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2005-11-30 16:24:26

続編No.58<パラダイスのいざない>

テーマ:社会問題
人はパンのみにて生きるものではないが、パンがなければ、また生きることはできまい。世界の混迷は、石油資源をはじめ、有限なものを大勢で分かち合わねばならないことに起因しているといえるだろう。

エゴと向き合うという生き方は、新しいパラダイムに支えられた理想社会を誘うための必要条件だが、十分条件ではない。
そこには、無限なものを生み出す新しいテクノロジーの存在が必要不可欠だ。なぜなら、価値観の転換のみでは、現代社会という特殊な状況での実生活は成り立ち難いものだからだ。高度な科学文明や巨大集団を形成するずっと以前ならば、有限な資源であっても、これを争うことなく共有できたのかもしれないが、高度に機械化された現代文明ではそういうわけには行かない。

誰しも健康で文化的な生活を営みたいと願うものだが、その思いを悪と決め付けてしまうことは決してできない。人類の絶対数に比し、相対的にあらゆる資源が急速に目減りしている現状で、エゴの主張を怠れば、衰退と滅亡を余儀なくされる。このために争いを避けることが困難になっているといえるだろう。
よって、思想の転換のみで無邪気に平和を説くならば、それは偽善であるとのそしりを免れることはできまい。なぜなら、そうした考えを貫くためには、リセットによる集団の少数化が絶対条件になってくるからだ。
マジョリティーをいかに救済するかが問題なのであり、そのためには、現実的な課題を避けて通ることはできない。

しかしながら、個々の価値観における変容は、新しいパラダイムを導く触媒としての重要な役目を担うものだ。
無限のエネルギーは、人類の霊的進化における最終段階で、神より授かる極上のギフト、神の存在証明なのかもしれない。ならば、これを手にするのには、我々に相応な資格が必要になってこよう。その資格となるものこそ、個々の存在が示す誠の愛だと私は信じる。
誠の愛こそ、無限のエネルギーを意味する神そのものなのだから。無限のエネルギーを授かるには、差し出すその手に無限の愛が宿っていなければ、それを受け止めることは叶うまい。

パラダイスの到来を阻むものの正体を、何かのイデオロギーや秘密結社だけに位置づけるのは間違いだ。それらは個々の意識の反映に過ぎず、場合によっては、過剰な自衛行為の結果であるという見方もできるからだ。集団としてのエゴが、互いにせめぎあった結果、節度を失っただけであると。そこには、過去から受け継がれたエゴとしての怨念も含まれているのかもしれない。
逆に、こうした存在のベクトルを変えることができれば、トランプの大貧民ゲームにおける大逆転のごとく、一気に好ましい方向へと状況を転換できるはずだ。そのためには、個々の意識を変容させることが必須だ。
その弊害ばかりが取沙汰されることの多いインターネットにしたところで、個に対しダイレクトに複雑なメッセージを伝えることのできる優れた特質がある。ハートにメッセージを届けることができるのだ。実際、著しく教育の効果をあげるツールとしての側面も持っている。結局、ネットそのものが悪なのではなく、使う側のモラルに負うところが大きいということだ。
物事には常に二面性があり、好ましい側面が働くように人が導く必要がある。そのためには、個々の存在が己のエゴと向き合い、愛されねばならない。けれども、愛されるためには、まず、愛さねばならない。
つまり、愛し合うには意図的な努力も必要であるということだ。それこそが、渇愛と愛とのせめぎあいであり、神の自己表現であると私は思う。

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2005-11-29 08:29:49

続編No.57<思いの命>

テーマ:霊性の科学
人の意識には、二つの素因があると私は考えている。一つは、輪廻を繰り返す意識の主体、もう一つは、肉体が先祖代々受け継いだ思考や嗜好の傾向だ。これらの素因は、それぞれに、前世の意識、祖先の意識を従えており、この二つが結合して、新たに無垢な素因の宿った状態が、人の誕生であろうと解釈している。
よって、誕生時、人はゼロからのスタートではなく、前世や、その肉身のもつ特性に、ある程度影響される運命にあると考える。
このことは、単一にみえる人の意識が、実は、こうした複数の意識の複合体であり、極めて重厚な存在であるということを意味している。

