1 | 2 | 3 |最初 次ページ >> ▼ /
2005-10-31 18:07:36

続編No.34<唯物論と観念論>

テーマ:哲学
人の意識とは、もともと目には見えぬものだ。しかしながら、我々は己の意識の実在を感じることができるために、他人のそれを信じてもいる。そして、我々が互いの意思を感じるためには、表現の存在が不可欠だ。我々の思いが行いとして表現されて始めて、互いの意識を通わせることができるのである。また、神とは、こうした互いの意識の中にこそ、それを見出せるものなのだ。

唯物論的観点では、目に見えぬものに対しては、とにもかくにも懐疑的であろうとする。
だが、我々の本質そのものが、もともと目には見えず、感じることでしかその存在を確認できないものなのだ。
とすれば、そうした視点に固執することは、その存在を実感できる自分の意識をおいて他には何の価値も認めないという極論を引き出すものである。
自分にとって、有益でなければ価値がないとう考え方に固執しているのと大差ないのである。
これはとんでもない独善の姿だ。

唯物論的視点では、あらゆる存在の真価を見失ってしまうことになるだろう。
我々現代人が、生命の意義を見失いがちになってしまった根本原因がここにある。
ハートの所在を見失うことによって、最終的に己自身の価値も見失ってしまうのである。
快楽志向や物質至上主義によって、人同士が互いのハートを見失うことで、社会に歪が生じているのだ。

哲学や宗教は、こうした目に見えぬ人の意識のあり方を説こうとするものだ。
唯物論が支配的な現代社会では、唯物論の対極にこれを並べ、観念論と称して虚構理論に位置づける。
現代教育は思想教育の弊害ばかりを論じ、哲学を排し、宗教を排することで、唯物論を強力に後押ししてきたといえるだろう。

だが、現代教育が我々に信奉することを強要してきた唯物論も、科学合理主義を教義にいただく宗教なのである。
宗教が教条主義によって排他性を示す弊害は、唯物論とて例外ではない。
多様な思想を教えることと、教えぬことには、どちらに弊害があるのだろうか。
唯物論と観念論、果たして虚構理論とはどちらの側を指すのだろうか。
個々の意識が、己のハートに問いただしてみてはいかがだろう。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-29 11:39:35

続編No.33<自由の所在>

テーマ:哲学
自分以外の誰かや何かの自由を侵さない自由は存在しない。人は単に己が生き延びるためだけにすら、命あるものから生きる自由を奪うのである。
では、人同士の間でなら自由が成り立つかといえば、これも否。
もともと平等に生まれて来ない我々に真の自由はない。誰かの利益を全く侵さない自由は存在しないのである。

他方、法の下に自由であるというならば、法さえ犯さなければ何をしても良いという歪な主張を生み出すことだろう。
既存の法に抵触しないというだけで、互いが際限なく自由を主張すれば、事細かな法的規制を強いられることを余儀なくされ、皆がますます不自由になっていくばかりだ。
これが、現実世界における自由主義のもたらす帰結である。

結局、上部構造から下部構造へと向かう社会制度改革のみに解法を求めるのは、もはや限界であるという事実に皆が気付くべきだ。
法整備による利益分配の公平化など、幻想に過ぎないものだからだ。
なぜなら、公平なるものの定義が曖昧である上、分配する主体がそこにある以上、真に客観的な視点、公平な視点そのものが存在しないからだ。
では、個々の自由を収めるための行動規範を何に求めればよいのだろう。

本来、それは暗黙のルールを意味する礼節にある。つまり、個々の意識という下部構造の変革によって、上部構造を含めた全体構造の変容を図るべきなのだ。
だが、暗黙のルールは、常識という名の曖昧模糊とした個々の価値基準に委ねられるものである。
通常、こうした個々の価値観の根底には宗教があるものだ。
物事の価値を論ずるためには、存在そのものの根源を見つめなおさざるを得ないからだ。
もっとも、こう論じれば、反発も多いことだろう。
宗教教義には客観的根拠がなく、行動規範足りえないと。虚構理論に過ぎない観念論を持ち出すなと。

