、祖国へのアイデンティティーが破壊される一方、個人主義の蔓延とともに、家族に対するアイデンティティーもまた損なわれ、あちこちで離婚が後を絶たなくなってしまった。
南京大虐殺などまさに虚構に過ぎず、自虐史観を植えつける洗脳教育の一環、日中間のいざこざを煽る道具だての一つに過ぎない。
また、歪んだ性教育を推進するのも、人心を獣化せしめるための邪な企てのひとつなのだ。

こうした潮流を作り出してきた原因はサヨク思想と日教組による偏向教育である。けれども、それらは米国を背後から操る国際金融財閥の企みが生み出した思想戦略の結果であったのだ。
彼らは国家解体の道具として共産主義をつくりだし、それを広める組織の後ろ盾となってきたのである。
現在、彼らは各国中央銀行の大株主であり、また主だったマスコミ各社のスポンサーやその株主であることで、政治、金融、教育、世論の全てを支配している。
彼らの最終的な目的は人民を家畜化して管理し、支配することだが、現状を見る限り、その目論見はおおむね達成されつつあるといえるだろう。
常識とは、主に教育とマスコミ報道によって培われるものであるのに、それらがともに信用できない世の中になってしまっているのだ。
我々の常識に対して疑惑の目を向け、一つ一つを吟味する思考力を養わなければ、この大掛かりな洗脳の実態から覚醒することはままなるまい。
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2005-12-16 11:37:49

続編No.66<リセットの真実>

テーマ:社会問題
リセットは確かに歴史の必然ではある。だが、それは必ずしも人の大量死を意味するものでは決してない。つまり、文明や文化、あるいは何かの価値観に生じるリセットが、即、人の大量死を意味するとは限らないということだ。
もっとも、人の意識が硬直化してしまった現状で、我々が文化、文明、あるいは何かの価値観に変容を迎えるとすれば、それはある種の大量死をきっかけにせざるを得まい。しかし、大量死によるのではなく、まず、人の意識のありように好ましい変容をもたらすことで、こうした犠牲は最小にとどめることができるかもしれない。

私はそれを、唯物主義、分裂主義からの脱却に見出している。
我々が来るべき理想社会を実現させるためには、互いの異質を容認できる感性が不可欠だ。また、互いの異質を容認するためには、平等、自由、博愛の精神が不可欠でもある。
だが、こうした精神は、唯物論と相容れないことを私は説いた。
霊的自覚のないところにこれらは存在し得ないからだ。

一方、唯物主義からの脱却は、我々に、自然哲学の復古を誘うことだろう。
既存科学が霊性の科学を受け容れることで自然科学が復権し、そこに哲学、宗教による確かな意味づけが行われることで、自然哲学が復権するはずだ。これらはもともと一つとして捕らえられるべきものであって、今日のような分裂と反目は、陰謀によってもたらされた産物だからだ。

同じように、多様化し、分裂してしまった無数の価値観が、真理に向かって糾合すべきである。互いが互いの異質を容認し、愛の御名において手に手をとりあえば、あらたな創造の営みによって、この地上世界に楽園を築くことができるだろう。真の調和を現世に顕現させることこそ、神の意志だからだ。そうなれば、リセットに際して大量死など無用である。

結局、理想社会の実現には、個々の霊的自覚、神の復権が不可欠である。
我々がこの真理に目覚めることこそ、楽園をいざなう扉の鍵となるものだ。
今日、裡なる神の導きによって、無数の尊い有志が立ち上がろうとしている。
そこには優劣も勝ち負けもない。皆が等しく神の化身なのだ。
壮大な神のプロジェクトを実現させるためには、一つとしてそれらが欠けることがあってはなるまい。
我々が永遠不滅の霊的存在であることを自覚すれば、現代、この世界に生まれ合わせた一人ひとりが、皆、尊い救世主であると悟ることができるだろう。
神の復権は間近い。
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2005-12-15 08:17:56

続編No.65<ムチノチ>

テーマ:哲学

自覚のないところに反省はない。
反省のないところに変容はない。
変容のないところに楽園は来ない。
智者とは己の愚を悟れる人のことである。
恥者とは己の愚を悟れぬ人のことである。
智者とは賢者を指し、恥者とは愚者を指すコトバだ。
科学の名において神を退け、幸福の名のもとに平等、自由、博愛を説く獣(=エゴの下僕)たちよ。