霊能者による霊視は、これら複数の意識のうちの何れかを人格化させているのではないだろうか。つまり、特定個人に付随した様々な思念を人格化、視覚化させる再生器をその裡に宿しているのが、霊能者であるということだ。
したがって、ご先祖の誰かが守護霊として認知されたとしても、その転生意識としての主体が、そこにあるわけではないと解釈される。
我々には、もともと、様々な「思い」や「念」が宿っており、祖先から受け継がれた良きカルマ、あるいは本来の転生意識が備えている良きカルマが、守護霊、指導霊といった形で、認識されるだけなのかもしれない。
同様に、地縛霊といった存在も、そこに転生意識の主体があるわけではなく、残された強力な思念が、その場所に付帯しているだけだと解釈される。再生器を宿した人間によって、残留思念が人格化されて認識されたものが地縛霊というわけだ。

結局、人の思いは、それだけで一つの生命であり、死者は生者に思いを託すことで、その裡に生きながらえるのかもしれない。霊能者が死者と語る際、それは託された思念を人格化してとらえているのだと考えられる。我々の思念は、良きにつけ、悪しきにつけ、生きているというわけだ。そして、その思念は、いつの日か現世で具現化されるものでもあるのかもしれない。
ならば、我々は、己が意識の優れた監視者でなければならないことだろう。
清き思いを宿し、行いをそれに一致させなければ、我々の思いは、いつか、この世のどこかで、誰かを傷つけてしまうことになるやもしれない。
思いと行い、どちらも清くなければ、愛の復権、神の復権は遠いといえるだろう。

人の思いが現世に生命を宿すなら、我々の思い描く対象しだいで、ありえない奇跡すら生ぜしめるかもしれない。いつの時代も、我々はありえないテクノロジーを具現化してきたのだ。その原動力こそ、こうした「思い」によって生み出された命であったとはいえまいか。
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2005-11-28 12:50:19

続編No.56<物質と意識>

テーマ:ブログ
<超能力とは>の章では、物質と意識の間に相関関係があるかもしれぬ可能性について言及してみた。
これは、意識と物質との間に、その相互作用を営むための、極めて微細なプロセスが存在していることを示唆するものである。

実のところ、量子論的な世界観においては、将来的に、意識と物質との間にみられるミクロな相関関係の謎を解き明かす可能性があるかもしれない。
というのも、量子力学はその論理的な枠組みの中で、日常的な感覚から逸脱した質量をもたない粒子の存在を仮想しはじめているからだ。そして、こうした粒子によって空間が構成されていると説明する。
しかも、重力や物質そのものが、実はこうした空間の歪みや相転移によって派生したものではないかと推論している。

質量を持たないにも関わらず、この世に存在するものとは、「意識」しか私には想起できない。我々の意識は、確かに存在を感じ取れるものである一方、明確な質量を持った存在であるとはいい難い。
ひょっとすると、我々が知覚しているはずの空間や物質とは、神の意識から派生したものであり、実体の存在しないものなのかもしれない。
つまり、空間も物質も、結局は「意識」の相転移現象として顕れたものに過ぎないという認識だ。
相転移現象をわかりやすくいえば、同じ水分子が、外的条件によって、氷になったり、水になったり、あるいは蒸気となったりする現象のことである。
こうした考えをつきつめてみれば、意識こそ、エネルギーの本質であるという見解を導くことができるかもしれない。

まさに、森羅万象は神の意識であり、空そのものであるという認識。
「色即是空、空即是色」、「一切は空也」。
ここに、全ては神の意識の顕れであり、空であるという宗教上の卓見と、科学との調和を見出すことができるのではないだろうか。他方、こうした考え方は、フリーエネルギーの研究もまた、最終的には意思の顕すエネルギーの研究へとつながる、つまり、PKの原理を追究する科学とリンクしてくる可能性を示唆してもいる。