だが、実証主義や科学合理主義も、唯物論という名の宗教がもつ歪な教義である上、唯物論こそ、今やもっとも世界で隆盛を極める宗教でもある。
とすれば、無宗教を宣言して憚らぬ合理主義者も、唯物論という名の宗教を奉じているといえるのだ。
巷で繰り広げられる議論の多くが、唯物論の枠の中だけで論じられる以上、そうした議論が、問題の所在を明らかにできるものなのか極めて疑わしい。
唯物論的価値観そのものが諸問題の原因であれば、いくら議論しても解にはたどり着くことができないだろうからだ。
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-28 16:15:10

続編No.32<教育と宗教>

テーマ:社会問題
親や教師の価値観がゆらいでしまい、その行動規範に著しい矛盾を生じている昨今、誰を師とすべきか、子供たちがとまどってしまう場合も少なくない。
けれども、本当は、できの悪い親、教師ですら、反面教師として学び、自己実現すべきなのだと私は思う。勿論、これは小学生には難しい課題である上、大人が大人としての自己責任を放棄してよいということではない。

けれども、このように説かざるを得ない実情が一方で存在している。価値観が多様化し、何が正しいのかを自信をもって説明できる大人が少なくなってきている現状では、そういわざるを得ない。

多様な価値観、常識がひしめく現状で、誰かに何かを説く場合、そこには「なぜ」を明らかにする必要がある。それは、大人に対してだけでなく、子供に対しても同様だ。
私は、可能な限り、先哲の英知に基づいた説明を心がけるようにしている。
これは、かつて私の小学生時分の師が、仏教を基軸に徳育を行っていたことに影響を受けている。今日では難しいのかもしれないが、徳育には、そうした思想の例示が不可欠であると私は思う。実際、これまでの私の人生は、師から受けた仏教思想の是非を検証するのにあてがわれてきた感がある。一方で、こうした思想は、私の精神的に重大な危機を、幾度となく救ってくれたものだった。

なぜ、命は尊いのか、なぜ、礼節が大切なのか。
こうした問題は、人の根源的問題を抜きにして語るのは困難だ。つまり、人同士の相対的な関係形成や、相互依存の概念だけでは、「殺すべからず」や、「死すべからず」に対する説得力に欠けると私は考える。

日本の現代教育が、他の国々の教育と比較して大きく異なる点の一つに、宗教の不在を挙げることができるだろう。
実際、こうした宗教的な概念を全く用いることなく、子供たちの「なぜ」の問いに答えるのは難しいのではないだろうか。
他国では、堂々と宗教上の戒律や教義を根拠に、これを教えている場合が少なくない。
とはいえ、何かの宗教を拝して折伏するような授業をせよということでは決してない。
ただ、世界には多様な哲学、宗教があり、そのエッセンスだけでも学習すれば、普遍的な真理の輪郭をなぞるくらいのことはできるように私は感じている。
良いか悪いかは別として、完全に宗教的な思想を排した教育を行っているのは、世界でも日本の戦後教育くらいではないだろうか。
これは、先の大戦終結まで、日本が神の国であるとの偏向教育が行われていたことに対する全否定の結果か、占領者の都合に負う部分が大きいのかもしれない。

けれども、こうした教育のあり方にも、少なからず疑問を感じずにはいられない。
現代日本では、とかく宗教といえば、そのまま、それが思い込みや狂信、盲信と同義であると認識されがちだ。しかしながら、宗教とは、本来そのようなものではないはずだ。
戒律は別としても、宗教教義の多くは、人の存在理由や命の尊厳に理由を与え得る重要な哲学概念だと私は認識している。
現代の若者にみられる礼節の喪失や命の軽視は、こうした現代教育のありようも、決して無関係ではないだろう。
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-27 10:38:59