その繁栄はやがて潰えることだろう。
人が己の真価に気づき、神性を取り戻す日は近いからだ。

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2005-12-14 10:23:31

続編No.64<賢者の政治>

テーマ:社会問題
理想社会を築くとはいっても、やはり、政治の責任は重大だ。しかしながら、多くの国々で、政治家たちは信用を失っている。その原因は、本当に陰謀ばかりにあるのだろうか。

今日、知的ではあっても、智的でない人は意外に多い。この種の方々は自信満々で、いかなる場合であっても、自分が間違っているかもしれないなどとは考えない。
己の過ちに目を向けようとしない人は、知的であったとしても、智的では決してない。
今日、愚者が主流の社会構造が、民主主義によって衆愚政治を生み出しているといえるだろう。では、理想政治が君主制や貴族政治にあるのかといえば、必ずしもそうではない。
確かに、優れた帝王学の世襲が優れた政治を維持できるという考え方はあるだろう。
政治にドラスティックな改革を断行する上でも、君主制による独裁政治が有効ではあるかもしれない。

しかしながら、世襲が衰退のリスクを負うことは、企業活動においても、また歴史においても顕著な事実であり、そうした考え方を手放しで支持することはできまい。
問題は世襲や民主主義にあるのではなく、世相に愚者が多いことにある。智者が社会で優勢となるなら、世襲であれ、民主主義であれ、賢者の政治を誘うことだろう。過去、日本の天皇性が世界でも優れた君主制足りえた理由こそ、皇室のみならず世相に賢者が満ちていたからにほかなるまい。

今日、愚者による世襲が横行する民主政治の世界で、優れた改革を期待するのは困難を極める。我々一人ひとりが愚者からの脱却を成しえてはじめて、政治の世界にも変容を期待できるのではなかろうか。そのとき、我々は待望の世界統一政府を実現させることができるだろう。例え悪意と陰謀によってそれが生み出されたとしても、正義がそれをのっとれば良いだけの話なのだ。
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2005-12-12 17:07:46

続編No.63<ユダヤの変容>

テーマ:社会問題
私は、現在の世界に根強く横たわるエゴの壁を打ち崩すには、愛の連鎖をもって臨むより他に手立てはないと実感している。
またその際、現実的に避けて通ることのできない問題が、ユダヤという名のイデオロギーによる世界支配であると考えている。このイデオロギーは、今や米国の軍産複合体と結びついて、おおよそ世界の巨悪と呼ぶにふさわしい存在だ。911テロを導いたのも、他ならぬ彼らではないかと指摘されてもいる。実際、米国の軍事作戦は、彼らにこそ、最も利益をもたらしているということができるからだ。

しかしながら、彼らの表の顔は、世界に名だたる航空機メーカー、自動車メーカー、IT関連企業などであり、それらを支える善良な市民の素朴な営みが無数にある以上、彼らを悪と断定して打ち消してしまうことは決してできない。
また、500万人という小規模国家でありながら、その40倍のアラブ人たちの敵意を相手にしなければならないイスラエルという国の現状は、米国の巨大軍事力を利用せざるを得ないという現実をかかえており、その世界支配の構造は、ある意味過剰防衛の結果とみることもできる。

一方、現代において、世界支配に関わっているユダヤ人と呼ばれる方々については、その9割が、かつてモーセに引き連れられたユダヤの民とは民族学的に異なるアシュケナージであり、その実体はユダヤ教に改宗したカザール王国の末裔で、現代のそれは多民族の混血集団であるという説がある。この説によると、現代においてユダヤ人という場合、そこにあるのは、「ユダヤ的な文化を継承する人たち」といった意味でしかないという。これは、ユダヤ人と呼ばれる方々には、人種的にユダヤ人としての確たる根拠が存在しない、実体がないということを意味している。
もっとも、この説に対しては、否定的見解もある。Y染色体上の遺伝情報によれば、アシュケナージとスファラデイの相違とは、単に、離散時代における混血の系譜が異なるというだけであり、両者に明瞭な違いはなく、ともに、ユダヤ人としての特徴を備えているという。事実、カザール王国には30万人のユダヤ人が居住していたともいわれている。