結局、命もまた、意識の一部が具現化したものではないだろうか。つまり、神の思いが世界に顕れ、その化身である我々の思いが命となって顕れているのだ。これらは、もとをただせば一つであり、永遠不滅のエネルギーである唯一の神から出でた幻に過ぎない。
命とは思いであり、思いとは命であるということだ。

また一方、この宇宙にはダークマターと呼ばれる不可視の質量体のあることが天体物理学的に証明されつつある。この事実は、もし、我々の住む世界とそれが交わったとしても、五感にたよって生きている我々には、それらを認識できないことを端的に表しているといえるだろう。「目に見えるものしか信じない」を公言してはばからない方々は、もはや時代の変化について行くことができなくなろうとしているのかもしれない。

現在、我々の科学は、宇宙という人知の及ばぬ巨大なものに対して、量子論という、より微細な領域を探求する科学を用いてこれを捉えようとしている。
マクロを追いかける科学と、ミクロを追いかける科学の出会うその先に、神の摂理とその意識を垣間見ることができるとすれば、それを成し遂げるには意識の領域を追いかける精妙な科学の果たす役割が不可欠であると私は思う。

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2005-11-25 08:28:27

続編No.55<超能力とは>

テーマ:霊性の科学
超能力と一口にいっても、その種別は多岐にわたる。大きくわけて、PK(念動力)などの能動系と、テレパシーなどの受動系にわけられよう。ここでは能動系の能力について、主に言及する。

超能力を語る場合、まず、物質と人の意識との関係に着目する必要がある。私は、人の本質は、その意識の奥深くに宿す神性であり、生命の本質こそ、その逆の性質を有するエゴであると説いた。無限の神が、その客体として有限な生命を表現しているに過ぎないという概念である。

一方、神を宿す意識が人にしか宿らないかといえば、私はそうではないと考える。あらゆる生命、非生命に神の意識は宿っており、神を最も高次で表現できる存在が人であるというに過ぎないということだ。
つまり、人の意識は神の動的意識の最たるもので、無生物のそれは、神の静的意識を宿しているのだと解釈されよう。これは、あらゆる存在に意識とよべるものが存在するという、アニミズムの思想や、神の遍在といった概念にも矛盾しない。
他方、人の動的意識が物質から影響を受けることは、脳の器質的異常が狂気を生み出すことで理解できるかもしれない。また、薬の摂取によって、人の肉体のみならず意識に影響を与えることからも、そのことを部分的に証明していると考える。
結局、人の意識は、物質から影響を受けるということだ。

では、逆に人の意識は物質に影響を与えないのだろうか。病に冒された患者が、医者の予想をはるかに超えて回復することが時にある。また、生命現象は確かに物理化学的現象を伴っているものではあるのだが、肉体を生かす根本原理については未だ解明されてはいない。つまり、臨終に際し、同一の肉体の生死を分ける根本原因については未だ科学的には謎なのだ。であるなら、肉体を生かす根本原因を考える際、そこに見た目の生命現象を越えた意識の存在を仮定するのは、それほど奇怪な発想ではないと私は愚考する。
つまり、人の意識が、その潜在意識の奥深くで生命現象を支えているかもしれないという考え方である。
こう考えると、人の意識が物質に何らかの影響を与えることができたとしても不思議ではなくなる。また、神がこの世界の進化に道筋を与えているのだとすれば、神の手足を見た者がいない以上、まさに、そうした類の力が働かなければならないはずである。
興味深いことに、フリーエネルギーに関わる研究においては、ハチソン効果と呼ばれる現象に、PK能者が意念の力で表す現象と等質の現象が生じるといわれている。即ち、スプーンが自然に折れ曲がっていったり、物体が手も触れずに浮き上がったりといった現象だ。人の意識が無限を宿すことを想起すれば、等質の原理が働いていると考えても不思議ではないかも知れない。

以上より、PK能者が持つ特殊な能力の実在は、人の意識が物質に影響を与える、つまり、物質と人の意識は相互に影響を与え合うという仮説を支持する根拠の一つになるかもしれない。ここから、人の存在は見た目の生命現象を超えており、超能力の実在はその証明になる可能性があると推論されるわけである。