続編No.31<教育の功罪>

テーマ:社会問題
社会福祉制度の充実だけで、少子化問題をはじめ、幾多の福祉問題は、本当に解決するのだろうか。教育とは、もっとも無意識に我々の行動を規制するものであるにもかかわらず、今日のそれは衰退の一途を辿っているようにみえる。
現代教育の偉業により、家族観や地域のコミュニティー観に関わる共通認識が崩壊してしまった昨今、個の存在としての価値観や行動規範の再構築が必要なのではなかろうか。

現代の世相は、個の意識の在り方が総体として表現されたものであり、価値観が多様化し、集団が巨大化してしまった現在、上部から下部構造へと向かう統制や、何かの法制化が有効に機能するとは思えない。つまり、いかに新しいシステムを構築したとしても、それを支える最小単位が血の通った人間としての個や家庭である以上、それらが有効に機能するかどうかには懐疑的とならざるを得ないということだ。

無論、これは既存制度の見直しを無価値と位置づけてしまうものではないが、いかに画期的なシステムであっても、必ずそこには落とし穴があるものではないだろうか。
何かの制度や法によってのみ対処しようとすれば、マジョリティーの多様さ故、事細かに特例を設けて対応することを余儀なくされ、結局は、そのシステム自体、閉塞、硬直化して有効な機能が損なわれてしまうことになると予想される。

個や家庭といった最小単位の行動規範を何に求めるのかは、これまた議論の分かれるところだが、私自身は、この最小単位の霊的自覚と変容に可能性を見出している。
霊的自覚などといえば誤解を招いてしまうかもしれないが、それはある種の宗教的行動規範、古の英知を深く見つめ直す行為で成し遂げられる精神的な自己の拡充、人の根源に関わる真理の自覚を意味している。
日本人を無宗教にしてしまったのは偏った唯物主義であり、もともと日本人は多神教徒、否、汎神論者であったと私は解釈している。つまり、日本人は、特定の宗教の枠組みに依存しない、真理に根ざした行動規範をその感性に宿した優れた民族であったということだ。そして、この偏った唯物主義の伝道に、戦後教育は一役買ってきたのかも知れない。

であるなら、唯物論に偏重しがちな現代教育を根本から問いなおし、宗教や哲学との関わりを改めて見つめなおしてみるのには意義があるかもしれない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-26 08:48:27

続編No.30<虚飾と異質>

テーマ:社会問題
子供たちが、競ってブランド品を身につけているという。友達が持っているからもちたがるという心理。その心理の背景には何があるのだろう。

横並びでいなければ不安になる。皆と同じであることで安心する。突出することに恐れを抱く。風変わりでいることは危険を意味する。
「和をもって尊しとなす」の精神は、異質に排他的な風潮を生み出す。
本当は、異質を学び、受容する精神の尊さを訴えているのに、愛の渇いた社会では、異質をはじめから認めぬ排他性だけが増長する。
異質を知ろうとすること、異質の容認とは、愛の一側面だ。

高価な装飾品は、それを身につける主人を選べない。
ひたいに汗して働くことを知らぬ子供が身につけても、その真価は理解できまい。それは大人でも同じことだ。
ものの価値を知らず、虚飾を求めてそれを漁る大人たちがいて、それを真似する子供たちがいる。
虚飾に満ちた社会で、虚飾を身にまとわなければ、異質となる。
虚飾の意味を教えられぬ大人が多い現状こそ、問題なのかも知れない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-25 08:23:09

続編No.29<個性の尊重とは>

テーマ:哲学
個性の尊重とは、互いの異質を容認することに通じる概念である。
思想や思考、あるいは嗜好の傾向に関わる互いの異質を尊重すること。
そして、真の個性尊重は、真の調和をもたらし得ると考えられる。

日本文化には、「和をもって尊しとなす」という、調和重視の概念が古くから根強く横たわっている。けれども、これが人のエゴによってネガティブに作用すると、「出る杭は打たれる」という個性否定の状況を招くと考えられる。