いずれにせよ、何世代にもわたって世界に散り散りになっていてもなお、強固な信仰とともに伝統と文化を維持し、イスラエルという国まで建国してしまった「ユダヤ人」については、極めて摩訶不思議な存在であるということができよう。
また、ユダヤの歴史は、世界に類を見ない搾取と迫害によって彩られている。ユダヤの名こそ、人類史上営まれてきた迫害の犠牲者を指しているとさえいうことができるかも知れない。そして、そのあまりに凄惨な歴史を前にしては、そこに根深い怨念が育まれてきた可能性を強く感じずにはいられない。今日の世界の混迷は、支配され、迫害を受けてきた者たちが培ってきた怨念の実体化、エゴの連鎖の集大成とみることができるかも知れない。とすれば、人類の蓄積してきた憎悪が、ユダヤの名を借りて我々に復讐しているだけであるという見方も成り立つ。

であるなら、世界の救済には、ユダヤのベクトルを変えることが必須だ。人が皆、等しく神の化身である以上、憎悪の矛先にあるのは、他ならぬ自分たち自身の姿だからだ。我々は、かつて己自身の蒔いた憎悪の種を、現代において刈り取っているだけなのかもしれない。人類が自ら生み出してきた憎悪の蓄積、エゴの連鎖を、ユダヤの名を冠した世界の巨悪、即ち虚像に見出しているだけであると。
ならば、ユダヤの体質そのものを方向転換させることこそ、この地上世界を一気に楽園へと導く原動力になり得るはずだ。人類が多年にわたって育んできたエゴの連鎖を清算し、地上に楽園を築くためには、個々の存在の自覚と変容によってもたらされる愛の連鎖により、ユダヤと呼ばれるイデオロギーを変容させることが必要不可欠であるということだ。

”ベクトルを変える”の意味は、彼らにとっての世界を、搾取の対象、即ち支配の対象から、救済すべき対象へと認識を改めさせることである。つまり、選民思想から脱却させ、責任感を自覚させることにある。
実のところ、ユダヤの世界支配に関わる論述は無数にあるのだが、彼らのポテンシャルがそのまま世界平和に注がれた場合の考察については、あまりみかけないのが現状である。
誰も言及していないことを言い出すのには勇気が要るが、そうした認識がいったん構築されれば、変容自体はそれほど困難ではないと私は考える。
あらゆる組織がそうであるように、組織とは、決して一枚岩では存在しない。
であるなら、仮に巨悪と思しき組織があったとしても、必ず内部に矛盾と葛藤を抱えているものであり、そこに好ましい追い風を与えられれば変容を期待できるはずである。

しかしながら、そのためには、やはり個々の変容、愛の復権こそが必須条件だ。それが「好ましい追い風」である。ユダヤ変容の難しさは、そのまま個々の変容における難しさを表しているだけではなかろうか。それさえ叶えば、後の道のりはそれほど困難ではないはずだ。今生でユダヤ人であっても、来世でゴイム(=ユダヤ人以外の人民)かも知れず、また、今生でゴイムであっても、来世でユダヤ人かも知れないという真理を、皆で自覚することが何より肝要だ。

また一方、こうしたユダヤの変容と自覚を促す重要な役割を背負った民族こそ、日本人なのではないだろうか。
実際、少なからぬ文献がユダヤ文化と日本文化との間に横たわった共通点を見出し、それらが同根であるのを指摘しつつ、そうした日本人の役割を示唆してもいる。

結局、私はユダヤ人に邪悪を見出しているのではなく、節度を欠いたエゴにそれを見出しているに過ぎない。最も問題なのは、際限なくエゴを主張する愚者の存在なのだ。
陰謀とは、愚者が利用された結果生み出されたものであり、愚者の存在なくしては成り立たないものだ。その実態とは、愚者の自滅を煽っているだけのものだからだ。
また、そうした陰謀自体、もとを正せば、愚者による弱者への迫害が、復讐という形で招いたものに過ぎないという見方もできる。
とすれば、世相に賢者が満ちれば、陰謀は瞬く間に潰えることだろう。
それどころか、愚者を操る才覚が、賢者に導く才覚にもなり得るのだとすれば、ユダヤ人こそ、この地上世界を楽園に導くために必要な、最も尊い民族であり、鍵であるということができるだろう。それはまた、日本人においても然りである。

参考文献
アーサー・ケストラー著「ユダヤ人とは誰か」
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史」
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2005-12-06 17:30:02

<ご身内を亡くしたある男性にあてた手紙>

テーマ:手紙
書き込みを拝見し、何をどうコメントすべきか思案するうち、今日にいたりました。
本来ならば沈黙すべきところなのかも知れませんが、若輩が薀蓄をたれるご無礼をお許しください。