結局、人の意識それ自体は、手足を用いることなくスプーンを曲げることができるといえる。またスプーンに限らず、あらゆる物理現象を引き起こすことができるのではなかろうか。我々の意識は神性から生じる無限のエネルギーの通路であり、蛇口の大きさが、そこから単位時間あたりにとりだせるエネルギーの大きさを左右しているのだと解釈される。つまり、少しずつしか給水できなくても、誰であれ、時間をかければ、バケツを水でいっぱいにすることができるというわけだ。PK能者の場合、通常人よりもこの蛇口が大きいため、短時間に明瞭な物理現象を引き起こせるというだけではないだろうか。

ただ、通常人がこの蛇口の大きさを制限されているのには理由があるはずだ。
たとえば、個々の家庭が町を潤すほど大きな水道管と同じ太さの蛇口から直接引水することを思えば、大変危険なことだ。なぜなら、ちょっとした不注意で家どころか付近一帯が水浸しとなってしまうからだ。
巨大な蛇口にはその分大きな責任とリスクが生じるといえよう。
このことは、我々が物理現象を起こすのに、なぜ手足を用いるのかを説明できる。それは、危険が少なくてすむということと、エネルギー効率が良いからだ。
実のところ、人が手足を動かすという現象も、脳からもたらされる微細な電気信号という物理現象の結果である。けれども、この物理現象を生じさせている原因は人の意識、即ち念であり、心であるともいえる。つまり、人の意識が物質に影響するプロセスが必要不可欠なのであり、この微細な電気信号という物理現象だけで、筋肉に蓄えられたエネルギーを利用できるので、意識にとっては念力でスプーンを曲げるより、手で曲げる方が、エネルギー効率が良いといえる。
結局、我々通常人の蛇口が制限されているのは、リスクマネージメントとエネルギー効率からもたらされた選択であると考えられるのではないだろうか。
状況が変われば、つまり、より多くの直接的な意念の力が必要とされる局面となれば、この蛇口は、今よりずっと拡大される可能性が誰にでもあるのかもしれない。

無論、これらは未だ仮定や推測の域をでるものでは決してない。本格的な科学のメスが入れられる必要はあるのだが、その際に注意すべきことがある。それは、人の存在が抱える不確定性だ。大部分の既存科学は、未だ客観的な再現性を要求する論理の枠組みから抜け出すことができていないが、それはごくごく限られた対象にしか成立しえないものだ。実際、量子力学にみられる不確定性原理において、それは既成事実である。生きた人間を相手にする場合、確実な再現性も普遍性もありはしない。それは、いかなる特効薬も、人によっては毒となったり、無効であったりする事実と大差ないといえる。
つまり、人間というファクターが加われば、「絶対」は絶対にありえないものなのだ。そうした意味で、既存科学が唯物論的で偏狭な思考形態を脱却し、真の謙虚さを取り戻すことができないならば、超能力の謎が解き明かされることは永久にないだろう。
科学が謙虚さを取り戻すためには、まず、個々の存在が学びの謙虚さを取り戻すことが必要だ。私見にしがみつこうとするエゴからの脱却を、個人レベルで実現させることこそ、急務であろう。
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2005-11-25 08:27:49

続編No.54<唯物主義の遺産>

テーマ:霊性の科学
現在、唯物論的な科学が成し得た最大の功績は、霊性の科学における、まがい物の多くを払拭した点にあるといえるだろう。もとより霊性の科学は、論理的、実験的根拠の乏しい性質のものであるため、実際に効能がなければ、淘汰されてしまわざるを得ないからだ。実効性の少ない霊性の科学が淘汰されていくことは、このジャンルを学ぶ者にとって、一つの福音であるかもしれない。もっとも、残された内容が本物であるか否かの判断を怠ってよいというわけではない。やはり、何事にも慎重な姿勢が肝要だ。