この、際立つ個性に対する排斥作用には、大きく二つの要因が考えられよう。
まず、第一は嫉妬だ。
自分と同等であるはずの存在が、突出することに対して湧き起こる無意識的な否定の心。
これは、杭を打つ側の問題である。
それは、自己遺伝子を優先的に残したい、そのために自己の優位を誇示したいというエゴに端を発した情念とみることができる。
この作用により、他者が優位を示すことを本能的に恐れ嫌うことから、杭を打とうとするのだと考えられる。

次に問題なのは打たれる側にみられるもので、その自己主張に、虚栄や慢心、驕りたかぶり、自負心が著明である場合だ。これも、自己の優位を誇示せずにはおかない、エゴに起因した心の働きである。こうした傾向が顕著であれば、嫉妬がなくても、調和を維持するために、これを粛清しようとする無意識の力が周囲から作用することになる。

けれども、本物の個性とは少々の迫害にはめげないものだ。
実際、世間で活躍し、リーダー足りえている方々は、こうした独特の日本文化の中でも、決してスポイルされることなく、個性を存分に発揮している。その道のりは、決して平坦ではなかったことだろう。また、人生のどこかで、何かの迫害や障壁を経験してきたに違いないと私は考える。それでも、決してめげることがなかったからこそ、そこに成功が約束されたのではないだろうか。ならば、子供時分にそうした障壁を経験しつつ、己が身を守る傍ら、個性を伸ばす術を培っておくことも必要になってくるはずだ。いじめの存在は、度が過ぎることさえなければ、必ずしも悪いこととばかりはいえないかもしれない。

己の価値は、誰かや何かの評価によって決まるものではなく、己自身が決めるもの。己の目線をどこにおくかで決まるものだと私は思う。
現況に不備があったとしても、それを周囲の要因、誰かや何かのせいにばかりするのでなく、不屈の自己実現に向けて志を育む営みをこそ、各自が目指すべきであろうと愚考する。
そのためには、謙虚さをもって、己が身を顧みることが不可欠だ。それこそが、真の個性尊重を導き、調和を実現させるのではなかろうか。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-24 16:48:00

続編No.28<常識の罠>

テーマ:哲学
「普通の人は言わない台詞」を云うのは常識に欠けることなのだそうだ。
先日、私が半ば冗談のつもりで吐いた発言に対して、ある知人が怒りを露わに、私の「非常識」を追及した。

私は、自分にとって少々痛いコトバを聴く羽目になったとしても、それを自嘲気味に苦笑いで受け流す習慣が身についてしまっている。それは、育った家庭環境の影響が大きいのだが、おかげで他人の心情に鈍感になってしまっている節がある。つまり、ついつい、他人もこの程度では笑って受け流すだろうという独善的な判断をしてしまいがちなのだ。
ここに、問題がある。

しかしながら、私と同じような感覚の持ち主が世間に全くいないかというと、そうでもない。つまり、その感覚を共有している者同士の付き合いでは、要らぬ誤解を招くことも少なく、また、今回のような怒りを買うこともそれほど多くはない。
気を許した相手だからこそ、デリカシーを欠いた発言も出てしまうものなのだが、こうした怒りを買ってみてはじめて、相手との感性の相違を思い知らされてしまう。

我々が、「普通のあり方」や、「常識」と認識しているものは、単なる独りよがりに過ぎない場合が多い。所詮、常識など、良くて、特定固有の集団内における、一般認知に過ぎないものだ。実際、国や宗教、あるいは民族が異なれば、我々のいう常識など、どこかに吹き飛んでしまう、あやふやなものだからだ。
それ故、己の常識を盾に、相手を非常識呼ばわりして排斥しようとする姿勢は狭量を意味するものだと私は思う。