私の職業は医師です。私はこの職業柄、一般的な方々に比べ、多くの人の死に立ち会ってまいりました。
若くして交通事故でお亡くなりになる方、全身が腐肉と化してお亡くなりになる方。そして、死をいたんでくれる身寄りを誰一人もたず、ひっそりとお亡くなりになる方。
人の死に立ち会うと、いつも決まって我々は何のためにこの世に生まれ、この苦しい人生を全うせねばならないのかを考えさせられます。
ただ生きて飯を食らい、糞をたれるためだけに生まれてきているのだとすれば、生きている意味などありません。死んでしまった方がはるかに楽というものです。
それなのに、なぜ生きなければならないのか。

私たちは、己が生きるというエゴを主張しながら、他人のエゴを受け入れる、即ち愛し合うという自己のエゴを否定する営みを尊ぶ矛盾した存在であり、この自己矛盾、葛藤は生きている間中つきまとうことになります。
しかしながら、我々は誰もが皆等しく死を迎えることで、この葛藤から開放されます。
「死なば皆仏」というコトバが仏教に伝わる背景には、こうした見解があるからではないでしょうか。
人は死によって愛とエゴとのせめぎあいから開放され、純粋な愛、即ち神に立ち戻るのかもしれません。

私は、人は神のうつせみとして肉身に宿り、その人生で己の神性を煌かせる、即ち無限の愛を意味する神を葛藤のうちに自己表現する霊的存在であると考えています。
このために、その反対性質であるエゴを携えて生きているのだと。
イエスの語った「神の御前における平等」とは、本来は輪廻転生を繰り返して進化、神化する霊的存在としての平等を意味するものです。
この世の全存在は、神の意志の顕れであり、生命は神性の動的自己表現を宿命付けられた存在であるということです。

人は生まれてきた以上、いつか必ず死を迎える運命(さだめ)にあります。致死率は100%です。
けれども、それは喪失ではないと私は思うのです。我々は霊的存在として永遠不滅であり、人生の価値はその寿命で決まるものでは決してない。
人生で何かに執着することもなく、これといった努力もせず、誰も愛さず、誰からも愛されることなく漫然と生きる90年に、お姉様の60年が劣ることなどありはしないはずです。
悲しむべき、恐れるべきは死ではなく、何もしない生です。
お姉様の人生が他の誰よりも輝きに満ちていたことを、皆がご存知のはずです。
そして、お姉様の意志は遺志となって、周囲の方々の裡に生き続けるのだと私は思います。
思いは命です。
お姉様のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
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2005-12-06 17:27:44

<医療制度改悪の目的を探る>

テーマ:社会問題
厚生労働省の発表した「医療制度構造改革試案」では、医療費の適正化を隠れ蓑にした患者負担増が企図されている。
財政上の観点でのみ医療を改革して行こうとする政府の方針は、国民の安全保障を損なう恐れが極めて高い。
そもそも医療費の高騰が国家財政を圧迫しているというのは、政府のプロパガンダに過ぎない。
WHOが発表する健康達成度の各国比較では、日本人の健康寿命は世界一、健康達成度の総合評価も世界一であるにもかかわらず、GDPに対する総医療費割合は7.9%と世界17位という低コストを実現させている。

元来、医療費の高騰を問題視すること自体、おかしな話なのである。
国家が国民に対して、何を差し置いても保障すべきなのは国民の安全だ。
この目的の前にあっては、医療にかかる諸費用は国民の安全保障上、最重要かつ必要不可欠な負担なのであり、他の諸経費捻出のためにこれを削減するという発想は、本末転倒もはなはだしいといわねばならない。
年金制度や健康保険制度は国民一人ひとりの安全保障である。
郵政を民営化した上、安全保障まで民営化してしまおうというのだろうか。
冗談ではない。

改革が進めば安全保障をゆだねる先は民間の保険会社となる一方、昨今では外資系保険会社の国内進出がいちじるしい。
我々の背負うリスクと引き換えに潤うのが外資であり、国際金融財閥であるのだとしたら、やはり現行内閣は陰謀に加担する売国内閣とのそしりを免れることはできないのかも知れない。
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2005-12-05 13:33:09