とはいえ、私は、ホンモノと思しき超能力者にも心当たりがないわけではない。そして、その方もまた、理想社会の実現に燃えている。
こうした特殊なジャンルを背負って立つ有志に対し、心から賛辞を送るとともに、そこに横たわった可能性を模索してみる。霊性の科学は果たして科学たりうるのか。既存科学との間に調和への糸口を見出すことができるのか。

サヨクに毒され、科学合理主義に凝り固まった偏狭なる輩から、「トンデモ論」に推挙していただける名誉を頂戴することになるかもしれないが(笑)、あえて、そこに挑んでみることにしよう。
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2005-11-22 11:06:57

続編No.53<人と組織>

テーマ:社会問題
誰かを中心に人が集うとき、最も恐ろしいのは指導者の絶対化、偶像化である。なぜなら、そこには必ずといって良いほど盲信と排他性が同居するからだ。それらは組織が硬直化し、衰退する原因である一方、求心力を高める道具でもある。

しかし、盲信と排他性によって得られた強固な求心力は、組織の健全性を奪い、それをカルト化してしまう。浮世離れしたカルト集団では、独善が支配し、世間から孤立するばかりか、支持を得ることは決して叶うまい。
だからこそ、組織内で指導者を批判する姿勢が禁忌となる風潮には注意が必要だ。もっとも、求心力が弱まれば組織は分解してしまうので、その意味ではバランスが難しいといえるだろう。では、バランスの基準には何を用いれば良いのだろうか。
そこはやはり、誠の愛だと私は思う。皆が愛によって立つことで、道を過たずにすむのではなかろうか。組織を健全にするための合言葉は、いつの時代も愛なのだ。

他方、健全な組織の運営を図る上で、指導者の側には、常に己の反対意見を容認できる謙虚さがなければなるまい。反対意見があってこそ、複視が可能となり、進むべき道を見誤らずにすむからだ。
結局、誠の愛と謙虚さが真の個性尊重と調和を生み出し、組織の迷走を阻み、健全な運営を育むといえるだろう。

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2005-11-21 09:39:49

<陰謀打開策>

テーマ:哲学
陰謀とは、世界のどこかに潜んでいる闇の権力のみによって営まれているわけでは決してない。
それを支えているのは個々の人間が育むエゴにあり、それらの連鎖が地上を覆い尽くそうとしているに過ぎない。
そして、この連鎖を打開するのは、その真反対の性質である愛の連鎖を地上に導くことだ。

しかし、一方で無視できない現実がある。人々の際限なきエゴをかきたてているのは、死への恐怖、飢えと破滅に対する恐怖である。個々の生きようとする最低限のエゴが利用されているのだ。
この意味で、輪廻転生と因果応報の理、人の本質が肉体ではなく、神のうつせみとしての霊的存在であるという真理を皆が自覚すれば、この呪縛から開放されることだろう。
もっとも、それは生への執着からの脱却を意味し、生ける人間として、あるいは国家としての生命を放棄することにつながる場合がある。
憲法9条においても、現状でこれを死守するのは誇り高い死を選ぶというだけの話になってしまいかねない。国家として存続する、国が生きるという最低限のエゴを主張するなら、やはり改憲は止むを得まい。だが、それは残された限りある資源をめぐって営まれる破滅的な争いに身を置くことを意味することが自覚されねばなるまい。

結局、世界が破滅に向かおうとしているのは、個々が現実の生に執着しつつ、化石燃料という有限な存在を皆で奪い合わねばならないからだ。
エネルギー問題は食糧問題そのものに還元される。エネルギーの枯渇は、そのまま国家の衰退と破滅、民の飢え死にを意味するものである。
今の世界情勢は、洞穴に閉じ込められた数名の人間が、残されたわずかな食料をめぐり、銃器を手に互いをけん制し合っているのと同じである。
したがって、ゆくゆくは枯渇することが明らかな石油の問題、エネルギー問題の解決なくして恒久平和の実現は不可能である。
エネルギー問題を解決する具体案なしに恒久平和を唱えるのは夢想家の偽善に過ぎない。