しかしながら、いたずらにデリカシーを欠いた言動を繰り返すのも問題だ。
そうした意味で、今回の一件は、自身の言動を深く反省させられることにはなったといえる。
もっとも、気を許せばこそ、でてしまうのが不用意な発言、配慮を欠いた発言であろう。となれば、予防するのはなかなか難しい。
互いの心情的な距離が近くなれば、その距離感の認識や、価値観の相違によって、必ずどこかで摩擦を生じてしまうのが人間関係なのではなかろうか。
相互理解への道には痛い思いが互いに必要なのかも知れない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-23 01:03:23

<たった一つの神様>

テーマ:哲学
宗教に関連したイデオロギーのせめぎあいの原因を、一神教の発想に求める論考を目にすることがある。一神教は潜在的に排他性を有するために、争いを導くというものだ。
そうした論考では、日本のような多神教的発想の方が、争いを回避できて優れていると締めくくられることが多い。
しかしながら、問題があるのは「たった一つの神様」という発想ではなく、「私たちだけの神様」を皆が主張しあうことにあるのではないだろうか。

日本やインドにみられる多神教的宗教観は、森羅万象の全てが神の顕れであるという卓見に基づいている。
これは、沢山の神があるというのではなく、神には沢山の名と形があって、多様な側面をみせている、つまり、もとはたった一つである神が、固有の名や形を持たぬことによって多様でありえていると解釈しているのである。
この意味では、多神教ではなく、一神教なのだ。
それは、「私たちだけの神様」を主張することの過ちを知りえていたからこそ、育まれた思想であるとみなすことができるだろう。

社会に秩序をもたらすためには、統一された価値観、行動規範が必要になってくる。
それゆえ、古来より為政者には国教を定める必要があったのだ。
異なる宗教が乱立するということは、国家の崩壊にもつながるため、時に人は命をかけて異宗教と戦ったのである。
ひるがえって、押し寄せるグローバリゼーションの荒波のもと、急速に世界が手狭になりつつある昨今、これが調和するためには、統一された世界観、宗教観が必要である。
それは、既存の宗教や哲学、科学が、相互に発展を妨げるのでなく、よりよく調和したものであることが条件だ。
「たった一つの皆の神様」のもと、古くて新しい統一価値観の台頭が望まれる。
それなくしては、秩序ある統一社会の実現は不可能だ。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-22 12:47:40

続編No.27<競技と智性>

テーマ:哲学
前作では、競技者は競技に携わることで、その理性を育んでいると結んだ。しかし、この見解は不十分である。確かに、もっとも後から発達した人の認識力は理性だろうが、競技者がその能力を高める作業の多くは、遺伝的アルゴリズムに頼った悟性のうちにある。
どういうことかといえば、理屈だけで競技が上達するわけではないということだ。

無論、競技の初心者は、型という名の理屈から入る必要がある。すでに構築済みの理論から入って、動きや戦略の無駄を最小にとどめようとするわけだ。
しかしながら、そこには反復する練習が不可欠である。なぜなら肉体は頭で考える理屈の通りには動かないからだ。最も効率のよい神経伝達経路を肉体が獲得するまで、基本動作を反復することが必要だ。

大人が初心者として競技に携わる場合、理屈からアプローチすることになるのだが、子供の場合は、神経発達の可塑性が旺盛なために、あまり理屈に頼らなくても経験だけで自然に高効率の動きをマスターする傾向にある。知性の未発達な彼らにそれが成しうれるのは、感性の働きによるのではないだろうか。練習によって感性を研ぎ澄まし、悟性によって動きの型を習得するわけだ。
また、スポーツにはフェイントと呼ばれる動きがある。これは体のさばき方で相手にこちらの意思を悟らせぬ、いわば、相手をだます動きのことである。
意外なことに、フェイントのかかる理屈を明快に論じられる競技指導者は少ない。「自分で考えろ」は大抵理屈がわかっていない者の言い草である。こうした方々は、競技者として有能ではあるのだが、理屈でそれらを会得しているわけではない場合が多いために、人に教えることができない。ただ、その豊かな感性と豊富な練習量が、それらを悟性によって身につけさせているのだろう。それゆえ、「見て学べ」としかいいようがないのかもしれない。