続編No.62<ある酒好きな男の話>

テーマ:ブログ
あるところに、酒好きの家系に生まれた無類の酒好きの男がいた。
男は、それはもう一日に浴びる程の酒を飲まずにはいられない。それが血だからだ。
けれども、あまりの酒好きのために、お酒にかかる費用が家計を圧迫しはじめていた。
しかも、病院の検査では、肝臓に問題がではじめているとのことだった。
彼は思った。このままでは家族も不幸にしてしまうし、自分の健康も危うい。なんとかせねば。しかし、酒好きはやめられない。
愛する妻と息子の顔が脳裏に浮かんだ。
妻は飲んだくれて帰ってくる夫のために、いつも暖かいお茶を用意して出迎えてくれるのだった。息子にはそろそろ幼稚園に通うためのお金が要る。
彼は、家族のために、まず、増え始めていた借金を何とかしようと考えた。

ところが、一生懸命はたらきはしてみたのだが、夜になると、仕事の反動からか大酒を食らってしまい、借金は増え、体の具合もますます悪くなる一方なのだった。
やはり、お酒を控えなければならないと彼は思った。けれども、酒好きをやめることなど、できようはずがない。そこで、量を少なくする代わり、普段飲んでいなかった高級酒を、少しだけたしなむことに決めたのだった。高いお酒をたしなむ一方で、家族の暮らしを楽にするためには、お金が要る。それだけでなく、その味を堪能するには、彼本人が健康でなければならない。

彼はがんばってはたらき、お酒の量を控えた。
また、お酒が減ったおかげで、仕事にも俄然集中できるようになっていた。
一生懸命働いた後でたしなむ高級酒の味はまた格別で、明日への気力がみなぎるのだった。
そうこうするうち、もともとまじめな性格であったことも手伝って、職場での評価もうなぎのぼり、いつの間にか出世して、彼の収入は、以前とは比べ物にならないほどに増えていた。おかげで借金もなくなり、マイホームを建てるための頭金までできあがっていた。

そんな彼の楽しみは、いまや、自宅で妻とたしなむ数杯の高級酒だ。彼は家族を守り、自分の健康をとりもどすことができた。また、高級酒の味に通じたことで、趣味の幅も広がった。彼の酒好きは、自覚と決意、そして家族への愛によって、彼の人生を豊かにできたのだった。


<解説>
この物語の主題こそ、愛の連鎖であり、エゴとどう向き合うのかを語ったものである。
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2005-12-03 12:49:48

続編No.61<エゴの受け皿>

テーマ:哲学
人の思いや行いについて、どこからどこまでがエゴであるというような、万人を納得させられる特定の線引きはできまい。どんなに注意したところで、己が認識できないエゴは残るのであり、だからこそ、過ちも犯すのが人間であると私は思う。
大切なのは、己が意識できる範囲内で、エゴのよき主人であれということだ。実際、エゴが強くなければ、大した事業を成し遂げることはできまい。巨大なるエゴを活力とする傍ら、それを御してこそ、そこに大きな成功が約束されるのではないだろうか。

一方、エゴが暴走しているかどうかを認識するためには、優れた理性と感性、そして悟性の働きが不可欠だ。私は、瞑想や沈黙が、それらの働きを活発にすると考えている。
現代社会においては、総じて、この働きが鈍磨しているようだ。その理由のひとつに、テレビの普及がある。今日、テレビは、好むと好まざるとにかかわらず、いたるところで我々の沈思黙考を妨げているが、もう少し静寂に身をおく必要があるのではなかろうか。

また、エゴについてはもう一つ大切なことがある。それは、他人のエゴを受け容れてやる度量が必要であるということだ。これこそが、赦すという行為であり、それは思いやりを意味するものであると同時に、愛の一形態なのだと私は思う。
結局、エゴを御すための手立ては、我々が互いに対して育む誠の愛なのだ。

私が医者になって最初に受け持った重症患者は、頚髄損傷の患者だった。頚髄損傷とは、首の高さで、脊髄神経に重篤な傷を負う怪我のことで、程度がひどければ、一生、手足を動かすことはおろか、呼吸すら自力ではままならなくなってしまう。映画のスーパーマン役を演じた名優クリストファー・リーブ氏の怪我でご存知の方も多いことだろう。

この怪我を負った若い患者の場合、残りの長い人生がどういう制限を負うことになるのかを思うとき、人の生きる目的を考えずにはいられない。手足が動かず、排泄すら自力ではままならなくなってなお、我々は何のために生きるのか。何を見据えて生きれば道を過たず、迷うことなく生きられるのか。

確かに、病やハンデを抱えた人間は、ともすれば我儘になりがちだ。けれども、己が病に伏して相手の立場になってみれば、我々が真に学ぶべきは、己のエゴを律する傍ら、他人のエゴを可能な限り懐深く受け容れてやる度量を養うことだとわかるはずだ。
それこそが、赦しであり、思いやりであり、相手に己自身の姿を見出す行為、即ち愛なのだと私は思う。