私はその具体案を地球外文明圏が用いているフリーエネルギーのテクノロジーに見出している。この文明圏の実在がひたかくしにされているのは、そのテクノロジーの存在が明らかになってしまうことで、有限なエネルギーを人類に奪い合わせて世界を混迷に陥れようとする陰謀が根こそぎくじかれてしまう可能性があるからだ。それゆえ、闇の権力者があの手この手でその存在を隠蔽しているのである。

陰謀をくじく道は愛の連鎖と、エネルギー問題の解決にある。だが、そのためには個々が己の無智を自覚せねばならない。愚者とは己の愚を悟れぬ者を指し、賢者とは己の愚を悟れる者を指すコトバだ。
賢者として生きる道を皆が選択できれば、陰謀を正義がのっとることすら可能であると私は信じる。
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2005-11-21 08:59:15

続編No.52<理想社会の実現>

テーマ:哲学
実のところ、理想社会の実現を意図する有志は、いつの世にも無数に存在している。けれども、それが実現しないのにはわけがある。そして、その理由こそ個々の存在が無意識のうちに育むエゴにあるのだ。排他性という名のエゴ。

大いなる意思を具現化させるためには、一人だけの力ではどうにもならない。何かを成すには、集団や組織の力が必要となる。しかしながら、組織の健全性が損なわれれば、分解するか、カルト化するかのどちらかだ。
組織がカルト化すれば、もはや、そこにいかなる望みもありはしない。いかに強固な求心力を有していたとしても、一人の力では非力であるのと同様に、一つの組織で成し得ることなど、微々たるものだからだ。

結局、理想社会の実現には、思いをつむぐ行為が不可欠なのだ。互いが異質を認め合い、同じ目標に向かって手に手を取り合うこと。

にもかかわらず、排他性によって互いが異質を排斥し合っていたのでは、いかなる事業も成し得まい。つまり、異なるイデオロギーの糾合と調和こそ肝要であるということだ。小さくは夫婦からはじまり、組織、国家、宗教へと、愛の名において互いが結びつくことだ。
愛という合言葉によって、異なる個性が手を取り合わねば、理想社会の実現は、いつまで経っても画餅のままであるだろう。
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2005-11-18 08:41:43

続編No.51<ある勉強嫌いの男の話>

テーマ:ブログ
その昔、あるところに勉強嫌いの男がいた。
男は勉強が嫌いだったが、芸術のセンスに恵まれていて、歌を歌えば聴く者全てに涙を誘い、絵を描けば見る者全てを魅了した。
けれども、男の師は、彼にいつもこう忠告するのだった。
「お前は確かに芸術の才能は並外れているが、学ぶことを怠ってはならない。学問をなおざりにすれば、独善を招き、お前の視野を狭めるばかりか、大切なものを見過ごしてしまうことになるであろう」と。
けれども、男は師の忠告に耳を傾けることはないのであった。
男は思っていた。
「芸術家の私にとって、学問が何の役に立つというのだ。学問なぞ、するだけ時間の無駄だ」
男は心のどこかで、才能に劣る師を見下していたのだった。

そんなある日、男のもとに、一通の手紙が舞い込んだ。それは、男の歌声に魅了された女性の一人からのもので、まがうことなき恋文であった。
実は、男には前々から、密かに思いを寄せる女性がいた。
彼の歌会に幾度となく姿を現し、その歌声にじっと耳を傾けてくれる、知的で美しい女性のことが気になっていたのだった。
彼女はいつも薔薇の花をあしらった独特の髪飾りをその美しい黒髪につけていた。
そして、その恋文こそ、まさに彼女からのものであったのだ。
手紙にはこう書いてあった。
「いつも貴方様の歌声にわが胸をときめかせております。貴方様の熱い視線に気づく今日この頃。私の気づきが思い過ごしでないのなら、次の歌会には、どうぞ真紅の薔薇をその胸に付けて歌ってくださいましね。そのときは私も薔薇の花束を手渡しにまいります。薔薇の髪飾りの娘より」