結局、競技者がその能力を高める行為は、理性と悟性を高める智性の研磨にあったといえる。感性の研磨に不十分な現代教育においては、競技に携わることこそ、その精神の健全さを養うために残された数少ない手立ての一つといえるのかも知れない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005-10-21 09:02:09

続編No.26<悟性と共時性>

テーマ:霊性の科学
忘年会など、娯楽の会合において座をつなぐ簡便な方法には、ビンゴゲームがある。このゲーム、毎年経験していると、ある法則に気がつく。
それは、ビンゴを引いた者と同じテーブルに、再度ビンゴを引く者が出やすいという事実だ。ひどい場合、誰もビンゴを引かないテーブルがある一方で、全員ビンゴを引くテーブルがでてきてしまう。
これは、確率的には極めて低い事象であるのだが、現実の世では、統計学者をあざ笑うかのように、こうした現象が起きている。これがいわゆる、実存世界におけるシンクロニシティー、共時性といわれる法則の顕在化である。
この共時性を理性の営みで解明することは難しい。理性によれば、こうした現象は、むしろ起こってはならないこと、あるいは、起こる可能性はあるが、通常はそうそう起こらないことであるからだ。

ところが、私はほぼ毎年、忘年会でこの現象を経験している。ここに、「当りのでたテーブルの同席者には、再び当たりがでやすい」という結論が生まれる。
これは、経験則に基づいた結論で、理性に対し、悟性と呼ばれる感覚的な性質によってもたらされた見解だ。そこには、何ら理性的な根拠は存在しない。
しかしながら、巷には、案外同様な見解を持っている方は多いようだ。
それは、宝くじをどの店で買うのかといった判断によく表れているといえるだろう。通常、当たりくじのでた店から、再び当たりくじのでる確率は、一般的な確率に比べて、特別高くなるわけではない。にもかかわらず、購入者の多くが同じ店を選ぼうとする。これは、多くの方々が、先ほどのビンゴゲームにおいて成立した共時性の存在を感覚的に悟っているからだと私は分析する。
「どの店で買おうが、くじの当選確率は変わらない」は、知性の営みによって導き出された理性による結論であり、「当たりくじのでた店からは、再び当たりくじがでる可能性が高い」は、経験則によって導き出された悟性による結論である。

一方、悟性でしか認識しえないものに、真理や神の所在があげられる。幸運な体験に彩られた幸福な方ならば、神の存在を悟るのは容易であろうが、凄惨な不幸体験を重ねてきた方にとって、それは難しくなってくる場合がある。
このように、経験には個体差がつきものであり、同一の経験から導き出される結論も、主観に負うものである以上、多様化を避けられず、悟性による認識を絶対視することは決してできない。

結局、人の認識は、理性であれ、悟性であれ、主観の枠組みを超越することはできず、真理の所在など、ナンセンスであり、幻想でしかないといえるのかもしれない。
けれども、そうした考え方もまた、理屈の営みに縛られた主観にすぎず、私の悟性は、これに激しく抵抗しようとする。
もっとも、理性による見識が、多数の共有によって客観を構築するなら、悟性もまた、同様に一般認知を構築できるかもしれない。そうした認識が、人の生き方や実生活を支える上で、好ましい影響を与えることができるのだとしたら、それはそれで真理として、我々は受け容れるべきなのではないだろうか。逆に、破壊と悲劇をもたらし、争いの種を作り出すものであれば、いかなる歴史があろうと、断じてそれを真理と容認することはできまい。

悟性の営みの先にある宗教、理性の営みの先にある科学、その中道をいこうとする哲学。これらが互いに調和することで、新たな可能性が開けるように私は感じている。つまり、もともと自然哲学という一つから派生したものを再構築できれば、そこに新たなパラダイムを誘うことができるのではないだろうか。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 |最初 次ページ >> ▼ /

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。