結局、愛し合うとは、相手のエゴをどれだけ受け容れることができるか、どれだけ赦せるのかという問題でもあるといえよう。
エゴの受け皿は愛の深さによって支えられるのではないだろうか。
愛によって支えられるなら、己自身のエゴですら、受け容れても良いのだと私は思う。
己のエゴを愛し、赦せる心に乏しければ、他人のそれを赦すこともまた、できないことだろう。
思うに、優れた先哲の多くは、人のエゴの派生物たる欲そのものを否定していたわけではなく、その欲に囚われることの危険を諭していたのではないだろうか。
欲を否定してしまえば、生きることそのものを否定することにつながってしまうからだ。
人として生きる以上、エゴを携えて生きねばならず、ゆえに人間とは不完全な存在なのだ。ならば、己の不完全を赦し、これを愛することで、他人のそれも愛することができることだろう。
互いが互いのエゴを愛しあうことができてはじめて、我々は真の自由を勝ち取ることができるのではないだろうか。
「まず汝自身を愛せよ、しかる後に隣人を愛せよ」ということだ。

このように考えると、拙著における表現の一部が不適切であったことにお気づきの方がいらっしゃるかもしれない。
実にその判断は正しい。
私は、エゴの「制御」、「抑制」ということば用いたが、これらは不適切であった。
正しくは、「統御」とすべきである。
なぜなら、私が説いているのは「エゴからの脱却」ではなく、「エゴの超越」であるからだ。
また、動詞においても同様に、エゴを「制する」ではなく、「御する」、「統べる」がふさわしい。
ここに、謹んで訂正、お詫び申し上げたい。
(ちなみに、本ブログでは、部分的に修正済みである。)
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2005-12-02 10:23:38

続編No.60<お金はエゴの一側面>

テーマ:哲学
現実社会で何かの思いを成し遂げるには、お金が必要だ。いかに雄大な展望を思い描いたところで、先立つものがなければ何もできない。従って、お金が悪というわけでもなく、富の集中が悪というわけでもないだろう。
問題は、持てる者が、そのお金で何を為そうと志すのかということではなかろうか。
自分のためだけに使うお金は「死に金」といって、循環しない、返ってこないお金のことを意味する。一方、「生き金」とは、循環し、場合によっては何倍にも膨れ上がって返ってくるお金のことを指す。「死に金」の意味するものはエゴであり、「生き金」の意味するものこそ愛なのだ。

それゆえ、富を得るためには、可能な限り「死に金」を使わず、「生き金」を使うことにある。自分たちのエゴを満たすためだけにお金を使い続けるなら、仮に3億の宝くじに当たったとしても、そう遠くない将来、それをはるかに越える借金を背負ってしまうことだろう。お金は、その使い道を誤ると、どんどん人を不幸にしてしまうことになるものだ。
つまり、お金は愛の一側面であると同時に、エゴの一側面でもあるということだ。

実のところ、理想社会の実現にもお金はいる。例えば、世界に眠る無数の地雷を撤去するのには潤沢な資金が必要だ。また、家族に豊かな暮らしを提供するためにもお金がいる。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉にもある通り、食うや食わずの生活をしていたのでは、大した事業は成し得まい。ならば、お金の儲け方や使い方を知らずして理想を説くのは愚か者のすることだ。しかしながら、幸いにして金儲けの哲学を語った書物は巷にあふれている。
これらに学び、あとは愛に沿った使い方を心がけることだ。
時には贅沢をするのも良いだろう。質素倹約がいつでも正しいわけではない。
誰かの贅沢は、誰かを幸せにもできるからだ。問題は節度である。即ち、利己と利他のほどよき共存だ。イエスも釈迦も、人のエゴやその派生物である欲望を全否定していたのではあるまい。彼らは欲望に囚われることの危険を諭していただけではないだろうか。
多くの宗教にみられる清貧を強いる教えは、教団内での既得権に執着する者が、末端の信者から財産を搾取するために用いた詭弁の一つに過ぎまい。
エゴを否定するのでなく、己のエゴを許容できれば、他人のエゴも受け容れられることだろう。互いが互いのエゴを受け容れられれば、その分、皆が豊かになれるはずだ。
次章では、この「エゴの受け皿」について語ってみることにしよう。
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