そして次の歌会の日。
男の胸に真紅の薔薇はなかった。その女性は、涙とともに歌会の場を去り、二度と男の前に現れることはなかった。薔薇の花束だけを後に残して。

なぜ男が真紅のバラを身につけなかったのか。
疑問に思われる御仁も多々おられることだろう。
ファンを口説くのはご法度だからか。
それとも他に気になる娘ができたからか。
問題はそれほど難しいことではない。
勉強嫌いの男は、単に字が読めなかっただけの話だ。


<解説>
これは、私なりの「学ぶことの意義」に対する答えである。
男が学ぶことを厭わずにいたなら、この不運に見舞われることはなかったであろう。
学びを厭えば、知らぬうちにチャンスを逃してしまうということだ。
<学問の意義>では、それを、人生の大航海における帆の役割にたとえてみた。
風というチャンスがいかに与えられても、それを受ける帆がなければ、船は前へは進めない。学びを厭えば、それだけ自分自身の可能性を狭めてしまうというのが、このお話の主題である。

学問は、「何の役に立つのか」ではなく、「どう役立てていくか」が問題だ。
今は将来に具体的なビジョンをえがくことができなくても、将来何かを志したときに、自身の可能性を広げる武器となるものだ。
確かに、学問は将来の保険にはならないかもしれない。
けれども、いくら使っても決して減ることのない貯金のようなものであろう。
ならば、若い時分にはせっせと貯めこんでおいたほうが良いはずだ。
ただ、そのためには、魅力ある教科書作り、学校づくりが必要である。
内容を削減したり、競争を否定したりすることが魅力ある教科書づくり、学校づくりではないはずだ。
そこを、親も教師も、そして社会も、自覚していく必要があるのだと私は思う。

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2005-11-17 10:13:04

続編No.50<学問の意義>

テーマ:哲学
現代教育が子供たちの勉強嫌いを助長することで破壊してしまった学問の意義を問い直してみたいと思う。

学問を行う目的は、視野を広げることにある。また、学問は人生という名の大航海における、帆の役割を担うものでもある。
自己確立が達成されてもいない時分に、好き嫌いを理由にして、学びを厭う姿勢は我儘と狭量を意味するものだ。物事を極めるという一点においては、机の上の勉学も、芸術も、またスポーツも、同じテーマを学ばねばならない。究極の目的は霊的進化にあるとしても、その頂上に至る道は、山すそに数多く広がっているということだ。

何かを会得、吸収するためには、自己の変容を余儀なくされるものだ。そこにストレスがかかるのは当然のことだ。けれども、いったん、そのストレスを超えてしまえば、新しい視点を得た楽しさが広がる。そうなれば、一つのカルマを超えたといえるだろう。
いかなる苦難も、楽しみを見出せるところまで取り組めば、後の道は、他人からどれほど苦しそうに見えても、案外、安楽なものだ。

ただ、忘れてならないのは、学校で教わることだけが学問の全てではないということ、テストの点に反映されたものだけが、学びの結果ではないということだ。学業成績は、知育の成果をはかるために設けられた数ある指標の一つに過ぎない。本当に大切なものは、形には残りにくい。
それは、人の生き方に刻印されるものだからだ。

一方、社会で働く意義も同じではないだろうか。今日、「己を見つめなおす」と称しては働くことを拒否し、己の裡なる可能性に幻想を求めて逃げ込んでいるニートたち。
彼らは、学ぶことの意義を見失い、今の自分のあり方が未来の自分を作り出すという現実から逃避してしまっているといえるだろう。
不断の努力なくして、将来に希望が舞い込むことなどあろうはずがないのに。
何かの幸運も、また「自分が納得してできる仕事」も、今の自分のあり方が招き入れるものなのだ。
その真理を見失ってはなるまい。

私の尊敬する師は、幕末の儒学者、佐藤一斉のことばを借りてこう云った。
「わかくして学べば壮にして成すことあり、壮にして学べば老にして衰えず、老にして学べば死して朽ちず」と。
わが人生を顧みては反省されることしきりである。
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